老いて見る夢



 家内と息子が朝から出かけて家にいないので、米を研いで、炊飯器にかけ、それから、近くの百貨店に昼ご飯のおかずの総菜を買ってきた。
 家に帰ってきた時、ポストをのぞき込むと緑色をした封筒があったので、手に取ってみると年金の書類である。
 それまで、年金のことや自分の都市のことを考えないではなかったが、改めて年金を申し込む書類が来ると感慨深いものがある。
 自分の仕事には、定年退職はないが、同期の仲間はこうして定年生活へと誘われるのであろう。
 毎日が、日曜日という生活になっていく。
 同じ境遇に自分が置かれたら、きっと居場所がない暮らしになっていくのだろうなと考えさせられた。

 会社人間というのは、始末が悪い。
 組織や仕事を離れたら、何をしたらいいのか、皆目見当がつかなくなる。
 家事をしろと言われても何をしたに良いか解らない。
 中には、朝から飲んだくれて早死にをするものもいると聞く。
 それを哀れと言えるうちは良いが・・・。
 ただなすすべもなく、ただ時間が過ぎ行くのに委せた人生なんて生きるに値するのかとすら思い悩む。
 生きるとは何か。

 おまえは死ぬのだと宣言されてからどれくらい生きる。
 重い病にかかり死を宣告されることと、何の前触れもなく、事故で死ぬ時とどう違いがあるというのだろうか。
 神には明確な意志を感じられる。なぜならば、神は唯一の存在だからである。
 されど人は、統計確率的にしか神の意志を推し量ることは出来ない。

 覚悟した死も当然に訪れる死も死という現実には変わりない。又、死は、誰にも平等に訪れる。
 死を生の延長として捉えるのか、それとも終着として捉えるのかによって生き様にも違いが生じるのは致し方ないものである。

 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗し、
 死に死に死に死んで死の終わりに冥し。(空海)

 勤め人というの人生は、組織の上に成り立っている。その人間の立ち位置、地位も名誉も組織の序列に従っている。その基盤である会社から離れてしまうと、それまでよって立っていた地盤が、突然、土台から失せてしまう事になる。
 だから、定年が間近になったり、退職すると鬱になったり、認知症になると言うのは痛いほど解る。
 勤め人にとって価値観も生きる目的も生き甲斐も組織の上に成り立っている。その組織から切り離されてしまうのである。
 生きることそのものの意味が喪失してしまう危険性すらある。
 情けないとか、意気地がないと言った問題ではない。それが現実なのである。
 ああだ、こうだと批判したところで、そう言う生き方しか選択する余地がないとしたら、その中から自分の生き方をしていかなければならないのである。

 老いて夢見る。今日見た夢は、明日に微睡む。
 老いてから見る夢も又楽しい。
 生を愛で、時を懐かしむ。
 歳をとると言う事は、嘆かわしいことばかりでもない。
 歳をとったからこそ見ることのできる夢もある。

 老いは必ず来る。
 老いは確実に来るのだし、その先にあるのは、死である。
 だからといって悲観的に考えてばかりいても何も良くはならない。
 何かを始めるからこそ前が開けるのである。

 考えてみれば、生き甲斐というのは、どこにでもある。
 否、生き甲斐は自分で作ればいい。
 自分の生き方を認めて欲しいと思っても理解者が現れるとは限らない。
 理解者が現れたとしても最後まで伴にできるとは限らない。
 古来、志ある者は、世の中から受け入れられず。
 だだ一人生きていかなければならなくなる事もある。
 そうなると、一人で生きていくしかなくなる。
 要はその覚悟できるか、否かである。
 結局、最後は一人で死んでいくことになるだろう。
 それでも志を遂げたいならば、自分なりの覚悟を決めて真っ直ぐに生きていくしかないな。
 最後まで志を持って生きんとするのは、老いて又見る夢でもある。







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