秋葉原現象


今僕が注目しているのは、秋葉原ですね。秋葉原現象とでも言いますか。僕は、ルートセールスの限界というのを身に浸みています。この業界にいて悪戦苦闘の毎日です。要するに売るという姿勢が欠けているんですね。それでも、今までは何となくやってこれたのです。これからは駄目です。電気屋さんは、電気で飯を食っているわけではない。電気器具を一台一台売って毎年、毎年、決算を迎えている。
秋葉原へ行っていつも圧倒されるのは、一人一人の店員の商品知識の豊富さですね。
我々なんて、テレビの設定だってままならない。
安売り、安売りと言いますが、秋葉原のすごさには、安売りだけではないですよ。店員一人一人が勉強しているのが解ります。それこそマニア相手の商売ですから。
それを上面だけ見ていたら大失敗すると思うのです。
電気製品を日々売っている電気屋さんに対して、ガス屋というのは、ガスの上にあぐらをかいている。器具販売なんて付帯販売ですよ。
電気は、日進月歩だというのに、ガスの技術は、戦後殆ど進歩していない。こんな業界ないですよ。でも何とかやってこれた。それが良かったことか。ガラパゴス化なんて今に始まったことではありません。頭が固い。その証拠に女性の登用が全然進んでいない。自分達の責任でもありますが。どうすれば、変えられるのか、日々、悪銭苦闘しています。
安直に多角化すればいいといって多くの会社が失敗しているのを見ていますからね。多角化といっても創業であることには変わりがありません。
でも、今は変わらなければなりません。変わらなければ、未来が開けないんです。
ルートセールスの限界を感じるからこそ、僕は、ルートセールスなんだと思うのです。
我々は、情報化産業が発展し、将来は、ネット社会だ決めつけていますが、そこに重大な落とし穴がある気がしてならないのです。
ネット社会が発展すればするほど、その裏にある世界が拡大する。その一端が垣間見えるのが秋葉原なんですね。
それで僕は、秋葉原現象といっているんです。
僕は、両国生まれで、両国で育ちましたから、秋葉原の変遷をよく見ていました。
東京には、かつて、何か怪しくて、いかがわしい部分を持ったところが随所にあったんですね。それが綺麗に清算され、最後に残ったのが秋葉原なんですね。
僕らの感覚では、秋葉原というのは、それほどいかがわしい場所ではなかったんですが、今はかなりいかがわしくなってきた。
そのいいかがわしさというのは、エロス、生命と言う意味でのエロスですね。つまり、人間性なんです。
御社の製品を扱って気がついたのですが、最終的には価格なんですが、価格だからこそ、価格以外の部分が最後に残ってしまうんですね。そこをクリアしないと真の意味で、ネット社会を克服できない。
秋葉原は、無機質な先端商品を扱っていながら、いかが強い部分を引きずっている。引きずっていると言うより、どんどんといかがわしくなっているんです。
その象徴がメイドカフェであり、また、あの殺人事件だった気がします。
僕らにとってお茶の水が本の町であるのように、秋葉原は、闇市であり、電気の町でしかなかった。それがマニアの町になり、オタクの町になり、そして、今日のような風俗の町に変化しつつある。これが、意外とネット社会の本質なのかもしれないと思うんです。
どうにもならない人間くさい部分ですね。馬鹿で阿呆でしょうもない世界。しかし愛すべき世界。いわゆる義理と人情の世界ですね。そこがネット社会になればなるほど、拡大していく様な気がするのです。
それは、売り方の問題でもあり。また、売った後の問題でもある。結局、残されるのは、人間関係なんですね。
ネット社会というのは、ある意味で何もない社会ですね。空疎な空間なんです。何もない社会、空疎な空間だからこそ、無駄なことが重要になってくるのだと思うのです。
これは、僕の理論の一端なんですけれど、費用や借金を全て清算したら、何もない社会になってしまう。なぜならば、借金や費用の背後には、資産や収益、所得が隠されている。だから、借金や費用をいたずらに清算することばかりを考えるのではなく。借金や費用をバランスよく制御する事を考えるべきなのだ。そして、そのために必要なのは、仕組みであり、すなわち、市場構造である。
そこには、信頼とか、道徳とか、義理とか、人情といった生身の人間の世界が浮かび上がるんです。だから、僕は、ルートセールスにこだわらないようにしながら、ある意味で、ルートセールスを土台に据えておかなければならない気がするんです。
僕は、日本をよくしたいのです。それだけです。子供の頃、僕らは貧しく食料も着る服にも事欠いた。でも、肩を寄せ合って生きてきました。それこそ国全体が、仮設住宅みたいでした。そのとき見た夢は本当に実現したのだろうか。あの時代には、確かに何ともいえないような怪しさやいかがわしさがあった。僕は、現代社会は、白日の文化だといっているんです。何もかも白日の下にさらさないと気が済まない。しかし、それは文化の砂漠化を意味する。夢は、夜空にある。闇にこそ人々の想像をかき立てる何ものかが、潜んでいると僕は思うのです。
だからこそ、人が忌み嫌う夜も人間には必要なのだと思うのです。



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Copyright(C) 2013.03.13 Keiichirou Koyano