国家とは何か。国家、国家と言うが、国家とは何かは意外とハッキリされていない。
元々、国家などと言う存在は、なかった。国家なんて人間が勝手に創り出したものですよ。自然界に国家なんて存在しないし、関係ない。渡り鳥はパスポートをもって渡りをしているわけではない。
今、我々に重くのしかかっている国家という存在、国境とか、領土とかは、江戸時代にはなかったんですよね。自分には、今でも日本人には国家意識というのはないんじゃないかとすら思えるのです。
日本人にとって国家というのは何かの拍子に突然表れてくる。しかし、国家という概念は、国民という概念が本に成り立っているのであり、国民という者が存在しなかった時代には国家意識なんてなかった。もともと国境だって領土だって曖昧模糊とした存在だった。つまり、世界中に境界線を張り巡らせるなんて発想はなかった。ところが、帝国主義時代に世界中に境界線が生まれた。
その境界線を巡って歴史がどうのこうのという事自体ナンセンスなんですよね。
歴史なんて言い出したら、アメリカ大陸はどこに帰属するかなんて解らなくなる。
元々、国家の境界線なんて曖昧模糊としたものだったのである。
その点日本は、天皇が国家を体現できた。だからこそ、天皇制に重大な意義があったんだと思うのです。天皇の存在そのものが重要なんですよね。天皇制があったからこそ、日本は国家を体現出来、それ故に、国体の護持が叫ばれたのだと思います。しかし、国体なんて発想、他の国にはないですよね。
だから、日本人にとって国家というのはどこまで言っても実体なんですね。観念的な存在でも論理的な存在でもなく、艶めかしい存在なんですね。
終戦時に思春期を迎えた連中は、国家というものを観念で捉える以前に体で覚えさせられてしまった。
恋愛を知る前に性欲を知ってしまったようなものですよね。だから、戦後の文学というのは、性欲を正当化するために、恋愛を位置付けるような部分がある。
それは、精神か、肉体かの議論に象徴される。だけど、その議論そのものがどこか白々しくて、虚ろな感じがしますね。
所詮、領土問題なんて、それが軍事力であろうと、政治力であろうと、経済力であろうと国家間の力関係で決まってしまう。その冷厳たる事実を前提としない限り、外交なんて成り立たない。背後に力のない正論ほど虚しい主張はない。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼したくても出来ないのが国際社会の常識なのである。
先ず、国民の生命と財産を護ることが国家の第一の使命であることを忘れたら国家は成り立たない。
戦前の日本は、この第一の使命を忘れて暴走して国家を破滅させてしまった。戦後の日本は、最初から国民の生命財産を護ることを放棄している。
多くの軍国少年が戦後左傾化していったのに、戦前自由主義的な環境に育った者の方が、戦後右傾化する。現代の中国を見る上でも面白い現象だと思いますね。
結局、渡辺さんが言うように俗に言う戦中派というのは、戦前と戦後が断裂せずに連続しているところがある。
戦中派にとって国家とは、観念で捉えるものではなく、映画のシーンを重ね合わせたようなものなのかもしれませんね。
一時一世を風靡した焼け跡派という世代というのは、鵺のように思えてならないんですね。
戦中派の右派もあの世代の一種、亜種だと僕には思えるのです。
全共闘を見ていても感じるのですが、日本の右翼と左翼というのは、どこか共通していて表裏の関係にあるように思えるんですね。根本は同じだと言うことですね。隠微なんですよ。
だから、左翼から右翼への転向も、軍国少年から左翼への転向も何の違和感もなく平然と行われてしまう。
特に、あの焼け跡派には、ギブ・ミー・チョコレートとそれまで鬼畜米英と言っていたアメリカ軍に媚びた後ろめたさをどこか引きずっているいかがわしさを感じてしまうんですね。性と言って清潔感のない性、猥褻感だけしかない。卑猥なんですよ。
レイプされた後に肉体で繋がっているような関係ですね。それが日米関係の本質であるかのようなところがある。それが今回の尖閣の問題や普天間の問題の背後に見え隠れする。それが何ともやるせなくて、自虐的なんですね。
アメリカには、明治に一度犯され、大東亜戦争で二度犯されている。そして、戦争自体を太平洋戦争と言い替えられたりもしている。そう言うところをアジア人は見ているんですよね。
今の日中問題がこじれた原因が日本の元首が、中国の元首の面子を潰してしまったことだとするなら、余りにも情けないし、哀しいですよね。国家間で重要なのは、儀礼だと言う事を忘れているからこういう事態を引き起こすのである。
日本人は、面子なんてどうでも良いと思っている。中国人や韓国人は面子を重んじる。
日本人は、自分の考え方が正しいとして国際社会で傍若無人に振る舞う傾向がある。
しかし、相手が面子を重んじている以上、相手の面子が保てるように配慮をするのは当然であり、外交の鉄則であるはずである。
面子の裏側には、それぞれの人の立場かある。相手の立場を無視すれば揉めるのは当然である。
国際社会とは、いろいろな価値観や信仰が錯綜している場である。自分だけの価値観で押し通そうとするば、対立を激化させるだけである。外交というのは、ある意味で妥協の産物である。要は、何をどこまで譲れるかを見極めることなのである。
その意味でも形が重要になる。どうかたを付けるかである。
日本と中国の係争が片付かない原因の一つは、日本人と中国人が共有してきた東洋的価値観の喪失がある。かつては、東洋人は、共通の価値観の下に共存してきた。その共通の価値観、則ち、東洋的価値観の根底を成してきたのが、中国的論理である。中国的論理の本質が失われ、形相的な部分でばかり争われているから解決の糸口が見出せないのである。
日本人の多くは、隣人のことをよく知っているようで知らない。キリスト教やイスラム教、ユダヤ教のことはよく研究しているのに、中国人が信じる神のことは知っているようで知らない。それでありながら、多くの日本人は、中国人のことをよく知っているつもりになっている。このよく知っているつもりと言うのが曲者なのである。
我々は、もっと中国人や韓国人の文化を知る必要がある。隣人の逆鱗が何で、又、何を大切にし、何を信じているのか、それを知り、尊重する必要がある。
核兵器や化学兵器、生物兵器と言った大量殺戮兵器、最終兵器が世界中に蔓延している今日、国家間の紛争を武力によって解決する時代ではなくなってきている。
いわば狭い部屋の中で爆弾をもって対峙しているような状況なのである。
国家間の紛争を解決する手段を武力以外にも工夫していく必要がある。それは、たんに願望や理想論ばかりではなく、現実的な手段でなくてはならない。
領土問題を解決するためにも緩衝地帯の設定や共同統治、国際機関の直接統治といった手段も用意しておく必要がある。特定の国の軍事力ばかりを頼るのは危ういことである。
日本人も、日本人以外の人も武士道を誤解している者が多い。武士道というのは、無闇に命を粗末にしたり、刀を振り回すような考え方ではない。
刀を傍らに置くことで、常に、真剣勝負の心を持つのである。刀を傍らに置くことで心を静め、冷静に物事を判断する。刀の刃は、相手に向いていると伴に自分にも向いているのである。
もし、道義、礼節に反することがあれば、潔く切腹する。もし、己の名誉、信義が護れなければ相手と刺し違える覚悟をする。
その潔さ、覚悟にこそ、自らの潔白の証があると覚悟するのが武士道である。
命懸けで自らの潔白と大義への忠誠を示すそれが武士道である。
その覚悟をもって誰に対しても正々堂々と接するのが日本人魂である。
その為に武器を携行するのである。
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