今の教育や学問には、志がない。
戦前は、教育は、知育・体育・徳育とされていた。しかし、戦後は、知育と体育だけが許され、徳育は禁じられた。そして、徳育が捨てられ、やがて体育も廃れてきた。受験戦争の中で、生き残ったのは、知育だけである。
徳育とは、人間いかにあるべきかを教える事である。教えるというよりも修業である。生徒と先生という高見から者を見るのではなく、師と弟子、同志的な繋がり、友に徳を磨くという発想が欠如してきた。
何を教えようというのか。何を学ぼうとするのか。なぜ、教え、学ぼうとするのか。問題はそこにある。自分が何を、なぜ、学ぼうとしているのか。何を伝えようとしているのか。
教育の本義は、人間いかに生きるかにある。だから教育の本質は、錬磨、修業である。そして、学友は、同志であるべきなのである。
人間いかに生きるべきかとは、志すところを言う。現代教育にはそれが判然としない。人間としていかに生きるかが明らかにされていないのである。
つまり、志がないのである。教える者にも教わる者にも志すところがないのである。仮に、生きる目的が明らかでないとしても、生きる目的を明らかにせんとする方向は持つべきなのである。
私は、本当に尊敬する人を先生とは呼ばない。
なぜならば、その人を、人として尊敬しているからである。相手を超えようとするから学ぶのである。先生ではなく。同志だと思うからである。伴に学ぶべき者である。尊敬すべき者は途上にある。切磋琢磨すべき人である。
相手に屈服して、ただ、従うだけでは学ぶ事にならない。だから、尊敬する人をあえて先生とは呼ばない。無闇やたらに、奉るだけでは何も学び取れない。学問とは戦いである。
先生と呼ばないのは、相手の力を認めているからである。ただ、礼は尽くさなければならないと考える。
力のある人ならば、礼を尽くせば解ってくれる。それが誠である。誠心誠意尽くせば、実になる。それが誠実である。誠実のない人を尊敬はしない。
また、伴に学ぶ者に、先生とは呼ばせない。自分が驕(おご)るからである。学ぶとは、磨き合うことである。後輩であろうと学ぶ的時は、頭を下げて教えを請う。
教わる事のない者から、学ぶ事はできない。だから、伴に学ぶ事はできない。自分が学べなければ、教える事はできない。つまり、共鳴、共感がないからである。尊敬する人を先生と奉れば、教わる事はできても、教える事はできない。尊敬している人に教える事は、自らに対する戒めである。
最も効果的な指導は、教わる事である。自分より劣る者に教わる事は、自らの戒めである。だから、克己するしかない。克己復礼である。そこに修業がある。だから、自分に劣る者でも、大切な師であることに変わりはない。学ぶのは自分である。学ぶべきは自分にある。
学ぶとは、常に、自分より優れた者を見出し、優れたところを見出し、挑戦し続けることである。そこに志がある。志すところがなければ学ぶ事はできない。学ぶ事に遠慮はいらない。力ある人であればあるほど、礼を尽くして、叩き潰す。それが学問である。
嗚呼、俺は、全てを学んだ。あいつからもう学ぶ事はないと思った瞬間に学問は終わる。学ぶとは、過程である。負うた子に教わる事がいかに大切か。それが学ぶ事である。尊敬心とは、畏敬心である。その人の力を認めれば認めるほど、自らを戒め、礼節を守る。しかし、その人から学んでいる間は、あえて先生と呼ばない。指導している時は、先生とあえて呼ばせない。指導する者も指導される者も真剣勝負なのである。師の恩は、土俵の上で返す。それが真の学徒である。人は皆、修行中の身なのである。
先生と言えるのは、絶対不変の真理を体得した者だけである。それならば、先に生まれたと言える。それ以外は、皆、同行者である。絶対不変なるものを体得できるのは神のみである。故に、人は、皆、同行者でしかない。本来、先生とは逝った者に対して言う言葉である。だから、私は、先生とは呼ばない。呼ばせない。先生といえというならば、先生という。ただそれだけである。
その意味では、先生を生業としている者は気の毒である。この世でなれもしない先生になろうとしている。自分が教えている事が絶対不変の真理であり、間違いのないものだと思いこまないかぎり先生にはなれない。つまり、それは、教科書ではなく、聖典なのである。変更など許されようがない。そこに書かれている事をただ記憶し、それに基づいてテストをすればいいのである。もし、教科書に過ちがあるとしたら、先生などやって入られない。
だから、学校の先生は、先生たらんとする。教科書に書かれていることが正しいかどうかはこの際、問題にならないのである。そんなことはどうでも良いのである。
これは、戦前も戦後も同じである。戦後のように自分達の立場・思想が曖昧模糊としている方が、余程状況は厳しい。つまり、少なくとも自分達が思い込まなければならないからである。不確かなことを絶対だと信じ込まなければ、教える事ができないからである。
もし、間違いがあったら、そう考えるだけで自分の今の立場がなくなってしまう。間違いがあってはならない。間違いがあるはずがないが、いつの間にか、教科書に書いてあることを絶対不変の真理としてしまっていることに当人達は気が付かない。教科書に書かれていることに疑問を差し挟むなどという事は、許されないのである。
教科書に書かれていることを絶対不変の真理としたところで、先生と生徒の関係は成立する。そして、先生は、先生たらんとするのである。つまり、常に、生徒よりも先生の方が偉い。先生は、絶対優位に立つのである。これは、教祖、僧侶と信者の関係と同じである。その上で、先生は、先生として振る舞わなければならない。凡庸、凡俗の人間とは違うのである。つまり、先生は、聖職なのである。これも、僧侶と同じである。違うのは、先生は、修行者ではないという事である。つまり、凡人なのである。一方で聖職者としての生活を要求され、一方でただの人である。少なくとも、宗教的指導者は、建前だとしても修行者である場合がほとんどである。徳を磨いているのである。徳も磨かずして、立場だけが聖職者であるというのはかなりきつい。まことに、先生というのは、気の毒である。志がないのである。志がない者が、学を志している者を指導することなど不可能である。その時点で負けているのである。しかし、先生は、生徒に勝たなければ成り立たないと思い込んでいる。そこに絶望的な認識の錯誤がある。
教えている事が、絶対的真理だと思い込んでいることが間違いなのである。本来、教育者というのは、先達者、指導者で良いのである。伴に学び、伴に、修業する。伴に喜び。伴に悩み。伴に苦しみ。伴になく。それが本来の教育者の姿なのである。それは、絶対不変の真理は神のみが知ると悟った時から覚悟せねばならぬ事なのである。
昨今の人間は、自分が何をしたいのかが解らない。したいことを見つけさせるのが教育の目的なのに、その根本を教育は見落としてきた。
学問とは決断である。なぜならば、学んだ後の結果は、学ぶ前には、解らないからである。何年もかけて、寝食を忘れて受験勉強をしても合格するとはかぎらない。合格しても自分の望む結果が得られるとはかぎらない。大学に入学できたとしても挫折することは往々にある。また、大学を出たからといって望む仕事に就けるという保障は何処にもない。況や成功するか、しないかは、大学を出たと言うだけでは解らない。
海の物とも山の物とも解らない。先に何の保障もない事に一生を賭けるのが学問である。故に、学は志すものである。ところが現代は、何の志も持てないうちにいつの間にか、既定の路線にのせられて勉強をさせられている。だから、何のために学んでいるのか、その意味すらわからない。だから、いくら勉強しても自分が何をしたいのか解らない。解らないと言うより解らなくしているのである。
学は、志すのである。
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