行政は、権力の象徴である。行政こそ、政府である。国家を代表する者、又、象徴する者としての国家元首は、この行政を司る者、首長を指す場合が多い。
行政府は、国家権力を象徴する機関だとも言える。つまり、権力機構そのものであり、国家において絶大な権力を発揮することができる。行政府は、国防、治安、防災という権能もその支配下におくことができる。戦前の日本は、統帥権の干犯といって行政府が国防に介入することを拒んだ。その為に、行政府は、その本来の権能を発揮することができなかった。
本来、行政府は、軍も、警察も、消防も、そして、教育もその支配下におくある意味で全能の機関である。故に、国民国家の仕組みは、この強力な機関を鎖に繋ぎ止めるために作られているとも言えるのである。
行政機関を勝手気儘にさせれば、それは、怪獣、猛獣となって人民に襲いかかってくる。
又、この行政府を司る者、首長は、国家権力を象徴する者、代表する者と言える。絶大な権力を握る。故に、圧政の根本原因は、この首長から発すると見ても良い。故に、首長の在り方が国家の命運を決するのである。
一般に政府という場合、この行政機関を指す場合が多い。行政機関こそ権力機構だと言える。この行政機関の下に警察も、軍隊も、教育も組み込まれる。つまり、行政機関は、強力な強制力を行使できる権能を持つことになる。また、警察権や軍事権を持つと言う事は、超法規的な裁量も一部持たされることとなる。
また、予算の執行権も、税の徴収権も与えられる。つまり、利権が生じるのである。行政機関は、ある意味で利権の塊(かたまり)である。
公共事業だけでなく、所得の再分配や、福祉事業や教育事業も利権化する。そこには、巨額の財政があるからである。
利権の塊(かたまり)だと言う事は、不正の温床でもあることを意味する。だから、三権を分立して相互に監視させる必要が生じるのである。
行政府は強力な機関なのである。故に、国民国家は、この強力な行政府が暴走しないように抑止するための仕組みを沢山持っている。その代表的な現れが、三権分立なのである。
多くの場合、国家元首や首長が行政の長を兼ねる。故に、行政の長は、象徴的、尚かつ、実質的、権力を支配していると言っていい。国民国家の制度は、この行政府を抑制し、牽制するためのものだと言っていい。
国王や君主、あるいは、独裁者の様に属人的な制度もある。属人的制度は、国家は、国家元首の全人格によるものである。それは、国家は、首長の存在そのものであり。国家は、首長の運命を共有することを意味する。故に、多くの場合、政権交代は、血生臭いものになる。また、軍国主義や全体主義のように、何等かの組織機関が国家行政を支配する場合がある。この場合は、組織機関の都合が全てに優先されることになる。
それに対し、国民国家は、何等かの形で民主的な手続によって国民によって選ばれた者が国家を束ねる制度である。この様な制度には、大統領や首相、国民の代表や立法府の代表のように全てを統括したと言う制度もあり、総理、総裁のように何等かの機関の代表と言った制度もある。
ただ、いずれにしても多くが官僚制度によって実質的な執務を行っている。故に、国家行政の実権は、官僚制度が握っていると言ったも過言ではない。
官僚機関の政治的中立と言ってもそれは、政治によって行政の根幹は代わらないという事を意味する場合もあり、常に、官僚独裁的な危険性を孕んでいるのである。
フランス革命やアメリカ独立の際、議会の権力の強力化を抑えるために、行政と司法に権力を分散させた。今日では、行政の力が強力になりすぎるのを抑制するために、行政と司法の力を利用しようとしている。
行政というのは、国家機能を顕現する役所である。お役所という場合、の行政機関を指す場合が多い。この場合の行政機関は、統治機関を指して言う。つまり、国民を統治する機関を行政機関という。そして、行政機関を行政府と言う事が多い。
国民国家になって、国民が国家の主となり、国民という概念が重要になった。つまり、国民とは何を指して言うのかである。国民国家では、それを憲法によって定義、規定する。しかし、国民国家が成立する以前は、支配階級と被支配階級しか存在しなかった。そして、行政機関とは、支配階級に代わって国民を支配し、支配階級に奉仕する機関でしかなかった。つまり、君主国では、君主と臣民でしかなかった。更に、国家という概念が定かでない時代では、単なる支配階級の為の機関でしかない。行政機関は、この時代の名残を強く持っている。即ち、国民国家になり、公僕と言っても実際は、国民を支配する機関としての性格を濃厚に持っているという事である。
役人は、別格だと思っている。役人の世界は、世の中の常識や規範から隔絶した世界であって世俗の規律に従う必要がないと思っている。つまり、超俗的な存在だと思い込んでいる。世の中が不景気であろうと、役人には関係ないし、財政が破綻したとしても自分達に影響がなければ関係ない。それが役人の世界である。ただ、組織としては、責任の所在が失われれば機能不全に陥る。
役人は、自分達は特別な人間だと思い込んでいる。つまり、世間一般の営利を超越し、かけ離れた人間だと思っている。民間では、経営に失敗すれば責任を問われ、場合によっては、犯罪者となり、全財産を失うことすらある。しかし、官僚は、経営責任を問われることはない。なぜならば、官僚機構というものは、不経済な存在だからである。経済的に自律した機構を持たない限り、官僚機構の自律性を保つことはできない。
官僚制度は、組織を自己目的化する傾向がある。組織それ自体が目的化する性質を持つ。つまり、組織を維持するために、組織が存在するという具合にである。組織維持が組織の存在目的となると言った転倒が起こるのである。
近代的国家概念が確立されるのは、国民国家が成立することによるが、行政府はそれ以前からあったのである。つまり、行政府というのは、近代国家、国民国家の専売特許ではない。行政府は、基本的に権力者に仕える機関なのである。ある意味で忠実な召使いでもある。それが公僕という言葉によって表される。又、官僚組織は、権力を背景にしない限り有効に機能しない。同時に、官僚組織は、それ自体が自律的な組織でもある。つまり、組織それ自体が、組織を維持しようとする働きを持つ。それが官僚機構が自己目的化する要因でもある。
しかし、国民国家においては、国民の福利のための機関に変革されなければならない。その為には、国民国家における行政機関の役割・機能・目的を明らかにして、その在り方を定めなければならない。
国民国家における行政は、行政を司る閣僚と政策を執行する官僚機構とから成る。そして、行政機関を実際に機能させているのは、官僚である。
国家の原初的権能、軍と警察と消防に要約できる。夜警国家の由縁である。
行政の使命は、基本的に、国民の安全と財産の保護である。そして、それに基づいて諸々の権能が派生する。
行政は権力機関である。権力機関とは、強制力を持った機関である。法を定めたら法を守らせる機関が必要となる。その法を守らせる機関が行政府である。その為に、強制力、即ち、暴力を行使することが許されている機関である。つまり、暴力機関である。故に、公式に権能として、武器を携行することが許されている機関なのである。
軍事権、治安権、徴税権、教育権、社会資本の整備、国民の衛生管理、国民の権利義務の擁護、戸籍管理。
この様に行政は権力の集まりである。故に、国家で唯一の暴力を行使することが許されるのである。
行政機関というのは組織である。当然のことである。故に、当然、組織としての基本的機能を持っている必要がある。その第一が、指揮命令系統の一元化である。第二に、統制力である。第三に自律的機能である。第四に分業である。第五にフィードバック機能である。
現在の官僚機関は、不経済な組織である。収益性のない機関、経済効率の悪い機関という意味ではなく。不経済な組織というのは、経済性と関わり合いのない機関だと言う事である。非営利機関だという意味においてである。つまり、最初から、収益や収支といった経済的基準から隔絶した、乖離した機関だと言う事である。その為に、組織の運営権は、権能は、組織の長に与えられているが、経営権は、組織の長に与えられていない。組織の長に与えられている経済的権能は、予算の執行権、及び、予算の立案権に過ぎない。予算の決定権すら立法府の権能に属している。つまり、実質的な人事評価権は、組織の長には与えられていない。行政府の長に与えられているのは、人事権の一部に過ぎない。しかも行政の長は任期が決められている。故に、行政の長は、はじめから限界があるのである。むろん、それでも行政府の長は、それなりの権能、権力がある。ただ、万能の権力者ではないという事を留意しなければならない。さらに、官僚機関は、官僚機関として自律しているという点も見逃してはならない。
組織が、組織として機能するためには、必要な機能を発揮するためには、そのヘッド、頭、首長、リーダーの統制下になければならない。トップや頭、首長が、統制力を発揮するためには、人事権を掌握するする必要がある。人事権は、評価、異動、配置、賞罰の効能がなければ効力を発揮できない。ところが、現代の日本の官僚機構というのは、必ずしもこれが権能が首長に与えられていない。その為に、現代の日本の官僚組織は、組織としては半身不随状態であるといえる。
それでなくとも、国家機関というのは、巨大化する傾向がある。その為に、指揮命令系統が分断化されたり、一元化できなくなったりする。その為に、首長の支持命令が下部組織に伝達されなかったり、統制がとれなくなったりする。
また、経営に関しては、行政府の長は、ほとんど力を発揮できない。制約されているのが一般的である。
組織は、抑制を失うと自己増殖を繰り返す。その為に、統制と自律性のない組織は際限なく巨大化する。それを抑制する機能は、経済的機能である。
組織の構成員は、相互牽制や抑制がなくなれば放縦になる。構成員に相互牽制や抑制を働かせるのは、本来、評価制度や賞罰制度、異動制度と言った人事制度である。又、自分の仕事の成果に対するフィードバック機能がなければ、仕事に対する責任感や意欲が持てなくなる。その結果、無責任になる。このフィードバック機能も人事制度の裏付けがあって機能している。つまり、実績と人事制度が直接的に結びついてはじめて組織は、全体としての統制機能が働くのである。そして、統制機能は、経済的機能と連動することによって本来の機能を発揮する。この統制的機能が働きにくいのが官僚機構である。官僚機構は、この様な統制的機能よりも、組織の保全機能の方が強い。
つまり、官僚機能というのは、不経済な組織なのである。
官僚機関では、経済を卑しむこと甚だしい。それでいて、経済的自由で担当者や担当責任者が責任を問われることは稀である。明らかに違法、不正だという事柄だけであり、それも実証されてはじめて責任が問われる仕組みになっている。
官僚機構では、実績とは関係ないところで、評価される。それが客観的基準という事である。その客観的基準というのは、規則や経験年数によって定められている。つまり、評価という主観的行為に主観が入り込まない仕組みになっているのである。やってもやらなくても同じなのである。一定のキャリアを積めば自動的に昇進していく。即ち、加点主義ではなく減点主義なのである。
一人の人間が掌握できる人と作業には限界がある。情報の伝達範囲、速度にも限界がある。今日、情報技術の発達によってこれらの限界の幾つかが克服された。しかし、同時に情報技術の発達に伴う新たな限界も生じている。
指示命令の伝達の範囲に限界があるために、組織は階層的になる。組織が巨大化するとこの階層が高くなる。
一つの統制的組織には、限界があることを示している。そこで、基本的に組織は、一定の限界を超えると分裂をする。ところが、官僚組織には、統制がきいていないために、この分裂がうまくいかない。その為に、情報の伝達や意思の疎通、指示命令の伝達に齟齬をきたすことがある。
又、評価システムが有効に機能せずに、仕事の成果が、客観的、機械的にされるようになると、自分の仕事の持つ意味が失われ、有名無実化する。そのことによって事なかれ主義や日和見主義が蔓延し、能動的な活動が疎外される。
例えば、教育制度が好例である。信念や情熱を持って取り組む教育者が排除され、消極的でやる気のない教育者だけが生き残るという現象である。それは、信念や情熱は、主観的ものであり、信念や情熱を測る客観的な基準がないからである。
身分保証によって組織目的に反する行動を抑制することができなくなる。
また、余計なことはなるべくせずに、事なかれ主義に徹し、平穏無事に勤め上げることに専念するようになる。そうなると組織は、保身に走り、総無責任体制になる。
又、首長や閣僚の任期が短期間であるのに対して、官僚は、その組織に長く勤務している。
個人主義という場合、個人は、全体であり、又、部分でもある。個人が、全体というわけでもなく、部分というわけでもない。個人主義というと個人の権能ばかりが全てだと思いこんでいる者がいる。又、逆に、国家に全てを従属させなければならないと言う者もいる。しかし、個人主義とは、そのいずれでもない。国民国家においては、個人は、個人として全人格的な者であると同時に、国民として国家の一部でもある。つまり、国民国家は、一種の共同体であり、個としての個人の集まりではない。
個としての個人が強くなりすぎれば、全体よりも部分の方が強くなり、部分が全体を支配するという逆転現象が起こったりする。
軍のクーデターのように、軍部の一部が勝手に機能して、組織の中枢を掌握してしまうといった現象である。
逆に、部分としての個人しか認められなくなれば、全体主義や独裁主義を許すことになる。どちらにしても結果は同じである。
無政府主義か、全体主義かの議論ほど愚かな議論はない。どちらも国民国家か破綻した結果なのである。個人主義体制とは、個としての個人と部分としての個人の均衡の上に成り立った体制なのである。
軍国主義というのは、軍部が直接的、間接的に行政府を支配、掌握している体制である。国全体を軍事組織化することを意味するのではない。もともと、軍は、生産手段を持っていない。その様な組織が国家体制そのものに取って代わるなどと言う事はできない。ただ、官僚の仕組みを動かすことはできる。軍も官僚組織の一種であることを忘れてはならない。つまり、行政府と軍は、同じ穴のムジナ、同じ体質を持っていることになる。又、軍人ないし、軍属出身の者が政治を牛耳ったとしても必ずしも軍国主義とはいわない。アメリカでは、軍人出身の大統領を多く輩出した。だからといってアメリカは軍国主義国家などとは言わない。軍が、国家の中枢を支配する体制を成立させようという主義が軍国主義なのである。(「軍閥興亡史2」伊藤正徳著 光人社NF文庫)
逆に、軍事、外交を除き、内政にのみその役割を特定させられるような行政府もあったのである。戦前の日本がであった。つまり、文民統制が効かなかったのである。
いずれにしても、政治は軍の暴走を抑止し得なかったのである。官僚組織である行政府や軍の暴走を抑止するためには、国民国家は、強固な仕組みを内在化させる必要があるのである。その一つが三権の分立である。
参考文献
「民主主義という不思議な仕組み」佐々木毅著 ちくまプリマー新書