魂のない肉体は、骸(むくろ)である。自分自身すら維持できない。ほっておけば、腐敗し崩れ去っていく。命が宿ることによってはじめて肉体は活動できるのである。
人間は、その生命の謎を解き明かしたわけではない。いわば闇である。医学は、その闇を闇としてひとまず是認し、その闇にメスを入れることをやめ、目に見える世界だけを対象とすることによって成立した。いかに医学か進歩したとしても、生病老死の根源的な苦悩から人間は、解放されたわけではない。
制度とは、機構であり、仕組みである。いわば肉体である。制度を生かすのは、その制度の根源にある意志や魂である。
国家が善であるか、悪であるかを問うのは、愚かである。国家は、道具に過ぎない。それを善とするか、悪とするかは、主権者の問題である。包丁が、善悪の基準を持つわけではない。包丁を使って料理を作るか、人を殺傷するかを決めるのは、使い手の問題である。車は、利便な道具である。しかし、時として凶器になる。車を凶器にするのは、運転手である。国も、又、然り。国という制度を凶器にするのは、主権者である。
国家制度であれば、国民の一人一人の意志であり、価値観であり、信条であり、権利や義務である。又、その国の歴史や伝統、因習、風土、慣習、仕来り、作法、祭礼、宗教、言語と言った文化である。
この世界の半分は闇である。その半分の闇とは、内面の世界である。人間の心の奥底にある闇の世界を受け容れ、容認し、前提とし、それを制度によって保障しようとするのが自由体制なのであり、民主主義体制なのである。
いかに科学が進歩しても、この世界の半分は、謎に包まれている。肝心なもの、即ち、生命の神秘や人の心、自然の摂理、神の意志は、その半分の闇の中にある。心も、命も、神も、我々は、解明していないのである。我々は、その外皮を理解したに過ぎない。ところが、いつの間にか、その半分の闇を白日に曝したつもりになっている。
それがいかに危険なことなのか。破滅的なことなのかを人間は自覚する必要がある。人は、パンのみのために生きるのではない。人は、単なる物質ではない。かといって精神的な存在でもない。その二つが一体となってはじめ生きられるのである。
この世の闇を否定するのは愚かである。闇があるからこそ、事は生きられる。闇を否定するから、この世は砂漠のように干からびるのである。想像の世界は、闇にこそある。闇には、確かに、悪魔や、妖怪変化、百鬼夜行もいる。しかし、神も、聖霊も闇の世界に居られるのである。
人間の心の奥底にある闇を白日に曝すことは、人間をただの物体としてしか見なしていないことを意味する。計り知れない闇を認めるからこそ、人は解放されるのである。それを保障する仕組みが、民主主義制度なのである。だから、自由がある。
科学は、神の世界を尊重し、神の世界を侵さないことを前提として成立した。それは、民主主義も同様である。科学も、民主主義も決して神の世界を否定したわけではない。ただ、その世界に触れない。侵さないだけなのである。
思想信条の自由というのは、神を信じない自由ではない。つまり、無神論的自由ではない。神の世界を侵さないことによって成立している自由なのである。神の問題は、神の下へ、人間の問題は人間の下へそれが民主主義の原則なのである。
ところが、今日、人間は、その原則を忘れて、闇の世界を支配しようとしている。しかし、闇の世界を支配しようとすることは、結局、闇の世界を自分の世界の側に取り込むことを意味するのである。
例えば恋愛である。
自由恋愛というのは、個々の恋愛の形を言うのではなく自由に恋愛できる場、状況を言うのである。そして、民主主義とか、自由主義というのは、その場や状況を制度によって保障する体制を言うのであって、価値観の画一化や統一化、均一化、同一化を計る体制を言うのではない。価値観や思想を画一化しようとする体制は、それがどの様な形であろうと、全体主義であり、独裁主義である。
つまり、国家制度の機能を決定付けるのは、結局、国民の意識である。いくら民主的体制を築き上げたとしても、最終的には、国民の意識が変わらなければ、民主主義体制は、確立されない。制度とは、あくまでも機構、仕組みなのである。
ただ、健全な肉体に健全に魂が宿るというように、制度的な保障がなければ、国民の意識を継続的に保つことができない。
自由主義、民主主義の本源は、人間の心の奥底にある闇なのである。解明しえない謎なのである。その人間の心の闇から発せられる人間の活力こそが、国家原理を生み出しているのである。それ故に、人の社会は、欲望や怨念、情念が渦巻く坩堝と同じ状況なのである。人の欲望は情念は、人間社会の活力である。しかし、それを放置すれば、人と人との争い諍いは絶えることなく、国家や社会の秩序、そして、国民一人一人の生活や人間をも破滅させてしまう。そこに、国家制度の目的と役割がある。その人間と人間の欲望や情念を制御し、それを建設的なものに向けさせるための仕組みが制度なのである。
制度そのものは機構に過ぎない。国民国家において、制度を制度たらしめているのは、国民の意志である。しかし、その国民の意志の根源は闇の中にある。故に、制度が必要なのである。そして、そこに、制度の目的と機能、役割が隠されている。
人間の欲望や感情、情念、怨念の世界は闇の中にある。正義や信義、理性も、又、闇に包まれている。その人間の世界の奥底に隠されたエネルギーを引き出し、制御するのが制度の役割なのである。
人間をして、何が、人間をそうさせるのか、それは解らない。人は、争い、又、きそう。争い競うことによって、進歩、発展してきた。何が、人を争いに誘うのか。それは解らない。しかし、その活力を活用しなければ、人類の発展は期待できない。だから、その活力を建設的なものに向かわせる必要があるのである。その為に制度がある。
つまり、制度を制度として活用するためには、闇を闇として認識する必要があるのだ。それが大前提なのである。
国家制度というのは、歴史的産物である。社会的制度は、文化によって育まれ、成立する。制度は、制度それ自体、単独では成り立たないのである。つまり、制度を成り立たせているのは、制度の血となり肉となる、その国の歴史や伝統、宗教、言語、風俗、習慣といった文化なのである。
中でも、法に対する国民の意識、認識が、制度の性格を決めるのである。制度は、道具、手段に過ぎない。そして、法を裏付けている理念こそ憲法である。だからこそ、憲法は国家理念となりうるのである。それが日本人には理解し切れていない。憲法は、ただの理念ではない。国民の意志であり、国民の意志を実体化するための礎なのである。
国家制度は、権力機構である。国民国家の存在意義は、国民の生命、財産を、国家内外の勢力による無法な暴力から守ることに第一義がある。無法な暴力から、国民の生命財産が護れなければ、国家は、独立国家としての存在意義を失う。その為に、国家権力は暴力を必要とする。つまり、権力とは、公認の暴力である。国家制度は、この公認の暴力を制御するための仕組みであり、装置である。国家制度は暴力装置である。これが国家制度の本質であり、本性である。
しかも、国民の意志の本源は、闇である。つまり、国家権力の本質的な力の源は謎なのである。これが国家制度を考える時の大前提である。
そして故に、法治主義にならざるをえないのである。信じるべきは、法の権威と法の制定手続なのである。法に対する信認が失われれば、民主主義は成り立たない。法の尊厳が失われれば、民主主義体制は一日たりとも維持できないのである。それが民主主義の本質であり、又、限界なのである。
無法な暴力が現れた時、民主主義は常に危機に陥る。それが、革命であり、クーデターであり、犯罪である。
この事は、法に対する国民の意識、伝統、歴史、文化、言語などが、その国の制度に重大な影響を与える事を意味している。つまり、制度は文化の所産なのである。そして、国家制度を支えているのは、国民の法に対する意識である。この国民意識を醸成するのは、歴史や伝統である。
民主主義は普遍主義とは違う。民主主義は、その国の国民一人一人の生活に根ざした体制だからである。だから民主主義の制度を支えているのは、その国の歴史や伝統、風俗習慣である。その国の国民生活を無視したら、民主主義は成り立ちようがない。日本の制度は、日本の歴史や風俗が生み出したものである。その点を理解せずに法を普遍的なものとして理解したら、民主主義制度は最初から成り立たない。民主主義の原理が最初から無視されているからである。
日本人は、明治維新以後、欧米から様々な制度を導入した。明治維新当初は、それでも日本の事情を勘案しながら取捨選択しながら慎重に取り入れてきたが、敗戦後は、不用心に制度を輸入してきた観がある。特に、バブル後にはこの傾向が高まった。
その結果、自由、平等、進歩、民主というのは、絶対不可侵の原理、真理のように受け取られている。そして、あらゆる尺度が進んでいるか、遅れているかに一元化されているように思える。
欧米には、欧米の文化、歴史、風土があり、欧米の制度をそのまま持ってきても意味がない。自由にせよ、平等にせよ、民主主義国においてそれを現実の制度にするのは、その国の国民の実生活である。現実である。
現に、欧米と一口に言っても、コモン・ローの国と成文法の国とは、法に対する根本理念が違う。根本理念が違うと言う事は実体的建国の思想が違うのである。また、税体系の違いや社会福祉に対する違いは、実際的には、自由主義と社会主義ほどの違いがあるのである。つまり、実体的な国家理念は、国家制度によって実現されるのである。当然、理念は制度に反映される。制度に反映されない理念は、実効力を持たない。
また、歴史は、一方向に直線的に発達するものではない。つまり、進化論的なものではない。進化発展が必ずしも善ではない。そして、法や制度も進化論や進歩主義的なものではない。制度を考える時、この点を留意する必要がある。
進化論的歴史観、未来は、常に進んでいて、過去は、常に遅れっている。進歩、又、常に優れていて、遅れは、常に劣っているという前提に立っている。この前提に立って、西洋文明以前の文明は全て後進的であり、全ての制度は前近代的であるという決めつけである。その為に、民主的、西洋的制度が全て絶対的なものとされている。
欧米においても進歩主義的な歴史観が全てを支配してきたわけではない。アリストテレスは、君主制、貴族制、民主制に、僣主制、寡頭制、衆愚制を対置し、それが循環的に交替するとしている。ただ、一神教の多くは、直線的な死生観を持ち、輪廻転生のような死生観に基づく東洋的な思想とは異質な部分を持っていることは否めない。そして、日本は、西洋の根底にあるものを見ないで、上面だけの制度を導入した。つまり、本質的な部分が十分に理解されていないのである。それで新しいものはいいと決め付けている。その新しいものは、西洋的なものなのである。
遅れているという意識はどこから来るのかである。それは、西洋的なものを明らかに尺度している。進歩主義の外皮をはぎ取れば、その本質は、白人主義である。つまり、そこには、白人主義の本性が隠されているのである。
ただ、古いと言うだけで、全てを否定しさることは野蛮である。他人の価値観の尊重などどこにもない。ただ古いと言うだけで、封建的と決め付けられ、前近代と誹られ、アジア的な世界、日本的な世界、アフリカ的世界、インカやインディアン的世界、イスラム的世界が葬り去られてしまった。
進歩が正義の代名詞となり、新しいか、古いかによって篩(ふる)い分けがされ、西洋文明、即ち、白人文化に根ざしていないものは古いものとされて切り捨てられる。
先進国か、後進国かで分類することがそれを物語っている。そして、白人国家以外の大多数が後進国に分類されるのである。それは、白人が進化の先端にいるという自負の為せる業である。
しかし、本当にそれは真実であろうか。近代という歴史の中に葬り去られていった文化、制度の中に、優れた文化や制度はなかったと言いきれるであろうか。
無批判の欧米の制度を入れるのではなく。我が国は、我が国にあった制度を導入すべきなのである。
今日、民主主義を絶対化する傾向がある。民主化すれば、万事うまくいくという考えである。それは、一種の信仰のようですらある。そして、自由と平等と博愛が絶対的な真理であるかのごとく喧伝されている。民主主義化は、開放であり、民主化のための戦いは、解放戦争である。あたかもそれは、聖戦(ジハード)の如くである。そして、民主化されていない国は、遅れていると言われる。全て歴史は、進歩の過程に過ぎないのである。それが進歩主義である。しかし、何をもって進歩とし、何をもって後進とするのか、その定義はハッキリしない。曖昧である。