法とは、何か。法治国家に生まれた我々は、生まれた時から、法に従って生きている。生まれながらに法の下に生活している。故に、法によって決められた命題、定められた命題を、我々は、所与の法則や原理のように、当然の如く受け止めている。しかし、法とは何か。改めて質問されると返答に窮す。法と道徳は、同じ規律なのか。法は、自然の法則のようなものなのか。法は、誰のものなのか。法は、誰が、どの様にして定めるものなのか。
法と自然の法則とも違う。法と、道徳とは違う。法は、必ずしも国民のために定められていたわけではない。
法は、所与のものではない。法のなかった時代もあるのである。無法の時代においては、無法な暴力が全てを支配していた。法が確立された後も長い間、法は、暴力によって支配されてきた。それが専制時代である。その時代は、法は、人民、国民の側のものではなく、人民、民衆を支配するための道具、手段だったのである。
又、法は、自然の法則とも違う。法に普遍性はない。法は、絶対的なものではなく、相対的なものである。又、法は人為的なものであり、自然の法則とは、本質的に違う。つまり、所与のものではなく、制定したものなのである。故に、法のない時代もあった。又、現在でもあらかじめ定められたものではなく、判例によって創作されるものだという考えに基づく国もある。それによって当たり前に、司法や立法制度の在り方、本質が違ってくる。
法と道徳は違う。しかし、法と道徳を混同している者は、かなりいる。少なくとも遵法精神というのは、法治国家における道徳一つには違いない。又、法の根源に道徳は必要である。法は、道徳に基づく必要があるからである。しかし、法は、道徳や道義とは違う。
法は、必ずしも、人民国民の福利のために定められていたわけではない。むしろ、法は、人民国民の権利を侵す、又は、対立、抑圧するために定められていた時代もある。それ故に、国民から見れば、法は不道徳なものであった時代もある。
これらの点を前提として、司法制度、立法制度は成り立っている。
我々は、法は、あたかも、道徳のように、自然の法則のように、又、国民の福利のためにあると信じている。しかし、法の本質は、権力によって、人々の生活を拘束する強制力なのである。故に、道徳と違って法に違反した者は、罰せられるのである。場合によっては、生命財産をも奪う強制力を法はもっているのである。故に、法の本質は暴力である。
つまり、法の横暴や暴走を抑制するために、立法制度や司法制度はある。法を絶対視することは、最も危険なことである。
法を監視するのも、司法の最も重要な機能の一つである。ともすると、裁きを下す事に重きが置かれ、法を関する機能が忘れられがちだが、司法にとって法を監視することは、法によって裁くことよりも、より本質的の機能なのである。それは、司法制度の在り方をも関わる本質的な機能なのである。そこに、司法の独立の意義があり、法曹界の人間の身分保証の必要性の意義もある。
法とは何か。多くの日本人は、法とは、犯罪を取り締まるための掟のように思っている。つまり、人間社会の揉め事や紛争を解決するための手段、取り決めのように思い込んでいる。確かに、法には、その様な一面がある。それは否定はしない。しかし、それが法の本質だというのではない。
法の本質は、別の所にある。つまり、法の土台は憲法である。憲法を成立させているのは、国民国家の在り方と、国民の権利と義務にある。つまり、国家と国民の在り方である。それは、何々をしてはならないという性格のものと本質的に違う。かくあるべしと言う在り方が根底にある。
だから、司法は、常に、討議の場なのである。
法には、公法と私法とがある。公法とは、公である国家、社会と私人、個人との関係を取り決めた方である。私法とは、個人と個人、私人と私人との関係を定めた法である。日本人は、この公法と私法の区別がつかない。ただ、日本人は、私法という考え方が乏しい。日本人の法は、御上が決めた公のものだからである。そこには、個人の権利を保障するという意味での法概念が欠落している。法は、将(まさ)に与えられるものであり、守らなければ罰せられる規則なのである。
欧米においては、「ローマ法」の時代から国家と私人との間を規定する公法と私人と私人の間を規定する私法の別が明確にされており。欧米では、法は、市民の権利を保障するものとして私法を中心にして発展してきた。(「法律の世界地図」21世紀研究会編 文春新書)
つまり、欧米人の言う法とは、個人の権利を保障する法が前提となっているのである。
又、私法に対する捉え方も、日本人、と言うより、儒教文化圏とそれ以外の文化圏とでは違いがある。
日本人の多くには、錯覚がある。その錯覚とは、話せば解るという考えが民主主義の根本であり、司法の前提だという考えである。しかし、それは間違いである。話しても解らないことがあるというのが民主主義の前提であり、司法の前提である。だから法がある。
つまり、法とは、前提なのである。あらかじめ定められた基準でなければならない。それが法である。では、どの様に定められたものなのか。そこに法に対する思想、哲学がある。故に、法に対する思想や哲学が明らかでなければ法は、その効力の根拠を持たない。つまり、正当性に欠けるのである。
当事者同士が話し合っても和解できない。だから、裁きが必要となるのである。そして、お互いに話し合って納得できないことを裁く以上、それを実現するためには、強制力が必要なのである。その強制力の本質は、武力である。武力は、暴力の一種である。つまり、法は、暴力を背景にもってはじめて成り立っている。この厳然たる事実を、法を司る者達は、忘れてはならない。法は、常に、暴走する危険性を帯びているのである。その法を制御するのが司法制度である。
故に、法は、法を規制する理念を前提としなければならない。無闇に法を制定されれば、法による暴力を妨げられなくなる。
その典型が税である。家産国家である。君主国では、税はあくまでも君主の都合によって徴収されていた。つまり、君主が自分の勝手や都合で税を決めていたのである。それでは、取られる方がたまらないので、法によって国王が勝手に税を徴収できないようにした。それが、近代民主主義の発端となったのである。君主国と国民国家では、税に対する根本思想が違うのである。そこから、税制度は考えられなければならない。しかし、日本では、まだ、税は、御上に召し上げられる物という意識が高い。それは、与えられた民主主義に甘んじているからである。
司法以外に、司(つかさどる)るという言葉が使われているのが司祭である。これは、法の意味を考える時に重大な参考となる。司るという言葉の意味は、@官職として担当する。役目として担当する。A支配する。統率するとある。(「広辞苑」)この事からわかるように、社会、制度を司る手段には、司祭と司法があったのである。
これは、法の根源が、神や神に同等の存在に発することを意味している。
法が成立する以前には、法の果たす役割を何が果たしてきたかと言えば、それは、神の権力や君主の権力である。では法が成立した当初の役割というのは、何か。それは、裁きである。つまり、法以前に裁きがあったのである。なぜ、神や権力者が法が成立する以前に、法の役割を果たしえたのかというと、絶対的な力を背景にしていたからである。それが、神の権威であり、君主の権力である。逆に言えば、権威を失墜させれば、権力を失えば裁きは効力を失うし。また、神を司る者や権力を掌握する者の恣意(しい)に委ねられる。
確かに、法の根源には、裁きがあり。しかし、法の根源であっても裁きは、結果であって本質ではない法の根源は、裁きを行う主体であり、根拠なのである。それは権力に由来する。つまり、権力者の有り様によって法の本質は違ってくる。
法が確立する以前では、東洋では、法よりも徳、刑よりも礼が重んじられた。権力者や支配者達は、無礼だと言って無法を働くことが許されたのである。徳や礼は、明確ではない。それでは、個人の権利を保障することは不可能である。故に、法による支配に取って代わられたのである。
国民国家を成立することによって法は、国民のものとなった。その上での、法治主義であり、遵法である。国民国家が成立する以前は、法は、権力者が人民を支配するための道具に過ぎなかったのである。それは、基本的に取締法であり、べからず法である。つまり、何々をしてはならないが主である。しかし、国民国家の法は、まず、国民としてあるべき事、国家としてあるべき姿が前提となる。それが近代法の根本精神であり、憲法なのである。又、近代以前と、近代法の根本的違いなのである。
誰も守ろうとしない法は、維持することはできない。だからこそ、法を守らせるためには、何等かの力が働かなければならない。一つは、国家権力による懲罰に対する恐怖心からくる力である。今一つは、国民一人一人の遵法精神、倫理観から生じる力である。そして、その力の根源は、権力者の意志である。
法が成り立つのは、裁きにあるのではない。法を成立させている意志によるのである。それは、権力者、主権者の意志である。権力者、主権者が君主・独裁者ならば、法の本質は、君主・独裁者の意志である。権力者、主権者が国民ならば、法の根拠・法源は国民の意志である。この点をよく理解しないと、国民国家における法の本質と全体主義国、独裁主義国の法の本質とを、取り違えてしまう。
そして、近代、市民革命は、法の精神を確立することによって法の依って立つ所を国民に置き換えることだったのである。その過程で、法は、君主を擁護する法と国民を擁護する法とが厳しく対立した時期があったことを忘れてはならない。
日本人には、その感覚が欠如している。
司法過程において、重要な要素は、罪と罰の関係である。これは、法とは何かという基本的要素にも関連する。つまり、人を裁くという法の側面に関係するからである。罪が確定すれば、罰は自動的に決められるのか。それは、人を裁く事の意味を明らかにすることでもある。そして、この罪と罰との関係は、法のもつ暴力性を如実に発揮するものはない。罰というのは、強権的暴力が背景にあってはじめて発動される。
冤罪事件は、この法の暴力性を白日に曝す。無実の罪の人間に罰を科すことがあるのである。たとえそれが国家的過失だとしても国家が犯す罪であることには相違ない。たとえ、過失事故であっても罰を免れないようにである。
罪は、法となり、罰は刑となる。つまり、法の根底にあるのは罪であり、その罪の軽重は罰として測られ刑によって実体化される。天の理によって天罰が降るという発想である。これは、万国に共通している。だから人を罰することができる。誰でも自分が正しいという確信がなければ、人を裁いたり、況(い)わんや、罰したりはできない。罪を罪として確定する天の意志のようなもの、神意のような普遍的なものを何等かの形で前提としている。
それがイスラム教国では、「コーラン」であり、「ハディース」であり、「イジュマー」であり、「キヤース」が法源となる。即ち、「神の教え」であり、「予言者の言行」である。また、現実の問題は、イスラム法の権威であるウラマーが、法源に基づいて法を解釈し、その中でも権威ある者が、ムフティ−とよばれ、「ファトワー」とよばれる勧告を出す。その意味で、イスラム法は、成文法ではない。(「法律の世界地図」21世紀研究会編 文春新書)この様に、法を正当たらしめる法源は、自己を超越した普遍的、絶対的存在に求められるのである。それが何を規定しているのが本来憲法なのである。国民国家の多くは、その普遍的、不変的真理を国民の意志においている。
罪を裁くのか。法を解釈するのか。罪を裁くとしたら、罪とは何か。罪をいかにして認識し、判定するのか。誰が犯罪を証明するのか。犯罪の立証責任。
法は罪を作る側面がある。つまり、法治国家においては、法がなければ、罪は成立しないのである。これが宗教的罪、道義的罪との大きな相違である。
法は、過程である。法の過程には、立法過程、司法過程がある。又、法の実現も過程である。法は、事実の認定、適用すべき法の確認、そして、懲罰の決定という過程を経て実現する。
何をもって罪とするのか。法があって罪があるのか。罪があって法があるのか。法が成立する前提は、罪となる行為の存在事実である。罪となる行為が存在しなければ法は、成立しない。理屈の上ではそうである。
かつて、共産主義国には、売春取締法がなかった。それは、共産主義国が、売春を容認しているからではなく。売春という行為そのものが共産主義国にはないと言う建前があったからである。これなどは、犯罪そのものを認めていないために取り締まる法を制定する必要がないという事なのである。つまり、理念上、罪がないのであるから、罪を犯しようがないという論理である。
この場合、罪となる行為を罪として認識していないのである。後で考えると、現実に、売春という行為は存在する。しかし、理念上、共産主義国には、売春という行為は存在しないこととなっている。それ故に、罪となる行為は存在しないと言うのである。これは、良くある置き換えである。例えば、乱暴によってあいてを傷つけたり、場合によっては死に至らしめても、乱暴ではなく、指導だと強弁する行為である。この場合も、事実を事実として認定することが第一になる。その場合、どの様な行為が罪となるのかを画定することである。
罪が確定しても罰が確定するとは限らない。罰を確定するためには、更に、動機や過失、神的条件、再犯性などが考慮される。
法は権力の側のものなのか。権力を抑止する側のものなのか。古来、法は、常に権力者の側にあった。特に、東洋においては、法は、人民を統治するための道具・手段に過ぎない。権力者は常に、超法規的存在であった。この場合の罪とは、権力に対する罪なのである。
国民国家が成立し、被支配者である国民が権力者になってはじめて、法は、国民を守るために制定されるようになった。つまり、護民が目的となったのである。それでも、法は、権力者が国家国民を統治するための手段、道具であるという本質に変わりがあるわけではない。ただ、国民国家において、法は、国民の権利から派生し、権利を擁護するものであることに相違はない。又、それが三権の分立を成立させた要因でもあるのである。故に、三権の分立機構は、法を成立すると同時に、法を監視し、管理するための機構でもあるのである。
三権分立基本は、欧米流の法治主義である。
法治主義というのは、法による支配を明確とすることである。つまり、法の下の平等である。法には例外はない、たとえ権力者であっても法を犯せば、法によって裁かれるという事を明らかにしたのが法治主義である。その法治主義を基礎として三権の分立は成り立つ。
ただ、欧米の法治主義にも二種類ある事は、以外と知られていない。すなわち、成文法の世界とコモン・ロー(判例法)の世界である。
これは、法の世界でなく、会計をはじめ、あらゆる世界に及んでいる。
国民国家の法は権利に由来するのである。
国民国家においては、国家も法人である。国家にも権利と義務がある。国家の権利と義務は、国民の権利と義務の裏返しにある。即ち、国家の義務は、国家の内外の的から国民の生命と財産を守ることにある。その為に、国家は、国防、治安維持上の権利、徴税の権利、教育の権利が与えられているのである。また、自由主義下においては、所有権が保障されていなければならない。そして、この所有権が刑法上の根拠の重要な一つとなるのである。
成文法の生きる日本人とって法は、あらかじめ顕在化したものである。つまり、明確に事前に示されたものでなければならない。日本人にとって法は、常に権力者の側にあった。しかし、諸外国においては、必ずしも法はあらかじめ決められているとは限らない。特に、判例法を核として国においては、法は、あらかじめ成文化されているものだけを指すのではない。それは、法が必ずしも権力者の側にあったものではないことに由来する。英国においては、法は、権力者から人民を守る過程、護民的目的で生じた。それ故に、法曹界も反権力的な立場が貫かれている。それ故に、法は、権力者によって与えられるものだけではなく。司法の過程で形成されるものなのである。その根源は、コモンセンスを前提とした、コモンウェルスである。それ故に、陪審制度が成り立つのである。成文化された法によらず、人民の意志に基づくという裁判の形式には、人民裁判もある。ただ人民裁判は、一つ間違うと、リンチに陥る。前提となる法の基盤が明確でないからである。
また、容疑者、被疑者には、いついかなる場合でも、弁明の機会を必ずあたえ、弁護士、弁護人を必ず付けなければならないう思想にも繋がる。これは、なにも裁判に限ったことではない。この思想は、古来日本にはなかった。日本での裁判は、お白州において奉行が弁明の機会も与えずに一方的に行うものである。それは裁きの場であっても裁判所ではない。必然的に検事もいない。
法は、常に、権力を守るように作用する傾向がある。なぜならば、法の効力は、国家権力によって発揮されるからである。つまり、法は国家権力に依存している。この様な方の暴力から人民を守るために、弁護士が生まれ、法曹界が形成されたのである。この事を忘れてはならない。国民国家における法は、人を裁く目的によって発生したものではない。
法の番人という言葉がある。法曹界の人間は、法の番人であっても、法の司祭になってはならない。法が適正に活用されていることを見張るのが法律に携わるものの本来的な役割であり、法曹界の人間が、法をもって人を支配する法の司祭になれば法は、無法者に支配されることになるのである。かつてのナチスドイツの法曹界のように、独裁者を擁護するためだけの道具になってしまう。
難解な言葉を弄し、専門家でしかわからないような論理や手続を駆使して、法をも専門家の専有物にしてしまった時、法治主義は終焉する。法の精神が失われるからである。その時、法曹界の者達は、法の司祭となってこの世を支配することとなる。それは、民主主義ではなく祭司国家である。
反逆罪や政治犯は、この様な権力的な要素の名残である。ただ、今日でも反逆罪や政治犯は存在する。それは、その社会を成立させている基盤を破壊しようとする勢力に向けられたものである。
予防法的な要素の高いものであり、制定や適用には非常な注意が必要であることは、言をまたない。
法ありきなのか。法は、司法を通じて顕現化するのか。つまり、法は、顕在化したものなのか。それとも潜在化したものなのか。この事は、司法制度の根幹に関わる問題である。
よく言われるのに、法には、やってはいけないことは書かれているが、やっていいことは書かれていないと言うことである。これは会計制度などにおいて顕著に現れる。それが時として、創造的会計というものを生み出すくらいである。
法には、道徳に根ざすものがある。法規、権利と義務に依るものがある。法は、取引や契約、決定に基づくものがある。法には、社会や集団の規律や秩序の維持を目的としたものがある。風俗習慣、仕来りや掟を土台としたものがある。更に、状況によるものがある。ただ、これらの要素は、一対一に関係付けられるのではなく、重複的な場合もある。例えば、道徳的な基準である婚姻や葬儀関連の要素と風俗習慣、伝統的価値観や仕来りと重複した結婚や葬儀の法を形成するような例である。
道徳に根ざすものは、基本的に宗教的戒律や社会的通念を土台としている。我々は、罰を受ける時、道徳に根ざす行為に対しては、比較的容易に受け容れることができるが、道徳に根ざしていないと思われる行為に対する罰を受け容れるのは、少なからず抵抗がある。法は、社会的正義を実現するものだという意識が働いているからである。
犯罪には、社会通念上、犯罪性が明白な行為と犯罪性が明白でない行為とがある。
犯罪性が明白な行為というのは、例えば、殺人、強盗、窃盗、傷害、暴行、強姦、拉致、監禁、器物損壊といった客観的基準が設定しやすい犯罪である。この様な犯罪というのは、明らかに範囲がある場合を指して言う。犯罪性というのは、反道徳、反正義、反社会である。そして、過失ではなく。故意で、ある事が明白である場合である。我々が犯罪とするのは、この様な犯意が明らかな者を指しているが、では、犯罪を犯した者にとって犯意が明確かと言えば必ずしもそうではない。よく心神喪失によって犯罪を犯した場合、犯罪が成立しないかの如く弁護する者がいるが、もともと、冷静に人を殺す者がいたとしたら、それ自体異常なのである。精神が錯乱したから異常で冷静だったから正常だなど言う基準は当て嵌まらないのである。我々が言う客観性というのは、そこで行われて行為そのものを第三者が見てどう思うかであって、当事者から見てどうかの問題ではないのである。つまり、事実の認定を指して言う。そして、社会的通念というのは、その社会の慣習や伝統的価値観を指して言うのであり、特に、その場合、その社会における宗教の影響が大きいのである
それに対して、犯罪性が明白でない行為というのは、過失の様に、主体性や道徳性の薄い行為である。道義的に許されない行為を行えば、たとえ、違法でなくても犯罪だと認識する場合がある。しかし、礼儀に反したかにと言って犯罪だとまでは思わないのではないか。例えば、選挙中に友人を招いて饗応をして選挙依頼をした場合、それまでの社会通念上当然の儀礼だと思う者がいるかもしれない。その場合、自分が選挙違反を犯したという自覚が乏しい場合が多い。
また、同じ罪でも、事故のような過失が認められる場合がある。しかし、その場合でも罪は罪である。確かに、故意に人を轢いたのと、過失で人を轢いたのとでは、罪に対する意識が違う。たとえ、過失が認められたとしても相手に与えた損害は、損害として裁かれなければならない。
また、詐欺やペテンのように、犯罪性の定義が明瞭でなく、立証を必要とされ、条件付けられる事例もある。中には、騙された者の方が悪いと開き直る者がでてくることすらある。何が犯罪なのかは、明確に定義するのが難しい。選挙違反などの例もこれに準じている。
名誉毀損、猥褻行為は、親告によって成立する犯罪である。つまり、親告罪である。これらは個人の権利から付随的に派生し、成立した罪である。この場合は、罪は主観の問題だという事になる。
麻薬や酒、タバコ、賭博は個人の嗜好性の問題であり、個人の自己責任に帰す問題であると言う主張がある。しかし、麻薬や賭博が窃盗や暴行という犯罪に結びつきやすいことは容易に理解できる。また、酒やタバコが体に害があることも明白である。ただ、だからといって無闇に取り締まることはできない。それが国民国家、法治主義における原則である。この様な物質に対し、それを規制し、取り締まるのは、国民的な合意に基づく。この様に、国民的合意を必要とするものには、環境に関係した物も含まれる。いずれにしても、法的な根拠に基づかずにこれらの行為を取り締まることはできない。
反社会法とは、その社会の秩序、公序良識を乱す行為に対する法である。猥褻罪、愉快犯、脅迫、軽犯罪などがその例である。ここの罪そのものが、重大な犯罪でなくとも軽く見ると、重大な犯罪に繋がったり陰に重大な犯罪が隠されていたりする危険性がある。特に、この犯罪の特徴は、プライバシーや言論の自由に抵触している場合が多く、最も、思想性を帯びやすい。しかし、実体は、個々の人間の罪や欲、特にも金銭欲にかられた動機によるものが多い。その点をよく見極めた上で、国民的合意を取り付けることが重要なのである。規律は、些細な妥協から崩壊することが多い。誰もが、嫌われるようなことはしたくないのである。
権利や義務から派生した法には、選挙や教育に関連した法が良い例である。又、国防や税に関した法も同様である。よく法と道徳や正義を同義として捉える者の中には、取り違えている者がいる。
風俗習慣を基にして形成される法には、婚姻制度や家族制度などに関連した法がある。ただ、馬鹿にならないのは、判例法の基礎、基本は、慣習法だと言う事である。我々は、法というとついつい高尚、高邁な理念、精神を思い浮かべがちであるが、法の根源は、本来、慣習、風俗習慣、風習と言った日常性の延長線上にある。つまり、法の原形は、掟なのである。細々とした生活の決め事が法を作り上げたのである。日常的に起こる些末な揉め事や対立は、放置すると、重大な紛争に発展しかねない。特に、男と女の仲は、一筋縄ではいかないのである。ここに異邦人や他所者、また、異民族、異宗教の者が絡むと収拾がつかなくなる。ロミオとジュリエットの話を出すまでもない。だからこそ、法が必要なのであり、法が作られたのである。
戦時法や軍法というのは、国民の権利や義務の一時停止も含まれている。国防というもの、国家というものをどの様に考えるかによって違ってくる。国家や法に幻想を抱くのは、間違いである。国家は、正義でも、道徳でもない。機関であり、暴力装置なのである。ただ、それを正しく使うかどうかは、その国の国民の意志なのである。
この様に、何を罪にするかは、その社会の持つ合意や認識によるものであり、普遍的、絶対的な基準があるわけではない。それ故に、法の単位は、国家なのである。
又、法は、契約の思想を基礎として成立している。その契約の思想の根本は、一神教を土台とした信仰である。
一神教徒にとって法は神との契約であり、人と人との契約ではない。それ故に、絶対的なのであり、法は順守されると考えるのである。それは、人を信じるのではなく。信仰を信じるからである。そうなると、たとえ異教徒でも信じる神を持つ者は、信じられても、無神論者は、信用できないという事になる。
一神教徒にとって神との契約に基づく法は、戒律に準ずるものであり、ばれなければ違反しても良いという類のものではない。それ故に、裁判の際、聖書に手を載せて宣誓するのである。他人が見てようと、見ていまいと、法は、守られなければならないのである。それは、嘘をついてはいけないといった次元の話ではない。また、人と人との信頼関係に基礎を置いたものでもない。元々他民族、他宗教が混在し、風俗習慣の違う地域では、人と人を信じられる、又、懲罰によって信じられる状況ではないのである。それ故に、神が仲立ちをし、神との契約を介在させることによってお互いを信じる以外にない。それが契約の思想であり、そして、法の本質なのである。
白人主義の本性とは何か。それは、法治主義である。その法に対する認識、思想こそが、白人主義の根本にある。そして、その法の正当性を保証しているのが憲法である。だからこそ、憲法は、建国の理念たりうるのである。憲法が、ただ、理想や理念を記述した物にすぎないのならば、憲法は、何の実効力もない。憲法は、法によって立証されることによって実体を持つのである。
この様な憲法があるが故に、権力の分立が可能なのである。憲法がなければ権力は分裂し、国家は統制を失うであろう。憲法はただの理念ではなく、制度的裏付けでもあるのである。
ただ一神教のような神の契約を前提としていない日本やアジアの国々は、この基盤が脆弱である。憲法や法の本質が理解され、確立されていないからである。日本では、憲法や法は、国家の人民の規律や秩序を維持するための便宜的な道具に過ぎないように錯覚している。法の尊厳や権威が失われれば、法はたちどころに効力を失ってしまう。法が守られているのは、私的な倫理観に頼らざるをえないからである。その道徳観も信仰によって裏付けられたものではなく。公共道徳という極めて曖昧な概念に基づいた物にすぎない。つまり、日本の三権分立は、極めて脆弱な基盤の上に立っている。戦前の軍部のように、無法な勢力が台頭すると忽ち、風前の灯火となるのである。
日本人は、法を所与の原理、絶対的原理と捉える傾向がある。しかし、法は、相対的なものであり、道徳や自然の法則とは違う。その証拠に、戦争法は、平時と有事では、違うのである。軍法と一般社会の法とは、適用に違いがある。この様に、法は、相対的なものである。
日本人は、法をあらかじめ書かれているものとして捉える傾向がある。また、日本人は、法を正義そのものだと考えている節がある。つまり、法は、神聖不可侵な条理だという考えである。つまり、絶対的なものだという認識である。その反面において、日本人は、法をただの取り決めであるように思っている傾向がある。
それは、立法行為や司法行為によく現れている。日本人にとって、予算は立法行為ではない。なぜならば、予算は、抽象的な概念ではなく、現実的な事象だからである。日本人にとって法というのは、何々をしてはならないと言うものであり、破れば罰せられる類のものを指しているからである。
予算は、法かといえば、日本以外の国の多くにおいては、予算は法である。予算を法とする国においては、予算の制定は、立法行為の一つである。
国家財政の財源は、税である。故に、君主国では、税は、君主の国家統治の目的のために使われる。それに対して、国民国家においては、国民の生命財産を擁護し、国民生活の福利の目的のために使われる。故に、予算は法なのである。
かつて、税を君主の為に徴収した。故に、多くの反乱が税を起源として起こっている。この事を忘れてはならない。税もまた法なのである。そして、税と財政程、国家理念を具現化するものはない。戦前のように軍事費に財政の三分の二を費やされれば、国民生活など成り立たなくなるのである。それでは、軍隊のための国家と呼ばれても仕方がないのである。(「財政のしくみがわかる本」神野直彦著 岩谷ジュニア新書)
法は正義のような正義でないような、又、絶対的なものであるような、相対的なものであるような、実際的なものであるような、抽象的なものであるような、何もかもが中途半端で曖昧な捉え方をしている。その反面において、条文の解釈、訓詁学的なものになってしまっている。
そして今、更に、陪審員制度なるものを導入しようとしている。無謀である。法に対する概念が固まらない内に、ただ欧米の制度を真似しただけの制度を導入するのは、乱暴な話である。無法である。なぜ、陪審員制度を導入する必然性があるのか。又、何を裁かせるのか。その理念すら国民に対し、明確にされていないのである。
参考文献
「法律の世界地図」21世紀研究会編 文春新書
「法思想史」田中成明・竹下賢・深田三徳・亀本洋・平野仁彦著 有斐閣Sシリーズ