かつて中国の天安門広場で、民主化要求をした学生達が大弾圧を受けた。アメリカは、民主化を旗印にしてイラクへ侵攻した。イラクを降伏させたアメリカは、その民主化という旗印故に、苦境に立たされている。
日本の政党は、自由と民主主義が大流行だ。かつての社会主義政党の牙城だった社会党ですら社会民主党と、民主主義を標榜している。又、自由民主党は然りだが、野党の第一党は、それこそ民主党である。今や、民主主義は、聖なる呪文にすらみえる。
民主化という言葉は、社会主義国を自由主義化する際にも、大々的に使われたが、では、何が民主化され、それによって世の中はどう変わったのかは、あまり明らかにされていない。ソビエト・ロシアは、民主化されたことによって、どこがどう改善されたのか。又、本当に民主化されたことでよくなったのか。
民主主義という言葉は、正義の御旗。民主化すれば、どんな難問でも解決できるように言われている。市場原理主義者が全てを市場に委ねれば万事うまくいくと言っているようにだ。
しかし、それは民主主義に対する幻想に過ぎない。市場を過信してはならないようにである。
確かに、多くの人達は、社会主義に対する幻想を画いていた。しかし、現代人は、どうか。同じ様な幻想を民主主義に抱いてはいないか。
かつて、社会主義者だって民主化を旗印にしていた時はあるし、日本以外の国では、今でも民主化を叫んでいる社会主義者はいるのだ。
自由だってそうだ。ベトナム戦争に反対した若者達は、自由になりたいと叫んでいたのだ。
民主主義にだって悪い所、醜い所はある。今だからこそ、社会主義を見直すことにも意義がある。そうしなければ、真の民主主義なんて見えてきやしない。
大体、民主主義の意味なんて考えたことがあるのか。民主主義、民主主義と声高に言う奴に限って民主主義のなんたるかを知りやしない。ただ、お題目のように唱えているに過ぎない。
我々は、もっと用心深くなる必要がある。賛成するにせよ、反対するのにせよ。民主化、自由、平等と叫ぶ背後にある真の目的を見極めてから、自分の進むべき道を明らかにする必要があるのである。
我々は、民主化、民主化という。民主化することによって国を自由にするという。しかし、肝心の民主主義とは何かといわれると、これと言って民主主義の原点となるような思想、哲学ない。あると言えば、アメリカ憲法や独立宣言、フランス人権宣言のようなものである。
民主主義は、制度的思想である。制度的思想というのは、言葉で書かれた思想ではなく。制度によって書かれた思想だと言うことである。
いわば民主主義を標榜する国の数だけ、民主主義という思想があると言っても過言ではない。それが民主主義である。だからこそ、社会民主主義やキリスト教民主主義、イスラム教民主主義、民主独裁主義だって成り立ちうるのである。じゃあ共和主義は、民主主義か。これすら微妙である。
つまり、我が国は、この様な制度に則って民主主義を実現したと宣言すれば、民主主義という思想は成立してしまう。後は、どれだけの国、どれだけの国が承認したかに過ぎない。
制度とは、歴史的産物である。制度は、文化的なものである。つまり、人間の営みの上に制度は成り立っている。この点を忘れると制度の本質は理解できない。制度は、唯物的なものではない。制度は機械的なものではない。確かに、制度には、仕組みや、機構がある。しかし、それは、所謂、機械的な、物質的な、無機的なものではない。器質的、生物的な、有機的なものである。組織は、生き物なのである。
民主主義が制度的な思想であり、制度が歴史的産物であるというならば、民主主義も、又、歴史的産物である。同様に、民主主義は文化的産物だとも言える。
民主主義は確かに、制度的な思想である。しかし、それは無機質なものではない。多くの人達は、法や制度というのは、非人間的な、唯物的、無機的な存在だと錯覚している。それは、人間をただの物質に過ぎないと考えるのに似ている。確かに、人間の肉体は、物質的な物である。しかし、人間の肉体は、物質的な部分だけで動いているわけではない。何よりも人間は生きているのである。その生きているという部分、生命に対しては、まだ謎だらけなのである。その意味でこの世界の半分は、謎なのである。
民主主義という思想の持つ不明瞭さもそこにある。つまり、民主主義は、制度的な思想、制度によって書かれた思想と言いながら、一番肝心な部分は明らかにされていないのである。
それが文化である。議会制民主主義にとって議会が命である。しかし、議会、本来の機能、即ち、討論による意思決定という機能が必ずしも機能していないのである。
会議の効用の一つは、自分の意見、考えを、討論を通じて変えられるという事だが、議会制民主主義では、代議員という事でこの効用が通用しない。つまり、公約によって代議員は、自分の意見が拘束されてしまう。こうなると、議会とは何かと言う事になってしまう。選挙というのは、政策を選ぶのか、人を選ぶのか、そこのところが不明瞭なのである。(「日本の統治構造」飯尾 潤著 中公新書)
つまり、議会制民主主義といっても議会さえ開けば、議会で決めれば民主的なのかという事になるし。じゃあ選挙はどうだと言うことになる。選挙さえやれば、選挙を通して決めれば、民意は反映できるのか。
民主主義の本質は、結局、国民意識にある。国家の文化、国民の民主主義の意識によるのである。いくら民主主義的な制度を作ってみても、国民の意識が民主主義的でなければ、民主主義は成立しないのである。逆に言えば、体制が独裁的であったとしても国民の大多数が民主主義を信奉し、それが保障されていれば、必ずしも独裁主義的だとは言えない。ただ、基本的に国民の諸権利が保障されない体制では、いくら国民の意識が民主主義的であろうと、国家の意思決定が民主的に為されることはあり得ないという事である。要するに、国民の意識が民主主義制度を築き上げ、制度が民主主義を保障しているのである。そして、それは多分に歴史的な要素に支配されるのである。
ある意味で民主主義は、希有な存在である。
ともすると、我々は、民主主義を当然の原理、所与の原理、自明なものとして受け容れる傾向がある。しかし、民主主義が成立するのは、奇跡的だとも言える。それは、絶対的権力を否定し、尚かつ、それを保障する制度を同時に、かつ短期間に築き上げる必要があるからである。その証拠に、近代以前の国家体制においては、圧倒的に非民主主義的体制、反民主主義的体制が支配的だったのである。この事を理解していないと、真の民主主義を実現する事はできない。
民主主義が制度的思想だと言うことは、民主主義の定義は、制度定義によって為される。制度的定義というのは、要件定義であり、概念的定義ではない。つまり、要件定義とは、具体的な要件による定義をいう。即ち、国家であるならば、裏付けのない言葉や概念によって定義されるのでは、法や法的手続に沿って定義される法的正義を言うのである。
その国の国民が民主主義を手続的に定義するのである。それが民主主義である。つまり、民主主義は手続によって書かれた思想とも言える。手続的な思想とも・・・。
こうなると民主主義は制度である。制度そのものである。