貨幣経済

貨幣経済

 貨幣経済も市場経済も物が売れないと成り立たない経済社会である。自給自足社会では、物が売れなくても生活は出来た。つまり、何等かの財を得らなければならないと言うのは、生活を成立させるための絶対的前提でしなかったのである。何かを売って貨幣所得を得るというのは、あくまでも補助的手段に過ぎない。しかし、今日の社会においては、何かの財を売って所得を得ることは、生活を成り立たせる為の大前提となる。
 つまり、貨幣経済は、市場取引を前提としている。市場価値は、貨幣価値であり、市場において貨幣価値は、取引によって顕在化する。
 また、現代人が生きていく為には、貨幣所得は大前提である。そして、貨幣価値に、更に、時間的価値が加わったのである。

 昔は、程々の資産が在れば一生食べていけた。
 しかし。現代ではなかなかそううまくはいかない。それは、経済的価値に時間的価値が加わったからである。
 近代貨幣経済が確立される以前は、一定の所得があれば生活していくのに困らなかった。それは、商売をしていく上での前提でもあった。しかし、現代では、この前提は成り立たない。物価が上昇するだけの所得を常に付け足していかなければならない。その為に、小商いの店は淘汰されてしまう運命にあるのである。
 現在の経済体制は、一定の水準に社会も、家計も、企業も、保つと言う事が困難な時代であることを前提としなければならない。つまり、一定ではなく、変動を前提とした経済体制なのである。それが経済の名目と実質との基準の違いを生み出している。名目は、一定を前提に、実質は変化を前提として成り立つ基準なのである。そして、経済の実態は、実質的水準にあるのである。
 故に、人を雇えば、年々、給料を上げて行かざるを得ないのである。つまり、市場の変化に企業内部を合わせていかなければならないのである。しかも、これらの上昇分は、複利である。

 市場経済を構成する要素は、負債、資本、収益である。この市場経済を構成する要素の基本的構造は、内にあって、固くて、基になる部分と、外にあって、柔軟、変動的で、附加された部分の二つの部分から構成されている。
 負債は、金利と元本、資本は、資本と配当、収益は、費用と利益の二つの部分からなるのである。
 また、費用も、短期的に分析すると同様に内にあって固くて基になる部分と外にあって変動的な部分に区分される。
 内にあるとは。内に所属することを意味し、外にあるとは、外に所属することを意味する。固いというのは、一定という意味でもあり、変動というのは、可変的という意味でもある。
 この一定と可変的という構造が経済に重大な働きをしている。

 この変動的部分、可変的な部分は、附加された価値から成る。付加される価値というのは、時間的な価値であり、尚かつ、外部にあって附加される価値である。
 付加される価値を生み出す要素は内部にあってもそれを実現するのは、外部に表出された時点である。
 附加される価値は、時間的価値である。時間的価値が減少すると附加される価値は失われる。

 この変動的な部分が加わったことにより、経済を一定に保つことが出来なくなったのである。
 良い例が、所得である。所得は、物価が上昇する分だけ加算され続けなければならない。故に、経済の水準を一定に保つと言う事は、現在の市場の仕組みでは、出来ないのである。つまり、経済は、上昇し続けることを前提としている。

 負債や資本、収益を考える上で、減価償却が鍵を握っている。しかも、この減価償却は資金の動きにも重大な影響を与えている。
 減価償却費というのは、資金流出のない費用という見方があるが、これは間違いである。減価償却費は、資金の流出を伴っている。ただ、その資金流出が期間損益の費用という形で認識されないと言うだけである。つまり、減価償却費の相対勘定、即ち、実際に費用流出を伴う勘定が認識されていないと言うだけである。では、その相対勘定は何かというと、資本勘定と負債勘定である。即ち、減価償却費として処理されている取引は、直接、負債勘定や資本勘定から差し引かれていることを意味する。これが、会計上、資金の動きを見えにくくしているの原因である。
 減価償却に対応するのは、長期資金の動きである。つまり、基本は、長期借入金の元本の部分であり、資本である。長期借入金の元本というのは、負債と見なされるが限りなく資本に近い性格を持っている。
 翻ってみると資本というのは、長期借入金の元本が変質した部分とも言える。この長期借入金が負債の基幹を形成し、負債の性格を規定している。 長期借入金がなぜ、資本化したのかと言うところに鍵がある。
 長期借入金の元本は、本来、固定的で元となる部分である。長期借入金は、固定負債であり、相対する部分は、固定資産である。固定資産は、費用性資産、即ち、償却資産と非費用性資産、即ち、非償却資産からなる。非償却資産の大部分は土地(不動産)によって構成される。固定資産とは、生産手段でもある。
 借り手側からみると、返済することが出来なくなった負債、あるいは、貸し手側からみると返済されては困る負債が滞留し、資本化したとも言えるのである。金融危機になるとこの負債の曖昧な部分が企業活動に対して負の作用を及ぼす。それが返済圧力である。
 実際のところ、金融危機になるとこの固定負債に対する返済圧力がかかる。それは、固定負債を裏付けているのが固定資産だからである。金融危機は、この固定資産の価値の収縮に基づいて引き起こされる場合が多い。資産価値の上昇によって梃子によって長期資金を調達して新たな投資をする。その投資した資金を回収する以前に資産価値の下落が起きると固定負債に対する返済圧力がかかるのである。

 金融機関は、資金を集めてそれを運用することが基本的な機能である。つまり、金融機関は、絶えず附加された価値を産み続けなければならない宿命にあるのである。そうなると資金量は、金融機関の実力を必ずしも現しているわけではない。資金量は、資金が効率よく活用されている時は、成長や収益に寄与するが、資金の運用先が見つからなくなり、効率が低下するとかえって負担となる。
 金を預かっているだけでは、金融機関は成立しない。預金というのは、金融機関の借金、負債なのである。この点を忘れると現在の市場経済は理解できない。
 つまり、金融機関は、常に、効率的な運用先を捜すか、作り出さなければ存続できないのである。手っ取り早く運用先を見つけだすとしたらそれは自前の市場である金融市場である。金融市場は、資産価値を梃子にして資金の表面的価値によって利鞘を稼ぐ。
 本来、市場価値は、貨幣価値は、取引によって顕在化する。それを市場を介さずに内部取引によって資産価値が上昇したように見せ掛けるのである。それが、含み益による未実現利益の顕在化であり。時価主義の実態である。
 しかし、それは、蛸が自分の足を食べているようなものであり、実体に乏しい取引なのである。

 問題は、長期借入金、固定負債の返済の処理をどうするかである。

 経済の働きは、合目的的なものである。ところが経済は、その本来の目的を喪失してしまっている。
 経済の目的は、国民を豊かにすることである。豊かな社会とは、必要な財がゆとりを持って公平に社会の隅々まで分配されている社会である。
 大切なのは、公平に分配されているという事であり、いくら豊富に財があっても偏りや格差が大きければ、豊かとは言えないのである。
 公平というのは、同等と言うのではない。つまり、人それぞれおかれている前提条件も違い、要求するものも違う。故に、全体と個との調和がとれる社会を豊かな社会というのである。
 また、豊かさの前提は、生きていく上で必要な物資の最低必要量の確保である。

 豊かさというのは、希少価値の高い物を数多く所有している社会だという錯覚がある。いくら希少価値が高く、贅沢な品物をたくさん持っていたとしてもその日の生活に事欠くようでは豊かとは言えない。
 猫に小判と言うが、猫は小判のために殺し合いをしたりはしない。猫と人間、どちらが真の価値を知っているのか。こう考えるとわからなくなる。

 昨今、豊かさを貨幣価値で測り、効率性で判断しようとする傾向が強い。金さえあれば豊かだと思っているのである。そして、そう言う価値観が蔓延している。そして、貨幣的に効率が良ければいいと生産性だの効率性だののみを基準にして社会の豊かさを推し量ろうとしている。
 しかし、豊かだという社会は、ある意味で、非効率な社会である。例えば、人々は、金銭的に豊かになると効率的に作られた大量生産された商品には目もくれなくなる。それこそ、手作りの物がもてはやされ、ブランドが価値を持ち始める。つまり、効率性は、豊かさの基準にはならない。

 では高級な物、希少な物が多ければ、豊かな社会の基準となるのか。
 貧富の差が広がると富裕層は、高級なレストランを求めるようになる。その一方でその日の食事に事欠くような世帯も増える。格差こそが高級品や高級レストランを数多く生んでいるのである。貧しいと言われる国にも金持ちはいる。むしろ、貧しい国の金持ちの方が豊かだと言われる国の富裕層よりもずっと贅沢な生活をしている。貧富というのは相対的な物であり、貧富が格差を生むのではなく。格差が貧富を生むのである。
 貧困は、社会が貧しい事だけが原因なのではない。多くの貧困は富の遍在が原因しているのである。分配の問題である。貨幣経済が有効に機能していないから富の偏在が生じるのである。そして、無駄や、浪費もである。
 
 小判の価値という物の本当の意味を人間は理解していないからである。小判、即ち、貨幣の持つ意味や機能も理解せずに、したり顔で経済を語ったり、教えたりするものがなんと多いことであろうか。

 貨幣経済で大前提となるのは、貨幣の働きである。貨幣の働きがおかしくなるから、貨幣経済はおかしくなるのである。

 貨幣は、交換価値を数値的に表象した物である。

 貨幣によって生じる負の価値と、貨幣そのものの価値と、正の価値である。正の価値というのは、貨幣が表示する現物であり、貨幣の負の価値というのは、貨幣が表示する価値である。つまり、価値そのものと、価値するものと価値されるものである。

 貨幣は、認識上の問題である。対象と自己との関係から生じる。自己は対象を認識する上で対象への働きかけと、自己との働きかけの二方向の作用によって対象の意味を認識する。つまり、貨幣の働きは、貨幣が対象に対する働きかけと貨幣に対する貨幣の働きかけの二方向の作用がある。

 貨幣の働きには、認識上の働き、作用反作用がある。作用反作用を言い換えると正と負、陰と陽である。

 貨幣は虚であり、陰である。貨幣は抽象的なものであり、具象性はないか、あっても象徴的なものでしかない。

 この様な貨幣の働きを知るためには、近代の貨幣の起源を明らかにする必要がある。
 貨幣は、近代に入って著しく変質した。つまり、実物貨幣から信用貨幣へと変質したのである。この信用貨幣への変質が近代貨幣経済の枠組みを形成したのである。

 紙幣というのは、最初は、借用証書なのである。最初は、返済もされたし、金利もついていた。ただ、それが、「ある時払いの催促なし。しかも、返済期日もなし。」に変質してしまったのである。つい最近まで、つまり、ニクソンショックまでは、催促なしでもなかった。催促すれば、金に変えてもらう事もできたのである。結局、不兌換紙幣になると催促も出来なくなってしまった。
 つまり、紙幣というのは、返済する必要のない借用証書なのである。なぜ、そんなことになったのか。また、なぜそんな事が可能なのか。
 返済する必要のない借用証書である紙幣が通用するのは、紙幣には、額面に示された貨幣価値があると公が認めているからである。つまり、返してもらえなくても、その価値があると広く認められていれば、支払手段や決済手段として有効だという事である。また、譲渡できるという事も重要である。譲渡できなければ、貨幣は、返済されないのであるからただの紙切れに過ぎなくなる。
 ならば、なぜ、そんな事。考えてみれば理不尽なことが可能なのか、それは、根本が国家の借金だったからである。つまり、紙幣というのは、国債の一種だったのである。国家が支払不能、つまり、返済できない状態に陥った際に、支払い延期の為に発行した証書なのである。
 つまり、国家が債務者であり、借金が返せなくなった時、国家権力を発揮し、支払を力ずくで延期したのである。国家は、権力、即ち、公に認められた唯一の暴力装置だから出来たのである。最も、現在でも、国家権力の及ばない地域では私的権力者が貨幣を発行することが稀にある。

 しかし、民間企業は借金が返せなくなれば倒産してしまう。銀行だって例外ではない。銀行にとっての最大の借金は、預金である。預金の取り付け騒ぎが起これば銀行も倒産する。しかし、国家は、借金が返せなくなっても倒産するわけに行かないと言うことになっている。それ故に、将来の任意の時点で引き替える権利に変えてしまったのである。それが紙幣の起源である。この事は重要であり、紙幣の本質をよく表している。そして、現在の貨幣の意味をもである。

 返済する事のない借用証書が紙幣に変化するのに、もう一つ重要なのは、流動性の問題である。流動性というのは、他人に譲渡することが可能であることである。紙幣も、流動性を持ったことが、本来、借用証書としての意味しかなかった紙幣に交換、決済、与信という機能を与えるのである。

 この事は、紙幣に、それまで貨幣が有していた支払手段、決済手段の他に、信用を供与するという機能を追加した。つまり、債務としての働きである。その為に、紙幣の流通する量が多くなると貨幣価値が下落するのである。

 そして、もう一つ重要なのは、資本そのものが商品化されることによって流動性を持ったという事である。資本も返済する必要のない資金である。その資本が債権として機能するのは、譲渡が可能だからである。譲渡が可能と言う事は、流動性を意味する。流動性があるから、本来返済する必要のない借金としての意味とかなかった資本に債権としての正の価値をもたらすのである。

 借金とは何か。借金というのは、、現時点における貨幣価値を実現する権利と将来の任意の時点における貨幣価値を実現する権利とを時間価値を換算して交換することである。この場合、時間価値をどの様な式で計算するかは、任意なのである。
 時間価値の一つの例が金利である。また別の例が利益に基づく配当である。これは、時間に対する概念の違いによって変わってくる。
 ただ、重要なのは、時間的距離を特定する必要がある。その必要性から、時間の単位を確定する必要がある。故に、時間は、変化の単位なのである。時間は、変化の単位であるから、時計的単位である必要はない。一つの製品を製作するのに必要とする経過単位でも良い。つまり、時間の所有は個人に帰すのである。

 借用書というのは、将来の任意の時点で額面の示されている貨幣価値に相当する交換価値を持つ財と巷間が出来る権利を保障した証書である。そして、最初の内は、等価の金と交換することが可能だったのである。しかし、金と変えてしまうと意味がない。また、価値が保障されている限りは、金と交換する必要もなくなったのである。それが兌換紙幣である。
 流動性が与えられたことで紙幣とは、それが、分配のための手段、媒体に変質したものである。現在では、最も流動性の高い資産である。つまり、交換価値を表象した物である。ただし、貨幣が表象するのは権利であり、実際に交換するかしないかは、その財をその時点で所有している者の意志に委ねられている。これが個人主義である。

 紙幣というのは、元々、価値のない物、信用によって価値を付与されているだけの物なのである。その元々は、公の、もっとハッキリ言えば国の借用証書なのである。
 紙幣が流通すると言う事は、それだけ、公の借金が増えると言う事を意味しているのである。

 紙幣を刷れば、いくらでも、返済する必要のない借金が出来ることになる。現実に、そう考えて実行した権力者もいた。その結果は、ハイパーインフレである。無制限に紙幣をすれば、紙幣の信認が薄れ、貨幣価値が際限なく下がることになるのである。

 対象認識は、物と意味と意味づける主体、あるいは、認識する主体の三者によって構成される。

 包丁の実際的な意味は、包丁が使われる対象と包丁と言う物の持つ特性、使用価値と包丁を使う主体によって決まる。包丁が料理のための食材に対し、料理するために、料理人として使われた場合、料理を作るための道具だが、殺人事件において、被害者を、加害者指すための道具として使われた場合は、犯罪のための凶器となってしまう。

 貨幣も同様である。貨幣が価値を持つのは、貨幣の持つ価値と貨幣が指し示す実体、その価値を認める主体の三者によって成り立っている。

 貨幣は、交換価値を表象する物、即ち、媒体で、交換価値そのものを持っているのではない。交換価値を持っているのは、財そのものである。しかし、財の持つ交換価値は、財を交換しようとする当事者間によって決められる。
 つまり、貨幣価値は、貨幣が指し示す実体の価値と貨幣と貨幣価値を認める者の三者からなる。そして、三者が生み出す価値はそれぞれ独立しており、変化、即ち時間軸をそれぞれが内包しいる。それが経済現象を複雑としているのである。

 貨幣市場を基礎とした市場が裁定するのは、貨幣価値である。注意したいのは、貨幣価値を基礎とした市場で裁定するのは貨幣価値であって交換価値ではない。あくまでも貨幣価値である。

 市場の機能は、貨幣価値の裁定であり、競争ではない。競争は、手段であって、目的ではない。競争に変わって話し合いでも良いのである。どの様に手段を使用するかは、前提条件によって変わるのであり、法則ではない。競争を法則とするのは、一種の信仰である。市場は、神の手で支配されているわけではない。

貨幣経済の在り方


 貨幣経済は、交換価値を貨幣価値に還元し、個々人の労働に応じて所得として分配し、更に、市場を通じて必要な財を分配する仕組みである。

 貨幣経済を構成する要素は、第一に貨幣である。第二に、財である。第三に、経済人である。経済人は、労働と所得に象徴される。第四に、市場である。

 貨幣経済というのは、貨幣を基礎とした経済体制を言う。故に、貨幣経済で重要なのは、貨幣の役割、機能である。
 財政赤字の問題も、インフレーションやデフレ対策も、戦争の問題も、根本は、貨幣の振る舞いの問題なのである。そして、貨幣の振る舞いを引き起こしているのは、貨幣の働きである。この貨幣の働きを制御するためには、貨幣の流通する量と速度を調節する必要がある。そこで問題になるのは、貨幣の流通する仕組みである。経済政策では、貨幣が流通する仕組みが重要になる。
 仕組みを理解するためには、貨幣の成り立ちと機能を明らかにする必要がある。
 今日の貨幣経済を根底を為すのは、実物貨幣ではなく。表象貨幣である。それが大前提である。故に、貨幣の機能と成り立ちで重要なのは、表象貨幣、特に、紙幣の機能と成り立ちである。

 貨幣の流れによってその反対方向の財の流れを生み出し、貨幣と財の循環運動によって分配を実現する体制が貨幣経済体制なのである。
 その為には、財の価値を全て貨幣価値に一旦還元する必要が生じる。この貨幣価値に還元することによってどの様な作用が生じるのかが重要となる。それが、貨幣制度の根幹となる。

 先ず貨幣には、貨幣独自の機能がある。それは、第一に、価値の創造と実現、第二に、価値の保存、第三に価値の転移、運搬、移動、第四に、価値の交換、第五に、決済、裁定、第六に、交換価値の尺度、基準である。

 貨幣には、実物貨幣と表象貨幣とがある。実物貨幣とは、貨幣そのものが何等かの価値を持っている貨幣をさし、表象貨幣とは、貨幣そのものは、価値を持たずに、交換価値を表象しているだけの貨幣である。表象貨幣は、最終的には、情報に還元される。
 表象貨幣は、何等かの信用を裏付けに持たなければならない。つまり、与信が必要なのである。表象された価値に対する信用が失われると、貨幣制度そのものの崩壊に繋がる。

 紙幣は、表象貨幣である。実物貨幣ではない。現在の貨幣は、表象貨幣を基礎として成り立っている。表象貨幣の成り立ちは、紙幣の成立による。
 紙幣の成り立ちは、一つは、金に対する預かり証である。第二は、国債である。即ち、借用書である。第三は、有価証券である。第四は、約束手形、支払手形である。第五は、為替手形である。第六は、小切手である。第七に、質券である。何れにしても証書である。
 紙幣の成り立ちは、紙幣の持つ特性をよく表している。第一に、預かり証だと言う事は、金や預金と言った何等かの実体的裏付けを前提としているという事である。更に、貯蓄手段でもある。第二の、国債というのは、負債を根拠としているという点である。第三の有価証券というのは、資本を根拠としているという点である。第四の約束手形というのは、信用手段を意味し、支払手形というのは支払手段を意味している。第五の為替手形と言う事は、決済手段を意味している。第六の小切手という事は、交換手段であることを意味している。
 これらが現在の貨幣の基本的機能を意味している。
 そして、貨幣経済を成立させるためには、貨幣の持つ機能が発揮されることが、前提となる。例えば、財政赤字で最大の問題となるのは、貨幣の機能の一部が財政赤字によって圧迫され、あるいは毀損されることによって機能しなくなる場合である。財政赤字の本質は、貨幣の機能に求められるべきなのである。

 質券は、紙幣の始まりと見なす事が出来る。借用書だけでは、義務が生じるだけで、信用は生じない。その点、質券には、質物、即ち、担保する物がある。
 質物には、担保する物の意があり、担保が、質と抵当に分化したのは近世である。(「中世借金事情」井原今朝男著 吉川弘文館)担保には、人的担保と物的担保とがある。
 そして、この担保権が、質権と抵当権に別れる。この質権と抵当権は、貨幣の本質的な機能に関わる大事でもある。つまり、信用の創出である。また、信用の裏付けである。

 もう一つ忘れてはならない貨幣の特性に、貨幣の匿名性がある。貨幣は、匿名的な物である。故に、貨幣的価値は、数値情報に特化しうる、つまり、量化しうるのである。また、貨幣の本質を所有と交換に単純化しうるのである。逆に言うと、匿名性を有しない物は、純粋の貨幣にはなりえないのである。これが有価証券と貨幣とを区分する基準でもある。

 紙幣に表象される価値は、現金を意味する。現金とは、その時点におけいて実現される貨幣価値である。貨幣価値は、数値情報であり、その本質は、量である。
 故に、財の持つ貨幣価値は変動しても、表象貨幣によって表示される貨幣価値は不変である。現金が指定できるのは、その時点、時点での交換価値に過ぎない。この事は、資産や財と言った実体的な貨幣価値によって形成される価値は変動的だが、負債のように表象的な貨幣価値によって形成される価値は、固定的であることを意味する。

 つまり、取引は、現金と実体的価値と表象的価値を同時に生み出すことを意味している。消費は、取引が成立した時点で価値が実現され解消される。しかし、資産や負債は、債権と債務と現金という流れるを生じさせる。それが紙幣の機能を生み出すのである。

 紙幣の生み出す価値は、現金と債務と債権に分離する。また、表象貨幣の機能は、債権と債務によって保証される。

 貨幣の機能は、決済機能がある。決済機能とは、貨幣価値の実現である。貨幣価値の実現というのは現金化である。つまり、現在的貨幣価値を一旦実現する事によって市場価値を確定し、一つの取引を裁定、清算、終了することなのである。決済することによって、つまり、現金化することによって市場価値を確定し、取引を成立させる機能が決済機能である。
 負債も、資本も、資産も、現金化されなければ市中には流通しない。故に、国債も発行されただけでは、資金を市場に供給しないのである。国債の場合は、所得に還元され、更に消費に転化してはじめて資金が市場に供給される。
 現金化されなければ、資金化されない。つまりは、資金が循環しないことなのである。資金が循環するためには、負債や、資本、資産が、市場価値として現金化される必要がある。

 貨幣の流れは、市場によって作る出される。つまり、財の流れも市場によって生み出される。貨幣と、財の流れは、反対方向、逆方向に流れる。貨幣と、財の流れは、市場の仕組みによって生み出され、制御される。
 貨幣が機能するためには、貨幣は常に市場に流れている必要がある。しかも、その流れは循環していなければならない。貨幣経済下では、貨幣が循環しなくなると、財の流れも止まってしまう。故に、貨幣経済で最も危険なのは、貨幣の滞留と停滞である。それは、血液が流れなくなるのと同じである。つまり、市場における貨幣の病は、人間で言えば血液の病、循環器の病に似ているのである。

 市場では、貨幣価値は、取引によって顕在化する。取引によって、市場と貨幣は結び付けられている。

 通貨の管理をするためには、市場の規模に合わせて通貨の量を制御する必要がある。市場の規模は一定ではない。特に、産業革命以後の市場は、絶えず変動している。しかも、市場は単一ではなく。いくつもの独立した市場が、独立した運動を繰り返しながら、全体の市場を構成している。故に、市場も位置と運動と関係も一定ではなく。絶えず、位置と運動し関係を観察し、把握しておく必要がある。そして、その市場の規模に合わせて、通貨の量を制御する必要がある。その為には、通貨の供給量、どれだけの量が市場に供給されているかを正確に把握する必要がある。通貨は、金融機関を通じて供給される。通貨が金融機関を通じて、どの様な仕組みで、市場に供給されているか、また、回収されているかを知る事が鍵を握っている。
 金融で、貸出可能な額は、資本と、負債を基数として計算されている。これは、貨幣、及び、貨幣を流通させる仕組みの決定的な制約である。

 市場は、必ずしも、一様、一律の空間ではない。幾つかの場が複合され、又は、重ねられて重層的に形成される場合が多い。
 市場は、統一された空間ではない。また、市場は、必ずしも開放された空間と限定できない。市場は、種々の規制によって分割したり、閉鎖することも可能である。更に、市場は人為的な空間である。
 市場には一定量の財と貨幣が供給されていなければならない。市場に一定量の通貨が存在することが大前提となる。財と貨幣の相対的量が、貨幣価値の水準を決める。
 即ち、貨幣価値は、財の量と貨幣の量、財に対する需要の量によって裁定される。それが物価の水準である。本来物価は、個別的な価値であり、個々の財に対する価格を指す。

 物価は、経済状態を表す重要な指標である。故に、物価を制御することは、国家の重要な役割である。物価に対し、通貨の量は決定的な作用を及ぼす。
 物価は、市場の規模と市場に流通する貨幣の量による市場の規模は、財の供給力と購買力に依拠する。財の供給力は、生産力により、供給を形成する。財の購買力は、所得と生活水準により、需要を形成する。供給力には、生産力が、需要には、所得が決定的な役割を果たしている。
 市場の規模を確定するのは、通貨の量ではない。しかし、物価、即ち、財が市場価値として顕れてくるのは、価格、即ち、貨幣価値である。物価を形成するのは、個々の財の価格である。つまり、貨幣経済は、貨幣の振る舞いとして実現する。
 貨幣の振る舞いを決定付けるのは、通貨の量である。市場の規模に適正な量の通貨が維持されないと物価は乱高下する。故に、物価の制御は、市場規模の管理と通貨の量の管理の双方から為される必要がある。
 物価は、価格として顕現する。つまり、最終的には、適正な価格の維持が重要になる。
 つまり、物価の管理は、生産力と所得と価格と通貨の管理が鍵を握っている。

 2008年に生じた石油価格の異常な高騰は、サブプライム問題で行き場を失った大量の資金が狭い石油市場(WTI)に流れ込んだことが主因である。つまり、局地的なインフレ現象である。

 石油マネーの主は、債権者であり、債務者でもある。石油で儲けた者は、投機家でもある。債権価値の増大は、与信力の増大を意味し、債権価値の減少は、信用収縮を意味する。与信力の増大は、債務の増大を意味するが、信用収縮は、債務の減少を必ずしも意味しない。それが、与信力を背景にした通貨の流量に重大な影響を及ぼす。そこに、地価や株価の急激な上昇と下落の危険性がある。

 ただ忘れてはならないのは、財が景気に及ぼす影響が比較的小さく、通貨の供給量に問題を特化し得たのは、産業革命により、生産力の増大という背景があったことを忘れてはならない。財が不足してくれば、必然的に、物価に与える影響力も強くなる。

 購買力は、単に需給の問題に還元されるわけではない。所得、即ち、経済力と、購買意欲、必要性、更に、生産力の均衡によって成り立っている。

 貨幣経済で重要なのは、貨幣価値の安定と維持である。貨幣価値というのは、価格に還元される。貨幣価値における要は適正な価格の維持である。
 価格の維持は、価格に対する市場の調整機能に依存する。市場の調整機能は、財の量と貨幣の流量によって発揮される。そして、その核となるのは、消費者の必要性(ニーズ)である。財の量は、生産力に依存し、貨幣の流量は、所得に依存する。消費者の必要性は、生活の水準に依存する。
 それが国民経済の規模を確定する。それが国民総生産であり、国民総所得であり、国民総支出である。

 以上のことを鑑みてみると、貨幣経済の根本は、所有と所得の問題に収斂する。更にそれが、消費や貸し借り、交換と言った行為に還元され、それらの要素を結び付ける媒体として貨幣が成立したことによって貨幣経済は確立されたのである。
 市場は、消費や貸借、交換と言う行為と貨幣とを結び付けて所得と所有を実現し、それによって分配を実効力あるものにする仕組みなのである。
 故に、貨幣経済や市場経済の均衡点は、所得と所有の均衡点に求められる。しかし、それは、所有や所得が一様である状態を指すのではない。あくまでも均衡して状態を意味するのである。

 公平の基準も所得と所有の均衡に求められる。問題は、所得と所有の分配の上限、下限の幅と比率にある。その幅は、労働の成果と評価の問題に帰着する。

 紙幣は、証書である。だから、出所は明らかである。当然その量も明らかである。故に、通貨の発行量を制御することは可能である。

 貨幣の流量は、貨幣価値の与信量によって定まる。つまり、信用を供与する実体の量によって定まる。現在的貨幣価値、即ち、現金を生み出すのは、債権と債務、現金自体である。債権とは、資産である。債務とは、負債と資本である。現金自体とは、収益と費用であり、それは、所得に還元される。

 つまり、通貨の量は、与信の裏付けとなる価値の総量、国債発行額、国債残高、預金残高、地価や株価の動向、企業の収益など均衡によって決まる。実際に市場に供給されるのは、融資や貸し付け、投資、所得と言った手段である。
 実際の市場への通貨の供給は、金融機関の融資や所得によって実行される。大量の国債の発行によって融資や所得に向ける資金の量が、抑制されるとクラウディングアウトを引き起こすことがある。この様に、国債を発行すれば通貨の量が増大するとは限らない。問題は、何が実際的に通貨を市場に供給するかにある。問題は、市場の仕組みである。

 貨幣は、経済単位に対する所得として市場へ供給される。経済単位は、財政主体と家計主体、経営主体である。

 財の適正な分配を実現し、維持するためには、偏りのない所得の分配が要求される。大切なのは、一定の幅の中で所得分配する事によって経済の均衡を保つ事にである。つまり、分配構造が重要となってくる。
 その為に、社会的な所得の再分配の仕組みが必要となる。
 また、分配の手段も重要な要素であることを忘れてはならない。分配の手段は、市場や社会の在り方を規制する。例えば、食料である。ただ単に食材を分配すれば事足りるわけではない。また、経済効率を考え一律、一様の店舗によって配ればいいと言うのでもない。それは、文化の問題でもある。

 経済の根本は、労働と分配であることを忘れてはならない。

 市場の変化は、熱力学と同じ様な不可逆的な変化である。放置すると過当競争から寡占、独占へと向かっていく。
 寡占や独占は、市場に偏りを生み出す。故に、寡占、独占状態に陥らないように市場の仕組みを制御する必要がある。それが経済政策の主要な目標となる。

 独占的体制、統制的体制の危険性は、貨幣価値を相対的基準から絶対的基準に変質してしまうことなのである。その為に、貨幣価値が硬直的となり、貨幣本来の調整機能を失うことなのである。それは、計画経済や統制経済の弊害でもある。

 つまり、市場の機能は、多様性によって維持される。また、多様性は、自由市場の前提でもある。
 問題は、どの様な社会、どの様な市場を望んでいるかにある。
 通貨の量、財の量、仕事と労働力、消費者、財の必要性、所得(貨幣)の分配の手段、借金の手段、財の分配の手段、労働の分配の手段、これらの要素が絡み合って市場の仕組みを形成していくのである。

企業活動と貨幣

 利益は、人を騙して不当に得られるものを指しているのではない。利益を上げることは、企業経営にとって大前提である。適正な利益を確保できなくなれば、企業経営は継続が不可能になるからである。ところが、多くの経済政策は、適正な利益を上げることは悪い事であるような施策である。

 例えば、競争を原理化する思想である。最近の経済政策には、錯覚があると思われる。競争の原理を働かせ、効率化をすれば、景気が良くなると決め付けているようである。しかし、景気を良くするためには、企業経営の健全性を取り戻すことなのである。企業経営の目的は、適正な利潤を上げる事であり、効率化にあるわけではない。元々、バブル後に景気が悪くなったのは、企業の健全さが損なわれ、適正な利潤を上げる事が出来なくなったことであるが、その最も重大な原因は、不良債権にあることは衆知のことである。不良債権は、バブルによる資産価格の上昇と急激な下落にある。それによる資金繰りの悪化が背景にあるのである。企業経営を効率化すれば、解決できるという問題ではない。バブルがなぜおこり、また、なぜ崩壊したかの原因と、その前後の企業の収益状況を見ないと真の原因は掴めない。
 元々、適正な利潤を上げる事が必要な条件なのであり、効率化も、合理化も手段に過ぎない。景気を良くしたいのならば、企業の収益を良くすることである。その為には、収益構造を明らかにする必要がある。

 バブル前に多くの企業が財テクに走った理由は、本業が儲からなくなったからである。なぜ、本業で儲からなくなったか、その原因を明らかにしない限り、企業経営は健全化できない。故に、本当の景気回復も出来ないのである。

 企業経営に関しては、多くの誤った認識がある。良い例が、儲かった中から費用が決められるという発想である。

 収益が費用を決めるのではなく、費用は、費用それ自体の要素によって決まる。つまり、収益の中から費用を捻出するわけではないのである。費用は、それ自体に内部構造によって決まると言う事である。安易に収益と費用を結び付け連動させてしまうと、費用が下方硬直的なものになる。逆に、収益によって費用が振り回されてしまう。また、収益も周囲の状況の変化や環境の変化を反映することが出来なくなる。周囲の変化や前提条件が違っても同じ利益を要求すると言う事か起こる。

 労働で言えば、収益が所得を生み出すのではなく。労働が所得を生じさせているのだと言う事になる。適正な利潤をあげられるかどうかは、収益と所得、つまり、人件費が見合っているかどうかである。

 適正な収益が計れなければ、費用も賄えなくなるのである。簡単な原理である。費用に見合った収益が得られなくなったから利益が上げられなくなったのである。その原因の大きな要因は為替の変動である。円高によって費用が変動した。その変動に見合った収益があげられなければ、利益は確保できないのである。

 つまり、内的費用は外的な所得に転化しているのである。そして、この転化が、経営活動の本質であり、利益は、その結果に過ぎないのである。同様なことは、外的な売上は、内的な仕入れに転化する。内的な売上は、外的な仕入れに転化し、最終的には、消費者によって消費される。この連鎖的な活動か経済の本質なのである。利益は、その副産物に過ぎない。

 紙幣は、それが成立した時点で債権と債務を派生させる。つまり、債権と債務と貨幣価値が同時に発生するのである。紙幣は、現金の一形態であり、紙幣を現金と置き換えても良い。

 現金とは、貨幣価値を表象した物である。仕訳というのは、現金の動きを基本としている。即ち、現金を調達して、経営活動によって貨幣価値を増殖し、再度、現金に還元する過程である。その過程で分配機能を発揮することである。

 収益は、企業内部から見ると売上高、外部から見ると費用である。内部から見て売掛金は、取引相手から見れば買掛金なのである。受取手形は、支払手形に対応する。この様に、内と外では、正反対の取り方がされる。この様に、貨幣は、貨幣価値を創造すると同時に、正と負の作用を引き起こす。この正と負の作用が複式簿記の基礎となり、また、会計制度の基礎となる。また、貨幣制度の基本的原則となる。

 基本的に、負債、資本、収益が収入を意味し、資産と費用が支出を意味する。資産と費用を分けるのは、速度の問題である。
 負債や資本の減少は資金の流出である。負債と資本、収益の増加は、資金の流入を意味し、逆に資産や費用の増加は、資金の流出であり、資産の減少は資金の流入である。これが重要なのである。
 同じ資金の流入でも負債や資本の増加は、債務の増加を意味し、収益は、所得の増加を意味する。逆に、資金の流出でも資産は債権の増加、費用は消費の増加を意味する。

 資金というのは、どんな手段で調達してきても、調達してきた時点では、債務なのである。ただ、債務を一つは負債と名付け、もう一つは、資本と名付けているに過ぎない。利益は、資本に取り込まれる過程で投資家に対する債務となる。故、投資家に対して報告する義務が生じる。報告するための仕組みが会計制度ある。
 そして、その債務が債権を生じさせる。

 紙幣は、負の価値を正の価値に返還する手段であった。ところが、単式簿記では、負の価値が潜在化し、正の価値のみが顕在化する結果を時として招く。その為に、負としての働きを制御できなくなるとが往々にしてある。それ故に、会計制度では基本的に複式簿記を採用するのである。
 
 企業活動とは、貨幣価値を実現するための過程なのである。仕訳はそれを表現している。現金というのは、貨幣価値を実現する直前の姿である。故に、仕訳の基本は常に現金である。そして、貨幣価値を実現する過程であるから、貨幣価値を実現するための速度が重要となる。それが流動性である。この流動性は、必ずしも時計的時間をそしているとは限らない。

 なぜ、元金が分離され、元金は、負債に、利子は費用に仕分けられるのか。負債と収益がなぜ、同じ側に仕分けられ、収益と費用が同じ側に仕分けられるのか。
 それは、仕訳を考えればわかる。会計の仕訳の仕組みは、貨幣価値と財と取引関係からなる。
 貨幣価値を直接的に表現しているのは、現金である。現金とは、貨幣価値を実現した物であり、貨幣価値そのものである。反対側に仕分けられるのは、貨幣価値が指し示す実体である。
 仕訳は、この現金を基礎にして仕分けられる。日本の会計制度の特徴の一つである伝票制度で言えば、入金伝票と、出金伝票である。それに、振替伝票である。これに、売上伝票、仕入れ伝票を加えたものもある。何れにしても現金の動きが、会計制度の実務的中核である帳簿を決定付けていることがわかる。
 つまり、現金、現金が指し示す実体、そして、仕分ける基準が資産、負債、資本、収益と費用の別を生んでいるのである。

 現金と現金が指し示す物と取引である。この作用反作用の関係が、仕訳、及び複式簿記を成り立たせているのである。
 むろん、現金が関わらない仕訳もあるが、それは、過程的取引であり、最終的には、現金として貨幣価値を実現する取引に変換される。

 資産と費用は、貨幣価値を実現したものであり、負債と収益は、貨幣価値を実現する権利である。
 貨幣価値を実現する権利を得てからそれを実現するまでの過程が経営活動である。貨幣価値を実現するまでに一定の時間を要する、その時間が価値を生み出すのである。

 静的というのは、本来、時間の影響を排除したところに成立する事象を指して言う。位置を示す概念である。つまり、静的というのは、時間に対して陰の作用である。それに対し、動的というのは、運動、即ち、時間による変化を指す。つまり、動的というのは、時間に対して陽の作用である。
 会計上は、損益は動的活動、貸借は静的活動と区分される。ところが、静的活動であるべき、貸借が内部運動によって価値の変動を引き起こす。それが会計を引いては、貨幣経済を不安定なものにしているのである。それ故に、従来は、取得原価主義を採用してきた。

 問題は、内部運動、価値の変動である。なぜ、内部運動が生じ、それはどの様な仕組みに基づくのかである。

 変化が予測できる部分と予測できない部分がある。元金は、予測できるが金利は、予測できない。なぜ、元金と金利とを分離して仕訳をし、それを別々の処に計上する必要があるのか。そこに期間損益の秘密が隠されている。

 変化する部分、変化して良い部分、変化させる部分と変化しない部分、変化してはいけない部分、変化させない部分がある。
 変化というのは、時間価値を内包している。つまり、何等かの運動である。仕組みの中で可動して良い部分と悪い部分のことを指す。ただ、運動というのは、相対的な物である。何が何に対して変化しているのかが重要になる。
 それこそが会計上の仕組みである。

 重要な事は、利益というのは、収益−費用という単純な公式で出せる様なものとは違うと言う事である。貨幣は、それが紙幣という表象貨幣として成立すると貨幣は、債権としての働きと、債務としての働き、そして、貨幣価値としての働きを発揮するようになる。そして、それぞれが時間価値を内包することによって資産、費用と負債と収益として区分されるようになった。そして、資産と負債、収益と費用との差が資本と利益という形で表現されることになる。

 経営活動というのは、基本的に債権と債務の均衡の上に成り立っている。収益というのは、債務が債権化する過程における時間的価値が生み出す価値である。

 更に、もう一つ忘れてはならないのは、資本がそれ自体商品価値を持ち、流動性を持っているという点である。それが資本主義の本質でもある。

 最近の企業合併では、優良な企業が危機に陥った企業を救済合併するという構図が成り立たなくなった。むしろ、新興のIT企業が老舗のテレビ局に攻勢を仕掛けると言った、窮鼠猫を噛む的な、劣勢の企業が優勢の企業に合併を仕掛けるという事が頻繁に起こる時代である。この様な現象を引き起こしているのは、株式時価総額である。つまり、資本が独自に商品価値を持っていることに由来している。

 資本には、負債が変質したものという性格があることを忘れてはならない。投資という行為は、基本的に融資と共通した性格と効果がある。

 そして、負債や資本の対極にあるのが資産であり、その媒体は資金なのである。つまり、資金を核にして、資産と負債、資本が形成される。

 負債と資本の決定的な違いは、負債というのは、債務者が責任を持って債権者に対して返済することを法的な義務づけられているのに対し、資本は、基本的に返済が義務づけられていないという点にある。

 そして、証券と言う事である。
 紙幣は、それまでの貨幣とは明らかに違う性格を持っている。つまり、貨幣そのものは、固有の価値を持っていないで、価値を表象しているだけだと言う事である。紙幣には、証券としての性格があることを忘れてはならない。
 株式こそ、資本を証券化し、商品化することによって流動性を持たせたものである。

 ゴルフの会員権とリゾートクラブの会員権の違いが好例である。前者は、市場が成立しているが故に、価値を持つ。市場が成立することによってゴルフ会員権には、流動性が生まれ、資産価値が認められるようになったのである。逆に言えば流動性のない資産は、価値が認められない。厳密に言うと貨幣価値が認められない。なぜならば、貨幣は交換価値だからである。

 資本は、貨幣的側面と財としての側面を持つ。また、資産と負債という二面性を持つのである。
 そして、企業活動というのは、単純に費用対効果だけに現れるのではなく。資産や負債、資本の循環活動としても現れるのであり、企業間の相互作用によって経済的価値は絶え間なく生み出されるのである。

 この点を理解しないと儲ける仕組みは構築できない。いくら効率化しても、それは、数値上のことであり、景気は良くならないのである。況や、競争を促しても経済は良くならないのである。

豊かさとは


 金というものは、時として人間を惑わす存在である。
 多くの犯罪は、金目当てで行われる。少しばかりの金を目当てに人殺しまで起こる。
 金の切れ目が縁の切れ目ではないが、仲の良かった人同士が些細な金で仲違いをする。私は、父親から、親しい間の人間には、金銭的な貸し借りはするなとまで教えられた。
 今の世の中、何でもかんでも金次第にしてしまう。愛も命も金に換算し、金でけりを付けようとする。金で片づかない事はない。また、金に換算できない物はないと決め付けている。金が全てだと思い込んでいる。
 全ての価値を熔解し、貨幣価値にしてしまう。あらゆる人間関係の中に入り込み。人間関係を溶かして市場という坩堝の中に放り込んでしまう。貨幣価値が過程という共同体の中に入り込み。夫婦関係や親子関係、兄弟、姉妹関係まで金銭に換算してしまう。育児も、料理も、掃除も、洗濯も、金銭に換算して外部化してしまう。
 親子関係も、愛情も、友達も、皆、金で買えると思い込ませてしまう。そうなると金のためならばどんなことでもする人間が増えてしまう。
 戦争だって金が原因であり、大統領の椅子だって金で買える。少なくとも金がなければ、手に入らない。そう考えだすのである。
 全ての価値を貨幣価値に還元すると言う事は、全ての価値を交換価値に還元してしまうことになる。使用価値や希少価値などは、従属的価値に落ちることになる。それが何を意味するのかというと、交換する価値がない物は、価値がないという事になる。

 経済とは、労働と分配である。なぜならば、その意義を考えればいい。経済の意義を考える時、労働の意義と分配の意義を考えることは、人間の人生を考えることに通じる。それに対し、需要と供給や生産と消費の意義を考えても人生の意義には結びつかない。
 問題は、労働をどう評価し、どう分配に転化するかである。労働を一律に貨幣価値に還元することが可能かである。しかし、労働は、労働の成果からのみ判断できるものではない。たとえば、その人間の能力と熟練度である。可能性をどの様に考えるかである。その人その人の持つ背景も重要である。その人の能力のみを根拠とすれば勤続年数や年齢なんてまったく関係なくなる。つまり、労働の評価というのは、人間に対する評価でもあるのである。効率とか、合理性というのは、この人間としての評価を不可能にしてしまう。しかし、それが経済であろうか。それは経済ではなく。生産性の問題である。

 労働を貨幣価値に還元すると言う事は、労働を賃金に還元することである。
 労働を賃金に還元すると言う事は、この世の中を給与所得者と資本家に分離する。もっと突き詰めると賃金労働者と資本家に分離する事を意味する。
 労働を完全に市場化してしまうという事は、全ての労働を一方で単位化し、それを時間の関数、あるいは成果の関数で一律に計算することである。そこでは、人は、数値でしかなく。数として表せない属性は全て削ぎ落とされてしまう。
 その上で、効率を追求すれば、結果は明らかである。企業は、共同体的側面を持つから、社会的機能を果たせるのである。その社会的機能というのは、分配である。労働者一人一人の持つ個性、属性をどう評価するかである。

 給与所得者の方が無責任で気楽で良い。いやになったら辞めて、転職すればいいし、定年になったら退職金をもらって後は、悠々自適の生活をするだけである。なまじ責任のある仕事をすると負担が大きくなる上に、失敗した時に責任をとらされてしまう。
 そう言った価値観を刷り込まれてもいる。しかし、責任感が欠如した社会は、自律できない。最終的には、制御する事が不可能になる。なぜならば、社会の自律性は、個々人の責任感によって保たれる。責任が、行動を制御するからである。行動規範は、責任によって裏付けられてはじめて機能する。社会的責任というのは、本質的に貨幣に換算できない価値だからである。

 貨幣価値に全てを還元してしまうと人間の恣意が働かなくなる。人の融通がきかなくなり。裁量の余地がなくなる。そうなると、人と人との関係や人間としての評価は出来なくなる。かといって恣意や融通だけで、即ち、情実だけで人を評価しても、人は、動かなくなる。問題は程度であり、限界をどこに定めるかである。市場と共同体、各々が機能して市場の健全性は保たれる。

 豊かな世界というのは、効率的な部分と非効率な部分が混在している社会である。純化されてしまった社会ではない。

 付加価値というのは、ある意味で効率の悪い作業である。効率を良くすると言う事は、極端な話し人手を省くことを意味する。先端技術を駆使し、最新鋭の設備を備えた工場を建設しても、それが無人な工場であれば、地元経済に与える影響はほとんどないのである。

 効率を追求すべき市場、効率を追求してはいけない状況、競争を促進すべき市場、話し合いで解決させるべき市場、それらが混在しているのが経済である。話し合いも競争も一つの手段であって絶対的な原理ではない。市場は、競争によってのみ成り立っているわけではない。

 経済主体、即ち、企業、家計、国家の内側に働く経済を内部経済と言い。外側で働く、経済を外部経済という。基本的に共同体や組織内部に働く経済を内部経済と言い、市場経済を外部経済と言うが、国家や企業は、一部市場を内包する。と言うよりも、市場経済が内部経済を浸食していると言ってもいい。

 かつて、市場というのは、限られた範囲にしか存在しなかった。市場も貨幣も、近代に入ってから確立された概念である。微分、積分程度の歴史かないと、ロバート・L・ハイルブローナーは、彼の著書で述べている。(「入門 経済思想史 世俗の思想家たち」ちくま学芸文庫)

 本来、外部経済であるべき市場や貨幣価値が共同体内部を浸食し、共同体をドロドロにとかし始めている。そのために、家族も企業も崩壊しつつあるのである。

 市場や貨幣の力が弱く、共同体によって構成されていた時代は、共同体の弊害が問題となった。しかし、今や市場や貨幣は絶対的な力を発揮しようとしている。共同体内部の経済を外部化し、内部構造を外在化しようしている。その結果、内部構造の人間関係の崩壊である。今や、親子関係、夫婦関係、兄弟、姉妹と言った愛情関係まで金銭化、数値化し、市場化しようとすらしている。

 全ての経済主体が市場経済に取り込まれ、貨幣価値に還元されてしまうことは、全てを一元的な価値に熔解することを意味する。

 貨幣価値というのは、交換価値を表象したものにすぎない。貨幣に換算できない価値はいくらでもある。金は大切である。しかし、金が全てではない。
 貨幣経済は、貨幣に対する正しい認識の上に成り立っている。なぜならば、貨幣を正しく認識していなければ、貨幣の働きを制御する事が出来ないからである。

 今、アメリカで老人の立場が極めて弱くなっている。福祉国家を標榜する国でも、老人は介護の対象としてみていない。尊敬心や敬意をもって扱われているわけではないのである。単なる社会的費用、負担でしかない。

 貨幣価値によって表象される以前の人間は、人間でしかなかった。全く人間でしかなかった。この事実が大切なのである。一番の問題は、生身の人間としての生き様であった。今は、そう言った人間性が削ぎ落とされ、物として、また、数値としての存在しか問題とされない。いわば、確立統計の対象でしかない。人間としての尊厳も、品位も、名誉も、道徳も関係ない。その究極的な思想が唯物主義である。そう言う世界では、生産性の低い、老人や子供が冷遇されるようになるのは、当然の帰結である。しかし、人間は、人間である。人間の実体は人間でしかない。その人その人の、人生であり、生きてきた軌跡である。生きるという事である。それを失った社会は、もはや人間の社会ではない。人間性のない経済は、経済ではない。経済は、人間の文化である。

参考

「国債の歴史」富田俊基著 東洋経済新報社
「お金の崩壊」青木秀和著 集英新書
「閉塞経済」金子勝著 ちくま新書





                    


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