構造経済


市場で重要なのは、競争でなくて秩序である。


 今の経済体制の最大の過ちは、全ての価値を市場価値、貨幣価値に収斂してしまったことである。その為に、人々は、ゆとりを失い。目を血走らせて、金儲けに勤しんでいる。金のためならば、何でもやるし、また、金さえあれば何でもできる、許されると思い込んでいる。人生の目的は、金儲けだと錯覚している。その為に、自分の一生をも、また、家族も犠牲にしてしまう。
 しかし、金儲けは、手段である。人生の目的にはなりえない。人生の目的とは、幸せであり、自己実現である。
 その為の手段の一つが経済である。故に、経済は、人間を幸せにするものでなければならない。経済的理由によって多くの人が不幸になるとしたら、それは、経済や社会の根本がおかしいのである。
 経済とは、人間の生活である。暮らしである。つまり、経済の目的とは、ゆとり、余裕のある生活、平和で穏やかな生活であるはずなのである。
 効率、効率と貨幣的、市場的効率を追い求めた結果、我々の生活や暮らしからゆとりや余裕は失われてしまった。それは、経済がその本来の目的を見失ったからである。
 現代経済は、あたかも競争を目的とし、結果として戦争を前提としているようですらある。その為に、人々は、経済を不幸の種だと錯覚している。人間は、経済のよって堕落すると思い込んでいる。しかし、経済を不幸の種にしているのは、人間であり、堕落したのは人間なのである。

 家族や国家、企業と言った経済主体も、金儲けを唯一の目的としてしまった。家族を維持するために、必要なのは金だけだと錯覚している。その結果、家庭から人間関係が失われ家庭は崩壊してしまった。
 企業も金儲けを唯一の目的としている。金を儲けるためならば、どんな非情な事でも、反社会的なことでも堂々とするようになってしまった。そして、企業の行動を正当化する理由が、儲かるからである。儲からない企業は、全て悪だというのである。

 本来、家族とは何か。企業とは何か。国家とは何かという問題意識が根底にあるはずである。現代社会から、その根本が欠落してしまった。だから、金儲けのためならば、簡単に家族を捨てるし、仲間も裏切る。国家も売ってしまうのである。身を寄せ合って助け合うという思想は育たない。同業者は、敵に過ぎず。協力し合うことは、許されない。しかし、本来、志を同じくする者同士のはずなのである。
 家族も、企業も、国家も、元は、共同体なのである。そこは、貨幣的論理、市場的論理が入り込めない空間だったのである。

 今、世界は、金融不安によって大混乱を引き起こしている。その根本は何か。それは信用不安であり、信用制度の崩壊なのである。それが、現代社会を象徴している。つまりは、お互いを信じ合うことができなくなった結果なのである。

 この様な金融不安を引き起こした最大の原因は、金融機関の姿勢にある。金融機関本来の役割というのは、資金不足を起こしている経済主体に対して、余剰の資金を持っている経済主体から資金を融通することにある。その為には、資金不足を起こしている経済主体の原因や状況を解析して、資金の回収が齟齬しないようにするのが、金融機関本来の機能である。ところが、金儲け主義に徹し、組織の効率化を計ることによって、金融機関は、その本来の働き、即ち、与信調査という能力を削除した。
 企業の与信力を適性に評価することが出来なくなり、事業よりも単純に担保力だけを依拠する融資姿勢をとるようになった。その結果、資金が不足しているという理由で、資金を引き揚げ、資金が余っているところに資金を廻してしまった。例えば、円高になった場合、輸出企業は打撃を受ける。しかし、原因は明らかなのであるから、一時的に資金を融通しながら、方策を一緒になって考えるのが本来の在り方である。これは、バブル崩壊後の不良債権の処理も同様である。円高だから、バブルが崩壊したからと言って、円高や近間の下落を理由に資金を引き揚げられたら、必然的に一方で資金が締まり、他方で資金が滞留する事になる。それが、信用不安や過剰流動性を引き起こしたのである。それでは、日本の産業は立ちいかなくなる。それが日本の経済が低迷した最大の原因である。
 一番問題なのは、金融機関が自分の役割を理解せずに、市場の規律を乱していることなのである。
 つまり、金融機関は、自分達の本来の経済目的を忘れ。金儲けを唯一の目的としてしまったからである。これは、あらゆる経済主体に言える。
 製造業の経営目的は、単に金儲けにあるわけではない。社会、国家に優位に製品を作り、販売をする。その経営過程を通じて雇用を創出し、人々に所得を分配する。
 ところが、製造業は、金儲けのみを唯一の目的としてしまった。中には、製造を止めてしまう企業すら現れる。その方が金を儲けるためには、効率的であり、危険性も少ないという理由でである。製造業は、製造業としての使命を放棄したのである。
 製造の現場は、いかに安価で大量に生産するかだけを考えるようになる。その結果、製造業は、大量生産によって浪費をする一方で、合理化によって雇用不安を引き起こしている。
 物造りには、物造りの目的がある。その目的が失われ、ただ、画一的で、同じ物を大量に作り続ける。そこには、使い手や消費が不在である。働く者の生活の不在である。経済の本質が労働と分配ならば、生産性よりも雇用が優先されるべきなのである。企業が栄えても失業者が町に溢れてしまう。それを本当の豊かさと言えるのであろうか。
 流通業は、地域社会の文化や生活を画一化してしまっている。商店街は寂れ、人々の生活は、多様性を失っていく。
 産業は、地域の経済や文化、生活を担っている。企業の都合だけで拠点を移動されれば、その産業を拠り所にしてきた人々の生活が破綻してしまうのである。
 国家は、国の公僕であることを忘れ、国家構想もないままに、貨幣経済や市場経済の効率化ばかりを計り。その結果、一方で財政を破綻させ、他方で、社会資本や公共サービスを破綻させた。意味もなく、道路を作り、環境破壊を招いたかと思えば、医療や年金制度を破綻させてしまった。
 日本は、美しい海岸線と豊かな自然に囲まれていた。今や、美しい景観は失われ、コンクリート造りのビルに囲まれてしまった。

 効率的と言うが、効率性という基準は、本来、合目的的な基準である。つまり、何に対して効率的かが核なのである。現代経済では、それが暗黙的に貨幣価値や競争力に設定されている。それ自体が間違いなのである。
 
 合成の誤謬という言葉がある。ここの個人や部分は自分達の最善の結果を求めて判断した結果が、全体を破綻させるという事である。しかし、この前提は、個々の部分が全体と無関係に存在するという前提ならば成り立つ。しかし、部分と全体が一体だとしたら、それは明らかに仕組みがおかしいのである。ただ、個人が全体を見ないから起こることである。社会は、単純に貨幣的損得だけで動いてきたわけではない。人間一人一人の倫理観の上に立脚してきた。その一人一人の倫理観が失われた結果、全体としての整合性がとれなくなったのである。それは、前提が、間違っているのである。

 経済を構造化するためには、先ず、自国の経済をどの様な体制にするかの構想を立てる必要がある。
 次ぎに重要なのは、前提条件の確認である。つまり、国家、経済を成立させるための前提条件である。その前提条件は、国家理念、国家構想から導き出される。
 その為に、自国の地理的条件、地質学的な要件、歴史的要件、人口や文化的要件などを調査し、確認する。
 重要なのは、建国の理念である。どの様な政治体制、経済体制にするのかをまず明確にする必要がある。この事は、国防思想に結びつく。
 そして、最終的に国家は何を目的として形成されるべきカナのである。国家理念の核は、何から何を護るのかを明らかにすることである。国家が、最終的に何を護らなければならないのかは、国家目的であり、必然的に、国防思想を明確にする事にならざをえない。
 また、地方の役割と大都市の役割を明確にする。国の骨格は、無為無策、放任すると無秩序なものになる。国家は、人的な仕組みであり。天然自然に発生するものではない。人間の意識、意志が生み出し、構築する構造物である。
 前提条件が確認されたら、それに基づいて国家制度は設計されるべきである。

 予算と経営計画とは違う。予算は予め決められた数字に拘束される。予算には自律的機能がない。財政における予算には、それを執行する人間に裁量権が与えられていない。つまり、マネージメントが出来ないのである。
 経営権が与えられていない。なぜ、民間企業では、会計制度が適用されるのか。それは、経営者に大幅な裁量権を与える変わりに、結果に対して責任を負わせているからである。財政には、この発想がない。官僚は、決められた事を決められた範囲で執行するだけである。その代わり、責任も問われない。また、評価もされない。能動的に仕事をしても評価されない。反対に責任だけが問われる事になりかねない。つまり、減点主義である。必然的に事なかれ主義になり、日和見主義的になる。決められた事以外をしても誰からも評価されない、つまり、やってもやらなくても同じならば、余計なことはなるだけしない方が得なのである。
 これは、経営計画と似て非なるものである。経営計画は、経営をする上での指針に過ぎない。経営者は、実際の経営の現場では、自分の裁量権によって判断をし、結果に対して責任を負っている。どちらが不正行為を防げるかは、一概に言えない。しかし、裁量権を与えられていなければ、不作為の不正というのは、防ぎようがない。その好例が社会保険庁である。誰も、不正行為を積極的にやったという意識、つまり罪悪感はないのだろう。ただ、国民から見れば、年金の処理は、犯罪行為に等しい行為である。
 結局、財政も組織も硬直的となり、無責任になりやすい。また、増殖を繰り返し、財政や組織の規模も肥大化する。

 国家の経済構造、産業の在り方を検討する為には、先ず、国家としての在り方を決める。何によって立ち。何を他国に依存するかを明確にする必要がある。それは、国家の独立、国防理念に立脚する必要がある。
 その上で交通機関や交通網をどうするかを決める。また、ガス、水道電気と言った産業のインフラストラクチャーをどうするのか。

 経済の仕組みを考える上で重要なのは、市場と経済主体との分担である。市場も経済主体も経済体制を構成する部分、要素に過ぎない。それぞれの役割機能を明らかにする必要がある。

 経済政策は、国家構想に準じる。つまり、どの様な国を造るのかが、根本にあるべきなのである。

 市場の水準、構造、規模、環境や産業の構造によって景気は左右される。
 時に、重要なのは、経済を構成する要素の水準である。例えば、物価の水準、為替の水準、所得の水準、石油や原材料価格の水準、市場価格の水準、収益の水準、株価の水準、地価の水準、債務の水準である。

 国家経済は、生産、分配、支出の三面において一致するとみなされている。これを三面等価という。

 生産と所得(分配)、支出が一致することの意味を考える必要がある。また、そのことから派生する影響を考えなければならない。また、一致しない項目を確認する必要もある。何が一致して、何が一致しないのか。それは、作用と反作用に関わる問題である。
 不一致な要素、例えば、生産と消費である。生産と消費が一致しないという事は、所得と消費、支出と消費も一致しないという事である。需要と供給も一致しない。ストックとフローも一致しない。収益と収入、支出と費用も一致しない。取得原価と時価も一致しない。

 需要は必要量に依り。供給量は、生産量に依る。必要量は、分配に根拠となり、供給量は、労働の根拠となる。本来、分配(所得)は、労働に基づく。問題は、労働が分配に至る過程であり、仕組みである。

 経済で重要なのは物価の安定である。物価は、所得にも、消費にも、支出にも、影響を与えるからである。消費は、物価に影響する。物価は、景気を左右する。

 経済成長や物価上昇率などにある程度の経済目標を設定することは重大である。

 何れにしても個々の要素の水準が経済の実体を決定付ける。この水準を安定的な推移に落ち着かせるための仕組みや政策がとられなければならない。それが構造である。

 企業は、収益と費用の水準が利益の水準を決定付ける。固定資産と負債の水準が資金調達力を示す。また、家計では、所得と消費水準、各種の物価水準の均衡が重要になる。国家では、所得水準や生産水準、為替の水準、金利水準、税収の水準、国民の生活水準などが経済政策を決定する。この様に、水準が重要なのである。同時に、この水準を適性に保つことが、国政の重要な役割となる。また、この水準を自動的に維持できるような調整機構をいかに組み込むかが、重要となるのである。

 水準で重要なのは、弾力性である。つまり、固定的であるか、変動的であるかである。そして、固定的であるか、変動的であるかの基準は、何に対して固定的で、何に対して変動的であるかの問題である。
 何が固定的に、あるいは、変動的にしている要素なのかを見極めることである。

 景気に対する弾力性が乏しいのは、債務の元本や人件費などである。この様な弾力性が乏しい部分が重しとなって経済の上下運動を引き起こす。

 人件費は固定費であり、最も削減されやすい費用である。固定費は、景気の変動に弾力性がないからである。

 ストックの部分は、累積してフローの部分に影響を与える。そして、このストックの部分の影響は下方硬直的である。
 ストックの部分は、長期的変動を形成し、フローの部分は短期的変動に作用する。

 賃金は、所得を平準化する機能がある。これは、家計部分におけるストックの形成に貢献している。所得が賃金化することによって消費が計画化され、貸す側にとっても、借りる側にとっても、長期的な借金が可能となったのである。

 累積債務は、ある一定の臨界点を超えると加速度的に増加する。それは、返済資金を返済に頼るようになると級数的変化から乗数的変化に変化するからである。

 所得水準が下がれば、返済圧力がまし、可処分所得が圧迫されて、消費は減退する。消費が減退すると景気が減速して、所得水準も下がるというスパイラル的に物価は下降する。

 市場で重要なのは、競争ではなく。秩序である。それ故にも規律を保つことが肝心なのである。

 利益を得るためには、収益をあげるか、経費を削るか、負債を減らすか、含み資産(未実現利益)を増やすかしかない。

 市場によって収益水準が違ってくる。むろん費用の水準も違ってくる。その為に、先発した国が必ずしも有利であるとはかぎらない。むしろ、先発した国は、費用構造がどうしても高付加価値な構造になりやすい。つまり、人件費の比率が高くなりやすい。

 公正な競争など幻想か詭弁である。過去において公正な競争など行われたことなどない。大体、競争ではなく、闘争である。
 労働条件が悪く。低賃金なところの方が競争力があるに決まっている。公正な競争が実現したことはかつてない。結局、労働条件の悪化を招く。労働条件を維持しながら、公正な競争を実現しようとしたら、市場を規制する必要がある。

 低賃金と言ってもその国、あるいは、その地域の労働者の生活は、最低限成り立っているのである。つまり、生活水準や生活必需品の物価水準を検証する必要があるのである。何を基準として低賃金としているのか、貨幣価値を基準とするだけでは、実際の賃金水準は、割り出せない。

 生活水準や個々の物価の水準を確かめないと一概に、所得が高いから豊かだとは決め付けられない。高額な商品を買えるのか、それとも高額な商品を買わされているのか。それは、その背景にある社会環境を検証しないとわからないのである。
 そして、何に価値観をおくのか。本当の豊かさとは何かの問題でもあるのである。その生活水準の基準こそが経済なのである。

 また、市場が国際化すれば、低水準な国の労働者の所得水準も上がってくる。そのうえで、本当の意味での競争力が問われるようになるのである。問題は、その過程で各国の市場や産業が荒廃することなのである。所得水準による競争力をどう調整するかが、重要な課題である。

 貨幣の流動性だけでなく、人間の流動性も問題である。経済学者は、貨幣の流動性を問題とするが、人的流動性はあまり問題としない。人的流動性は、労働市場を形成する。つまり、人的流動性というのは、労働の問題なのである。労働は、貨幣と違って互換性が乏しい。また、定量的と言うよりも定性的なものである。景気が悪くなったからと言って容易に流動的なものにはならないし、また、すべきでもない。また、労働を流動化するためには、労働を単位化する必要がある。そして、標準化、単一化、平準化する必要もある。それは、労働の民主化に逆行する。結局、労働の評価は、市場ではなく。共同体という機構の中で為されるべきなのである。つまり、人事評価の仕組みは、構造的な体刑、制度に依って為されるべきものである。

 均衡した状態と不均衡な状態が混在するそれが経済である。熱力学同様、均衡を求める一方で、不均衡な状態が活力を生み出す。経済政策とは、常に、均衡した状態を前提として、不均衡な状態を作り出す事で経済を活性化するのである。

 均衡状態には、拡大均衡と、縮小均衡とがある。拡大均衡のみを前提とすべきではない。

 経済は、均衡しないという事を前提とすべきなのである。常に均衡状態を前提とすると経済は不活性化する。過剰なところと不足しているところが、常に、混在していて、総体として均衡しているのに過ぎないのである。つまり、収支、損益は一定しない。どこかで帳尻を合わせざるを得なくなる。それが大前提だと言う事である。儲かる時もあるし、儲からない時もある。

 国家は、自律的組織の集合体とすべきなのである。
 組織は、経済的に自律する必要がある。

 国家財政を考える上で、重要な問題は、官僚組織の効率性である。つまり、組織が自律的に機能する事なのである。ここで言う効率性とは、合目的的な意味である。官僚組織は、国家目的に対して、効率的であるべきなのである。

 組織の肥大化は、組織の自律性を損なう。

 官僚組織や軍隊のような組織は、組織自体が経済的に自律し、組織を維持、防御するための活動をする。官僚組織や軍隊という巨大組織は、特に、この傾向が強い。時として国益や国民の利益を犠牲にしてでも、自分達の組織の維持を企てる傾向がある。
 組織が自律的に機能する規模には限界がある。その限界は、情報の伝達速度と範囲によって制約されている。集権的組織は、一定の規模を越えると急速に自律性を失い、最後には制御が不能な状態になる。また、制御不能な組織は自己増殖を始める。

 郷土料理店のような店が廃れて、チェーン店のような店に全国が席巻された状態が経済的に良い状態といえるのであろうか。現代社会は、何でも単一化、標準化すればいいと言う傾向がある。地域の特性や個性を全ておしなべて同一してしまう。それを平等だと錯覚している。言葉も標準語にて単に統一すればいい。また、英語に統一すればいい。服も、民族衣装や地域固有の衣装は廃れてしまいつつある。しかし、それは、ある意味で文明、文化の否定でもある。
 また、規模も統一化に従って巨大化する傾向がある。日本の市場もM&Aによってどんどんと独占化、寡占化されている。その旗振りを市場原理主義者が行っているのは、皮肉なことに見えるが、実際は、確信犯ではないのかと思わせる。市場の独占、寡占は、市場の終焉を意味する。つまり、市場原理主義者というのは欺瞞に満ちているという事である。
 スケールメリット、大きければいい。安ければいい。画一的な方が良いという価値観だけになれば、経済は自ずと停滞する。市場を維持するには、適正な価格を維持することに尽きる。不当に安いというのは、不当廉売であり、独占と同じように悪い事だという認識があった。それにあえて目を瞑る意図はどこにあるのか。
 組織の単一化は、即ち、独裁体制を意味する。市場経済を旨とする資本主義に矛盾することである。しかし、市場に規律、秩序がなくなれば市場は自ずと独占・寡占状態になるのである。

 現代社会はゆとりを認めない。現代社会の効率性というのは、徹底的にゆとりを排除したところに成り立っている。

 もう一つ、極端な格差や差別は、構造を硬直化させ、破壊する原因となることを忘れてはならない。構造が維持されるのは、構造内部を自由に行き来できることが大前提なのである。人の置かれている位置が硬直化されれば、構造は自壊するのである。
 格差や差別は、地域の治安を悪化させると同時に、経済の活力を奪う。それは、優位に立ったつもりでいる人間に対しても常に危うい状態なのである。

 市場も、産業も、家計も、財政も外的な衝撃によって打撃を受ける。その衝撃をいかに弱め、国内の市場や産業、家計、財政を保護するか、しかも、市場を閉ざさずにでである。それが、重大な課題なのである。
 以前は、その衝撃を弱める役割を、中小企業がその役割を担ってきた。しかし、中小企業も近年では疲弊しその役割が果たせなくなってきた。これからは、金融や産業、そして、国家がその役割を果たしていく必要がある。それを忘れて、自分達の利益だけを追求すれば、国家経済は成り立たなくなることを忘れてはならない。

市場は文化の発信場である

 市場は、文化である。古来、市場は、文化の源泉だった。多くの文化が市場から生み出された。
 現代、市場からその文化が失われつつある。それは、市場から魂が失われていくことを意味している。

 経済的効率というと生産性ばかりを追求する傾向がある。経済は、量的な部分だけで成り立っているわけではない。質も重要なのである。
 例えば、小売業において生産性の効率ばかりを追求すると行き着くところは、ただっ広い倉庫のような空間に商品を並べておくだけで店員のいない店舗になってしまう。それを効率的というば確かに効率的なのだろう。しかし、野蛮である。
 確かに、小売業はそれで効率的になったかもしれないが、雇用は生まれない。雇用なき繁栄である。それは見せかけの繁栄に過ぎない。

 未来社会を描いた映画に出てくる人物を見ると不思議と服装が単一的な物であることに気がつく。何か、宇宙服のような物や制服のような物に統一されている。我々の嗜好が進んでいる方向を暗示している気がする。つまり、単一化、平準化された社会へと知らず知らずのうちに向かっていることである。
 皆、同じ服を着て、同じ物を食べ、同じ様な場所に住む。それが無意識のうちに描かれた未来像なのかもしれない。単色の世界、それが未来社会だというのだろうか。

 市場は一元的な場ではない。多様、多彩な場である。市場には、祭りや芝居小屋、旅芸人、盛り場が付き物であった。市場は、多彩で多様だから成り立つのである。

 少し前までは、世界には多彩な民族衣装があり、地域によって着る服も違っていた。それがいつの間にか、世界中、流行まで画一的になりつつある。知らず知らず嗜好まで平準化されつつある。それが市場の画一化、グローバル化の意味することなのであろうか。

 市場から人間の臭いが掻き消されてしまった。

 最近の人気スポットと言われる場所に行くと大概は、失望することになる。期待して実際に行ってみると、大概、無機質なビルに囲まれているか、また、ビルの中にある。
 確かに、ビルその物は、最新のデザインがされた建物なのだろうが、中に入ってみれば変哲のない空間に過ぎない。一種のオフィス街の一画である。すぐに飽きてしまう。長く住んで楽しめる場所ではない。時間や歴史を感じさせるものはどこにもない。言われてみれば、確かに、前衛的な空間なのだろう。無味無臭、汚れはないが、同様に、生き物の臭いもない。私には、衛生的かもしれないが、清潔には見えない。
 町並みが失われ、無味乾燥なビル群に取って代わられた。小粋な店に変わって内装だけが凝った店がオフィスビルの中に並ぶ。
 華やかに彩られてはいるが、何か色褪せて見えるのは気のせいだろうか。人間の温もりが感じられないのである。

 現代人は、市場を単一で画一された場だと錯覚している。市場は単一の場ではなく。集合した場である。また、市場は多様で多彩な場である。市場は、多様で多彩だから成り立つのだとも言える。
 市場は絶対的な基準で成り立っているわけではない。
 成熟度、市場の仕組み、市場を構成する経営主体の構造、市場が成立した歴史や文化などによってその有り様は変えるべきなのである。

 産業は、無数の市場によって構成されている。経営主体は、市場という海に散在する島や大陸のようなものである。

 同じ産業に属すると見なされる企業でも市場が違うとその経営構造や収益構造に違いが出る。
 例えば、売上である。売上は、経営主体の規模に関係した指標である。売上利益率は、同じ産業内でも製造、卸、販売と言った段階によって違ってくる。そして、各々の段階に市場が介在する。
 原価構成と収益構造もそれぞれの局面によって違ってくる。例えば自動車産業のような産業は、原材料や部品の種類の数だけ市場が姉といっても過言ではない。
 損益の分岐点にも違いがある。また、損益の分岐の構造によっても市場の有り様は微妙に変化する。
 企業形態にも当然違いがある。一口に料理屋、レストランと言っても和食屋もあれば洋食屋もある。和食の中でも寿司屋、そば屋、割烹では、市場が違う。高級料亭と居酒屋では、客層も市場の有り様も違う。この様に千差万別の市場を画一的に捉えることほど馬鹿げていて危険なことはない。
 歴史や伝統、仕来りも大切な要素である。市場を生み出しているのは人間である。市場には人間模様がある。

 機能、現象ばかりにとらわれてはならない。その背後にある仕組みや構造が重要なのである。なぜならば、機能や現象は、相対的であり、機能や現象だけで成り立っているのではなく。機能や現象の背後にある仕組みや構造が前提となって成り立っているからである。

 競争を市場の原理だとして市場を競争の場、闘争の場に化してしまったことにある。
 競争は、手段であって目的ではない。手段である競争が目的化することによって市場は変質してしまったのである。そして、市場は修羅場と化してしまった。
 市場は、本来、交流の場、交易の場である。市場は、出逢いの場である。市場で人々は、出逢い、情報や必要な物資を交換した。人々が安心して交流、交換できる場が市場だった。
 ところが現在、市場は交流の場でなくなり、争いの場に変質したのである。そして、話し合う事も協調することも許されなくなってしまった。
 挙げ句の果てに、市場は、無政府主義に支配され、無法状態となり、規律も秩序も失われたのである。
 そこにあるのは、弱肉強食の世界であり、強い者だけが勝ち残る世界である。そして、市場は荒れ果て、殺伐とした空間になってしまった。それを自由というのだろうか。

 競争は大切だけれど無意味な競争によって潰し合うことは何の益もない。無益で無駄な争いは避けるべきなのである。

 競争が全てではない。競争は一手段に過ぎない。競争は、市場を活性化したり、技術革新を促進するためには、有効な手段である。
 しかし、だからといって競争が全てではない。競争が唯一つの手段だと言う事ではない。市場に急激な変化が起こったり、また、歪みが生じたり、圧倒的な力の差があったり、格差が生じたりした場合、競争を一時抑制し、体勢を立て直したり、養生することも必要である。話し合いをしたり、協定をすることが一概に悪いと決め付けるべきではない。頭から話し合いを否定し、競争だけを絶対的手段とするのは、一種の信仰に近い。

 収益もまた手段である。収益は、会社を経営していく上での一つの目安、基準である。それはそれで大切である。しかし、目的ではない。
 市場の荒廃は、手段である種益、利益が目的化し、経営の全てを支配していることにある。ここでもまた、手段と目的とを取り違えられている。
 大体利益は、作られた概念である。人為的な概念である上に、善悪とは別の尺度である。それが利益を上げる事があたかも自然の真理のように扱われ、挙げ句、善悪で判断されるようになってしまった。

 初期投資と運転資金、それに見合う収益構造が肝心要なのである。つまり、投資と回収の関係である。そして、投資や運転費用、収益構造は、担任貨幣的問題だけでなく。人、物、金の問題でもあるのである。

 最初の投入された資源(人・物・金)をいかに回収し、利潤をあげるかの問題である。そして、いかに資源を分配するかの問題である。
 初期投資というのは、何も資金だけを指して言うわけではない。投資で実質的な部分は、人的投資、物的投資である。

 その計算を可能とするためには、経済的価値に時間軸を加える必要があったのである。時間価値の元となったのが、価値の保存性、即ち、貯蓄性である。

 そして、この価値の保存性が経済的価値に時間軸を加えることとなる。そして、時間軸が加わることによって投資という概念が成立するのである。

 投資という概念は、貨幣価値が市場に時間価値を附加したことによって生じた概念である。そして、利益や金利は、時間価値を意味する概念である。
 投資と費用の繰延という技術が発達することによって、国家以外の経済主体が巨大事業を実行することが可能となったのである。それが期間損益である。

 貨幣経済の拡大は、市場経済を拡大し、市場経済の拡大は、貨幣経済の拡大を促した。しかし、最初から市場と貨幣連動していたわけではない。

 貨幣経済が市場経済に浸透する以前は、現在的な価値しか経済的価値として認識されていなかった。
 貨幣経済が市場に浸透する以前は、物々交換が主だった。つまり、貨幣が介在する必然性はなかったのである。特定の市場の範囲内で取り引きが完結していたら、貨幣は、必要とされない。

 第二次世界大戦終戦直後の混乱期の日本、ドイツや社会主義体制崩壊直後のロシアなどで、タバコが貨幣の代用品とされた例も記録されている。(「戦後世界経済史」猪木武徳著 中公新書)

 貨幣経済が浸透する以前には、時間価値が経済にはなく。その時点その時点での消費、即ち、現在的価値しか問題にならなかった。
 この様な市場経済では、物的交換が問題とされるだけで、時間的交換は、経済的価値を持たない。時間的交換が経済的価値を持つようになるのは、価値を繰り延べることが可能になることが前提となる。
 それを可能としたのは、時間的価値であり、貨幣が、価値を繰り延べることによって時間的価値が市場において決定的な働きをする様になったのである。そして、それは空間的価値にも敷延化されたのである。それによって経済は、投資による価値の増殖を専らにするようになった。

 投資という概念が加わることによって、経済は、専ら、初期に大量の資源を集中的な投下することが可能となったのである。一時に、大量の資源を、集中的に投下することを可能としたのは、貨幣価値に基づく期間損益という思想である。
 近代的大事業には、大量の物的資源と長期にわたる人的資源の活用がある。これらの経済的価値をいかに時間的に繰り延べるのかが、事業の成否の鍵を握っていた。その働きを担って成立したのが貨幣である。つまり、経済的価値の繰延という働きが重要な要素となる。会計的思想は、資源の経済的価値の時間的配分を可能とした。それが、減価償却、期間損益、金利、利潤という会計的思想である。会計思想は、貨幣の働きを前提として成り立っているのである。
 貨幣経済が発達したお陰で物的、人的資源を大量に必要とする事業が成り立つようになったのである。それが近代という時代の扉を開いたのである。

 市場が飽和状態に陥ると企業は上昇する費用を収益によって吸収しきれなくなる。そうなると企業は、最初は会計処理によって解消しようとするが、それにも限界がある。多くの企業は、本業以外の所で収益をあげざるをえなくなる。それが、多角化であり、財テクである。一口に、多角化と言っても、経験やノウハウの蓄積がないから、短期間で軌道に乗せるのは困難である。短兵急に利益を上げようとすることによって多くの企業は財テクに走り、また、そうしないと生き残れなくなる。それが過剰流動性の原因となるのである。

 市場が成熟してくると多くの企業は思うように収益があげられなくなる。企業が収益を思うように上げられなくなると金融機関は、優良な投資先が見つからなくなる。優良な投資先がなくなると金融市場で資金だけ頃がして運用益を得ようとする。その結果、レバレッジを高くするのである。金融市場による運用で手っ取り早く利益を得ようとすれば、実物市場に資金が廻らなくなる。資金が廻らなくなれば、実物市場は涸れてしまうのである。
 実物市場に資金が流れないことが問題なのである。なぜ、実物市場に資金が廻らなくなるのか、それは、産業や市場の構造に問題があるからである。
 市場の根本にあるひずみやゆがみをよくしていかない限り、経済はよくならない。
 それは、個々の経営主体の問題と言うより、構造的な問題、市場の歪みや市場の仕組み、経営主体の収益構造に問題があるといえる。経営者の倫理も大切だが、人間が人間として生きられる環境を整備することはそれ以上に大切なのである。
 資金は、流体である。資金を流すためには、仕組みが必要である。水が高きから低きに流れるように、資金の流れにも法則がある。だから、市場では、所得や物価、為替の水準のような水準と収益構造、それと、流れる方向、力の方向、位置エネルギーが重要なのである。

 企業が血の滲む経費削減をしても、収益に上乗せすることをマスメディアは、許さない。費用の上昇を価格に転嫁する事を罪悪のように囃し立てる。結局あらゆる努力は収益に還元できなくなる。

 この様な市場においては、変化しか価値を認められなくなる。市場価値は、変化でしか生まれなくなるのである。その変化も、成長、発展、拡大という一方向の変化でしかない。停滞や、縮小、成熟や、休止は認められないのである。そして、それは絶え間ない市場の拡大と、経済の成長を前提とする。ひたすら、休むことなく前進する事が強要される世界である。

 この様な世界では、古い物、伝統的な物、ゆっくりとして物は、淘汰されてしまう。短い周期で目まぐるしく新しい物が生まれては消えていく社会を現出する。しかし、老舗には、老舗の役割がある。古いものは駄目でと片付けるのは乱暴すぎる。市場の本質は多様性である。多くの中から選択することが可能であるから、市場は成り立っているのである。なぜならば、市場取り引きの本質は交換だからである。

 個としての自分を個としてしか認識できなくなれば、他者との関係は失われていく。その典型が、血縁関係である。血縁関係の喪失は、家族の崩壊を招いた。
: 経済の根底は人間関係である。そして、人間関係は、是か非か、、善か悪かといった人間論的に単純に割り切れる世界ではない。

 利益集団の基礎的な部分から血縁的な要素が除かれてしまった。しかし、血縁関係というのは、排除しきれる要素ではない。

 人間の営みの究極的な目的は、幸福にある。人間を幸福にすることにある。欲望も、国家も、政治も、経済も、科学も、技術も、人間を幸福にするための手段であるはずである。ところがその手段であるはずの事象がいつの間にか目的化して人間を不幸にしている。

 家族を幸せにすることが目的であったはずなのに、いつの間にか、家族を犠牲にし、挙げ句の果てに家族の崩壊を招いている。それが現代社会の実相ではないのか。

 我々は、先ず現実を受け容れるべきなのである。そして、在るべき姿を再構築すべきなのである。それが始まりである。

 人生、いかに生きるべきか。そして、家族とは、どの様にあるべきか。地域社会に何を求め、何を期待すべきなのか。仕事とは、何か。職場とは何か。そして、国家はどうあるべきなのか。世界平和を実現するために、何が必要なのか。

 先ずどの様な国家、社会にするのかと言った世界観が前提となる。そして、どの様な市場にすべきかの構想を描く必要がある。その上に立ってどの様な産業、企業にするのかを決める事ができるのである。
 最初に競争ありきという発想そのものが間違っている。

 市場は、世界観、国家構想に基づいて、目的、機能、役割によって設計され構築されるべき仕組みなのである。市場は仕組みである。先ずなければならないのは、どの様な世界、社会にしたいかである。

 経済とは、人々の日々の営みである。その人々の営みを成り立たせるために、「お金」はある。「お金」の為に、人々の営みが成り立たなくなったら、それこそ本末が転倒しているのである。

 現代社会は、人間不信に犯されている。経営者や指導者は、皆、独裁者、ワンマンの極致であるようにいわれ。商売人は、全て、詐欺師、ペテン師であり、銀行家は、強欲で、政治家は、不誠実、不正直。現代人は、そう思い込んで騙されないようにと絶えず身構えている。人を信じる事は、愚かなことだと信じ込まされている。しかし、本当に、世の中の人間は信じられないのであろうか。

 皮肉なことに、信用を土台とした市場経済や貨幣経済が人々の猜疑心を育み、人間不信を市場に蔓延させている。

 現代人、中でも、欧米人は、対立的概念を軸にして二元的に物事を解析しようとする癖がある。
 一つの対象を一つの基準によってそれに属するものと属さない物として区分することには意味がある。しかし、それを一律に対立的なものと規定するのには無理がある。

 その好例が弁証法的手法である。唯物的であるか非唯物論的であるかと言った論理展開である。しかし、現実の世界は、対象と非対象と言ったように区分できるほど単純ではない。この様な区分の仕方には、悪意のようなものを感じることすらある。
 体制と反体制。権威主義と反権威主義。そして、反するものを是とする風潮が敗戦後の日本には濃厚にある。メディアも言論も反体制的、反権威的であれば、無難である。無責任でいられる。そして、叛逆、反抗を奨励する。強圧的な体制に対して命を賭して義を貫くのは勇気のいることである。しかし、付和雷同して自制する者に、ただ逆らうのは軽薄なだけである。檻の中の虎をからかったとしても勇気ある行動とは言えない。

 対立軸を中心にして対象を区分する。例えば、経営者と対立する概念として、労働者を配置する。男と対立する概念として女を配置する。果ては、政治思想を右翼か、左翼かで片付けてしまう。

 そして、それを漠然とした基準で善悪に結び付けている。善悪を分ける基準に蘇師たる根拠があるとは思えない。極端な話し、西洋的か、反西洋的か、或いは、近代的か、反近代的か、又は、科学的か、反科学的か、主観的か、客観的かと言う尺度である。
 しかし、この様に、二項対立的に捉えた上で、一方的善悪に区分してしまうことは問題である。一方が善でもう一方が悪であるという対立を決定的なものにしてしまう危険性があるからである。この様な捉え方は、一度生じた対立を決定的な対立としてしまい。両者に妥協点をなくさせてしまう。
 二者択一的な考え方からは、真実の姿は浮かび上がってこない。

 例えて言えば、市場と統制、市場と政府、市場と計画といった問題を対立的に捉え、不毛な議論を繰り返すことである。
 或いは、公と私を相容れない物として分けて考えたり、民営か公営、国営かという議論である。民営と公営の違いはどこにあるのかを見極めないで、ただ、善か悪かを論じること程、虚しいことはない。
 自由貿易と保護貿易も同様である。何をもって自由貿易というのか、何をもって保護貿易というのか。
 競争と規制は、背反的な事象ではない。自由主義体制と社会主義体制は、両立しないのか。保守か革新かと反目することにどれ程の意味があるのか。
 集権と分権かも同様である。何を基準として、何を前提として集権とし、分権とするのか。そして、何をもって是とし、何をもって非とするのか。

 観念は意識によって生まれる。意識は、認識によって生じる。認識は、相対的なものである。対象に対する認識は、前提と設定によって違ってくるのである。

 同じ二元論的な考え方に、中国の陰陽思想がある。しかし、陰陽思想というのは、必ずしも陰と陽とを対立したものとして見なしてはいない。陰陽を変化の実相として捉えているのである。

 経営主体の分裂は、本来運命を共有しているはずの経営者と労働者とを分裂し、対立させることを意味する。
 現代思想の多くは、家族という存在を否定している。それが東洋的思想と相容れない部分でもある。

 仁義、親孝行、忠義、礼節、中庸という徳目は、頭から否定されているのが現在である。しかし、この様な思想は、何千年も前に中国で生まれ、現代に至るまで継承され続けてきたことを忘れてはならない。

 人と人とを結び付け、人間関係を形成していく源は、本来、共鳴共感にある。要は、愛情にある。対立や憎しみからは、人間関係は生まれない。対立を軸とした思想から脱却し、お互いを慈しみ合い、愛し合うことを前提とした社会の構築を目指さない限り、人類の未来はない。その様な前提に立つと、市場は、闘争、競争の場から交換、交流の場へと本来の姿に立ち戻っていく必要がある。









                    


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