相対主義

対象の存在は絶対であり、認識は、相対的である。

 対象の存在は絶対であり、認識は、相対的である。
 相対的と言った時、多くの人は、絶対的なものを否定する事によって相対的という概念が成り立っていると誤解している。相対的と言う概念は、絶対性を否定しているのではなく。絶対的な存在を前提としている。つまり、絶対と相対は、背反的な概念ではなく。補完的な概念である。全てが相対的だと言っているのではない。認識が相対的だと言っているのである。

 絶対的な存在は神の下へ。だから残された認識上の問題は、相対的なものになる。人間の意識は、不完全なものである。完全無欠な意識は神の意識である。人間は、分別を付けなければ対象を識別できない。それ故に、意識が働いた瞬間から対象の認識は相対化する。故に、絶対的な物が存在しないのではない。意識の働きが、対象を相対化しているのに過ぎない。それを前提として、対象を相対的な物として捉えていくのが相対主義であり、科学的認識の大前提である。故に、科学は相対主義なのである。

 経済的現象は、認識の問題である。
 経済の原則にしても、自然の法則にしても、仮に、こうだ、あるいは、そうあると定めた命題や方程式に基づいているに過ぎない。科学は、仮説を基として組み立てられている論理体系である。命題も定義された言葉によって成り立っている。そして、自明とか、所与、任意という前提に基ずくのである。

 経済は、観念が生み出したものである。人為的な世界である。貨幣経済下にあると貨幣価値は絶対的価値、全てに優先する価値のように見える。恐慌も、株の下落も、あたかも自然災害のように見える。しかし、暮らしの実体というものには、根本的な差はない。物の生産力や消費、必要性というものには、大きな差はないのに、景気だけが良くなったり、悪くなったりする。それは、貨幣の振る舞いが景気を操っているのである。物が溢れているのに、人々の暮らしが貧しいというのは、なぜなのか。よく考えてみよう。それを解明するのが経済学の仕事である。

 まるで、好況も不況も夢のようである。しかし、その白日夢が現実となり、戦争や内乱、革命、貧困の素となるのならば、事は深刻である。

 なぜ、貧困が生まれるのか。貧困とは何か。それは、人間の意識の深層にある。貧困や戦争の根本原因は、真理の側にあるのではなく。人間の側にあるのである。
 貧困を生み出すのも、差別を生み出すのも、人間の意識、即ち、認識の結果である。そして、その認識が分配に影響を与えるのである。それは、人間の制度を作るのも運用するのも人間であり、人間の意識だからである。貧困を生み出す仕組みも差別を生み出す仕組みも本を正せば人間が創り出したものである。自然に出来上がったものでも、神が創りだしたものでもない。いうなれば人間の失敗なのである。それを正せるのも人間なのである。貧困もまた相対的なものである。

 経済にも、絶対的な力というものは、少なくとも認識できない。経済的な力、及び、力が生み出す作用は、相対的なものである。

 現在の経済を動かしている原動力は差が生み出しているのである。差というのはどこから生じるか、それは位置から生じるのである。つまり、相対的なものである。
 差が生み出し位置が、ここの要素間の関係を決める。関係が決まると相互の作用、働きが明らかになる。ただし、これは認識上の問題である。実際にその認識が正しいかどうかは、現象に照らし合わせてみないとわからない。これが論理実証主義である。

 位置が関係を成立させ、関係が運動、働きを生み、運動は位置を変える。

 対象の運動は、単独で認識することはできない。対象の運動は、他の対象と関係付けられて認識される。その際、ある対象の動きに球対象が影響していると認識された場合、対象間には何等かの力が働いているとするのである。

 そして、相対的認識とは、対象間を関係付ける事によって成立するのである。特に、基本や原点を定めると基準が設定される。

 経済的価値は、相互に関連している。人間は一人では生きられない。人間は、お互いに助け合わなければ生きていけないのである。その人間関係こそ、経済の在り方を方向付ける。個人の生き様を決めるのである。

 人と人との関係には、父と子があり、母と子があり、妻と夫があり、友があり、同僚があり、仲間があり、同志がいて、仇がいて、敵がいる。人と人との間に働く力には、愛があり、憎しみがあり、恨みがあり、信頼があり、情があり、敵意がある。しかし、関係は相対的であり、絶対的な関係は誰にもわからない。それは神の領域である。

 資産と負債は相互に関連している。資産は負債の裏付けになり、負債は、資産を購入する原資となる。資産の時価と負債が微妙に影響し合って経営を下支えする。資産と負債の危うい均衡の上に経営は成り立っているのである。

 位置と運動と関係が定まると対象や現象は、空間的位置と運動と関係の問題に還元される。更に、時間的位置と運動と関係に還元される。時間的な位置と運動、関係に還元されると変化が明らかになる。変化によって空間を支配する法則や構成する構造が解明される。

 位置を定め、関係をつけ、運動を起こすのは、前提条件である。位置も、関係も、運動も相対的なものであり、認識上の問題であるから、前提が変われば違うものになるからである。故に、何を前提とするかが、決定的な要因となる。それが相対主義である。

 前提条件は、命題として表現される。前提条件は、命題によって定義される。前提条件は定義である。

 中流も上流から見れば、下流であり。下流から見れば上流である。全ては相対的位置によって定まる。問題は、何を前提とするかである。それは自分の立ち位置が決める。

 位置を構成するのは、要素間の差や距離である。運動は、動き、働き、変化である。関係には、支配、従属、対等、相互牽制、反発、斥力、引力、結合などがある。
 運動や関係には、力が働いている。力は、作用や働きになる。作用や働きは、機能、役割から生じる。この様な力も認識の問題であり、相対的である。絶対的な力というものは、認識できない。それは神の領域である。

 運動は変化である。時間は、変化の単位である。故に、運動は、時間の関数である。運動に対する認識も相対的なものである。故に、相対的な認識には、時間的変化も含まれる。

 不易、変わらないところと、変易、変わり続けるところがある。変わらないところと変わり続けるところを分かつのは、易簡、即ち、意識である。不変も変化も所詮は、認識の問題である。それが相対の問題である。

 変易、即ち、変わり続ける部分、不易、変わらない部分、易簡、それを意識する者がある。物事には、陰陽がある。何を陰とし、何を陽とするかは、認識の問題である。

 経済にも、変わり続ける部分がある。変わらない部分がある。しかし、それをどう受け止めるかによって経済に対する解釈が変わってくる。解釈が違えば対策も違ってくる。

 時間は、因果を生む。つまり、時間的関係は、原因と結果という関係を成立させる。

 現代の経済は、変化を前提としている。万物流転。諸行無常。永遠不滅。完全無欠。全知全能、無限、不変は神の領域である。
 現代経済は、変化を前提とし、相対的な価値に基づいている。現代は、経済を動的な現象として認識している。そして、その変化は、時間的価値を構成する。時間的価値は、変化を意味し、拡大、発展、成長を前提として経済は成り立っている。
 しかし、その発展、成長も相対的である。つまり、何を前提とするかによって拡大成長の意味も違ってくる。
 例えば、名目、実質の違いである。仮に、外見的数値、名目的には成長しているように見える経済でも物価上昇率を勘案、差し引くと横這いであったり、場合には下降していることもある。この様に、経済の変化は、相対的なものである。

 経済発展や成長は、相対的なものである。つまり、絶対的な成長も発展もない。成長や発展は、前提条件によって違ってくる。
 現代経済で問題なのは、成長、発展、拡大を自己目的化し、それが経済の本質、摂理、原理だと決め付けていることなのである。
 現代の日本のように、成長段階から成熟期に移行しつつある国では、むしろ、経済成長が止まり、成熟した市場、経済にどう対処していくかの法が重要なのである。

 市場が成熟期に至ったら、問題となるのは絶対数ではなく。相対数である。つまり、獲得量よりも、分け前が重要になるのである。絶対量や絶対額よりも配分、比率が重要となる。

 変化は、格差を潜在化させ、停滞は、格差を顕在化させる。変化は、運動に基づき、停滞は、位置を固定するである。

作用反作用


 自己は、主体的存在であると同時に、間接的認識対象であるから、認識は、自己の内部と外部に同時に働きかける。これが認識の作用反作用である。

 相対的な認識は、認識上における作用反作用を起こす。
 借入と貸出、預金と借入、売りと買い、売掛金と買掛金、受取手形と支払手形、先渡しと先受け、前渡しと前受け、収入と支出、所得と費用これらは、作用反作用の関係にある。そして、この様な作用は、自と他の関係より生じる。自と他の関係は、内と外との関係にもなる。
 自分からみれば、借入は、他からみれば、貸出である。自分からみると預金は、金融機関からみると借入であり、自分からみれば所得は、他からみれば、費用である。自分からみると費用でも相手からみると所得である。
 そして、これらが自己の内部で均衡しているかどうかが問題なのである。

 作用には、同時に、方向の逆方向の作用が働いている。そして、その力の強い方に運動をするとみなすのである。ただし、運動は、常に安定、即ち、均衡を求めているとみなすのである。それを前提として、経済運動を見ると経済は、一定の波をうつのが認識される。

 相対的な認識が端的に現れるのは、為替の動きである。そして、この為替の動きは、市場の貨幣価値に影響を及ぼす。即ち、輸入品、輸出品の単価の変数を変動させるのである。それによって国内物価を変動させ、輸入量に影響を及ぼす。
 円がドルに対して上昇すれば円高、ドル安であり。下降すれば、円安ドル高である。円とドルとは作用反作用の関係にある。
 つまり、為替の変動は、輸出と輸入の各要素に対して作用、反作用の効果をもたらすのである。
 円高になれば輸入物価は下降し、輸出品は安くなる。円安になれば、輸入物価は、上昇し、輸出品は高くなる。上がれば下がり、下がれば上がる。しかし、物には変わりはない。それを高いと感じるか、安いと感じるかは、人それぞれである。つまり、認識の問題である。認識の問題であるが、それが価格に転嫁されることによって実際の企業や経済の好不況が決定的になるのである。

 収支を基本とせずに損益を基本とすべきである。利益と損失は、相反する作用である。利益がなければ損失が生じ、損失がなければ利益が生じる。利益と損失が均衡すると利益も損失も消える。故に、利益も損失も相対的な概念である。損したと思うか、得したと思うかは、その人次第。それが経済の源である。

 所得と費用は、作用反作用の関係にある。つまり、認識の問題である。視点によって費用は、所得となり、所得は費用となる。費用を削減することは、所得を削減することであり、所得を削減することは費用を削減することである。故に、ある企業が費用を削減することは、外部の所得を減らすことになる。費用を増やすことは、所得を増やすことになる。人を雇うことは、人件費を増加させるが、所得を増やすことでもある。

 所得と費用は、作用反作用の関係にある。つまり、表裏の関係にある。故に、社会全体として所得と費用は、等しい。という事は、社会全体では、所得と費用は、均衡して利益が出なくなる。では利益は、どの様にして生じるのかというと、費用を将来に繰延、収益をその取引が実現したところで認識することによって生じる。即ち、借金、負債によって生じるのである。
 債務は、支払、即ち、費用の将来への繰延に過ぎない。故に、債務の増大は、過去の支払、即ち、返済の累積を招くことを意味する。それは、必然的に可処分所得を圧迫する。

 税は、反対給付を必要としていない。

 税以外で、反対給付のない収入は、神へのお布施、寄進と略奪、強奪である。
 強奪、略奪なとどというと何か、異常なことのように感じるが、帝国主義時代、植民地主義時代には、別に特別なことではなかった。奴隷制度も然りである。国家による山賊行為や海賊行為は、極有り触れたことだったのである。

 税以外で反対給付のない収入がお布施か略奪というのは、税の本質を表している。税は、慈悲にも、暴虐にも変じるのである。そして、その在り方が国家の在り方を明らかにする。国家は、神の慈悲を表すものなのか、それとも、暴虐な存在となるかなのである。
 それは、税は、反対給付を期待せずに、その使い道にこそ、国家の理念が現れるからである。国民の福利のために税が使われるのか、ただ、ひたすら軍事力に使われるのか、それによって国家の命運は定まる。むろん、国家、国民を護ることを否定しているわけではない。しかし、何が目的で何が手段かを正しく見極める必要があるという事である。

 税は、反対給付を必要としていない。
 故に、過大な出費がなければ、財政は、企業収益と違って負債を生じない。ただ、法貨は、公的債務を生じさせる。ただ、法貨は、金利と返済という義務を持たない、債務であるから、実質的な支払義務を持たない。法貨による公的債務は、信用枠の拡大を意味する。故に、財政制度そのものから負債は生じない。負債が生じるのは、財政の規模によってである。財政の規模による。
 国家の債務は、同時に国内の公的機関や企業、家計の債権、又は、外国の公的機関や企業、家計の債権となる。債務は、将来の支払、返済を伴うものであるから、財政の機能を制約し、規律を失わせる。故に、闇雲に膨張させるわけには行かない。

 財政を構成する働きは、軍事、行政、社会資本、所得の再分配、そして、景気対策である。しかし、この中の景気対策は、二義的な目的である。景気対策は、税制の仕組み、金融政策、公共事業を活用して通貨の流量や分配を調整する事によって行う。

 古来、財政を破綻する原因は、軍事と濫費であることを忘れてはならない。

相対的認識と経済


 経済的現象があることを前提とする。経済的現象は、認識上の問題である。故に、経済的価値は、相対的価値であり、絶対的価値ではない。意識が生み出しものである。観念的なものである。

 現代経済は、土地本位制度的なところがある。

 地代と利子、収益は、経済に時間的価値をもたらした。地代と利子、収益が成立したが故に、経済は、成長を始めた。そして、成長を前提としなければならなくなった。
 そう言う意味では、現在のゼロ金利下の日本は、革命的な実験を進行させていると言っても良い。ただ、無意識にではあるが・・・。

 地代と利子は、常に、金融制度の根幹をなしてきた。地代と、利子は、原因と結果の関係にある。

 土地と利子とは、相関関係にある。土地は、債務の担保になる。債務は、利子の原資となる。

 市場経済に構成するのは、取り引きである。現在の市場取り引きを経済的現象として認識する基準は、会計制度である。会計制度の文法は、複式簿記である。複式簿記の根本思想は、実現主義である。実現主義における基本は、取り引きの実現したとする認識である。取り引きが成立したと認識された時点で同量の貨幣価値を有する債権と債務が生じる。同時に、貨幣価値が示現する。それを象徴した物が現金である。現金と財との交換が成立した時点で取り引きは決済され完了する。

 取り引きは、財と貨幣との交換よって成立する。
 市場取り引きを成立する財には、名目的価値と実質的価値がある。名目的価値は、貨幣価値であり、実質的価値とは、財、そのものの価値を指して言う。財そのものの価値とは、財の使用価値であり、時価である。
 実体的な経済は、実質的価値に根ざしている。
 現金は、名目的に表される。故に、現金の裏付けは債務である。

 貨幣は投入した以上には増えない。貨幣価値を増殖するのは、時間と信用である。時間とは、時間価値である。時間価値と信用は、負債によって生じる。負債は、債務と債権からなる。

 実物貨幣の時代は、貨幣は、その時点その時点の決済の手段であった。しかし、信用貨幣の時代になると、貨幣価値には、時間軸が加わり、信用を創造するようになった。信用を創造することによって貨幣価値を何倍にも増殖することが可能となったのである。

 債権と債務は、認識の問題である。債権が生じると債務が生じる。債権が生じると債権が生じる。即ち、債権と債務は、作用反作用の関係にある。

 企業経営は、債務と債権の水準の均衡を前提としている。債権の水準が債務に対して相対的に低下すると経営は、不均衡になる。
 債権価値が低下すると債権の時間的な価値が期待できなくなると、債務の返済圧力が経営に覆い被さってくる。

 債権の対極にあるのは、債務である。債務の返済能力を保証しているのは、債権である。債権の価値が確定している流動性の高い財が良い事になる。そうなると一番良いのは、現金、及び、現金同等物であり、次ぎに、金融商品となる。
 不動産や実物のような債権は、不動産市場や実物市場の水準によって変化する。不動産市場や実物市場の動向によって不安定になる。また、価値を確定するのに時間が掛かる上、費用も掛かる。そうなると、なるべく実物資産は、持たない方が良いとなり、資産が圧縮される。
 債権者にとっては、債務者の返済能力が問題なのである。

 結局収益に不安があると金融機関は、貸し渋りをはじめる。余剰の資金があっても、実物経済には廻らなくなる。金融市場におけるバブル現象は、実物市場から資金を金融市場に吸い上げてしまう。その悪循環が、実物市場を奈落の底に突き落としていくのである。

 地価は、あらゆる経済の根源である。
 坪六千万円もする東京の銀座の土地は、収益還元法では、とても、採算がとれない。ビルを建てて賃貸しても、分譲にしても地価が高すぎて収支が合わないのである。(「日本経済 タブーの教科書」別冊宝島編集部編 宝島社)だとしたら、土地を転売するしかない。しかし、土地を転売しても土地の活用にはならない。要するに、土地が高すぎるが故に、土地を活用することができないのである。
 この様な現象が、事業にも起こりつつある。
 事業収益が、初期投資が大きくて収支が合わなくなってきているのである。しかし、金融的価値が発生する。

 土地の量には限りがある。それが債務を抑制する。不動産市場の限界と債務の圧力が相場の限界をもたらす。上昇し続ける相場はない。必ず逆方向の力が働いている。そうでなければ、それは異常であって市場の暴走である。
 
 土地は、無限にある物ではない。有限な物である。更に、市場に流通する土地は、限定される。この市場に流通する土地の量が最終的には、市場を規制する。
 土地は、現金をもたらすと同時に、債務と債権を同時に発生させる。この債権は、流動化されると債務と現金を創造する。また、債務には、金利が付き、時間価値が発生する。それが、バブルを発生させ、またバブルを崩壊させる。
 土地が取り引きされなければ、この様な現金や債権、債務は派生しない。ただ、潜在的にこれらの価値を蔵している。

 所得の水準が利益の水準を左右する。所得の水準は、市場の環境によって決まる。市場の環境は常に揺れ動いている。

 かつては、資産は財産であり、所有するだけで価値があった。しかし、現在は、債務の塊である。資産価値が下落すると債務の返済圧力が増す。

 貨幣価値というのは、認識によって成立する価値である。貨幣価値は意識の上に形成される。故に、貨幣価値には、時として残像を作る。貨幣に依らない経済は、物的空間の運に成り立つ。物と物との関係を基盤とする。故に、経済関係は、物が失われれば終了する。それに対して、貨幣価値は、物的な裏付けがなくても価値が残ることがある。その残像として残った価値が経済に重大な影響を及ぼすことがある。
 例えば地価である。バブル期に地価は高騰した。バブルが弾けると地価は下落したにもかかわらず、債務は残った。それが不良債権を形成したのである。ここにバブル崩壊後の価値の構造がある。即ち、地価の時価と地価の高騰時に残した債務残高、そして、不良債権である。時価と債務と債権、これがバブル崩壊が残した要素である。

 債務は名目的なもので変動がないのに対し、実質的価値である時価は、変動的なもので、その時点の相場に基づき激しく変動する。その為、バブル時に形成された地価は、債務として残され、時価と債務の乖離が資金の回収圧力として働いている。この圧力は、相場がバブル時の価格まで上昇するか、債務の返済が終了するまで働くことになる。
 それが景気に対する下降圧力になるのである。景気に対する下降圧力が働いているときは、収益は、圧迫される。かといって上昇圧力が強くなりすぎると景気は過熱し、インフレ懸念が高まる。要は、力の均衡が大切なのである。そして、景気を決定付ける圧力は、認識によって生まれる働きであることに注意する必要がある。景気は人間の意識が生み出す状態なのである。

 残像は、企業の利益にも重大な影響を与える。利益は、認識の問題である。収益は、変動的であるのに対して、費用は固定的である。そして、常に収益は、上昇することが期待されている。そして、費用は硬直的である。それに対して、現実の収益は、高下を繰り返している。高収益の時は、利益から分配されるが、収益が減少しても補填される部分は、小さい。しかも、市場は常に均衡を目指している。経営主体は、放置しておけば安定した収益があげられなくなる。経営は、利益が平準化することを望む。しかし、実際には、利益は不安定であり、利益が不安定だから景気も不安定になるのである。なぜならば、負債の返済は一定だからである。

 名目的価値と実質的価値の乖離も残像の原因となる。名目的価値と実質的価値の差は、認識の差によって生まれる。いずれにしても認識の問題である。しかし、認識の差であるが、意識の上にいろいろな錯覚を生み出す原因となる。例えば、インフレーションやデフレーションの中には、名目的な物価上昇率と実質的な物価上昇率に対する認識の違いによって生み出されるものもある。

 この様に、貨幣価値の残像はいろいろな経済的現象を引き起こす原因となる。
 景気は、人々の意識によって左右される部分や要素があることに注意する必要がある。

貨幣と相対的価値


 経済は、生活である。人々が生きる為の活動と、それを成り立たせている事柄である。経済の基本は、労働と分配である。
 貨幣は、その分配のための手段、道具に過ぎない。手段、道具であるから、貨幣に求められるのは、その働きと役割である。我々は、暑さ寒さから身を護るために、服を着るのである。服を着るために、生きているわけではない。飢えを凌ぐために、パンを食べるのである。パンのために生きているわけではない。何等かの目的を達成する為に自動車を運転するのであって、自動車を運転するために生きているわけではない。
 経済の本質は、生きる為の生業である。その為の道具が貨幣である。人間は、金のために生きているわけではない。

 経済的価値に絶対的価値はない。なぜならば、経済は認識上の所産だからである。故に、貨幣価値は、相対的価値である。貨幣価値は、数値によって表現される。故に、数値によって表現される貨幣価値は、相対数である。絶対数ではない。故に、比率が重要な要素になる。経済は、根本的に分配の問題なのである。

 経済的価値というのは、絶対的なものではなく。相対的なものである。我々は、経済的価値を絶対数で捉えがちだが、実際は、相対数であり、取り分の問題なのである。経済的価値は、認識の問題なのである。

 埋蔵金伝説が時々話題になり、宝探しが始まる。時には、テレビ局まで巻き込んで大がかりな、宝探しが始まる。なぜ、その様な宝探しが始まるかというと埋蔵金、例えば小判に価値があるからである。
 実物貨幣と違って、現金による箪笥預金は、現金の価値を失わせることなのである。

 現金とは、現在の価値を指し示している。それに対して、債務も債権も将来の価値を指し示している。債務の貨幣価値は、確定している。

 現金は、債務に対して減価し続ける。つまり、現金は、行使しないと損をするようにできているのである。減価し続ける現金の働きを維持するためには、現金を流通し続ける必要がある。現金を退蔵することは、それ自体貨幣価値を否定する事を意味する。価値を増殖させ続ける債務を維持し続けるためには、経済は、常に成長し続けなければならない。
 故に、現代経済は、名目的と雖も成長を前提としなければならない仕組みになっている。しかし、どんな成長にも限界がある。つまり、市場が過飽和になり、あるいは、債務が蓄積され、返済金額が嵩み、実質可処分所得が限界に達した時が来る。その時が問題なのである。

 貨幣は、流通することによって働きを発揮する。貨幣は、使用されることによって働きを発揮する。貨幣は取り引きされることによって働きを発揮する。故に、貨幣は常に循環させておく必要がある。

 アラビアのローレンスの映画の中でトルコ軍の金庫を開けた時、証書を引き出して紙切ればかりだと騒いでいるシーンがあった。使い道のない証書は無価値なのである。

 貨幣によって生じる価値には、貨幣そのものの価値と、陽の価値と、陰の価値がある。貨幣の陽の価値というのは、貨幣が指し示す物の貨幣価値であり、陰の価値というのは、貨幣が表示する現物である。そして、貨幣は、貨幣独自が持つ価値がある。つまり、価値するものと価値されるものと、価値そのものである。

 「お金」とは何か。「お金」は、手段、道具に過ぎない。「お金」に万能の力はない。金は、神ではないのである。しかし、拝金主義という思想がある。つまり、「お金」に万能の力がおりと思い込み。「お金」を神としてしまうのである。金は、相対的な尺度に過ぎない。金は、絶対不変な存在ではない。結局、金の魔力の虜になり、物事の本質を見失い。「お金」の奴隷になるだけである。大体、「お金」は、使わなければ効力を発揮する物ではない。「お金」は、使えばなくなるのである。「お金」を使わずに祈ったところで何の神力も発せず、効果も期待できないのである。しかも現金の価値は、どんどんと劣化していく。

 経済にとって何でも怖いのは、前提の間違いである。土地や資源は無限にあるとか、成長は永遠に続く、金には万能の力があると言った前提である。そして、これらの前提に共通しているのは、認識は相対的だとしながら、無限とか、永遠とか、不変と言った概念が入り込むことなのである。無限、永遠、不変は神の領域に属すもの。人間は、限りある時間の中で相対的なら認識の上に生きている。そのことを決して忘れてはならないのである。

 問題なのは、価値の一般的前提である。価値の一般的前提とは、価値を成立するための一般的前提条件である。つまり、どの様な前提の基に、どの様な価値を形成したかである。それによって、その後の論理の展開が確定する。

 貨幣を考える上で、紙幣と紙幣以前の紙幣とでは、本質が違うというという事を念頭に置いておく必要がある。金貨や銀貨は、実物貨幣である。それに対して、紙幣は、表象貨幣である。実物貨幣ではない。
 近代の貨幣経済は、紙幣を基盤として成り立っている。紙幣は、表象貨幣である。表象貨幣の成り立ちは、紙幣の成立による。つまり、近代の貨幣経済は、表象貨幣を基盤としているのである。
 では、紙幣とは何か。紙幣の成立させた要因は、一つは、金に対する預かり証である。第二は、国債である。即ち、借用書である。第三は、有価証券である。第四は、約束手形、支払手形である。第五は、為替手形である。第六は、小切手である。第七に、質券である。何れにしても証書である。
 この様な紙幣の成り立ちは、紙幣の持つ特性をよく表している。第一に、預かり証だと言う事は、金や預金と言った何等かの実体的裏付けを前提としているという事である。更に、、預金は本来、貯蓄手段でもある。
 紙幣が、金の預かり証だったと言う事は、金地金の預かり証は、常に、紙幣化する可能性を持つことを意味している。
 第二の、国債というのは、負債を根拠としているという点である。第三の有価証券というのは、資本を根拠としているという点である。第四の約束手形というのは、信用手段を意味し、支払手形というのは支払手段を意味している。第五の為替手形と言う事は、決済手段を意味している。第六の小切手という事は、交換手段であることを意味している。
 この様な紙幣を成立させた要因は、現在の貨幣の基本的機能を意味している。つまり、紙幣には、金の預かり証(資産)、借用書(負債)、有価証券(資本)、約束手形、為替手形、小切手(現金)の六つの物が持つ働きが隠されているとえるのである。貨幣経済を維持するためには、貨幣の持つ機能が発揮されることが、前提となる。
 財政赤字で最大の問題となるのは、貨幣の機能の一部が財政赤字によって圧迫され、あるいは毀損されることによって機能しなくなる場合である。財政赤字の本質は、貨幣の機能に求められるべきなのである。

 紙幣は、原則、融資によって発生する。貸し付けによって信用は生み出される。そう考えると金融機関の融資残高・貸付金残高の総和がその時点における信用の量の総和だといえる。
 融資によって信用は供与される。つまり、融資と言う行為がなければ、信用は創出されない。
 近年も消費的融資が増加している。好例が住宅ローンや自動車ローンである。消費的融資は、消費的債務や債権を発生させる。それは、消費経済の基盤を形成する。つまり、消費者ローンの在り方は、消費者の生活の在り方を根底から変えてしまう。

 近年、消費者向けの貸し付けは、いろいろな社会問題を引き起こしている。借金が払えずに、全財産を失ったり、あるいは、人生を破滅させ、自殺する者まで現れている。これらの問題を解決するには、最初に、何を前提とし、その前提とのどこが変化し、どこが崩れ、どこが問題なのかを正確に見極める必要がある。

 何を前提とし、何を担保していたかである。
 住宅ローンは、本来何を前提とするのか。地価なのか。返済能力なのか。ローン、即ち、借金は、本来、返済能力を土台にして設計されるものである。
 返済能力には、所得と資産がある。通常は、返済能力は、所得を基本とする。
 ところが、当初、所得を基礎にした貸し付けだったのが、不景気になると資産、即ち、担保力に信用の基盤を変更され、下落した地価を根拠に、一括返済を求められると、充分に返済能力があり、それまで、返済を滞った事もない者まで、生活や経営が破綻してしまう事になりかねない。
 しかも、その時には、担保力まで低下しているのである。最悪の時に最悪なことを要求する。だから、事態はますます悪化するのである。
 金融機関は、本来、資金が不足している者に資金を補填することが大前提である。返済が滞ってもいないのに、担保価値が目減りしたからといって返済を強要することは、金融が金融本来の機能を金融機関自体が否定したに等しい。

 不良債権問題を債権、債務、現在価値の問題に分解すると、債権は、住宅価格の問題であり。債務は、住宅ローンの問題です。そして、現在的価値は、返済資金の問題となります。
 サブプライム問題を解決するためには、返済資金、つまり、現在実現しうる貨幣価値を債権、債務の両面から捉える必要がある。その時、債権の裏付けである資産の変動性と負債の固定性をどう調和させて現在価値に集約するかが鍵となる。
 不良債権と、債権処理だけで解決しようとしても解決できるものではないと私は考えます。

 間接金融によって信用は創出されている。
 現在の金融危機の原因として、間接金融から直接金融へと言う流れが、市場経済の質的変化を引き起こした事が考えられる。貯蓄から投資へと消費者の選好が変質したことにより、信用の創出に陰りがでてきたことが背景にあると思われる。その為に、金融機関は、レパレッジ効果によって貸付残高を水増しせざるをえなくなる。それは、裏付けのない信用を前提としたものになる。
 2008年リーマンの破綻に端を発する金融危機の本質は、在りもしない信用を融資によって作り出し、ばらまいた事に端を発している。この様な金融機関の行為は自殺行為に等しい。

 もう一つ重要なのは、金利の存在である。金利は、貨幣価値が増殖したものであるが、その信用の裏付けは存在しない。つまり、貨幣の自己増殖なのである。故に、その分が信用不足を引き起こす。その不足は、新たな借入を起こして補う必要が生じる。その結果、発生した金利分、清算できない債務が累積することになる。
 金利が存在する限り、債務、債権の清算は不可能なのである。つまり、一定の債務の存在を前提としない限り、資金は循環し続けない。つまり、現在の貨幣経済は、借金、即ち、債権、債務が、一定量、常に存在し続けることを前提とした体制である。問題は、その債務の残高の水準である。

 貨幣経済が成立するためには、貨幣市場のが確立されていなければならない。貨幣経済が成立する要件は、第一に、貨幣の存在である。第二に、貨幣が社会に万遍なく浸透していることである。第三に、貨幣の価値が確立され、保証されていることである。第四に、貨幣の流通していることである。貨幣が流通しているという事は、貨幣が循環していることでもある。第五に、貨幣に基づく取り引きの存在である。つまり、貨幣が機能していることである。

 貨幣の生産者、発行者には、第一に、政府、第二に、中央銀行、第三に、中央銀行以外の金融機関、第四に、軍や中央政府以外の政府機関、第五に、それ以外の権力機関などである。

 現在は、一般に中央銀行が銀行の中枢、センター機能を持たせることによって金融の仕組みが構築されている。中央銀行は、紙幣の発券を独占している場合が多い。先ずなぜこの様な中央銀行を中心とした体制が敷かれるようになったかを考えてみる必要がある。

 政府が直接、貨幣を発行する権限を持つ制度も可能である。現実に、実物貨幣の時代には、よく見られた形態であり、また、有効であった。
 ただし、貨幣が紙幣が中心になり、実物貨幣から表象貨幣中心の仕組みに変化してくると、政府が通貨を直接供給する仕組みでは、通貨の循環や流通量を制御するのが難しくなる。
 政府が直接、貨幣を発行した場合、発行した貨幣の量だけ流通することとなると言う点である。貨幣を発行するだけでは、貨幣の流れを一方通行なものになる。何等かの回収機関がなければ、貨幣は循環しない。政府が、貨幣を回収する名目は税である。しかし、政府が税収を前提として貨幣を発行した場合でないと税と貨幣の供給は連動しない。
 貨幣が循環していないと通貨の流量を制御する事が困難になる。

 貨幣経済では、物価を安定させるためには、通貨の流量を管理、制御する必要がある。
 よって物価を安定させるためには、通貨の流通量を制御するための何等かの仕組みが必要となるのである。

 また、物価を安定させるためには、貨幣の信認が前提となる。

 貨幣の流れが循環しないと貨幣の流通する範囲が限定的となる。貨幣の流通する範囲が限定的となると貨幣を市場に浸透させるのが難しくなる。
 貨幣が市場に浸透しいないでその流通している部分や範囲が限定的なものであると貨幣の信認にも制限が生じる。
 それでも、実物貨幣のように貨幣の素材そのものが価値を持つ場合は、良いが、不兌換紙幣のように、貨幣が実質的価値を持たない場合は、紙幣の信認を得るのが難しい。

 物価の安定という点からも貨幣は循環している必要がある。
 貨幣の循環を促し、供給量を制御するためには、政府が直接通貨を発行する仕組みではなく。通貨を発行する主体を政府以外の主体においた方が機能的になる。そこから中央銀行は発生し、また、そこに中央銀行の役割機能が隠されている。

 つまり、中央銀行に紙幣の発券の権限を集中、独占させることは、通貨の流量を制御させることが、主たる目的なのである。

 余談だが、紙幣の信認を得るためには、貨幣価値の裏付けが必要となる。その為に、紙幣の価値の根拠は金が想定されていた。つまりも金を担保とした制度が金本位制なのである。金を担保としない不兌換紙幣制度では、国家権力による裏付けのない紙幣の貨幣価値は不安定なものにならざるをえないのである。

 また、貨幣経済が確立されるためには、貨幣だけが公認された交換手段である必要がある。
 不兌換紙幣は、国家権力以外なんの裏付けもない。この様な貨幣が、交換手段として働くためには、何等かの強制力が必要となる。言い換えると貨幣は、交換手段としての強制力を持たないと機能しないとも言える。
 その為には、貨幣は、国家が正式に承認した唯一の交換手段だと言える。逆に言うと国家が承認した交換手段を貨幣というとも言える。それが近代貨幣経済における貨幣の定義である。
 そして、この様な貨幣の性格から、発券主体は、統一され。今日の中央銀行方式が確立されたのである。

 中央銀行は、近代貨幣制度の要である。紙幣の価値を維持するために、中央銀行は機能していると言っても過言ではない。

 近代貨幣経済は、国民国家という枠組みの中で成立し、機能した。不兌換紙幣は、国民国家だからこそ成り立つのである。なぜならば、紙幣は、国民的合意と信認の上でのみ成立する制度だからである。

 近代貨幣経済のリテラシーは、近代会計制度である。近代貨幣経済は、近代会計制度の文脈の上に経済現象として表される。

 経済の歪みは会計制度の歪みに表れる。会計制度の歪みは財務諸表に表れる。利益に対する考え方は、一種の思想である。利益が上がらないのは、利益に対する考え方のどこかに歪みがあるのである。利益は、放置された結果ではない。創作された結果である。利益を生み出すのは会計原則、会計基準である。
 スポーツにおいてルールが決定的役割を果たしている。同様な会計原則や会計基準は、経済の在り方に決定的な役割を果たしているのである。

 利益に求められのは、緊急時や不況の際に備えた蓄え、設備の更新や新規投資の時の資金、元手、元本の返済資金である。本来は、この様な目的の基に利益は設定され。その利益を上げられるような経済体制を敷くべきなのである。ルールが先にあってスポーツが成り立つのであり、得点が先にあってルールが作られるのではない。ゲームはルールの則って表れるように市場経済、貨幣経済の経済現象は、会計原則に則って表れるのである。

 結局のところ、経済の実体は、最終的には、物的市場にあるのである。ところが、現実の市場は貨幣の振る舞いに振り回されている。アメリカの産業を象徴する自動車メーカーのGMが経営に破綻し、事実上国営化された。アメリカの自動車産業の再建は、良い自動車を作ることに尽きるのである。しかし、現在、語られているのは会計的問題である。しかし、その場合でもルールがおかしいとは誰も言わない。なぜ、アメリカの製造業が衰退したのか、それは一企業の問題として片付けられる問題ではない。
 金融でいえば、窓口業務や事務処理、融資業務やシステム開発という基幹業務よりも巨額な「お金」を動かした方が利益が上がるようになる。労せずして大金をえられれば、地道な基幹業務が軽んじられ、疎まれるようになる。それが第一のモラルハザードである。それが高じると基幹業務が衰退する。それが第二のモラルハザードである。
 製造業でも最初は、本業を補う目的ではじめた財テクが、いつの間にか本業になり、本業が衰退してしまう。しかし、それは長い目で見たとき堕落に過ぎない。その典型が自動車や電機である。
 金融市場への傾斜は、実業から虚業へと変質させてしまったのである。


参考

(教えて!にちぎん http://www.boj.or.jp/oshiete/outline/01401005.htm)
Q.  銀行券が日本銀行のバランスシート上、負債となっているのはなぜですか?
A.  日本銀行が設立された当初、日本銀行の発行する銀行券は、金や銀との交換が保証されていました。こうした制度の下で、日本銀行は、銀行券の保有者からの金や銀への交換依頼にいつでも対応できるよう、銀行券発行高に相当する金や銀を準備として保有しておくことが義務付けられていました。このような銀行券は、いわば日本銀行が振り出す「債務証書」のようなものだと言えます。このため、日本銀行は、金や銀をバランスシートの資産に計上し、発行した銀行券を負債として計上しました。

 その後、金や銀の保有義務は撤廃されました。一方で、銀行券の価値の安定については、「日本銀行の保有資産から直接導かれるものではなく、むしろ日本銀行の金融政策の適切な遂行によって確保されるべきである」という考え方がとられるようになってきました。こうした意味で、銀行券は、日本銀行が信認を確保しなければならない「債務証書」のようなものであるという性格に変わりがなく、引き続き負債に計上しています。このような取扱いは、米国や英国の中央銀行など、主要中央銀行において一般的となっています。

価   格


 市場を重視し、自由競争を市場の原理とする市場原理主義者が跋扈している。しかし、その割に、自由競争とは何かについて、明解に述べられたものは少ない。
 要するに、自由競争というのは、国家や行政府の介入を極力なくし、市場の成り行きに任せておけば、なんとなるという思想である。
 故に、規制や制度のような煩わしいものはなるべく緩和し、場合によっては、撤廃してしまえばいいと言う考え方である。金融は、金庫番に徹していればいいのである。それは、無政府主義的経済である。

 しかし、自由という概念と、無政府という概念は、全く異質なものである。法治主義と自由は背反的な考え方ではない。

 市場で決定的な役割を果たしている要素の一つに価格がある。価格決定の仕組みは、市場の本質をよく表している。
 価格は、自由な競争だけで決められるわけではない。価格を決める手段は、競争だけではないのである。価格の決定手段を競争だけに特化したら市場本来の意味は見失われ、市場の機能は、働かなくなる。

 経済現象は、複数の制約の相互作用によって起こる。
 価格を決定するのは、市場における制約条件である。市場における制約条件の均衡が価格を決定する。人的市場には、手持ち資金や調達力と支出による制約がある。物的市場には、生産手段や生産量と消費手段と消費量による制約がある。貨幣には、信用力と流通量による制約がある。市場価格は、単純に需要と供給だけで決まるわけではない。

 競争という手段を活用するにしても、それは、制約の中の競争を意味するのである。また、制約をなくしてしまったら、競争も成り立たなくなる。制約をなくしてしまったら、競争ではなく、闘争になってしまうからである。

 TPOという言葉がある。TPOというのは、時と場所と場合のことを意味し、物事を判断する上での基本的な要素を指して言う。

 値段には、このTPOが重要な働きをしている。TPOの意味を良く知ることが値段の仕組み、価格の仕組みを理解することにも繋がるのである。

 値段というのは、時、場所、相手、物、状況によって決まる相対的価値である。絶対的な価値、基準ではない。値段、価格を絶対化しようとするのは、共産主義的考え方である。もっと極端に言えば価格その物を共産主義は、最終的にはなくそうとしている。それが、自由経済と、共産主義経済の決定的違いである。

 価格とは、絶対的な価値ではない。相対的な価値である。
 相対的であるから、生産や供給や分配を調節できるのである。そして、この機能こそが価格に求められる機能であり、市場に求められる機能なのである。
 逆に言うと価格を絶対化するとこれらの働きが機能しなくなる。

 価格は、第一に、時間に左右される。時間の影響には、一つは鮮度がある。時間とともに腐敗したり、劣化する品物がある。また、流行や相場の動きにも影響される。旬のものは高いと相場は決まっている。
 第二に、価格は、場所に影響される。産地から離れている場合は、費用に差がでる。また、国家の制度、即ち、税法や商法、会計制度によって価格は違ってくる。関税や国家の助成金によっても違ってくる。当然、自由主義か共産主義かによっても違ってくる。風俗習慣の影響も受ける。
 第三に、相手によって違ってくる。大口の需要家か、不特定多数かで価格は違う。情報の非対称性によっても違う。
 第四に、品質によって価格は違ってくる。品質によって商品の多くは格付けされる。また、ブランドの生むも価格には影響する。
 第五に、価格は、状況に左右される。価格は、需要と供給によって影響を受ける。為替の変動の影響も受ける。その国の政治状況にも左右される。農産物であれば、作柄のような出来、不出来や生産量の影響も受ける。金利差にも影響される。

 この様に、価格は、相対的な価値である。
 価格を決定する要素は、市場の働きや仕組みを構成する要素でもある。
 競争の原理とは、価格を構成する要素によって成り立っている。故に、競争の原理を定義する上では、市場の働きや仕組みを構成する要素に基づく必要がある。
 即ち、市場の競争は、第一に、競争の時間的制約。第二に、競争の場。第三に、競争の相手。第四に、競争する物。第五に競争の前提条件、状況を前提として構成されている。

 価格を決めるのは、市場である。
 市場に競争の原理が必要だとされる。では、なぜ、市場では、競争の原理が必要なのかである。その必要性が、市場の在り方を規定する。
 市場の原理を必要とするのは、第一に、労働の成果と報酬、即ち、分配とを結び付けることである。それによって経済の因果関係を明らかにし、個人や組織、社会にフィードバックすることである。
 競争がなくなると労働の成果と報酬とが結びつかなくなる。つまり、遣ってもやらなくても同じという状況を生み出す。会社が儲からなくても、国家財政が赤字でも、働く者には関係ないという状況を生み出す。
 2008年の金融危機の際、資本を注入された金融機関や企業の経営者の高額な報酬が問題となった。これなどは、経営結果は、経営結果。報酬は報酬という考え方の典型である。
 競争が労働と分配を連動しているという要素は、重要である。競争、競争といってこの原則を忘れてしまうと、競争本来の機能を失ってしまう。そして、寡占独占の原因となる。
 第二に、道徳、モラルの維持である。競争相手がいなくなれば、報酬に対する監視機構が働かなくなる。それは、モラルハザードの原因になる。相互牽制が働くことによってモラルは維持されるのである。
 第三に、意欲の向上である。競争のない社会において意欲が低下し、社会が成り立たなくなることがある。
 第四に、格差の是正である。競争がない事は、過剰利益を蓄積する動機になる。
 第五に、生産性と効率の向上である。競争によって生産性や効率は向上する。
 第六に、品質の維持である。サービスの向上である。競争のない社会では、サービスが悪くなるのは証明済みである。消費者に丁寧に接しようと接しまいと結果が同じなのでは、客あしらいがぞんざいになるのは当然の帰結である。
 競争がなくなり、独占的になると消費者不在、消費者無視が横行する。それは、自分の仕事に対する報酬と自分の行為が結びつかないからである。
 第七に、技術革新の促進である。競争がなくなると技術革新の動機が失われる。
 第八に、適正な価格の維持であり、価格が相対的な価値だからである。競争がなくなると価格を抑制する違約条件がなくなる。その為に、価格は、売り手によってどの様にも操作されることになる。
 価格は、相対的なものである。競争は、消費者の選択肢を増やすことである。複数の商品を競わせることによって消費者は適正な価格を選択することが出来るのである。

 競争は価格に還元される。競争の必要性は、価格を成立させる要因に求められる。つまり、競争の目的は、価格を成立させている要因、時間、場所、相手(対象)、物、状況から求められる。

 反対方向に働く作用を検討する必要がある。良い働きには、悪い働きも同時に作用していると考えるべきなのである。前に進むためには、後ろ向きに働く力が作用しているのである。

 競争を成り立たせているこれらの要素は、競争を阻害する要素でもある。競争を成り立たせている要因は、競争を成り立たせなくなる要因でもある。
 競争を成り立たせている要因が、逆に、競争を阻害する要因に変質するのは、競争を成立させている要因が変質するからである。
 競争を成り立たせているのは、競争を成り立たせている仕組みや状況である。

 また、競争を必要とする目的も一つではない。競争の目的は、市場の状況によって決まる。
 故に、競争を有効に成立させるためには、市場の状況の変化に合わせて市場の仕組みや政策を変える必要がある。

 競争の目的に反する競争は、無意味であり、逆効果になる。
 例えば、第一に、競争の成果と評価とが結びつかない競争である。
 競争の結果を、働きと報酬に結び付けるためには、ゴール、即ち、結果を清算する時と仕方が重要となる。
 過剰な競争は、寡占独占を生み出す原因となる。寡占、独占は、労働と成果を切り離す、結果を招く。
 第二に、道徳やモラルを損なう競争である。
 即ち、競争は、競争を成り立たせている前提によって成り立っているのである。
 競争は、スポーツマンシップのような精神を育む。競争には、規律が必要とされるからである。しかし、過剰な報酬は、かえって倫理観の崩壊を招く。また、過当競争は、不正を招く温床となりやすい。金儲けのためならば、何でもするという風潮や目的のために手段を選ばないと言う状況を生みからである。
 第三に、意欲を低下させる競争である。
 競争は、意欲を生むが、競争が激しすぎるとかえって意欲を低下させる。競争が激しく体力の消耗が限界を超えれば、急速に意欲も低下する。何事にも限界があるのである。
 第四に、格差を増長させる競争である。競争は、実力に基づくかなければ公正ではない。それ故に、公平なのである。しかし、最初から何等かの差が付けられていた場合、格差をかえって増長させてしまう。
 第五に、生産性や効率を悪化させる競争である。競争は、生産性や効率を向上させるとは限らない。サービス合戦や意味のない競争は、体力を消耗させかえって生産性や効率を低下させる。
 第六に、品質の低下に繋がる競争である。競争が激化し、価格にのみ収斂すれば、品質に対する管理が疎かになる。直接、製品に結びつかない保全や保安という業務が疎かになる。それが財の品質を低下させることに繋がる。
 第七に、技術革新を損なう競争である。
 急速な技術革新は、技術力や資本力のない競争相手を市場から駆逐してしまう。
 第八に、適正な価格を形成させない競争である。
 適正な価格と言って不当の廉売は、基幹業務の手抜きを招きやすく真面目な業者を潰してしまう。安く売るには安く売れるだけの要素がなければならないのである。

 定価が決められていると競争が成立しないと言うわけではない。定価が決められていても競争は行われる。書籍が良い例である。
 メディアの多くは、定価が決められている。それなのに、他の産業が価格に対する取り決めをしようとするとそれを極悪非道のような騒ぎ立てる。
 問題は、価格を固定するか、変動させるかではなく。固定させた方が、公正な競争が実現するか、どうか。又は、変動させた方が公正な競争になるかの問題である。それは、製品、市場に対する思想に基づくのである。

 競争は、競争を成立させている条件、前提が重要なのである。それによって、競争の目的が決まる。
 適正な競争を実現するためには、適正な競争を成立させている前提条件が重要なのである。
 そして、その前提条件は、時間と、場所と、相手と、物と、状況に支配されているのである。
 また、市場の状況は一定ではない。成長、成熟、衰退と変化を繰り返している。その市場の変化に応じて競争の有り様も必然的に変化する。
 競争を規制するのが悪いのではなく。規制が硬直的になって時代や状況の変化に対応できなくなることが悪いのである。闇雲に規制をなくしてしまえと言うのは暴論である。また、状況を見ずして、画一的に規制を緩和しろと言うのも乱暴な話である。

 経済政策とは、競争をいたずらに煽ることではない。
 競争の在り方というのは、画一的なものではない。競争ができると言うことは、制約条件がない状況を前提としているのではない。むしろ、制約条件によって仕切られた場を前提としているのである。それはスポーツを見れば解る。スポーツは、ルールのない空間を前提としているのではなく。ルールに基づいて制約されている場和前提として成り立っているのである。
 問題は何を競うかなのである。

 競争力は、競争条件に依拠している。競争条件は、収益構造に現れる。収益構造は、競争の前提条件が統一化されていることによって成立する。競争条件が違えば、競争は成り立たないのである。競争条件は、適用範囲を特定することによって統一化される。
 競争条件の適用範囲には、第一に、物理的、空間的範囲。第二に、人的範囲。第三に、金銭的範囲、時間的範囲がある。これは市場の場の範囲と重複している。

 市場経済を前提とするならば、市場取引に参加するものが利益を得られるようにしなければならない。市場取引に参加するものが利益を得られるような市場の仕組み、環境を整備する必要がある。それが市場経済における経済政策の大前提である。

 労働意欲が低下したら、意欲が上昇するような施策が必要である。
 品質が劣化してきたら、品質を向上させるような競争が成立する環境を整備する必要がある。

 経済的には、経営主体は、利潤を追求する事を目的としている。それなのに、経営主体が利潤を上げられないような仕組みを多くの為政者は、構築しようとしている。それは、経済行為を蔑視する倫理的傾向によっている。元々、経済的規範と倫理的規範は、次元を異としている。その点を前提としていなければ、社会構造は築けないのである。
 利潤が上げられないのには、利潤を上げられない理由、原因がある。その中で経営責任に帰す部分と経営責任に帰せない部分がある。その点を見極め、切り分けて対策を立てる必要がある。

 異質な要素が混在しているから市場は、機能するのであって、同質な要素だけに占められ純化されると市場は偏ってしまう。定常的状態に陥り活動が停止する。

 市場の取引は、取引が成立した時点時点で均衡している。故に、放置すれば、市場は、定常的状態に陥るのである。それ故に、市場を活性化するために、競争は不可欠な要件である。市場が成り立っているのは取引が成立しているからである。
 取引は、競争によって成り立っている。競争のない取引は、選択肢のない取引であるから取引自体が成立しない。交換は、力関係によってのみ成立し、強制でしかない。
 競争があるから、相対的な基準が成立する。比較対照する物がないところでは相対的価値は成立しないからである。

 競争を成立させてきた条件が変化すれば、その変化に合わせて市場の仕組みや政策を変化させる必要があるのである。

 重要なのは、競争条件の均一化である。多くのマスメディアは、安売り業者を称賛するが、安売りが出来るには安売りが出来る要因がある。その中には、正当的ではない手段も含まれているのである。
 掟破りの安売りが市場を土台から破壊してしまうこともある。

 労働条件が劣悪な上に低賃金で働かされている国と労働者の権利が、目一杯、認められている国とが同じ条件で競争をして、労働条件が劣悪で低賃金にで働かされている国の製品に労働者の権利が守られている国の製品が市場から駆逐された場合、それを公正な競争の結果といえるであろうか。
 必要な品質管理や規格を維持しようと努力している国と品質管理や安全性、環境汚染を無視している国が同じ条件で競争をしている場合はどうであろうか。消費国は、生産国に公害と貧困、環境汚染を輸出していると非難されるのは、競争条件が前提となっていないからである。

 競争の場ではなく、闘争の場と化している。市場は、お互いにお互いを競い合い、磨き合う場ではなくなり、弱肉強食の場になっているのである。競争を原理とするならば、競争が成り立つ場を実現しなければ、それは欺瞞である。

 閉鎖された市場ならば、競争条件の均質化は、保たれる。しかし、現在の市場は、開放されている。
 どこからでも廉価で高品質の製品や資金が流れ込んでくる。、そうなると雇用や産業が危機に陥る。かといって閉鎖的な保護主義は、各国の報復を招いて、経済を根本から破綻させてしまう危険性がある。
 だからこそ、構造的に市場や産業を保護する必要があるのである。つまり、前提条件をどう統一するかが問題となるのである。
 市場を閉ざせと言っているのではない。競争条件を同じにしろと言っているのである。

 規制は、合目的的な仕組みである。個々の条文や規定を取り上げてその是非をとても意味がない。規制というのは、ある目的に基づいた全体があり、個々の条文や規定は、全体を構成する部分に過ぎないのである。
 また、規制の目的は、前提にある。前提は、現実の経済状態、情勢に依拠し、導き出される。
 また、規制の目的は、前提にある。前提は、現実の経済状態、情勢に依拠し、導き出される。つまり、前提となる経済の現状や状態をどう認識し、将来の経済情勢や状況をどう予測し、どの様な経済情勢にしたいのかによって規制は、設定されるべき決まりなのである。

 私の子供の頃は、何でも定価があった。それ故に、私には、長い間、価格というのは一定であるような錯覚があった。しかし、実際には、価格は、絶え間なく変動をし続けてきたのである。そして、価格の変動には、波や傾向がある。
 しかも、価格は、一律に変化しているわけではない。個々の財によってそれぞれ固有の変化をしている。それを物価として一括りに考えるのは危険である。
 市場は、価格の変化に合わせて変貌している。価格は、市場を写す鏡でもある。
 価格は、価格を構成する要素に連動して動いている。原材料や商品を輸入に頼っている製品の価格は、為替の動向に左右される。石油製品は、石油価格の踊らされる。技術革新の激しい産業の製品は、設備投資の動向に影響される。農作物の価格は、その年の天候や作柄によって決まる。流行物は、消費者の嗜好、人気に支配されている。
 価格というのは、相対的な基準である。絶対的な尺度ではない。前提や状況によって絶えず変化し続けているのである。
 そして、価格を決定付ける要因は単純ではない。複雑な要素が絡み合って、価格は決定されている。価格を、ただ安ければいいとすれば、結局、商品は標準化されてしまう。それは、消費者の選択肢を狭めるだけである。
 市場は、単一でないから成り立っているのである。その為には、廉価ではなく。適正な価格を実現する事なのである。
 その為にも適正な価格は何かという問い掛けを絶えず忘れてはならないのである。

幸せの基準(消費は文化である)


 経済とは、生活である。即ち、経済とは、生きる為の活動である。生きる為に人は、生産をし、消費をする。人間は、生きるために必要な糧を獲得しなければ生きていけないのである。
 人間は、社会的動物である。人間は一人では生きていけない。人間が、社会生活を営むことを前提とすれば、生きていく為には、労働と分配が生きていく上では不可欠な要素となる。経済は、生きる為の活動だと定義すれば、生産と消費、労働と分配が、経済の根本だと言う事にとなる。

 人は、生きる為に、必要な活動をしなければならない。それが生活である。自由経済では、生きていく為に必要な財や用役を市場から調達することを前提とする。そして、市場から生きていく為に必要な物を調達する手段は、交換である。貨幣経済では、交換の手段は、貨幣である。
 生活に必要な生産財を交換手段である貨幣を用いて市場から調達する体制が自由主義体制である。
 市場経済、貨幣経済を前提とする資本主義体制では、人は、自分が所有する資本を投資することで、交換手段である所得を得る。資本とは、生産手段であり、資本には、物的資本、人的資本、貨幣的資本がある。

 人間は、生きる為には、消費しなければならない。つまり、消費は、生きる為の活動である。消費は、生きる為の目的ではないが、生きる為に不可欠な行為である。つまり、消費とは生きることなのである。だから、消費は人間の生きる在り方に密接に関わっている。人間の生き方は、文化を生み出した。人間の生き方、消費の仕方は、即ち、文化なのである。
 物的生産手段とは、土地や原料、機械、設備等をいう。人的生産手段とは、労働力をいう。貨幣的生産手段とは、貨幣その物と貨幣から派生的に生み出された証券や債券と言った物やそれが意味する対象をいう。

 人間には、人生がある。人間の一生は、画一的な過程ではない。また、人間には、一人一人、別々の生活がある。生活の在り方を統一することはできない。
 かつて、共産主義国の中には、国民の着る服を統一した国があった。しかし、その様なことは長続きしない。同一にしようとすればするほど、違いが際立ってしまうのである。

 国民国家におれる国民経済は、国民一人一人の人生計画や生活設計の集合の上に成り立っている。国民一人一人の人生計画や生活設計を尊重し、かつそれを支援することが、経済の民主主義の本質なのである。上から、画一的な人生や生活を押し付けることでは、経済の民主主義は成り立たない。

 経済は、生きる為の活動である。故に、経済の目的は、生きる目的である。人間の生きる目的とは、自己実現、幸福になることである。故に、経済の目的とは、人々を幸福にすることである。

 消費は文化である。

 現代の資本主義は、物質的な豊かさを追求する事を専らとしている。精神的な幸せを追求しているわけではない。幸福は、物質的な豊かさが実現すれば実現すると考えているのである。しかし、本当に物質的に豊かになりさえすれば幸せは実現できるのであろうか。幸せの本質とは何であろうか。

 幸せの本質とは、自己実現あると思う。自分が望む自分の状態が実現した時、人は幸福感を得ることができるのである。むろん、物質的に恵まれることに自己を見出す者は、物質的な豊かさが実現した時に幸せになれるのだろう。しかし、そう言う人ばかりとは限らない。自己実現という点からすればある種の達成感によって幸せは実現されるのであろう。そして、逆に、喪失感によって不幸になるのだと言える。

 現代社会は、豊かさを基準としている。豊かさを実現するために、あらゆる事を現代社会では犠牲としようとしている。家族も、友人も、愛情すらも犠牲にして、ひたすら、物質的な豊かさだけを追求しようとしている。しかし、豊かさだけでは人を幸せにすることはできない。
 経済の本来の目的は、豊かさではなく、幸せ、幸福である。いくら物質的に恵まれても幸せになれなければ意味がない。現代人は、幸せの意味を見失いつつある。

 物質的に豊かになったとしても物質的に豊かになる過程で失うものや犠牲にしたものが多ければ、喪失感の方がまさると、私は、考える。

 大都会の孤独死が問題となっている。東京のような人口が密集した地域で、孤独に死んでいく人達が後を絶たない。
 福利厚生というと、設備や建物、制度ばかりが問題とされている。人間としての価値観や、文化が蔑ろにされている。つまり、精神的な問題が置き去りにされているのである。それは道徳の問題である。

 年老いた時に、物質的にはなに不自由ない生活が保証されているとしても、それだけで、幸せな晩年をおくれるといえるだろうか。ただ設備や建物を充実すれば、幸せは実現できると考えているのであろうか。
 たとえ、設備が充実していたとしても、家族から切り離されて幸せだと言えるだろうか。誰からも相手にされずに孤独に死んでいく人生を人間は、望んでいるのであろうか。

 第二次世界大戦直後の日本は、食料も物資も窮乏していた。しかし、多くの企業は復員してきた人間を解雇することなく。共に助け合って生きていこうと懸命の努力を続けた。今日、確かに、物質的には豊かになった。しかし、企業業績が悪化すると安易に人員を削減し、業績を向上させようとする。一体、どちらが経済的なのであろうか。

 戦後生まれの日本人である我々の世代は、本当に恵まれてきた。幸せであった。しかし、どれだけの日本人がそれを実感しているだろうか。幸、不幸は、自分の心の中にある。食べ物がない時代は何を食べても美味しく感じたのに、飽食の時代といわれる現代、人は貪欲に美食を競う。足らざるは、貧なり。そして、テレビでは、グルメ番組が全盛である。それを平和というのだろうか。
 しかし、我々が享受する豊かさの背後には、我々を豊かにするために犠牲になった多くの人達が居た事を忘れてはならない。

 我々は、自分達の幸せな状況を孫子の時代に残していけるだろうか。それとも、自分達の貪欲によって子供達の幸せまで費やしてしまうのであろうか。

 仮に物質的な豊かさが幸せになるための必要条件としたとしても、それを量だけで測ろうとするのは間違いである。
 貨幣経済に偏すると犯す過ちのもう一つが、全てを量によって測ろうとすることである。幸せは、数字では表しきれないものである。しかし、貨幣は、全ての価値を量化してしまう。
 生産や消費は、量だけが問題なのではない。むしろ質が大切なのである。

 権力というのは、基本的に消費を専らとする。つまり、ある意味で社会に寄生しているのである。その点を理解しないと権力の持つ意味が理解できない。

 権力機関とは、消費を専らにする機関である。だから、権力が悪いというのではない。重要なのは、消費の向けられる方向、対象である。消費の向けられる対象や方向が創造的な方向、対象であれば問題はない。国民の福利目的のために、消費されるのならば建設的である。しかし、それが権力者の欲望を満たすために、また、特権階級の私腹を肥やすために消費されるのならば、それは、犯罪に等しい。

 権力というのは、有り様一つで暴力的にもなる。権力の消費が向けられる先が武力であれば、権力は際限なく凶暴になる。武力は国民の生命と財産を守るために行使されるものである。権力者の護衛のためにのみ武力が行使されれば、破壊的で、破滅的な力になる。

 同じ技術でも原子爆弾に活用することもできれば、原子力発電に活用することもできる。国家の消費が国民の福利に向けられるのか、それとも、暴力的なものに向けられるかの違いである。

 権力は、生産的な存在ではない。権力は、消費的な存在である。故に、権力は、抑制が効かなくなると浪費的な存在になる。その行き着くところが戦争である。権力は自制しなければならない。

 社会資本を築くために、消費されるのならばそれは有益である。社会資本というのは、インフラストラクチャーを指す。インフラストラクチャーというのは、社会的基盤である。インフラストラクチャーは、自らが自己完結的な生産手段を持たずに、他の主体に生産基盤を提供する対象である。

 年金や健康保険と言った社会生活の基盤にこそ、経済の本質は隠されている。その根本は、人間、いかに生きるべきか。即ち、人生観である。それが、経済の本質である。経済とは生きることである。

 社会資本を充実するための消費であれば、国民の福利に役立つ。その様な消費は、悪い事ではない。むしろ歓迎すべき事である。消費があってこそ生産は成り立つのである。経済の要諦は、均衡である。即ち、生産と消費、収入と支出の均衡である。

 所得と物価は、豊かさの基準である。豊かさというのは、相対的な基準である。豊かさというのは、主観的な認識によって形成される感情である。
 経済の目的は、人民の福利、即ち、幸福の実現にある。そして、幸せも相対的なものであり、主観的な感情である。幸せになるために、豊かさは、必要条件であるが、絶対条件ではない。
 豊かさは、幸せを測る物差しの一つである。しかし、幸せは、豊かさだけで計られるものではない。物質的な豊かさの度合いと、精神的な幸せの度合いは、同じ基準では測れない。
 消費は文化である。消費は、生活を基礎としている。生活は、文化の源泉である。文化は、生活水準に依拠している。故に、消費は文化によって決まる。消費の有り様は、その社会の文化の有り様を具現化した状態である。故に、消費は文化である。
 貨幣経済において消費を支える要素の一つに、負債がある。負債は、貨幣価値に時間軸を加える事によって経済的価値を増幅する。或いは、多次元的にする。負債は、金融制度に依拠している。故に、消費は、金融によって下支えされている。消費金融は、消費の基盤を形成する。消費金融制度によって貨幣経済は拡大する。また、消費文化の密度が高まることになる。
 そして、消費の構成は、社会制度や文化、風俗、習慣、環境の影響下にある。

 制度は、物価の枠組みを形成し、消費は、物価の構成を確定する。

 消費は、価値観によって決まる。貨幣経済下では、価値は、貨幣に還元される。貨幣は、貨幣価値を指し示す指標を表象化した物である。貨幣価値は、財に基づく。財の根本は、有形、無形の物である。その為に、貨幣経済下では、物質的価値が優先される。また、貨幣価値は物質的にしか評価されない。
 貨幣価値は、量的価値である。故に、貨幣経済下では、価値は、量的な評価が強くなる。質的な価値は、評価されなくなる。幸せは、量では計れない。

 消費の構成によって生活の有り様は現れる。生活は、支出の在り方によって構成される。
 第一に、地代、家賃は、長期固定的支出を形成する。第二に、家具や、家電、自動車のような耐久消費財は、周期的更新支出を形成する。被服費のような消耗品は、年間や月間といった一定の期間の固定的支出を形成する。食費や光熱費、燃費、交通費は、日々の消費を形成する。
 そして、一生を通じて必要とされる資金には、出産、育児、教育、結婚、住宅、老後資金などがある。
 また、病気、災害、事故といった不要不急の支出にも備えておく必要がある。それらは、臨時費、一時的出費、緊急時の為の蓄えとなる。
 人生にとって自己実現、人生目的も重要である。人間、何のために生きているのか、それは生き甲斐だからである。それ故に、自己への投資も大切である。
 また、たまの外食、観劇といった生きる楽しみ必要である。それは潤いだからである。趣味や道楽と言った事は、生きる喜びを与えてる。幸せは、単に生きているだけではなく。人としていかに生きるかに関わることだからである。
 そしてそれらは、遊興費、図書費、贅沢費、嗜好品を形成する。
 そして、これらの支出の構成が物価の基盤や景気の流れ、周期を形成することになる。

 消費に対する構成が、物価を構成する。消費は、生活である。

 物価は、一律には決められない。物価は、普遍的な基準ではないのである。物の価値は、市場によって決まる。市場によって決められた貨幣価値は価格になる。価格は、その時点その時点の需給によって決まる。また、市場を構成する参加者の思惑や所得に左右される。
 生鮮食料が安く、耐久消費財が極端に高い地域があれば、逆に、生鮮食料が高くて、耐久消費財が安い地域もある。和服のように、基本的に日本市場に需要が特定されている財もある。

 アメリカに比べて日本では、高率のガソリン税がかかり、ガソリンが割高となっている。しかし、日本人は、普段生活する際に、日米間の差を意識することはない。

 つまり、物価は、生活実感に基づくものであり、その場の生活様式が基礎となる。高い安いは、生活している場の環境は状態によるのである。単に所得だけで比較できる物ではない。何よりも価値観の問題である。

 イスラム教徒やヒンズー教徒、ユダヤ教徒では食べる物が違う。食べる物が違えば自ずと物価の構成も違うのである。

 住居にどれくらいの費用をかけ、着物にどれくらい出費し、余暇にどれくらい金をかけ、教育にどれ程投資し、食費にどれ程かけるか、冠婚葬祭のためにどれだけ使うかは、その人の価値観、その土地の風俗習慣、その社会の文化の有り様によって決まる。そして、それを解き明かすのが経済学なのである。欧米流の生活感や文化をもって他国に押し付けるのは間違いである。

 価格を変化させる要素が各々の財によって違ってくる。例えば、石油価格のように原油価格や為替に連動している財もある。また、労働力のような原則的に国内や地域の相場に基づく財もある。輸入品のように為替に連動している財もある。

 経済は、人口構成と職業分布、消費性向によって決まる。
 つまり、経済の基盤は、生活にあるからである。生産手段に経済の基盤があるわけではない。必要があるから、欲求があるから生産をするのである。むろん、生産力がなければ欲求は満たされない。だからといって無理矢理消費をさせるわけにはいかない。たとえ、無理矢理消費させたとしてもいつまでも続きはしない。いつかは、破綻するのである。

 物価というのは、支払い能力に依拠している。支払い能力、資金の調達力に依拠している。資金調達の基盤は、一つは、所得である。今一つは、財産、資産である。もう一つは、借入である。そして、所得は、消費、債権、債務に転換され、資金は循環される。
 所得は、収入を意味する。財産は、債権を意味する。借入は、負債、債務を意味する。この三つの要素が、貨幣経済を構成する根元的要素である。
 貨幣経済は、所得も、債権も、債務も貨幣単位として表される。貨幣単位で表されると言うことは、貨幣に還元され、通用することを意味する。それが、貨幣経済における市場経済の原則である。

 物価は、支払い能力、特に所得の範囲内で形成される。そこで重要になるのが可処分所得である。

 支払い能力というのは、言い換えると、資金の調達能力でもある。資金の調達源は、第一に、所得である。第二に、借入である。第三に、資産である。第四に蓄えである。この四つの要素を調整する事によって支払い能力は構成される。そして、支払い能力の範囲内で物価は形成される。支払い能力を支出が超えれば経済は、破綻する。破産である。逆に言えば、収支が均衡しているかぎり、とりあえず、経済は成り立つのである。

 主たる資金源は、所得である。基本的に資産の売却や蓄えは、一時的、臨時的、緊急的支出のために備えておくものである。

 日本の税制では、所得を、第一に、利子所得、第二に、配当所得、第三に、不動産所得、第四に、事業所得、第五に、給与所得、第六に、退職所得、第七に、山林所得、第八に、譲渡所得、第九に、一時所得、第十に、雑所得に分類している。

 所得には、俗に定収入と言われる固定的所得と臨時収入、一時収入と言われる変動的収入の二つがある。
 所得の定収入化が、金融を発達させた。つまり、定収入が借金の裏付けてなって金融技術は発展したと言える。金融技術というのは、借金の技術とも言える。安定した固定的収入が経済的価値を高めたのである。そして、この金融技術の発達によって物価の有り様も変化したのである。

 生産者の利益と消費者の利益をどう両立するかが重要となる。そして、それをどの様にして所得に反映するかである。

 安売りをマスコミは、奨励し、安売り業者を英雄扱いする。しかし、量販店や安売りによって市場の秩序や規律が失われ、多くの良心的な業者や製造業者が淘汰されていることに目を向けようとしない。
 価格で重要なのは、適正な価格であって。ただ安いことではない。不当に価格をつり上げて過剰な利益を上げるのは問題だが、同じくらい、不当に安売りをするのも、長い目で見た時、消費者の利益になっていない場合がある。

 2002年2月から始まったとされる景気拡大は、2007年11月まで続き、69ヶ月に及んだ。いざなぎ景気を抜いて戦後最長と言われているが、一方で実感なき好景気と言われている。それは、好景気なのは、大企業の収益だけで、大企業の収益の好転は、人員削減や合理化と輸出によってもたらされたものだからである。それは、国内の雇用や消費の拡大に必ずしも結びついていない。
 生産者の利益が消費者の利益に結びついていないのである。

 受け取る側からすれば、所得というのは、多いに超したことはない。しかし、支払う側からすれば、労働費は、費用である。費用が上昇したら、上昇しただけ価格に反映せざるをえなくなる。費用を削減しようとしたら、労働費の単価を下げるか、人員を削減するしかない。
 所得、即ち、賃金を上げれば収益が価格が上昇する。しかし、所得を減らしたり、削減すれば、需要は減退する。生産者と消費者双方の利益の均衡を保つことが市場に求められる役割なのである。

 金融の発達は、支払い能力を高めた。支払手段の選択の幅を広げた。それが現代の消費生活の幅を広げたのである。つまり、消費者金融は、消費社会のインフラストラクチャーを形成した。それでありながら、消費者金融は社会的な認知度が低い。金融というと、企業を生産的な部分だけが重要視されている。しかし、現代社会は、生産と消費との均衡の上に成り立っている。金融もまた然りである。

 特に、住宅ローンや自動車ローン、割賦販売などは、消費の在り方や生活水準その物を変え、市場の規模を劇的に変化させた。また、消費者金融の在り方は、消費に対する思想や考え方、道徳にまで影響を及ぼすことになるであろう。消費経済を考える場合、その点を充分に考慮する必要がある。

 つまり、物価を構成するのは、消費者の所得構成と分布、消費者金融、消費者の生活水準である。
 消費は人口の有り様に関係する。故に、人口の有り様を明らかにすれば、物価の有り様も解明できる。
 人口の構成や分布、生活様式が経済を予測する上にも、また、経済構造を構築する上でも重要な要素となる。

 消費は人生である。人は生まれ。育ち。独立して家を出て。結婚をして、新たな家を建てる。そして、家族を育て、やがて死んでいく。その時々に消費がある。
 労働は喜びである。労働は、自己実現の手段である。故に、幸せを実現するための手段である。しかし、貨幣経済下では、労働は、所得を得る手段にのみ還元される。そして、労働は苦役となる。また、生産性によって計られる。労働から喜びは失われ。人々は労働から遠ざけられる。休日を増やし、労働時間を削り、なるべき早く退職をし、仕事のない生活をするように強いられる。ここでも、幸せを実現する手段と豊かさを実現する手段は相反する物にさせられてしまう。
 また、所得を得る労働以外の労働は、労働として認知もされなくなる。その結果、育児や家事に関わる労働の価値は失われ、専業主婦は辱められる。しかし、自己実現という観点からすると育児や家事は、本源的な労働である。なぜならば、それは献身的な労働であり、根幹に愛があるからである。そして、更に、過去から受け継いできた伝統や文化を次世代へと伝承していく尊い仕事だからである。そして、何よりも家族がいる。家族の温もりや団欒がある。幸せの核がある。

 どれ程立派な家を建てても一緒に生活する人がいなければ、虚しさを深めるだけである。伴に食べる者がいてくれるから食事も美味しく食べられる。何よりも愛する人がいるから人生は豊かになる。ただ高価なブランド品に囲まれるだけの生活空間のなんと空疎なことか。広いだけが、幸せの尺度を決める物ではない。要は内容である。

 肯定的に捉えるか、否定的にとらえるかは別にしても、血縁関係を抜いては、人間関係や、社会の在り方を検討することはできない。大体、幸せの根源は家族にあるのである。家族との関係を前提としないで、社会や経済の在り方を考えるのは欺瞞である。現実性が乏しい上に、社会や経済の基本的問題を最初から外していることになる。

 人間をものとしてしか見ない。量的なものとして統計的な対象としてしか認識できない。そこに現代社会の欺瞞がある。血の通った体制が築けない原因がある。
 それを科学的というのならば、明らかに科学には欠陥がある。しかし、それは科学の問題というより、人間の心の問題だと言える。
 高齢者の介護にしても、少子化対策にしても、ただ設備を予算化すれば事足りるとするのが通例である。高齢者には、介護設備を作り、少子化には、幼稚園や保育園を増やすといった物の話ばかりが先行している。しかし、根本、自分の親や子供に対する愛情の問題なのである。
 家族を忘れて育児、出産を考えることほど愚かなことはない。収入を考えれば、女性が働きに出ることを奨励するにこしたことはない。しかし、支出、消費を考えた場合、生活の実態を考えた時、必ずしも、母親が外に働きでることが良いとは言いきれない。
 第一に、女性の社会進出というのは、働きに出ることばかりを指すのではない。何よりも、子供や家族にとって何が一番良いかを考えるべきなのである。仕事は何のためにするのか。その点を忘れて、外にばかり仕事を求めるのは無意味である。出産育児というのは、それほど楽な仕事ではない。育児や家事は、また、無意味な仕事でもない。
 何のために外に働きに出なければならないのか。保育園や幼稚園を作れば、少子化は、防げるのか。それに、少子化対策をなぜする必要があるのか。少子化を叫ぶ一方で、人口爆発や産児制限が叫ばれるのはおかしな話ではないか。
 家族を忘れているから、離婚率が高まり、また、未婚率、非婚率が高まっている。その点を考えないで、ただ、幼稚園や保育園を増やしたところで虚しいばかりである。家族の問題を「お金」や物の問題にすり替えているだけである。
 そこには、本当に、それで幸せは実現できるのかという本質的な疑問が欠けている。物の豊かさだけを社会や国家の目的とした結果である。社会も国家も人間の集まりで成り立っていることを忘れてはならない。

 現代人は、豊かさの中で幸せとは何かと言う問いを、どこかに、置き去りにしているのである。
 人々の幸せを置き忘れた時、経済は、その本質を失うのである。

新たなる展望に向けて


 百社中、一社か、二社が破綻したというのならば、それは、当該企業の問題である。しかし、五分の一に相当する企業が破綻する場合、前提に間違いがあると思った方が妥当である。三分の一の企業が破綻した場合は、構造に問題があると思われる。過半数の企業が破綻したら明らかに制度に欠陥がある。

 金融業界や自動車産業が好例である。リーマンの破綻に端を発した金融危機によってアメリカの五大投資銀行は、姿を消した。その金融危機のあおりを受け、アメリカのビックスリーが苦境に立たされ、GMとクライスラーは、事実上破綻した。
 金融業界や自動車業界の現状を個々の企業固有の問題だと還元、割り切ってしまうと物事の本質が見えてこなくなる。かといって、自動車業界や金融業界は不要な業界だと決め付けるのは短絡的すぎる。

 現在進行中の経済危機が解決できない原因は、問題認識の間違いにある。第一に言えるのは、現在の市場経済は、長期均衡を前提とした体制なのに、短期均衡を前提とした施策を採っている。第二に、不良債権の問題点は、名目的価値、即ち、債務と実質的価値、即ち、債権の乖離から生じているのに、実質的価値だけの問題と誤認していることである。

 資産も、負債も、資本も長期均衡を前提とした法則に基づいて構成されている。そして、損益は、長期的均衡を前提としたから成立したのである。

 長期借入金よりも短期借入金の多い金融機関は、倦厭すべきだと、世界的に著名な投資家であるバフェットは言っている。(「バフェットの財務諸表を読む力」メアリー・バフェット デビット・クラーク共著 峯村利哉著 徳間書店)
 バフェットは、長期資金を借り入れして短期資金で運用した場合、即ち、「資金の繰りまわし(ロールオーバー・ザ・デッド)」長短の金利が逆転した時に、資金が廻らなくなることを示唆している。実際、多くの企業は、不況の時に、業績の悪化を理由に、長期資金の元本の返済を要求されて破綻している。
 短期資金、長期資金、そして、資本の持つ違いをよく理解しておく必要がある。短期資金というのは、短期的な変動や運転に必要な資金である。それに対して、長期資金というのは、基礎的資金である。
 長期資金というのは、短期の運用を目的とせず。長期に寝かせておく資金でもある。その際たるものが資本である。資本と長期借入の違いは、資本は、返済を請求される資金ではないのに、長期借入は基本的に返済を前提とした資金だという点である。
 また、金利は短期的な変動と長期的な変動の違った波があり、高金利時に借り入れた固定金利は、金利が低くなると逆ざやが生じ、低金利時に貸し出した金利は、金利が高くなると逆ざやが生じる。長期的にこれらの金利差が均衡する場合は良いが、均衡できない時は、経営を継続することが困難になる。
 長期的展望を持たずに、目先の変化をに惑わされれば危うい。しかし、それが現在の市場経済である。

 借入資金は、その目的によって初期投資資金、運転資金、設備投資資金、仕入れ資金、更新資金、借り換え資金などがある。また、返済期間によって長期資金と短期資金とに分類される。また、借入金は、金利部分と元本の返済部分に区分される。

 かつて日本は、個々の資金需要の性格に合わせて金融業界を構造的に組み立てていた。電力や鉄鋼と言った巨額な長期資金や先行投資を必要とする産業には、長期信用銀行を大手の産業には都市銀行を地域の中堅企業には、地銀を、零細企業には、信用組合や信用金庫というようにである。また、好況時や不況時に応じて金融政策や融資基準を設定し、変更してきた。
 長期的国家観や産業観、事業観、展望に基づいて金融行政や金融機関の経営をしてきた。ところが、時代を経るにつれ当初の国家観や産業観、事業観が色褪せ、長期的展望が建てられなくなった。それでありながら、新たな国家観や産業観、事業観が打ち立てられないでいる。それ故に、国家観や事業観によって金融市場を再構築できないのである。それが、現在の混乱の最大の原因である。経済危機の背景として金融危機が存在するのは、金融制度の硬直性にある。

 長期借入金の原資は、減価償却費と税引き後利益から捻出する以外にない。それに該当する資金は、内部留保資金に求められるが、会計制度や税制度では、内部留保の中に元本の返済資金は認められていない。元本の返済資金は、減価償却によって賄われるが、非償却資産、即ち、不動産の元本の返済資金は、減価償却資金に含まれていない。また、利益処分上も認められない。故に、不動産の返済資金は、資本に求める以外にない。また、資産が売却された時は、その期の損益に反映される。利益が上がった時は、利益に加算され課税対象とされる。

 そもそも、継続を前提とした企業を短期実績だけで評価すべきではない。その為に損益の基準があるのである。損益の基準は、黒字が常態であることを想定しているわけではない。損益の均衡を前提としているのである。
 問題は、損失の原因、内容である。何が原因で赤字になったのか、それは一時的なものなのか産業目的や長期的展望に立った判定が重要なのである。

 経済の歪みは会計制度の歪みに表れる。会計制度の歪みは、経済に反映される。会計制度の歪みは財務諸表に表れる。

 バブル崩壊後、日本の多くの企業は、過剰債務、過剰設備、過剰雇用に陥ったと言われる。しかし、これは結果論である。資産価値が下落すると相対的に債務は、過剰になる。なぜならば、債務は名目的な価値で表示され、資産は、実質的価値で表示されるからである。

 物価の上昇は、名目的価値を押し上げ、物価の下落は、実質的価値を押し下げる効果がある。

 名目的債務を裏付ける働きをしている資産の貨幣価値は、乱高下するのに対し、名目的債務は、額面で動く。
 いくら不良債権が処理されても借金(名目的債務)が減るわけではない。名目的債務は、借入金が返済されてはじめて解消される。その借入金の返済原資は、収益によって為されなければならない。借入金の返済を借入金に頼る間は、むしろ債務の残高は、累積するのである。

 いくら不良債権が処理されても借金(名目的債務)が減るわけではない。名目的債務は、借入金が返済されてはじめて解消される。その借入金の返済原資は、収益によって為されなければならない。借入金の返済を借入金に頼る間は、むしろ債務の残高は、累積するのである。
 名目的債務の性格を理解することである。
 名目的債務を裏付ける働きをしている資産の貨幣価値は、乱高下するのに対し、名目的債務は、額面で動く。

 実物市場が資金を吸収できなくなっているのが問題なのである。実物市場で資金が吸収できずに金融市場に洪水のように溢れ出し、実体経済に破壊的な作用を及ぼしているのである。

 実物市場で、重要なのは、価格である。適正な価格の維持こそ重要なのである。

 生活に必要な物資、財が満たされていれば、経済は成り立つはずである。それなのに経済が成立しなくなったとしたら、或いは、円滑に機能しなくなったら、それは、通貨の問題である。
 通貨の役割は、物と人との仲立ちである。つまり、貨幣に求められる必要な物資や財を、必要な時、必要なだけ、必要とする人に分配する仲介をすることである。その機能を逸脱してしまうことによって本来の機能を貨幣が果たせなくなり、経済が混乱するのである。
 重要なことは、貨幣は、名目的な価値を表示する物だという点である。その名目的な価値が実質的価値から乖離し、それ自体が固有の働きをすることにある。

 現代市場経済、貨幣経済とそれ以前の経済の違いは、信用制度を基盤としているかどうかにある。
 現代貨幣経済が成立したのは、信用制度が確立されたからである。その決定的な差は、借金にある。信用制度が確立され期間損益が成立する以前は、現金主義経済であった。その違いは、借金にある。

 信用制度が確立された以後の世界と、それ以前の世界では、所有に対する認識の質が変化した。極端に言えば、所有権が、借用権に近い性格のものに変質したと言える。過去においても物質的な物は、借り物にすぎないと言う思想はあった。自分の肉体ですら神からの借り物に過ぎないと言う思想、観念である。しかし、それはあくまでも観念上の物で、実質的な物ではなかった。ところが、貨幣経済が深化すると貨幣に価値が還元され、それによって全ての経済的な価値は借用によって成り立つという考え方に実務的に支配されるようになる。

 情報の非対称性によって与信には限界がある。その為に、信用に制限が加えられる。信用制度を土台とした市場では、その信用制限は、借金、即ち、負債の限度を意味する。負債の限度は、将来の所得、或いは、担保する物や権利、債権に基づいて設定される。

 期間損益主義が確立する以前、現金主義時代では、貨幣は、土地や資産を取得、或いは交換するための手段に過ぎなかった。それが期間損益が確立されると全ての市場価値の基盤に借金が存在することになる。この借金の裏付けとして貨幣価値が存在することになるのである。この様な現象は、近代貨幣、即ち、表象貨幣、紙幣と紙幣が表示する名目的貨幣価値の性格によって形作られた。

 事業をはじめるにしても、清算するにしても、現金主義の時代は、比較的簡単な処理で片付いた。過大な借金がなかったからである。やり直すことも容易であった。しかし、現代社会は、違う。債権と債務が、常に、存在し、それが前提となるからである。
 バブル崩壊後の経済がなかなか立ち直れない原因の一つにこの累積した債務(名目的貨幣価値)の圧力の問題がある。

 人間は、名目的価値に囚われる傾向がある。名目的価値は、絶対額によって表示され、尚かつ表面的、あからさまに示される具体的な数値、確定的数値、デジタルの数値だからである。それに対し実質的な価値というのは、暗示的で、表面に現れない、また、現れても不確か、移ろいやすい数値、アナログな数値である場合が多い。
 実質的貨幣価値は、相対的価値である。実質的な価値が変動しても、絶対額で表示される名目的価値は、変動しない場合がある。その為に、実質的な貨幣価値と名目的貨幣価値が乖離する危険性が生じる。

 債権の問題ばかりを優先的に処理しようとすると返済圧力だけが強くなって名目的な債務が減少しなくなる。
 債権は、実質的に認識され、債務は名目的に表示されるからである。その為に、不良債権は、清算しようとすればするほど悪化してしまうのである。不良債権を解決するためには、実体経済を名目的表示されている水準まで引き上げる必要がある。それは所得の改善以外にないのである。

 かつては、金が債務の裏付けとしてあった。現在の通貨は、その担保とする実体すらない。故に、名目的な債務を抑制するは非常に難しい。かといって金本位に復帰することは、市場規模からして混乱を引き起こすだけに終わる危険性が高い。

 貨幣価値は、相対的価値である。しかし、人間は、それを絶対的価値のように認識する傾向がある。
 市場の収縮や拡大は、相対的現象である。つまり、貨幣価値の収縮を意味する。故に、絶対価額が増減が、即、経済変動の幅を意味するわけではない。不良債権の絶対額が減ったからと言って相対的価値が減少したとは言えないのである。

 家計のバランスシートは、銀行の貸付残高の減少を意味し、資本市場から金融市場への資金移動は、銀行の借入の増加を意味する。預金は、銀行が運用を前提とした借入なのである。故に、借入が増えれば、必然的に銀行は、優良な貸出先、融資先を捜し、なければつくの出さざるをえなくなるのである。
 その一方で、市場が収縮しはじめると家計も企業も債務の圧縮にはしる。それが、債務と債権の乖離現象を引き起こすのである。
 それが過剰流動性を生む前提である。

 株主資本主義というが、リーマン・ブラザースの例が示すように、その影響は、株主だけに及ぶわけではない。金融機関や取引先、従業員、そして、地域経済や国家経済全般にその影響は及ぶのである。

 では、なぜ企業は潰れるのか。それは資金繰りがつかなくなるからである。赤字だから潰れるのではない。期間損益というのは、あくまでも名目的なものであって、企業経営が継続するか、しないかは、実質的には、資金収支によって決まる。つまり、資金の供給が停止されれば、企業は成り立たなくなるのである。後に残るのは負債である。

 破産してみると過去の利益や土地が消滅して借金だけが残っている。その様な状況に陥る。破産した者や取引先からしてみると狐に鼻をつままれたような感覚に襲われるものである。

 なぜ、その様な状況に陥るのかである。それは、債務が名目的な価値であり、債権が実質的な価値だという事と経済の基準が名目的な価値におかれているということが原因なのである。
 実質的にどんな価値があったとしても名目的に価値が表示されていなければ、表面的には無価値なのである。 

 あるべき価値がない。債務は名目的、明示的価値であるのに対し、債権は、実質的価値、暗示的価値である。故に、人々は、債権を問題にする。しかし、いくら債権を処理しても名目的な価値が変動しなければ、取り引きの決済は完了しないのである。

 例えば、地価が下落し、担保割れしたから土地を売って借金の返済に充てたとしても土地を売った収入が、借入金の額に相当しなければ、借金は残るのである。残った借金は、所得によって返済しなければならない。返済することができなければ、金融機関は、それを貸し倒れ処理しなければならない。しかし、その原資は、行き着くところ、預金なのである。預金は、名目的な価値が貯められたものである。
 この場合に、何が問題なのかというと、借金の返済は、本来、収益を基礎として為されなければならないと言うのが建前、前提である。しかし、その返済額は、収益から引かれるわけではない。つまり、費用ではない。だから、借金を返済しても収益には反映されない。ただ、借金の返済額は、収益には、反映されないが、借金を返済しようとして資産を売却したとき生じる損益は、収益に反映されるのである。
 ところが、収益が不足すると元本の返済まで求められるようになるという事である。先にも述べたように、元本の返済は、税引き後利益から捻出せざるをえない。元々、収益が不足しているところ元本の返済まで求められれば、経営は立ちいかなくなるのである。
 故に、企業が倒産する名目的原因は、収益であり、実質的原因は、資金繰りなのである。収益が改善されない限り、資金繰りは改善されず。結局、多くの企業は成り立たなくなると言う悪循環にはまりこんでしまうのである。

 現金主義の時代には、儲かったら、早く借金を返して楽になろうとする。今でも、現金主義の家計では、そうである。しかし、これが期間損益主義になると話が違ってくる。儲かったらと言って借金を返すとすぐに金が廻らなくなる。なぜなら、借金の元本の返済は、期間損益に反映されないからである。つまり、元本を返しても金利負担は減るかもしれないが、元本の返済部分は、利益に反映されない。ただ、資金的に苦しくなるだけである。

 実業にとって資産は、本来潜在的価値である。多くが売りたくても売れない物、即ち、流動性が低い物である。例えば、都心に工場があって工場の敷地の土地が高騰したとしても操業を止めるか、違う場所に移転でもしない限り、営業には無縁である。かえって、資産にかかる税や相続税の負担が増すだけである。逆に、地価が下落すると含み損になりかねない。

 不景気になると企業収益が悪化するために、金融機関は、一斉に資金を引き揚げようとする。それは債権の保全という名目だが、実際は、債権を保全することはできない。それは、貸借を毀損してしまうからである。貸借は、名目的価値で表示されているのである。いくら債権を処理しても債務は残るのである。そして、そのことによって金融機関から資金が枯渇するのである。

 重要なのは、借入金の元本部分は、ストックに相当する部分だと言う事である。金利や所得、費用というのは、本来、フローの問題だという事である。そして、通貨の流量の問題もフローの問題だという事である。フローというのは、市場の表面を流れている貨幣、通貨である。そこに広範囲に亘ってストックの部分が流れ出せば、通貨が不足する。必然的に実物市場に流れる資金が薄くなるのである。
 つまり、フローの問題がストックの問題に転化した途端、通貨の流量が不足する事態が発生するのである。つまり、名目的な「お金」は余っているのに、実質的な「お金」が不足するという事態である。

 乗数効果というのは、資金の回転によって生まれる。通常に融資行動によって利益が確保できなくなった金融機関は、資金の回転率を高めることによって利益を上げようとする。その結果がレバレッジ率を高めることになるのである。

 また、借入金の元本に対する返済資金は、純利益から調達しなければならない。所得が減っている時に、元本の返済を迫られれば、破綻をするのは必然的帰結である。つまり、潰さんが為に返済を迫るようなものである。かといって、資産を処分すれば、その利益は、所得に加算され、利益には税金が課せられる。かくして、倒産が激増し、失業が増え、所得が減少する。

 家計を例にとると通常、我々は、自分の手持ち財産を基礎にして家計を計画する。失業のしたりして所得が不足した場合は、家計を取り崩して生計を成り立たせると言う。この場合の家計は、財産を指して言う。つまり、蓄えであって借金ではない。もし、仮に日常の生計が借金を基礎としていたら、所得が不足したら一遍に破綻してしまう。
 ところが企業経営は、負債を基礎としている。故に、所得が不足すると、即、経営は危機的な状況に陥る。よく、企業の死活は、金融機関が握っているというのは、金融機関が負債を仕切っているからである。しかし、金融機関も同様である。金融機関の負債というのは、預金である。金融機関が破綻する原因は、預金の取り付けである。

 現代経済は、借金、即ち、借入金を基礎にして成り立っている。つまり、資産を基礎としているわけではない。借入金というのは、名目的な価値である。つまり、現在経済の尺度は名目的な貨幣価値である。
 負債が基礎となることによって資産価値も名目的な数値として表示される。それが貸借原則である。

 そして、最終的に行き着くのは、社会的債務である。
 社会的債務の大本は、預金と国債である。故に、預金残高と国債残高の和が社会的債務の土台となる。

 問題を解決するためには、所得を改善するか、名目的価値を減じるかしかない。名目的に価値を減らす為には、所得から資金を生み出す以外にないのである。結局、所得を改善し、実質的価値を名目的価値に近づける以外に解決策はないのである。
 そして、所得を改善するためには、市場の規律を取り戻すことが大前提である。つまり、無意味で不必要な競争を一時的に抑制し、企業の体力を取り戻すことを優先することである。

 金融機関は、預金という借入金の返済を要求されることも想定していないし、また、一斉に貸付が返済される事態を想定していない。しかし、時としてその前提が働かなくなる。その時にどの様な判断をすべきかが重要なのである。
 預金も、貸付金も、明示された貨幣価値があるという仮定の上に成り立っているものであることを忘れてはならない。また、その仮定が成り立つのは、貸付金も預金も名目的な価値に依拠しているからである。

 金融機関は、預金は、一定量の残高があること、蓄積があること、堆積があることを前提として成り立っている。つまり、一定の預金量が確保されていることを前提としている。それが一斉に返済を要求され、消失するのが取り付け騒ぎである。金融機関が一番怖れている事態である。
 一定量の預金残高を維持する事を前提とし、尚かつ、顧客の返済要求に応える為の準備資金を用意しておく事が前提となると、金融機関は、一方で一定の流動資金を確保しながら、一方で資金を運用し続けなければならない宿命にある。
 資金運用を前提とするならば、資金は、一定の量以外銀行にはないのである。いくら預金残高が銀行の決算書に記載されていると言っても、それは名目的なものであり、記載されただけの資金が金融機関にあるのではない。逆にあったら金融機関は立ちいかないのである。

 預金、金融資産、資本と言っても「お金」、現金があるわけではない。これらは名目的な価値を表示した科目である。その名目的でしかない資金がさもあるように錯覚し、或いは前提とするから、貸し渋りや貸し剥がしという行為が横行するのである。つまり、融資に向けられる資金を銀行はどれ程確保しているかが、重要なのである。見かけ上の資金が潤沢に見えても実際には資金が不足している場合もある。
 銀行にいくら預金の残高があっても、それは、貸付金として運用されているのである。その貸付金が劣化していたり、回収ができない状態に陥っていれば、実際に銀行が運用できる資金は不足するのである。また、貸し付けたくとも、企業収益が悪化していれば、優良な貸付先が見いだせなくなるのである。しかし、資金を運用しなければ、預金者に対する返済ができなくなる。その為に、資金を金融市場や資産市場で、即ち、ストック市場で運用せざるをえなくなるのである。
 この様な経済状況下では、借金の返済や預金を抑止し、消費を奨励する政策が必要となる。ところが実際には、この逆の政策がとられがちである。即ち、不良債権を処理し、預金をして、消費を控える。その為に、資金は益々市場に流れなくなる。
 バブルが崩壊した後の日本においてとられた処置が好例である。
 資金には、流れる方向がある。その流れる方向をよく見極めて政策は立てる必要があるのである。

 不良債権処理の問題を検討する際、債権の処理方法ばかりが検討されて、債権と債務の関係や市場の側の問題が取り残されている場合が多い。
 不良債権は、資産の下落が原因で発生している場合が多い。故に、資産の下落を引き起こしている市場の仕組みや債務を返済するための収益をいかに確保するかの問題が取り残されている。

 個々の企業で言えば、不良債権を処理をしても、借金は、残るのである。しかも裏付けのない借金である。後は、ただひたすらに借金の返済に追われることになる。借金の返済に追われて、新規投資の資金の余力もなくなる。
 更にそれに追い打ちを掛けるのが、景気の悪化に伴う収益力の低下である。収益によって借金を返済しなければならない時に、市場環境が悪化し、競争が激化する。或いは、市場が飽和状態になり、売上が減少する。それが企業の体力を徐々に奪っていくのである。
 金融機関にしてみれば通常の状態では融資を渋る対象ばかりになる。つまり優良な融資先が減少することになる。その為に、金融市場や資本市場、先物市場、商品相場において、手っ取り早く利益を上げようとする傾向が強くなる。それが、バブルの種になるのである。

 金融政策を問題とする際、金利のことばかりを問題とするが、現実は、資金不足が最大の問題なのである。問題なのは資金の確保、つまり借入なのである。資金繰りがつかなくなればどんな高利でも手を出しがちなのである。故に、資金繰りがつかなくなる原因は、元本の返済なのである。つまり、急に元本の返済条件を変えられたり、借り換えができなくなったっり、運転資金の手当てができなくなることなのである。新規投資の資金に困るからではない。経営活動のベース、基盤にある資金が不足することなのである。だから、貸し渋りであり、貸し剥がしなのである。

 よく負債と資本の違いは、資本は、返す必要がない資金であるのに対し、負債は、返さなければならない資金だと説明される。その返さなければならないと言う意味は、金利を指して言うわけではなく。元本部分を指して言っているのである。ところが、元本の返済に相当する部分が利益計算の上には出てこない。その為に、問題が顕在化しない。原因が掴めないのである。それによって黒字倒産、資金繰り倒産などと言う事態が発生する。

 しかも、返済に充てる資金は、市場から調達するのが原則である。その市場が、バブル崩壊時や恐慌時は、機能しなくなっているのである。

 金融危機やバブル崩壊、恐慌というのは、市場の仕組みが壊れたのであるから、先ず市場の仕組み、機能を回復することがやるべき事なのである。
 それでなくとも企業は、資産価値の下落で傷ついているのである。収益の確保が最優先である。それを資金繰りで更に痛めつけるのは愚の骨頂である。
 担保主義から収益主義へ転換し、一時的に競争を抑制して市場の規律を取り戻すことである。つまり、市場を養生させることが大切なのである。

 金融機関で固いのは、預金額である。預金額は、銀行の地盤であると同時に、負担でもあるのである。
 金融危機で最も障害となるのは、この預金の硬直性である。その為に債務残高が減少しないのである。

 預金も、借金も貨幣価値と時間の関数である。預金というのは、見方を変えると銀行の借入金なのである。預金は、預金者から見ると貨幣価値の後払いを意味する。それに対して、借金は、先払いである。預金は、流動性が高い反面、財を所有し、活用する事が後回しにされる。借金は、財を所有し、活用する事を前倒しする効果があるが、反対に流動性が低く、しかも、責務が生じる上、使用目的が硬直的になる。ただ、預金も借金も貨幣価値と時間との関数であるという点においては、同質だという点を忘れてはならない。そして、いずれも、名目的な数値として表示される。
 そして、銀行の債務を構成する大きな要素が預金なのである。つまり、預金の残高が銀行経営の鍵を握っているのである。金融危機や金融問題を検討する場合この点を見落としてはならない。つまり、貸付金残高と預金残高の均衡が問題なのである。

 産業は、一年やそこらで収益が見込めるという前提で成り立っているわけではない。儲かる時もあるし、儲からない時もある。それが大前提である。常にも受け続けなければならないという事を前提としてはいなかったはずである。そして、儲からない時は、儲からないからこそ資金を必要としている。当然金融機関からの資金を必要としているのである。その時、金融機関が、資金を供給するどころか、引き上げたらどの様な結果になるかは、明らかである。
 住宅ローンをくむ時、十年、二十年先の所得を担保とする。ローンの月々の支払は、硬直的で、一生の多くの時間をその支払に充てる。しかし、だからといって、人の一生を読み通すことはできない。一寸先は闇である。金を確実に返せるという保証はないのである。
 一生のうちには、失業したり、災害にあった時、金に困る事が、誰しもがあり得るのである。金がある時に金を融資する、それでいて、金に困っている時に金を融通せず、身包みを剥ぐのでは、悪徳と言われても仕方がない。こうなると人間が悪くなる。悪徳金貸しと言われても仕方がない。
 それは金融機関が金融機関としての使命を理解していないからである。金融機関の役割というのは、金が余っているところから金の不足しているところへ資金を融通することなのである。一時的に、しかも、原因が明らかで支払が滞ったらどうするのかである。たとえ、相手の苦境が理解できたとしても、人助けをすることが許されない仕組みになっている。だから、金融機関は、自分の役割を果たせないのである。

 人の一生もまた、時間の関数である。そして、経済の根本には、人生がある。一人一人、人の生き方がその社会の経済の在り方を決めるのである。
 そして、人と人とが助け合い、かばい合うから社会が生まれる。それが経済の大元である。生病老死。そこに経済の根源がある。

 人間の経済を考える上で重要な要素の一つが面倒を見るという事である。親や子供の面倒を見る。他人の面倒を見る。助け合うという事である。
 子供や年老いた親の面倒を見るという行為から家族が産まれ、分業が生じたのである。それが経済の原点であることを忘れてはならない。家族こそが経済の源である。その家族が解体し、ただ金銭だけに象徴される関係に堕している。それが現代の経済を危機的な状況にしているのである。経済は、「お金」ではない。状況である。経済とは生きることそのものであり、生きていくのに必要な環境を指しているのである。

 企業収益が改善しないと景気は回復しない。しかし、景気が悪くなると価格競争が激しくなる。そして、益々景気は悪化する。
 いずれにしても企業業績が改善しない限り、家計も、財政もよくならないのである。その為には適正な価格を維持できる体制をいかに構築するかが鍵を握っている。

 何を前提とするかの問題である。何を目的としているかである。

 なぜ、ここに、この産業があるのか。それが問題なのである。産業が存在するのは、ただ物を作って売るためにだけではない。物を製造し、販売する過程に経済があるのである。

 貨幣というのは、人間が生み出した物である。貨幣経済というのは、人間が生み出した貨幣の上に成り立っているのであるから、当然、貨幣経済も人間が生み出した世界である。人間は、自分達が生み出した貨幣に振り回されている。
 貨幣が必要とされるのは、貨幣の効能によるのである産業もまた、然りである。
 先ず、なぜ、何のため、誰のためにあるのかを明らかにしない限り、経済の実相は見えてこない。




                    


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