法治主義

法と道徳


 経済活動で重要なのは、道徳である。経済秩序は、道徳によって護られている。市場経済、貨幣経済は、信用を基にして成り立っている。その信用を成り立たせているのが道徳である。道徳が信じられなくなれば、信用制度は忽ちのうちに崩壊してしまう。
 個人主義、自由主義は、個々人の道徳を信用することによって成り立っている。故、個々人の経済活動に責任を持つことが個人主義、自由主義である。故に、経済秩序は、一人一人の道徳によって護られる。
 これが、個人主義、自由主義の大前提であり、鉄則である。個人主義、自由主義の大前提、鉄則でありながら、経済行為程、道徳を保つことが難しい行為はない。如何(いか)な、聖人君主といえども、事、経済の問題となると襤褸(ぼろ)を出すものである。それは、経済は、日常的な生き方に関わる事、生存に関わる問題だからである。
 この様な自由市場経済では、経済秩序を破綻させるのは、モラルハザードである。金融危機の際も、バブルの際、恐慌の際も、問題になるのは、モラルハザードである。

 経済活動でなぜ道徳を守ることが難しいか。それは、生存活動だからである。最低限生きる為に必要な資源、物資は、確保しなければならない。それも自分だけではなく、自分の家族、係累が生きていく上で必要な分を含めてである。それが正統的な手段、合法的な手段で得られないような仕組みであれば、自分達の権利を守るか、それでも世の中の仕組みに従うかの選択を迫られることになる。そこに、経済制度の持つ重要性がある。
 経済は、道徳によって維持される。しかし、その道徳は、経済の仕組みによって維持されている。この相互関係を理解しないと法と道徳は両立できない。

 戦争も経済である。戦争は、資源が自足できない地域から、資源が豊富な国に対する侵略という形で始まる。戦争とは、生存を賭けた戦いなのである。軍事力を行使しなければ自国が、生き残れないと判断すれば、戦争は起こる。誰も戦争は望んでいない。誰も望んでいない戦争が起こるのは、戦争をしなければ生き残れないところまで追いつめられるからである。それは、ある意味で経済の問題でもある。
 要は、軍事力にうったえる前に、経済的に解決する方策を模索することである。戦争が政治の延長線にあるとするならば、戦争は、経済の延長線上にも位置するのである。

 古来、商人(あきんど)に、道徳はない。商人には、道徳がないように言われてきた。しかし、商人には、商人の道徳がある。商人に道徳がないと言うのは、経済に対する蔑視が根底にある。
 哲学というのは、何も学者や世捨て人だけが生み出すものではない。商(あきない)いにも、商いの哲学が必要である。学者や世捨て人みたいな人ばかりが哲学に携わるから哲学が、学術的な哲学か、超俗的哲学、世間離れした哲学になる。
 多くの人は、商売人の道徳には、下心が見え透いていると言うが、商人には商人の考えがある。また、道徳がある。それが市場や経済を支えてきたのである。その商人の道徳が市場に規律をもたらしてきたのである。今日、市場が荒れるのは、商人に道徳がなくなったからである。

 悪いのは、経済の混乱と硬直化である。そして、経済の混乱と硬直化を招くのは、無秩序と腐敗である。
 権力の腐敗は、経済を停滞させ、崩壊させる。それは、政治的権力に限らない。経済的権力も同様である。政治的権力の腐敗を招くのは、独裁であり、経済的権力の腐敗を招くのは、独占である。

 反権力主義者は、国家権力は悪だと言うが国家権力に従わない権力が存在することの方が恐ろしい。その権力が闇の勢力であったらなお恐ろしい。反権力者を標榜する者の多くが、何等かの闇の権力と結びついている。そして、反権力主義者の多くは、現権力を倒した後に自分が権力を掌握しようと企んでいるのである。

 価値観の変化は経済に決定的な影響を及ぼす。
 世の中が、快楽主義的、刹那主義的になれば、消費欲が高まるであろうし、勤労的、禁欲的になれば消費欲は低下する。

 独身者の結婚に対する価値観は、経済に決定的な影響を与える。結婚は、家族間でもあり、育児思想にもは進展する。少子化対策と言うが、ただ、保育園や幼稚園を増やしたとしても解決できるわけではない。独身者、未婚者の意識、思想が変わったのだから、彼等の考え方を変えない限り解決には至らないのである。

 問題は、一つの方向に偏ることである。株に対して素人で、所得の低いメイドや靴磨きまでが株式投資をした。だから、バブルが発生したのである。それは、その時代の価値観に影響されている。そして、その価値観を醸成したのも市場の雰囲気、熱狂なのである。しかし、それは根拠なき熱狂に繋がる。
 反対に、将来に希望が持てなくなれば、消費者の紐は堅くなる。大事なことは、景気の変動に左右されないような堅牢な思想を国民が持てるかどうかである。そして、その根幹となる倫理観に基づく社会体制が築けるかである。

 また、人々の価値観を左右する要素の一つが宗教である事を念頭に置く必要がある。経済に与える宗教の力を無視してはならない。宗教は、経済的価値観に確固たる核を形成する。そして、それは、社会の隅々にまで浸透するのである。必然的に社会の仕組みの原理を構成するようになる。

 社会の制度と人間の価値観は、相互に影響し合って形成される。例えば、年金制度や失業保険制度が整っていると人間は、貯蓄よりも消費を優先的に考えるようになる。また、安定した収入が確保されるようになると長期の借入を考えるようになる。それは信用制度の根本になる。

 モラルハザードとセーフティネットの相関関係が認められる。社会の安全装置がなければ、人間は、不安から不正を働くようになる。しかし、社会の安全装置が働きすぎると自制心が失われる。何れも、モラルハザードを引き起こすと言われるのである。

 根本にあるのは人間性の問題である。人としてどうあるべきか。それが見失われた時、法も制度も形骸化してしまう。
 本来、経済は、人と人との取引、交流によって成り立つものである。今日、人間の裁量の余地を全く認めようとしない。主観的な判断は、悪だとする。しかし、人を裁くのは、所詮人間なのである。
 最終的には、人と人との信頼関係がなければ人間の社会は維持できないのである。だからこそ教育が必要とされる。教育の根本も社会思想である。その社会思想そのものを問題せずに、法や制度、そして、経済の問題を議論することが間違っているのである。

 義のない行いは、罪である。義もなく、ただ金儲けのためだけに利益を追求することは、それ自体罪である。大切なの事は、なぜと、問うことである。
 今、人類は、人類の理性、道徳を問われている。戦争、環境、資源、食料、人口どの問題一つとっても人類の未来がかかる大問題である。しかも、全てにおいて人類の英知が問われているのである。
 しかも、全てにおいて経済が絡んでいる。全てが経済問題であると言っても過言ではない。つまり、人間は、経済において、理性的であること、道徳的であること、そして、自制することを求められているのである。そこに法の根源がある。
 法は観念ではない、現実である。人間の現実的な罪を前提としている。問題は、その罪の意味なのである。
 人間の罪は、どこから来るのかである。人間の罪は欲から来るものなのか。虚栄心から来るのか。貧困の為せる業(わざ)なのか。悪魔の誘惑なのか。それを抑制できない、なにものかによるのか。そして、人間の罪をどう裁くのか。罪の根源にある人間という存在、それこそが、法の本質的な問題なのである。
 金融危機で問われているのは、人間の道義心である。金の多寡ではない。自分の行為が善であるか、悪であるかである。それは、メフィストーフェレスの独白でもある。誘惑に負けるか否かは、自分の心に問うべき事なのである。

 人間の欲望は、際限がないと言われる。しかし、人間の欲望にも限界はある。一つは、生理的な欲望は、生理的に充足すれば自ずと解消される。二つ目に、観念的な欲望である。観念的欲望は、際限なく見える。しかし、それも人間の意識、認識の範囲内に限定される。何れにしても、人間の欲望にも、限界がある。そして、欲望が充足した時、人間の欲求は、飽和的状況になる。それ以上に財を生産しても消化されずに市場に滞留することになるのである。
 人は、飢えている時は、ガツガツと何でも食べる。しかし、満腹になるとどんなに美味しい物を目の前にぶら下げられても見向きもしないのである。そして、一定の時間が経つとまた空腹になる。その周期が需要と供給のバランスの周期を生み出す。これが、最短の経済周期である。つまり、経済の周期は、一日の中にも食事の回数だけで発生している。

 この様な周期的な運動は、自然の規則やリズムの基となる。この様な規則の他に人間が作り出す規則がある。それが法である。
 経済は、この二つの規則、つまり、自然に作られる規則と人間が作り出す規則の二つの規則によって制約される。
 この二つの規則は、似て非なる性格を持つ。しかし、時として、この二つの規則は混同され、また、都合良く、あるいは、便宜的に使い分けられる。
 人間の世の中の法を自然の法則と同一の働きとして捉えたり、百パーセント、恣意的な働きだと決め付けてしまう。しかし、生理的な働きに基づく規則と人間が恣意的に作り出した規則とは、その働いている次元が違うのである。

 経済は、市場が全てではない。経済を構成する要素は、共同体としての経済主体と、市場である。経済単位の内側を内部経済とすると市場は外部経済である。外部経済である市場は、非倫理的世界である。つまり、不道徳な世界である。そこでは、金と法が支配している。
 経済は市場だけで出来ているわけではない。市場は、不道徳な世界である。しかし、経済主体の内部は道徳的世界である。しかも、不道徳な世界である市場と道徳的世界である経済主体とは補完的関係にある。故に、経済は不道徳な世界ではない。

 労働市場と言うが、労働は、完全に商品化されているわけではない。むしろ、労働に対する評価は、組織化される傾向にあり、市場化からは逆方向にある。それが最大の問題なのである。労働は、要素化され、価格化されてはいるわけではない。労働に対する評価は、多分に人間くさい、属人的な要素に支配されたものである。さもなければ、労働意欲や志気モラルなど保てないのである。

 現代の経済学者は、法を尊重するといいながら、遵法精神を前提としていない法学者のようなものである。
 それは、経済学が経済的道徳を前提としていないからである。人間は、経済学が設定としているような功利主義的存在ではない。人間は、経済においても道義的存在である。ただ、その道義的基準が信じるものによって違うのである。

 法さえ守っていれば何をしてもいいという考え方が横行している。確かに、道徳的には問題があるかもしれないが、違法行為ではないのだから許されるではないかという考え方に通じる。しかし、それは信用制度の根幹を揺るがす発想である。
 その様な前提に立つ者は、法治主義本来の考え方を理解していないのである。

 内的規範は善悪の基準、即ち、道徳であり、外的規範は、賞罰の基準、即ち、法である。内面の規範と外的規範は、相互に補完的関係にある。どちらか一方だけでも成り立たない。現代社会は、内外双方の規範を前提として成り立っている。
 道徳と法の相互作用によって国家は形成されていくのである。
 ただ、内的規範は、主体的なものであるから国家はこれに介入しないと言うのが原則だと言う事であり、内面の規範がなくても善いという事を意味するのではない。個人の思想・信条を尊重し、そのうえで、個人の道徳律を信じるからである。罰則に対する恐怖を前提として成り立っているわけではない。
 基本的には人間一人一人の持つ道徳観を基礎とし、そのうえに国民的合意によって社会の規範法を定めるというのが法治主義の大前提である。
 個人の道徳に信を置かなければ成り立たないのが、個人主義社会の法体系である。
 経済もまた然りである。国民一人一人の道徳観に対して信を置いているから経済は成り立つのである。それが信用制度である。

 国民一人一人に道徳、規範が信用できなければ、経済制度は成り立たない。契約や約束がその典型である。約束や契約が信用できなければ、経済は成り立たないのである。契約や約束を守るのは、契約や約束を破ったとき科せられる罰を畏れるからではない。個人の思想、信条を信じるからである。その思想。信条の根拠としてイデアやコモンセンスのような概念を置くかどうかは、問題ではない。つまり、何を信じるかではなく。何に従うのみを問題としているのである。一人一人の倫理観を前提としているのである。
 もし仮に、個人のの倫理観に信をおけないとしたら、どんな綺麗事を言っても、厳罰主義にならざるをえない。法を維持できるのは、罰以外期待できなくなるからである。
 同様に、経済に対する道徳を前提としなければ、経済秩序を維持することは出来ない。利己心だけで市場の規律が保たれると思い込むのは、傲慢なことである。

 この点に関して、日本人の姿勢は、どちらにしても中途半端である。倫理観というのは、常識や良識というのとも違う。明確な価値基準である。また、罰則というのは、罰を前提としている。罰則を言うのならば、根拠なく、例えて言えば可哀相と言った情緒的な根拠ではなく。根本的な思想に基づく手続でなければならない。

 法の根源は、神にある。それは、人間存在にあるからである。しかし、神は、無分別な存在である。善悪の基準は、相対的であり、神は絶対的存在だからである。故に、善悪の判断の基準は、人間の側にある。善悪の基準は、人間の合意に基づく。それは、神との契約によって普遍化される。それ故に、手続が必要であり、重要なのである。

 つまり、法を守ろうという意志は、神を本源とする。その意志に基づいて法や掟を定める。法を守ろうという意志があって。法ははじめてその効力を発揮する。誰も守ろうとしない法は、効力を発揮しない。それが法治主義である。

 犯罪は、法によって作られる。法がなければ犯罪は成立しない。それが法治主義である。そして、法は権力によって守られる。権力は、唯一公的に認められた暴力である。権力の正統性は、建国の理念、国家理念に基づく。宗教的権威に基づく国家は、神に、君主制は、血統に、国民国家は、国民の意志に正統性が求められる。正統性は、手続によって証明され、儀式によって知らしめられる。

 法は、倫理観によって裏付けられ、倫理観は、法によって強化される。法は、倫理観によって形成され、倫理観は、法によって矯正させる。法は、倫理観によって変革され、倫理観は、法によって正される。

 法の単位は、国家であり、国家には一つの法体系しか認められない。逆に言えば、法の数が国家の数を決める。法は、論理である。法は、定義による。法は、言葉で表された命題である。現代の法は、成文化されたものである。

 法は、定義である。定義は、複数の命題によってなる。科学の定義は、自明なるものに基づく。しかし、法の命題は、基本的に任意なものである。

 法は、ルールの問題(会計、スポーツ)である。規則が定まることによって社会的空間は、成立する。ルールは、認識の問題である。それ故に、相対的である。法は、絶対的な物ではない。絶対的なのは、その背後にある法の本源、国民国家であれば国民の意志である。

 その根源にあるのは、国家、国民の在り方に対する構想である。

 多くの日本人は、近代国家や近代文明は、神の否定の上になりたっていると錯覚している。それは、違う。神を信じるが、故に、近代国家も近代文明も成り立ちうるのである。なぜならば、神を信じることは、人間を信じる事だからである。神がファウストを信じたようにである。

 法は、法のみで成立するものではない。国民国家における法は、国家と国民に対する信によって成り立っている。国家、国民に対する信がなければ法は成り立たないのである。それは、国民国家が、国民の道徳心に依拠した体制だからである。それが個人主義の本質でもある。

法による方向性


 法は、人間一人一人の価値観に作用して、人間の行動を方向付ける働きがある。
 故に、法や規則によって人の行動を一定の方向に流れるように仕組むことが可能である。それがベクトル、方向性である。

 行動を制約するのが、法や規則の働きである。法や規則は、場に働く力である。

 要は、方向性の問題である。人間の行動は、当事者が得だと思う方に流れ、損だと思う方向を避ける。

 財政赤字が問題になると決まって官僚機構の不効率性が問題になる。また、共産主義体制の崩壊も突き詰めてみると官僚制度の欠陥に至る。しかし、それでも官僚制度は健在である。なぜ、多くの欠陥が指摘されながらも官僚制度は、健在なのであろうか。
 それは、官僚機構を規制する法の影響、方向性にある。その最も重要な部分は、経済や組織に対する規制である。

 お役所仕事という言葉がある。何でもかんでも民営化してしまえと民営化ばやりである。役所の仕事は、不効率で、採算がとれないという事である。
 しかし、なぜ、公共団体は、不効率で不採算な仕事しかできないのかの原因は問題とされていない。
 人間性とか、道徳観の問題にすり替えている場合さえある。しかし、役人というのは、生まれついた時から役人根性を持っているのであろうか。また、欠陥人間ばかりが官僚になるわけではない。むしろ官僚というのは、選び抜かれたエリート集団である。また、欲得ずくだけで官僚になれるわけでもない。
 なぜ、民間人と役人とでは、価値観に相違が生じるのかについては、何も検討されていない。となると、これは一種の差別である。
 重要なのは、官僚機構というのは、収益や採算に基づいて動機付けされているのではなく。予算によって動機付けられているという事である。

 また、予算の財源である税というのは反対給付がない収入である。故に、税の使い道に対しても無責任になりがちなのである。なぜならば、税の使い道を評価する仕組みが存在しないからである。そして、税の使い道に対する監視機関が機能しなければ、既得権益に結びつき利権の温床となる。

 官僚は、予算を消化する方向にインセンティブされており、民間人は、利益を上げる方向にインセンティブを見出す。その様に仕組まれているのである。

 勘違いしてはならないのは、官僚組織も一個の独立した共同体だと言う事である。つまり、運命や生活を共有した集団だと言う事である。
 共同体というのは強固な組織であり、対抗する集団を弱体化させるためには、共同体制を削ぐことが最も効果的なのである。この点は、国家組織と雖も同様である。
 しかも、国家組織というのは、内部に組合のような反体制的な組織をも包含しているという事である。その為に、権力抗争は複雑の様相を呈する。それぞれが自分の組織の温存を計るように活動するからである。
 共同体の構成員は、運命も生活も共有する組織に忠誠を誓う。その為に、かつての軍部のように、国家を危機に陥れても組織を守ろうとする。官僚機構も本来は国家機関であるが、官僚機構の利益を優先する傾向がある。それは、その内部に働いている力の方向性に依るのである。

 官僚制度の特徴は、第一に、規則にある。先ず、官僚は、国家公務員法、地方公務員法と言った法に依って支配されている。支配されていると言っても同時に保護されている。
 第二に、規則や法を裏付ける手続によって統制されている。第三に、手続を構成する文書による管理である。第四に、予算による管理である。
 また、第五に、上意下達の縦割りな組織である。そして、縦割りの組織は、ヒエラルヒー、ピラミッド型の組織に集約される。
 第六に専業制である。一定の権限の範囲で職務、職権が確定しているという点である。
 第七に、資格任用制度である。第八に、横並びの評価である。第九に、身分保証がされていて、倒産することがないという事である。

 この様な組織の在り方が官僚の内的規範を形成する。つまり、意思決定や行動の方向性を規定するのである。 

 官僚機関というのは内向きな組織である。本来、国家国民に目を向けるべきところが、国家国民による直接的な支配を受けていない、つまり、自分の働きの評価は、官僚組織が、組織のない気に基づいて下すために、組織内部の評判を一番に優先するように内的な力が働く。しかも官僚組織は、自己完結的な組織である。結果的に、官僚機関は、自律的で閉鎖的な組織になる。
 また、必然的に保守的な組織である。減点主義的な組織である。ただし、減点主義というのは、余計なことをした場合に関してである。その為に、官僚は、どうしても保身になる。結果的に、事なかれ主義、日和見主義が蔓延する。
 自分の権限の獲得、権益の拡大を最優先に計るようになる。当然、既得権益に固執する。

 また、権限や権益の源、裏付けとなる権威、権力を重視する結果、権威主義的、権力主義的になる。高級官僚には、エリート、選ばれた者意識が強い。それは、国家を統治する物、支配するものという権力意識から生まれる。

 国家の根源は、公式に認められた暴力である。つまり、権力である。国民国家において権力は、法によって実現し、軍と警察によって実現する。それ故に、官力機構の働きを保証する力は、権力から発現する。必然的に官僚は、権力志向となる。権力は、力によって維持される。力を維持するために、権力者は、何よりも強大であろうとする。
 故に、官僚機構は、スケールメリットを常に追求する。つまり、官僚機構にとって大きいことはいいことなのである。しかし、行政には、地域に密着した仕事と、国家、世界に向けた仕事の両面がある。それを両立しようとすれば、ただ規模を拡大すればいいという事にはならない。

 官僚機構では、決められた事をやればいい。決められた事をやればいいと言うよりも決められた事以外はやってはならない。その為に、官僚は、予め定められて範囲内でしか自分の行動を決することは出来ない。実際にやってみたら明らかに間違いだと判明しても独自の判断で変更することは出来ない。その為に、決められた事を忠実に実行したかどうかが問題とされ、その結果は、二の次になる。故に、官僚の仕事は、実績と評価が結びつかないのである。その反面、決められた事、即ち、条文の解釈には、長けることとなる。そして、客観的に見ると勝手に解釈、また、実体に合わない、現実離れした解釈をして自分達に都合の良いように決定事項を歪曲してしまう場合がある。また、こった条文を作ることが得意にもなる。
 更に、一度決めた事は、なかなか改正できない。特に、それが、既得権、利権と結びついている場合は、変更できない。
 所謂天下り問題の本質も官僚機構に内在化されている。

 特に、日本では、予算が既得権益化している。予算を使い切らないと次年度の予算が付かなくなる。そうなると、予算を使い切ることが一つの動機付けになる。こうなると経費の削減は空文化する。しかも、予算における各省の比率は、ほとんど確定していた時期もある。

 国家に経営と言う思想はない。むしろ経営的思想を卑しむ傾向がある。国家、国民は経営する者ではなく、統治するものというのが暗黙の前提としてある。統治、統制するためには、集権的である方が都合が良い。国家は、集権的な体制をとろうとする。単一で単純な機構の方が操作しやすいからである。つまり、力で抑え込んだ方が、国は統治しやすい。その為にも権力志向になりやすい。
 
 民間企業で事業に失敗すれば、全てを失う。それこそ、身包み剥がされるのである。しかし、公共事業において、失敗しても責任を問われることはない。よしんば、責任を問われたとしても、全財産を没収されると言うことはない。特に、経営で失敗をしても責任は問われない。責任を問われないどころか同情されるのがおちである。それは、国家には、統治という思想は、あっても経営という思想がないからである。
 経営という思想を受け容れることは、利益という思想を受け容れることである。

 官僚制度というのは、国家機関であり、国家の役割、機能を現実に執行する部分である。その官僚制度が、皮肉なことに、国家を破綻させてしまう。それは、国家機関である官僚制度が国家を代表しなくなるからである。つまり、国家、国民の要望や実体から乖離し、官僚機関という自分達の組織のためにしか機能しなくなるからである。国家を基礎とし、国家によって成り立っている官僚制度という仕組みが、あたかも国家に規制するようになる。癌細胞のようになって国家を蝕むようになる。それが、国家滅亡の最大の原因である。
 しかし。それは個々の官僚が悪いのではなく。官僚機関の基礎にある行動規範の方向性に問題があるのである。官僚一人一人は、最善の選択をしても根本の価値基準が、組織本来の目的と矛盾していれば、結果的に、目的に反することになる。現在の官僚組織の価値基準、また、それに基づいて構築された制度では、費用対効果という発想は生まれない。せいぜいいって予算の適正化である。その為に、官僚機構の自己増殖を止めることは困難であり、また、財政の膨張を抑制するのも難しい。第一に、経営という思想が根底からないのである。

 重要なことは、ただ、財政の問題も景気の問題も解決しようとしても、その根底に流れている規範の方向性を合目的的に正さなければ解決できないということなのである。
 その為には、経営という思想を官僚機構に持たせる必要がある。それは、与えられた範囲内の権限ではない。責任に裏付けられた権限を持たせることなのである。元来、権限と責任は、作用反作用、表裏の関係にある。責任のない権限は、それだけ実効力を持たない。

 官僚が官僚制度を自分達の力で変えようとしなければ、早晩外部の力によって倒されることになる。それが革命である。あるいは、内部に自壊する。巨大過ぎる組織は、自分の組織を管理機構の重さ、負担に耐えられなくなるのである。
 問題なのは、その時、国家・国民も巻き添えにされるという事である。

 我々は、年金制度を問題にする前に、自分達の国をどうするかを考える必要がある。自分達が、自分達を生み育ててくれた人々にどう報いるのかを考えずにただ制度の議論ばかりをしても本末の転倒に過ぎない。

 仏を作っても魂をこめていないのである。

景気に対する法の働き


 なぜ、景気が良くならないのか。その原因は、企業が適正な利益を上げられず。家計が適正な所得を得られないからである。そのうえ、財政が赤字であるために機動的な施策が打ち出せないことである。

 経済主体を動かす力には、内的な力と外的な力がある。公共投資にせよ、金融政策にせよ、経済主体から見ると外的な力、作用である。それに対して、内的な動機に基づく働きが内的な力である。この様な働きは、内的な規範によって制約されている。
 公共投資や金融政策は、内的な動機に呼応することによって効用を発揮することが出来る。単純に、公共投資や金融を緩和しても企業が適正な利益を上げられるようになるとは言えないのである。
 金融を緩和したら、即、設備投資に結びつくわけではない。結局は、収支と損益に還元される。収益が改善される見込みがなければ、いくら金利が低いと言っても、投資も、雇用も伸びるわけにはいかない。儲かるあてもないのに投資したり、人を雇う馬鹿はいないのである。金融を緩和するのは、あくまでも資金の調達能力を改善することが目的なのである。
しかし、損益、貸借が改善されなければ、企業の資金調達力は改善されないのである。
 何れにしても適正な利益を企業が上げられることが前提となる。しかし、市場原理主義には、適正な利益という考え方はないのである。市場競争を絶対的な法則とみなす市場原理主義者は、予定調和という発想はあっても適正な利潤という考えはない。

 公共投資も金融政策も経済主体の内的動機、仕組みに反映されてはじめて効用を発揮する。

 マスコミには、企業が適性な利益を上げる事にすら反対する傾向がある。特に、自由主義経済に否定的なものや市場原理主義者には、その傾向が強い。しかし、企業は、適正な利益を上げることにより、継続的に、人を雇い、賃金を支払い、金利を払い、物品を調達し、納税をすることが可能なのである。つまり、景気を支えているのは、企業の利益である。景気を良くし、維持するためには、企業が適正な利益を確保できる環境を維持することが肝心なのであり、それは、国家の重要な役割の一つである。
 ただ競争を促し、安売りを奨励すればいいと言うわけにはいかない。

 利益とは何か。儲けるためには、利益という思想を理解する必要がある。我々は、利益という言葉を安直に使うが、利益という言葉の意味を正しく理解しいるとは限らない。利益とは何かと問うと利益は利益だよと答えるのが関の山である。

 利益というのは、自明な概念、所与の概念ではない。人為的、人工的概念である。つまり、これが利益だという定義に基づく。その定義は、会計的定義である。故に、今日の経済は、会計制度に則った体制だと言える。それなのに、経済問題を会計的に解き明かしたものが少ない。それが経済を不透明なものにしてしまっているのである。

 利益というのは、意図しないとあげられないものなのである。なぜならば、利益は、人間が創りだした概念に過ぎないからである。物理学的な世界に利益という概念はない。損得は、あくまでも、人間の世界の尺度なのである。むろん、擬人的に損得の概念を物理学的世界に持ち込むことは可能であるが、それはあくまでも、借りてきた概念に過ぎない。

 そして、利益という思想は、会計的な概念である。ある意味で会計制度が利益を生み出しているとも言える。そして、利益は、一足す一は二のような、唯一絶対な数値ではない。相対的な数値で、計算方法や基準を変える幾つも算出される値である。
 ところが多くの人は、利益は、与えられた値と方程式よって導き出される唯一の値だと錯覚している。

 企業は、基本的には、努力しないと儲からないように出来ているのである。人間は、働かないと生きていけないようになっているようにである。それ以上に、利益は、作られるものなのである。

 人間の経済的行動を律するのは内面の規範である。つまり、道徳である。企業の行動を決するのは、企業内部の基準である。特に、会計基準である。つまり、会計の基準は、企業行動をあたかも道徳のように規制する。しかし、会計基準は、道徳と違って相対的な基準なのである。
 この様な会計基準には、内部会計基準と外部会計基準がある。内部会計基準は、管理会計であり、外部会計基準は、財務会計基準と税務会計基準である。そして、それぞれが導き出す値は、違う値なのである。

 民間企業でも上場企業と未上場企業、同族企業では、行動規範が違う。必然的に経営の方向性、活動も違ってくる。それは、上場会社と未上場会社では、会計制度に対する考え方が違うからである。

 上場会社は株主利益を最優先にして、増収増益を至上命題とするのに対し、未上場、同族会社は、資金の流出を嫌がり、利益を最小限に留めようとする。反面、黒字でなと金融機関から融資を受けられないので、黒字を維持するように努める。上場会社は、赤字だからと言って必ずしも資金が調達できないわけではないから、必要とあれば一時的に赤字になることも拒まない。

 この様に、利益の捉え方は、一様ではない。

 金利や儲けを、罪悪視する考え方は、長く市場経済や貨幣経済の発展を阻害してきた。いまだに、金利は、悪だという発想は拭いきれない。士農工商と商人が最下層にあげられたのも、利益を専らにするからである。
 しかし、利益は、時間的価値である。時間的な価値があるから、貨幣も財も流通する。それを否定してしまえば、流通そのものを否定する事になる。
 適正な利益と金利を維持することこそ経済の構造を維持するのに不可欠な要素である。その為の決まりが経済法である。

 利益を上げることは悪い事ではなく。当然の権利である。ただ、それが偏ることが問題なのである。格差の素になることが問題なのである。

 成功者に対して、成功した事が間違いの元だというのは、妬みでしかない。成功者が富を独占した時にこそ、堕落が始まるのである。なぜならば、格差は相対的であり、成功者が成功を分かち合えば、格差は小さくて済むからである。それが経済である。そして、法の根源である。

 モラルハザードは、儲けすぎるから発生するという考え方がある。利益は、人間を堕落させるという考え方である。しかし、モラルハザードは、往々にして追いつめられることによって生じる。むしろ、苦し紛れに法を犯すことの方が多い。背に腹は代えられないのである。一概に、利益は、人間を堕落させるとは言い切れない。
 肝心なのは、適正な利益を上げられる環境である。儲けすぎるのも問題ならば、儲からないのも問題なのである。

 法とは規制である。法治国家というのは、規制を前提とした国家である。何でもかんでも規制を緩和すればいいと言うのではない。適正な規制であるか、否かの問題なのである。大体、市場参入できない外資による外圧に負けて、規制を緩和したら、儲からなくなって、日本から外資は撤退していったのである。

 現行の法は経営を目的としたものではない。取り締まるもの。

 法というのは、してはならないことを規定する傾向がある。反対にやっていいことは規定しない。なぜならば、法には報奨制度がないからである。

 経済犯罪とは何か。それを見極めることである。収益が上がらなくなってきたために、会計を操作することが間違いだとしたら、全ての企業は該当するであろう。経済犯罪というのは、自己の利益のために、市場の規律を破壊する行為である。つまり、市場を欺いたり、騙したり、破壊する行為によって不当に利益を得る事である。
 市場のルールに従っていながら、利益を出せなかったからと言ってそれを犯罪とするのは間違いである。ただ、不当に高い報酬得るのは、犯罪行為に近い。結局最後は人間性の問題である。人格の問題である。
 公の利益を度外視したところに、個人の利益は成り立たない。

 法が犯罪を作る。特に、経済法は、刑法と違い。人間の本源的な倫理というのとは、性格を異にする。人間が生きていく為の生業が根源にある。生きていく為の約束、決まり事である。故に、契約がある。
 それだけに、何が、経済にとって悪い事なのかを明らかにする必要がある。ある意味で思想的なものである。
 ところが、簡単に、また、善悪という基準で物事を決めてかかろうとする。儲けることは悪いことであるとか、商売は、人を欺くこと、金銭は賤しい、贅沢は敵だといった具合にである。しかし、経済法は、日々の生活や取引を洗練したところになりたつ掟である。それだけに、どの様な社会、どの様な生活を営むべきかについてよくよく話し合う必要があるのである。世俗的であるからこそ、大切なの取り決めなのである。

 今、企業に対する評価が、収益性に偏りすぎるきらいがある。どんなにあくどいことをしても儲けている企業が善であるという思想である。しかし、企業の存続を決めるのは、最終的には、収益性ではなく、必要性である。その国や社会にとって必要であることが企業存続の大前提なのである。その大前提の上に、適正な収益をあげ、金利を支払い、配当をし、納税し、賃金を支払えるような環境を整備することが重要なのである。

 問題は、方向性にある。常に、成長や発展を前提とし、競争を普遍的な市場の原理だと決めてかかり、その事で法を固定的に定めてしまうことである。そして、何が何でも規制を緩和すればうまくいくと思い込むことである。

 生産性や効率性が要求されるのは、競争力の必要性においてである。つまり、成長や競争を基本的に前提としているからそうなるのである。

 何も、競争や成長を私は、否定しているわけではない。競争や成長が全てではないと言っているのである。

 競争や成長を前提とする前に、どの様な社会を築きたいかを明らかにすべきなのである。競争や成長は手段に過ぎない。手段は合目的的なものであり、目的に合致した時はじめて有効なのである。

 効率を追求すると言う事は、例えて言えば、失業者が溢れている反面、大きな倉庫のような量販店しかないような街を理想としているようなものである。確かに、効率は良いかもしれないが、それが理想的な街とは思えない。景気対策の根本に失業対策があることを忘れているようである。もう一つあるのが、収益性の問題である。生産性や効率性の問題ではない。収益性をあげるために、生産性や効率性を考えるべきなのであり、収益性を犠牲にしてまで、生産性や効率性を計るのは、本末の転倒である。
 なぜ、儲けてはいけないのであろうか。小さな商店が成り立たないような経済がいい経済とは思えない。結局、無原則な効率化は、シャッター商店街を増やしているだけである。

 ある意味で暴力団が一番、資本主義の本質をついているかもしれない。しかし、一番肝心な本質を除いてである。その一番肝心な本質とは、資本主義を支えているのは、モラル、商業道徳だと言う事である。道徳がなくなれば、市場の規律は、失われ、最終的には、市場も資本主義も崩壊してしまう。目先の利益という観点からすると暴力団の行動は、まとえているように見える。しかし、長い目で見ると最も危険な存在である。では、暴力団のような組織のどこが資本主義の本質をついているのかというと、市場における金の働きに関してである。つまり、貨幣の働きを純化しているという事である。そして、金を得るために、手段を選ばないという点である。だから、彼等は、不況期にも金の儲け方に長けているのである。それだけに、危険なのである。

 重要なのは、どの様な国造りをするかの構想なのである。それこそが夢である。夢が失われたから、人々の意欲や道徳が失われたのである。






                    


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