論理実証主義

あらゆるものは、事実に根ざしていなければならない

 何事も事実に基づかなければならない。事実とは、対象をあるがままに、受け容れると言う事である。つまり、認識である。しかし、我々は、対象を認識する時に、意識が働く。意識は、対象を分別する。ゆえに、事実と言っても既に意識による分別が働いているのである。故に、事実は、相対的であり、常に、検証する必要があるのである。

 我々は、市場経済や貨幣経済にどっぷりと浸かっている。その為に、市場経済という仕組みが遙か古代から連綿と続いているように錯覚している。シーザーや秦の始皇帝の時代から今日のような市場の仕組みが機能していたかのごとく思い込み、前提としている。
 しかし、市場という仕組みが出来たのは歴史的に見ると、つい最近のことである。(「入門 経済思想史 世俗の思想家たち」ロバート・L・ハイルブローナー著 ちくま文藝文庫)
 まだまだ、歴史的に未成熟な仕組みだと言っていい。それを市場原理、市場原理とはやし立て、あたかも自然の原理と同様だと喧伝する者がいる。それが学問の上だけならばいいが、現実の施策の上に無批判に反映すると人々の生活に実害が生じる。
 間違ってはならないのは、市場や貨幣がなければ、経済が成り立たないのではなく。経済という生業(なりわい)があってそこから、市場や貨幣が生み出されたという事である。その上で市場の振る舞いを見ていかないと実体を理解することは出来ない。
 人類は、壮大な実験の過程にまだある。その実験の一つに共産主義体制があった。共産主義という仕組みが上手く機能しなかったら、自由主義という仕組みの側にたつ者は、勝った勝ったはしゃぎ廻る。そして、市場の原理が勝利したのだと大騒ぎする。しかし、その市場の原理も必ずしも上手く機能していない。
 重要なことは、なぜ、共産主義という仕組みが機能しないで、また、市場という仕組みがなかなか上手く機能しないのかである。自由主義経済が機能不全に陥る前にその原因を明らかにしないと、人類は、大混乱に陥ることとなる。そして、その大混乱の果ては、戦争や飢饉と言った大災害だと言う事である。
 勝ち負けの問題ではなく。真実の問題である。人類は、歴史という事実から何を学ぼうとしているのか。そうなると、歴史を自分達に都合の良いように歪曲して理解するのは、愚の骨頂である。況や、政治的に利用するのは、狂気の沙汰である。
 歴史は、自分達の祖先の血と肉によって証明した事実、人類の成果なのである。それは、共通の未来、子孫の繁栄に役立ててこそ意味がある。

 経済学者は、ロビンソンクルーソーの話が好きだが、少なくとも、ロビンソンクルーソーは、貨幣が役に立たなかった。なぜならば、無人島には市場がなかったからである。

 現代社会は、論理実証主義の上に成り立っている。実証主義とは、何等かの実体を持つ存在物を前提とする。つまり、事実である。真実は、事実の上に成り立つ。それが論理実証主義の大前提である。ただ、何を事実とするのかというと甚だ困る。先ず事実認識である。そして、了解可能性である。この存在が認められますかと確認する。次ぎに、双方がその対象の存在を了解するという手続が必要となる。この手続を敷延化していくのである。つまり、帰納法的認識である。
 その了解可能性の上に、何等かの仮説を立てる。仮説は、命題によって為される。故に、前提は定義である。命題の文意の合意である。次ぎに、それを実証する。実証する手段は何でもいい。それも了解が可能であるかの問題なのである。そして、その後は、仮説に基づいて論理を展開する。それが論理実証主義である。
 仮説と証明と論理、この三つの要素によって論理実証主義は成り立っている。

 神の実在について、神の存在を前提とする者は、神の存在は、疑う余地のない命題である。しかし、神を信じない者にとっては、とてもとても了解するわけにはいかない。神を信じる者にとっては、この世にある全ての存在が神の存在を認める物であり、神の存在を了解する物であり、神の存在を証明する物である。ところが、神を信じない者にとってこの世の全ての物は、神の存在を否定するものであり、神の存在の反証である。

 この様なところには、論理実証主義は成立しない。故に、論理実証主義が前提とするのは、自分達が直接知覚しうる物に限定される。しかも、相互にその存在を認識し、了解しうる物である。また、証明も同様の現象に基づく物に限定される。
 ただ、誤解してはならないのは、論理実証主義的に証明されないから、真実ではないと断定しているのではない。ただ、論理実証主義的には扱えないと言っているのに過ぎない。全ては、認識の問題である。
 神を信じる者にとって実証主義的でないと言われても、神が存在することは真実としか言いようがない。また、否定しなければならない必要性もない。あるとしたら、それは、現実の生活に支障をきたした場合だけである。

 論理実証主義は、原則的に仮説を前提としている。ただ、その前提が自明なのか、任意なのかの別はある。論理実証主義は、認識の前提を相対的なものとしている。つまりは、絶対性を前提としていない。故に、全ては仮説を基とすることとなる。仮説とは、常に反証可能な命題である。
 故に、実証という手続を踏まないと認めない。そして、実証においては、演繹法と帰納法、双方の手続が必要となる。

 実証には、観察によるものと実験によるものの二つの手段がある。実証というと実験ばかりを考える者がいる。しかし、中には、実験のできないことも沢山ある。人体など典型である。人体実験は、神への冒涜である。しかし、新薬などは、立証しなければならない。だから、注意深く観察をするのである。

 現実をあるがままに受け容れてよく観察することが重要となる。経済と言った社会を対象とした研究にとって自分の理論を実験的に立証するのが困難な以上、歴史や現実に生起している事象によるのは基本的に要求される手続の一つである。

 政治や経済は、なかなか実験という手段が持ち得ない。失敗した時の被害が甚大だからである。それ故に、古来、中国では、古きを温めて新しきを知るという手法が用いられてきた。革命的な事業も必要だが、歴史から学ぶ事も大いに重要である。

 歴史は多くのことを教えてくれる。

 歴史を分析する場合は、先ず前提条件の確認が重要である。次ぎに対象となる事象や現象の事実関係、経緯。そして、どの様な政策がとられたか、どの様な操作があったかである。最後にどの様な結果になったかを検証する必要がある。

 現在の経済は、自由主義経済であり、資本主義経済である。現在の経済現象を解明するためには、資本の働きを知っておく必要がある。

 資本とは何かを解明するためには、その歴史的背景を考える必要がある。

 資本はいかにして形成されたか。
 最初は、当座企業に対する投資であった。当座企業だから、投資された資金は回収された。当座企業が、継続企業に変質するに従って、投資された資金は、回収されずに、利益から配当を受けるようになった。そして、資本そのものが商品化したのである。

 もう一つは、運河や鉄道のような莫大な資金を必要とする事業の発生である。資金を小口に分割して一般の投資家からも資金を調達することを可能としたのである。
 小口化することで資本が流動性を持つようになったことである。

 もう一つ重要なのは、国債の存在である。国債とは、国の負債、借金を証券化した物である。

 資本と、紙幣は、同じ根っ子を持っている。即ち、国債である。そして、近代経済は、この国債、即ち、国の負債から始まったと言っても良い。また、国債は、近代税制とも不可分の関係にある。国債は、税を担保としていたのである。
 近代的な国債の歴史は、議会の成立によって始まると言われる。この事から見てもわかるように、議会制民主主義が近代の経済体制の原点なのである。
 自由主義経済体制は、国の借金が返せなくなったところから出発したと言っても過言ではない。この事は、その後の経済の仕組みに重大な影響を及ぼしているのである。つまり、借金をどうするのかが、経済を決定付けているのである。そこに、工夫がある。

 資本は、当初、国債を引き受ける対価として株式の発行を許されたという経緯がある。紙幣にも似たような経緯がある。
 資本には、負債が変質したものという性格があることを忘れてはならない。投資という行為は、基本的に融資と共通した性格と効果がある。

 そして、負債や資本の対極にあるのが資産であり、その媒体は資金なのである。つまり、資金を核にして、資産と負債、資本が形成される。

 負債と資本の決定的な違いは、負債というのは、債務者が責任を持って債権者に対して返済することを法的な義務づけられているのに対し、資本は、基本的に返済が義務づけられていないという点にある。

 そして、証券と言う事である。
 紙幣は、それまでの貨幣とは明らかに違う性格を持っている。つまり、貨幣そのものは、固有の価値を持っていないで、価値を表象しているだけだと言う事である。紙幣には、証券としての性格があることを忘れてはならない。
 国債、紙幣、資本に共通しているのは、証券であるという事である。

 国債、紙幣が、資本の形成に果たした役割を無視してはならない。中でも、証券化という働きは重要である。そして、この証券化の根源は、現在のサブプライム問題にも繋がっているのである。

 資本でも、紙幣でも、負債でも、資産でも、市場経済では、流動性の有無が決定的なの働きをする。どんなに価値が認められる物、例えば、思い出のこもった遺品のような物やどんなに素晴らしい芸術品でも、流動性がない物は、市場では無価値なのである。

 戦争がある度に、国家財政は、危機に瀕する。戦争に例え勝てたとしても次ぎに来るのは、経済との戦いである。アメリカも例外ではない。第二次大戦後のアメリカの繁栄に終止符を打ったのは、ベトナム戦争だと言われるように、今日の経済的混乱の背後には、戦争の影が見え隠れする。戦争で勝利しても経済で敗北しては元も子もない。大体、戦争の動機には、経済的理由が隠されているのが常だからである。

 戦争は、最初に政治的な問題、そして、軍事的な問題、そして、最後には、経済的な問題が残る。最後に残った経済的な問題が、国家に決定的な打撃を与えるのである。
 王政時代、国王は、財布の中味を見ながら戦争をしたのである。それは現代も変わらない。国家財政を破綻させる最大の原因は、歴史的に見て戦争である。その為にも戦争は、膨大な借金、即ち、国債の元となった。戦争がある度に国債は発行され、累積したのである。それが、革命の準備をすることになる。この国債の償還が、皮肉な事に、近代経済の枠組みを築くのである。
 国債が契機になって創設されたものには、議会、中央銀行、紙幣、税、証券、株などがある。これらの事象が成立する過程で資本という概念が生まれ、資本主義が形成されていくのである。この様に、国債は、近代的要素の形成のための重大な要因となっている。

 現金は、事実、利益は見解という言葉がある。キャッシュフローが流行っている。キャッシュフローさえわかれば、企業業績は全てわかる式にである。あげく、銀行の融資の基準まで、左右する程にまでなっている。
 しかし、会計という空間内における現実は、期間損益である。収支ではない。その点を履き違えてはならない。

 収支は、経営実績を測定するのは不向きである。それは、なぜ、期間損益を確立しなければならなかったのかを考えれば明らかである。

 収支というのは、実際の資金の流れを基礎としている。
 期間損益では、借入を金利の部分と元本の部分を切り離して、金利は費用へ、元本は、貸借へと振り分けている。また、資産に対する投資を一定期間で分割して費用に計上し、平準化している。また、収益の認識を収益が実現した時点で、費用の認識を発生した時点で捉えるようにしている。
 これら一連の操作によって費用対効果は、計数的に測定しているのである。

 例えば、収支では、支出のところで、借入の元金も金利も合算されてしまう。収支計算を土台としている財政は、元金の返済と金利の返済が明確に区分されない。支出は支出である。また、保有する資産の価値は、明らかにされない。その年の収入だけが表に出ることになる。これでは、経営の実態を把握することは難しい。経営の実体は、あくまでも損益と貸借を基礎とされるべきなのである。

 事実とは何かなのである。それは、想定された前提上における事実なのである。会計上の事実というのは、会計という空間の中で成立する事実である。市場の事実というのは、市場という空間内での事実である。前提を崩せば成り立たなくなる。事実といってそれは認識上の問題にすぎないのである。

 利益と言っても、現金を指しているわけではない。利益というのは概念なのである。市場経済の中核となる概念なのであって何等かの実体があるわけではない。また、利益を収入から費用を引いた差と同様、収益から費用を引いた差だと単純に捉えることは出来ない。利益は、期間損益の中で創られた概念なのである。いわば思想である。捉え方や認識の仕方でどの様にでも変わる。つまり、会計の在り方によって違ってくるという事である。

 損益は認識の問題である。何等かの実体があるわけではない。

 元々期間損益は必要があって生じたのである。つまり、収支だけでは説明ができないからである。

歴史は事実か


 歴史は、事実かというと、かなり微妙な問題である。更に言えば、科学は事実かと言う事も同様である。結論から言えば、歴史も科学も事実に基づいてはいるが事実ではない。フィクションである。この点を間違えてはいけない。歴史も科学も認識の所産なのである。つまり、相対的なものである。歴史に対する認識は、かなり主観に左右される。当事者の置かれている立場や時代によってかなり違った認識になる。歴史観に至っては、むしろ、思想信条に属すると言っていい。
 科学も同様である。科学万能主義者は、科学には、全知全能の力があるように錯覚している者がいる。科学は、認識の所産であり、認識の根源は、自己である。自己は人間である。つまり、科学を全知全能の存在とすることは、科学の根源にある自己、あるいは、人間を神とすることを意味するのである。
 しかし、科学は、認識によって成立する意識の上に築かれるものであり、意識は、対象を分別した時点で相対的で不完全なものになる。つまり、科学も歴史も相対的で不完全であることを前提に成り立っている。相対的で、不完全であり意識は、全知全能にはなりえない。
 また、科学は、相対的で、不完全であるお陰で、絶対的な問題から開放されているのである。絶対的な対立は、妥協のしようがないからである。つまり、科学も、歴史観も、妥協の産物だから共通認識に立てるのである。それ故に、常に検証し続ける必要があるのである。

 過去、現在、未来で一番不確かなものは何かと言われたら、過去だとも言える。
 なぜならば、過去は検証のしようがないからである。歴史を不変的真理だとするのは、間違いである。と言うよりも、重大な錯誤である。それが前提である。
歴史が、科学になりきれないのは、前提条件の曖昧さや独善によってである。
いきなり、前提を所与の命題として決めてかかる。
科学にとって一番この前提の立証が問題なのにですね。

 前提が違えば、前提以降の論証がいかに正しくても偽になる。それが、科学における大原則である。

 歴史ほど不確実なものはない。
 アメリカ大陸を発見したのは、コロンブスである。これは、そのままでは、事実ではない。
 第一に、これは、認識の問題である。
 第二に、これは、意味の問題である。
 第三に、これは、事象の問題である。
 第四に、これは、記録の問題である。
 第五に、これは、合意、了解の問題である。
 第六に、これは前提であり、前提条件である。
 そして、これは仮説に過ぎない。
 この一つ検証して始めて、認定されるべき問題です。
 この手続を無視したところに科学は成り立たない。
 今の日本の知識人の多くは、故意に、無意識かは別にして、この手続を無視して、高い合意を前提にして論理を組み立てる。そして、その合意を了承しないものを感情的に非難し、否定する。今の自称、日本の知識人の常套手段である。

 歴史は、時間の経過と伴に事実は不確かなものとなり、象徴的なものに置き換わっていく。それは、歴史の宿命でもある。問題なのは、対象、つまり、歴史の側にあるのではなく。歴史を認識する側にあるのである。歴史を絶対視するのではなく。歴史をいろいろな角度から検証し、それを現在の自分達の生活に結び付けることが大事なのである。

 当然、同様なことは、科学にも言えることである。歴史も科学も自分の意識の中に現実を写像した観念であることを忘れてはならない。

 だから歴史を軽視しろと言うのではない。むしろ、逆である。現在は、過去の延長線上にある。未来は、過去と現在の延長線上にある。歴史を検証することは、未来を予測し、また、展望を持つために不可欠なことである。歴史を未来に向かって活用するためには、歴史に対する自己の、そして、人間の限界をよく熟知する必要があるのである。それは、科学にも言える。歴史や科学を絶対視するのではなく。絶えず、検証し続けることが大切なのである。

 それこそが古きを温めて新しきを知るである。

 日本人は、一度こうだと決めてしまうとそれをあたかも自明な前提だと思い込んでしまう傾向がある。しかも、それを世間一般の常識だと敷延化する。事実だと言われると疑ろうともしなくなる。そして、それを不変的真理の様にしてしまう。

 特に、歴史的事実と言われると弱い。歴史的事実というのは、絶対不変の真実であるかのように錯覚する。それが、何等かの権威によって裏付けられ、学校の教科書に載ったりすると事実以上の事実になる。動かしがたい真実になる。なぜならば、試験に出るからである。学校の試験に出ることに間違いはないとしているのである。この様な考え方は、取りようによっては、哀れですらある。

 歴史的事実と歴史的認識は違う。認識というのは、主観的なものであり、相対的なものである。一つの事件でもその人立場や思想によって認識の仕方は違ってくる。歴史とはそういうものなのである。

 一例を上げれば侵略の問題である。侵略されたというのは、侵略された側の認識なのである。多くの場合、侵略した側に侵略したという意識はないものである。国際社会が成立した今日、大義名分がなければ他国を攻撃するなんて簡単には出来ない。だから、侵略したと言われた側は、侵略ではなく。開放だという口実を用いるのが常套手段である。しかし、侵略か、開放化は、立場の違い、認識の仕方の違いなのである。

 立場や考え方の相違によって認識に違いが出るのであるから、重要なのは、前提である。何を前提としているかが重要なのである。歴史的認識というのは、その上で成り立っている。歴史というのは、確かに事実に基づいている。しかし、その認識によって全く違った捉え方がされるのである。そして、認識の違いによって時には事実がねじ曲げられてしまうことさえあるのである。だから、歴史の問題は、事実の問題と認識の問題とを区分して考える必要がある。何が事実であり、それをどの様に認識したかである。そして、歴史的な事実といえるのは、究極的には物しかない。記録は、既に認識の範疇にはいるからである。

 歴史を探求するというのは、犯罪捜査に共通している。物証、動機、目撃者や記録、それから状況などから推理する事なのである。それでも推理の域をでない。確実なのは、物的証拠ぐらいしかないのである。

 歴史書は誰が書いたかによって違ってくる。歴史は、書き手によって違ってくるものだというのは、大前提である。中国の歴史でも、それが正史であるか、否かで捉え方がぢがってくる。歴史観は、世界観によっても違うのである。唯物史観と、皇国史観は、明らかに違う。唯物史観から見れば皇国史観は、とんでもない歴史であるだろうし、皇国史観から見れば唯物史観は、許し難い思想であろう。つまり、歴史観というのは、思想信条に属すものなのである。

 政治や経済問題も同様である。日本人は、戦後、民主主義は、絶対的な制度のように思い込んでいる。極端な話し、民主主義でない国は、遅れている。野蛮な国だと決め付けている。そして、治安も悪いと思い込んでいる。しかし、その前提である民主主義については、曖昧であり、極端な話し何も知らない。つまり、戦後の日本人にとって所与の事実であり、考えるまでもない前提なのである。その前提の上に日本国憲法が成立している。だから、日本国憲法を読んだこともない日本人は沢山いる。なぜならば、それは教典のような書物であるからである。

 民主主義は万能ではない。民主主義を絶対不可侵の制度だとするのは、普遍主義や普遍帝国主義に変質する危険性がある。先ず自分が何によって立っているのかを明らかにしていく過程こそが重要なのである。

 主権在民と言っても何が主権で、何が国民か、つまり、日本人しは何かを多くの人は、理解していない。大体、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、極めて曖昧な概念で明確な定義が出来ないとすらしているのである。主権という概念は、最初から極めて曖昧なのである。だから、主権を多くの人は理解しようがない。各々勝手に解釈するしかないのである。
 理解してない癖に、それを大前提として国策を論じている。だから議論がかみ合わないのである。各々が、各々の前提で話をしているからである。
 日本人という定義に至っては、ますます曖昧である。本来は、法的な定義に基づくべきなのであろうが、その様な議論上のルールも確立されていない。それで、日本民族は単一民族か否かを論じてもかみ合うはずがない。前提がハッキリしないのである。

 経済も然りである。自由貿易がいいとなるとそれが自明な真理のようになってしまう。そして、保護主義的な政策は絶対に駄目と決め付ける。競争の原理がいいとなると、何でもかんでも競争をさせればいいとなる。規制を緩和しろとなると規制は悪だになる。財政赤字は悪いといわれても、財政赤字のどこが悪いのかを確認しようともしない。これでは事実を検証しようがない。

 経済現象は、歴史の所産でもある。つまり、時間の経緯、過去の経緯が前提としてある。
 しかし、多くの経済学者はこの歴史的認識を無視するか、軽視する。そして、あたかも経済は、歴史的な経緯なしに成立している現象だとしている。それが科学的経済学だと決め付けている。しかし、経済は、歴史そのものである。経済が歴史を作るのではなく。歴史が経済を作るのである。つまり、経済制度の基礎の部分は、歴史的経緯によって構築されているのである。問題は、歴史をどう認識するかの問題である。そして、それは思想的問題なのである。

 根本は、歴史から、何を、どの様にして学ぶかである。先ず、何を前提としているのかを明らかにすべきなのである。

 経済は、架空の出来事ではない。経済現象の生々しい生業の結果である。その背後には、ドロドロとした人間の欲望が渦巻いている。
 経済現象は、自然現象とは違う。歴史的所産である。自然科学と同じように考えるのは愚かである。なぜならば、経済に関わる者は全て、当事者でもあるからである。自分だけが客観的な立場に立つわけにはいかないからである。
 その意味で、経済は、戦略であり、政略であり、経略であり、謀略の結果でもある。そして、経済の根源には人間の剥き出しの欲望があるからである。それがいかに醜いことだとしても、その現実から目を背けたら、経済を理解することは出来ない。

 戦争は、国家間の武力衝突である。戦争には、戦争に至る原因、理由がある。その原因、理由の多くが経済問題である。
 国家が生存していく上で必要な物資、権力者が欲する物があるから侵略するのである。大義名分だけで国民の命を犠牲にしたりはしない。ただ、戦うためには、大義名分が必要なのである。
 これは厳然たる事実だ。経済は、人間の、特に、権力者の生臭い欲望に直結している。その事実に目を瞑って経済を語ったところで意味はない。マネタリストも、ケインジアンも、経済の裏に潜む薄暗いところに光を当てずに、経済を語ったところで、経済はよくならない。経済的出来事は、神の為せる業ではなく、人間の所業なのである。神に責任を求めるのは愚かなことである。

 最後に、神の問題がある。

 戦後の日本人の多くは、神を知らない。日本人の多くは、神とは、何等かの冠婚葬祭でしか関わりがない。最近は、その冠婚葬祭ですら怪しくなってきた。人前結婚式として結婚式から、知らず知らずのうちに神が排除されつつある。そして、多くの日本の若者は、それを近代的だと錯覚している。
 今の日本人にとってクリスマスやハローウィンは、宗教的儀式ではない。冬のイベントの一つに過ぎない。もっと有り体に言えば、デートの口実ぐらいでしかない。だから、キリスト教を信じるか否かは、あまり重要ではない。尚更、神の存在など聞くのは野暮な話である。
 結婚式も人前結婚式などという以前は、結構教会で結婚式を挙げるのが流行った。結婚式場やホテルの多くは、教会と神社を敷地内に建てている。有名人の多くが、教会で結婚式を挙げて話題になった。中には、海外の教会まで出かけて結婚してカップルもいる。
 しかし、教会で結婚するのはキリスト教を信じるからではなくてファッションでしかない。だから、結婚式のためにキリスト教に入信したのである。それも結婚式の時だけである。神前結婚式は、まだしも仏前結婚式は、お洒落じゃあないからと敬遠されるのである。

 神の存在を事実として受け容れるか。それは、その人が、最後に、選択する問題である。日本の諺に、困った時の神頼みというのがあるが、神の存在を事実と受け容れていない者は、神に頼りようがないのである。





                    


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