現実主義

経済における現実とは


 あらゆる思想も哲学も現実から乖離したらその存在基盤を失う。実体は存在であって観念の所産ではないからである。

 経済は、現実である。仮想的な世界の空想的な出来事ではない。

 知覚できる対象や現象、了解可能な存在しか前提としない。翻って言えば、知覚できない、了解できない存在は前提としない。それが現実主義である。

 あるがままの事実を前提とする。それが現実主義である。ただし、人間が個人で認識できる範囲は限られている。それ故に、現実主義というのは、極めて主観的で、個人主義的なところに立脚している。

 あるがままの対象を受け容れるという点では、現実主義は、自然主義にも通じている。ただ、自然主義とは、あるがままに受け容れるだけでなく。それを積極的に肯定し、維持しようとする点において現実主義とは一線を画している。

 我々は現実を直視すべき時に来ている。現実は、美しいところばかりではない。と言うよりも、美は醜によって成り立ち。醜は美によって成り立つ。美も醜も認識の問題であり、相対的なものだからである。認識の上では、美しい物があれば醜い物があり、醜い物があるから、美しい物が成り立つのである。

 善のあるところ、悪があり。悪のあるところ善がある。
 現実を直視するというのは、現実を、先ずあるがままに認識することを意味する。それが現実主義である。ただ、現実をあるがままに認識すると言っても、認識という行為そのものが、主観的なものなのであるから、認識した時点で自己の価値判断が働いていることを、自覚する必要がある。

 経済は、現実である。仮想の世界で起こっている現象ではない。戦争や災害、また、国家間の力関係やエネルギー政策が重大な影響を与えている。それなのに、学問としての経済学には、現実に起こっている事象や歴史、地理、そして、政治が軽視されているように思える。
 経済学者は、経済現象を、事後的に仕組みについて説明するが、現象面でしか判断していないから、事前に予測がつかない。予測が立てられないから対策も立てられない。重要なのは、その現象の背後にある構造である。仕組みがわかるから対策が立てられるのである。
 経済のように、人々の暮らしに直接に結びついている問題は、現実に役立ってこそ理論の価値がある。その意味では、現実主義、実用主義でもある。必然的に、生々しいものになる。予測が外れれば信用も失う。それが経済に携わる者の宿命である。しかし、経営に携わる者は、それが当たり前なのである。学者だからと言って責任を逃れることはできない。

 経済と政治とを結び付けないのは、欺瞞である。現実の経済は、政治によって動かされている。そして、政治家は、利益代表になりがちなのである。なぜならば、支援者の多くは、現実の生活に根ざしているからである。生活の根源は経済である。だからといって理想や、志を捨てれば、その瞬間から政治家は、政治でなくなり、経済は、破綻する。支援者達の利益を代表しつつ、いかにして理想を実現するかが政治家の現実なのである。
 現実の世界は、利害関係によって成り立っているのである。それが経済の現実である。理想や夢についてかたっている時、よく現実的になれと言われる。その場合、現実的と言う意味は、理想に対して否定的な意味で使われる場合が多い。しかし、現実は、理想に対し否定的であろうか。
 政治も、経済も現実である。しかし、政治や経済から理想を、もっと有り体に言えば、信念を取り除いたら成り立たない。政治や経済は、理想や信念があるから成り立っているのである。だから、現実と理想は、背反的なものではなく。むしろ、補完的なものである。

 経済の問題は、最終的には、認識の問題である。それ故に、相対的問題である。つまり、経済をどの様に認識するかの問題である。だからこそ、現実を現実として受け止めなければならない。その上で、その背後にある仕組みを明らかにする必要があるのである。
 現実とは生々しいものである。ただ、結果だけを問題にしてその背後に隠されている原因を明らかにしようとしなければ、闇雲に、犯人探しを始めてしまうのがオチである。闇雲に犯人探しをするのは、現実を見ているようで、現実から目を背けているのだけである。問題は、経済現象を引き起こしている仕組みなのである。仕組みがわからなければ、対処の仕方がないのである。

 政治も、経済も、所詮は、人の世の出来事なのである。それが現実である。経済も政治も人と人との関係の上で成り立っている。人間が関係していない経済は、経済ではない。虚構である。金が主となり、人間が従となったら経済はお終いなのである。
 国家は、自国の利益を優先する。これも現実である。それが大前提である。だからこそ、歴史を無視しては経済は語れないのである。

 現在の経済は、成長と拡大を前提としている。
 その為に、成長が鈍化すると矛盾が噴き出してくる。また、経済が成り立たなくなる。しかし、成長は絶対ではない。市場は停滞し、また。景気は、後退することもある。その時こそ、人間の叡智が試されるのである。

 市場の飽和や成長の鈍化は、想定されていない。しかし、市場は、一定の水準に達すると飽和状態に陥る。飽和状態に達した市場は、停滞する。つまり、取引の数が減るのである。

 一見、成長や拡大は、華やかで明るさに満ちている。それに反し、停滞や衰退は暗い印象が先行する。しかし、成長にも光と影がある。成長が良くて、停滞は悪いと決め付けるのは短絡的である。停滞も見方を変えれば安定なのである。

 現代の日本人は、高度成長を前提として人生設計をしてきた。しかし、高度成長は、常態ではない。永遠に成長し続けることはできない。

 永遠に成長が続くと思い込むのは危険である。
 成長とは、必ず、今より明日は良くなるという事を前提に考えている。今日より明日の方が悪いという事を想定しないのであるから、経済が停滞状態に陥ったら市場は混迷が始まる。
 ピーク、即ち、天井も底もあると考えるべきなのである。良い時も悪い時もある。と言うより、良いも悪いも相対的なのである。
 いずれ成長は、頭打ちになると認識しておくべきである。しかし、それは停滞と言うべきか安定と見るかによって捉え方に違いがでる。
 成長が頭打ちになったら、成長期と同じ事をやっていても駄目なのである。成熟期には、成熟期のとるべき政策がある。現実をどの様に認識するか、見抜くかが鍵となるのである。

 生病老死。諸行無常。それが現実である。若く、美しく、逞しい時は、過ぎ去り。老い衰えていく。そして、病や死が訪れる。それが現実なのである。その現実を受容した時、より豊かな行き方が約束されるのである。見たくないからと言って現実から目を背けてばかりいたら、本当の幸せな土手に入れることはできない。
 ありもしないものは、ないのである。不老不死の妙薬も永遠の生命もないのである。

 市場原理主義者の言うように、競争の原理を万能と見なす事は現実的であろうか。頭から、規制や話し合い、協定を否定する事は現実的であろうか。

 競争の原理を働かせれば、市場は上手く機能すると多くの識者は言う。競争の原理は、万能のようなことを言う。そして、市場を神の手に委せれば、公正な競争が行われ、予定された調和が実現するとする。しかし、未だかつて、公正な競争など市場で行われたことはない。市場は、競争の場ではなく。闘争の場なのである。有利な条件を手にした者が勝ち残る戦場なのである。競技場ではない。
 現在の市場は、スポーツとは明らかに違う。大体スポーツは、人間が創り出したものであり、自然に出来上がったものではない。成るものではなく。為すものなのである。市場は、競技、競争の場ではなく、喧嘩、闘争の戦場なのである。
 現実を受け容れるというのは認識の問題である。無為という意味とは違う。現実を先ず受け容れ、その上で、その背後にある法則や仕組みを明らかにし、それを目的にあった構造に組み立てていくことである。それが構造主義である。
 神の手が原理的に働くほど、市場はフラットにできてはいない。もはや、伝説や神話の時代ではない。神の原理は、神の世界へ。人間の世界は、人間の責任よって、人間の手で築き上げていかなければならない。それが現実主義である。つまり、現実主義は、世俗主義でもあるのである。

 競争の原理と言い。競争をあたかも絶対的な法則だと決め付けるのは間違いである。それが、単なる決めつけだけならば、実害も小さいが、為政者となると話は別である。甚大な被害が生じる。競争を促すのが良い場合もあれば、競争を抑制すべき場合もあるのである。一概に、競争は正しいとは言えない。
 だいたい、公正な競争など市場経済にあり得るのであろうか。市場で行われているのは、競争と言うよりも生存闘争である。

 競争は、良くて、話し合いは悪いというのは、話し合いを前提とした民主主義体制を頭から否定していることである。

 もう一つ、我々が直視しなければならない関係に、血縁関係がある。現代人は、この血縁関係を公的関係から極力排除しようとするきらいがある。しかし、血縁関係を見落とすと基本となる人間関係が見えてこないことが多々あるのである。つまり、情としての人間関係である。情もまた、排除すべき要素だと現代人は考えている。つまり、唯物的な関係のみしか認めようとしない。しかし、人間は情によって動かされる生物であることを忘れてはならない。感情は、最も人間らしい、要素でもあるのである。

 血縁的、あるいは、情的関係に否定的である反面、現代人は、金の切れ目が縁の切れ目と言った言葉に象徴されるように、何でもかんでも、金銭的関係で済まそう、割り切ろうとする傾向が高い。しかし、現代社会の根底を成す関係は、金銭的関係だけに限定することは、不可能である。
 人間関係を形成する関係には、少なくとも、人の関係、物の関係、金の関係の三つの関係がある。
 人間関係の中には、土地や財、製造と言った物を介した物的関係と報酬や税金と言った金銭を介した金銭的関係がある。
 しかし、なんと言っても、人間関係の根本は、当然、人の関係である。そして、人間関係を構成する要素には、契約や規則の様な社会的規範と親子、兄弟と言った血の繋がりによる関係とがある。
 現代社会の根底を成す不文律に血縁関係の否定がある。血縁関係の否定は、人種差別や封建制度と同様に、前時代的として否定的な扱いを暗黙的に受けている。
 しかし、人の関係は、血縁関係が基本である。即ち、人と人とを結び付ける直接的な関係が血縁関係だからである。故に、いくら否定してもこの人間関係をなくす事とは出来ない。
 血の繋がりは、人間関係の基礎を形成する。それも現実なのである。人間の有り様というものを直截的に認識し、それを基礎として、その上で、善し悪しを、考えていくことこそ現実主義なのである。
 都合が悪いことを否定したり、認めないのではなく。現実を現実としてあるがままに受け容れ、その上で、是々非々を論じるのが現実主義である。汚いことや醜いことから目を背けるのでもないが、かといって、汚いことや醜いことだけが真実だとするのも間違いである。いやな世の中だけど仕方がない。俺なんてと諦めるのは、ただ、ただ、怠慢なだけである。それを現実主義とはいわない。

 血縁関係には、親子と言った縦関係と婚姻による横関係がある。これによって閨閥や親族が形成される。家族が経済の基本単位であれば、必然的にこの関係は、経済構造の基盤に存在することになる。

 また、血縁関係以外に仕事場の人間関係、生活の場、地域社会の人間関係、学歴によって形成される人間関係などがあり、実際的には、これらの人間関係が経済の底辺を形作っていく。

 その是非を論じる前に、現実を直視すべきである。現実を正しく認識した上でその長所弊害を論じるべきなのである。臭い物に蓋をしろ的な発想では、現実の問題に対処することは出来ない。
 かつて、共産主義には、売春はないという前提によって売春を取り締まる法がなかった。しかし、現実には、売春という行為は存在したのである。しかし、法が存在しないために取り締まることが出来なかった。この様なことを科学的とは言わない。前提が間違っているのである。そして、その間違った前提は、現実を正しく認識しようと言う姿勢にかけていたからである。

 現実をあるがままに認識する事とそれを容認することとは違う。現実主義というのは、先ずあるがままに対象を認識し、その上で、それをどの様に評価し、対処するかを決めようと言う思想である。最初から何等かの基準を当て嵌めることは、偏見や先入観で対象を認識している事とするのである。しかし、それは認識上の前提であり、判断上の前提ではない。

現実と理想の狭間で

 現代は、神なき世、神なき時代である。

 現実主義というのは、無神論的であり、唯物論的、科学主義的であり、写実主義的であり、自然主義的であり、合理的であり、相対論的、客観主義的、個人主義的だという思い込みがある。迷信や妄信、俗信の否定だという考え方である。また、荒唐無稽な理想を否定する事だという考え方である。

 しかし、現実主義というのは、神を否定する事によって成り立っているのであろうか。神は、非現実的な存在なのであろうか。

 現代人は、宗教を理屈で捉えようとする。しかし、信仰の根本は、死に対する本能的な恐怖心、驚きである。死という場面に遭遇し、人は必死に考える。そこから、宗教や哲学、文学、そして科学が生み出された。しかし、根本は、漠然とした恐怖や驚きであり。逃れられぬ死である。そこから生命の神秘に対する畏敬心が生まれる。
 何が現実かと言えば、死という現実であろう。
 死という現実こそが根本なのである。

 近代という歴史は、宗教革命に始まるとも言える。宗教革命そのものは、決して神を否定するものではない。宗教も時間が経つに従っていろいろな夾雑物がこびりつく。その夾雑物を剥ぎ取って、神を直に感じることにより真の信仰を取り戻すべきだという運動である。

 科学や経済学もいろいろな論理によって飾り立てられ、真実が見えなくなりつつある。現実主義というのは、自分が直に見て、さわれる物を前提として物事を認識する事を言うのであり、何事も疑ってかかり、信じないと言う懐疑主義的なものを指して言う者ではない。むしろ、現実を積極的に肯定することにこそ現実主義の真骨頂がある。

 現実主義者というのは、醒めた目で社会を冷ややかに見るものと思いこんでいる。彼等から言わせると「現実というのは、汚く、醜く、不完全で、偽善に満ちている。」「悪が栄え、正直者は馬鹿を見る。」「この世に正義など行われたことはない。」「所詮、力のある者が、理不尽に他を支配しているに過ぎない。」この世に神も仏もあるものか。」と言う事になる。だから、何をしたって無駄なのだと決め付け、自分が何もしないことの言い訳にする。

 しかし、現実とは、悪い事ばかりではない。汚い人間ばかりでもない。確かに、現実と言うものは、きれい事ばかりではすまされない。汚い事、いやな事、辛い事も多くある。だから、何もしないという事にはならない。むしろ逆である。住むにくく、いやな事が多い世の中だからこそ、変革し続ける必要があるのである。

 現実を見る目というのは、現実をねじ曲げ、ひねくれてみることではない。現実を見る目というのは、透徹した目であり、洞察力である。

 現実主義者は、冷徹な達観主義者に見られる。しかし、それは偏見に過ぎない。現実主義者は、現実を直視することによって志を持ったとき、狂おしいほどに行動的になるのである。それは、熱狂である。

 現実主義の対極によく理想主義が置かれる。そこでは、理想と現実とは、背反的な概念、対立的な概念として捉えられる傾向がある。
 本当に、理想と現実とは相容れないものなのであろうか。

 現実主義というのは、目の前の世界や出来事をあるがままに認識する。美化したり、卑下したりせずに、受け容れることである。そこから、写実主義が生まれる。つまり、あるがままに写し取るという事である。
 現実に立脚して自分達の理論を組み立てる。それが大原則である。それが現実主義である。しかし、そこに落とし穴がある。
 ただ、現実をあるがままに認識すると言う事と、現実を容認すると言う事や更に現実を無条件に肯定すると言う事とは違う。その点に対する錯覚がある。
 現実とは何か。近代以前では、現実を美化する傾向があった。権力者の多くは、現実を理想化し、それを民衆に押し付け、権力者を神格化することによって統治しようと意図した。
 その反動で、写実主義とは、人間の醜さを表現する考え方だという誤解が生じた。
 現実主義者の多くが、現実とは、汚くて醜いものであり、人間は、弱い者だという観念にとらわれている。また、現実主義と相対主義や科学主義が結びつき、この世には、完全無欠な存在はないとし、無神論的な発想になる。
 そこから、奇妙な、諦観や達観が生じ、どうせこの世の中は、と言った社会や人生を斜に見る虚無感や厭世観に結びついていく。しかし、これは、現実から目を背けているのに過ぎない。真の現実主義ではない。現実主義というのは、現実を直視することを意味するのではない。
 この様な現実主義者の中には、反倫理的な思想の持ち主が多い。世の中が悪いから、どうせ、自分なんてと、現実の性にして、自分の行為を正当化しているのである。
 欲望を認識する事と、容認することとは違う。まして、欲望を肯定することとは違う。それは現実主義ではなくて、快楽主義であり、刹那主義である。
 現実を認識する事と現実を否定する事も違う。それは現実主義の対極にあるものである。

 人間は、主体的な存在である。自分から見ると他人の行動は、身勝手で、不合理で矛盾に満ちている。自分が正しいと信じて行ったことでもなかなか理解が得られない。理解されないどころか悪意にとられることすらある。
 その典型は、イエスキリストである。全人類の救済を求めたイエスは、全人類のために働いたが故に処刑されたのである。しかし、イエスは、非現実主義者だったか。イエスこそ、真の現実主義者だったのである。
 人間はエゴイストばかりではない。多くの場合、エゴイストに見えるだけなのである。人間は、悪党ばかりではない。汚いばかりではない。理解されないからと言って人生を投げ出したり、世の中の性にするのは、自分なのである。現実は、自分なのである。
 人生の目的は、自己実現である。人間の善は、基本的に自己善である。何が善であるかは、その人の立ち位置、立場によって変わる。英雄も敵国から見ると悪人である。
 現実をどの様に解釈するかは、一人一人違うのである。現実をどう受け容れるかは自分の問題なのである。

 何でもかんでも、ただ黙って受け容れ、従えばいいのだという思想は現実主義ではない。現実主義とは、対象をあるがままに認識することを意味している。
 我々の観念というものは意識が生み出しているものである。しかし、その意識は、認識の作用によって形成される。認識は、対象を相対化することによって成立している。という事は、現実というのは相対的なものにすぎないのである。
 認識した上で、その現実をどう解釈し、また、どう対処するかは、別の問題なのである。認識は、相対的なのである。絶対的なものではない。また、認識は、範囲が限られている。必然的に不完全なものである。しかも、現実をどう解釈するかは、主観的なのである。つまり、現実が不完全なのではなく。認識が不完全なのである。

 何を現実とするかは、一人一人の認識の仕方によって違う。つまり、現実とは一つではないのである。
 人間一人一人の生き様が現実なのである。

 現実をどう解釈するかは前提の問題である。つまり、その人の立場、背景(思想、宗教、民族、人種、国籍、性別、年齢、家族環境等)によって現実に対する捉え方が違ってくるからである。それは、人間の認識できる範囲に限界があるからである。また、その根拠となる現実、事実は一つでも、それを認識した瞬間に相対的な概念、情報に置き換わるからである。

 現実の中には、受け容れがたい現実もある。また、逃れられない現実もある。その際たるものが死である。しかし、人間は、死という現実を現職に受け止める必要がある。
 人類は、進化し、文明は進歩したと言うけれど、生病老死と言う現実には変わりがない。これこそが真実なのである。例え受け容れがたいとしてもその現実を直視するからこそ人間は精一杯生きようとするのである。それこそが、現実主義なのである。

 理想とは空想なのだとも言われる。空想とは、可能性の様な制約を受けない、観念的な世界や事象である。しかし、理想は空想、夢想の産物なのであろうか。仮にまた、空想の産物だとしても、なぜ、非現実的だと決め付けられるのであろうか。

 政治も経済も現実主義的なものである。経済は、生々しいものである。経済は、現実の人間の葛藤の所産である。その本質は、生存闘争、生きる為の戦いである。

 理想と現実という。理想と現実は違うとも言われる。理想というのは、完全無欠であるけれど、非現実的なものという認識がある。しかし、理想を非現実的で、完全無欠な者と決め付けているものこそ先入観や偏見に囚われているのではないのか。

 現実とは何か、それは、実現の可能性の問題である。実現することが可能であるかである。だから、理想を実現するためには、現実と折り合いを付けなければならない。理想は、現実と葛藤することによって磨かれるのである。それが政治でもある。政治や経済は、現実だから、理想を捨てても善いというのは間違いである。政治や経済は、現実だからこそ、理想や信念が必要とされるのである。

 確かに、現実は、理想どおりには行かない。だからといって観念の世界に閉じこもっていたら何の解決にもならない。現実に立ち向かっていくからこそ、夢を実現することが出来るのである。夢は、思っているだけでは夢に過ぎないのである。夢の実現のために立ち上がるのである。それが現実主義的生き方である。駄目なものは駄目なのである。何もしなければ、何も変わらないのである。現実を直視し、現実の生涯にたつ向かっていく勇気こそが、現実主義者にとって最も尊重すべき事なのである。

 事業は、事業に携わった者達の夢の結晶である。事業家達の夢が堆積して産業は築き上げられた。夢と、技と、欲が結集して産業は成り立っている。だからこそ、産業は、人と、物と、金を象徴しているのである。その夢にも、人、物、金の要素がある。技にも、人、物、金の要素がある。欲にも、人、物、金の要素がある。

 夢を夢として終わらせるのではなく。夢を実現しようと努力するところに近代の事業は成り立っているのである。それが現実主義なのである。

 事業は、志があって成り立つものである。ただ、金儲けだけを目的とした事業は、それだけで、悪である。なぜならば、金儲けだけを目的とした事業は、他人の志を妨げるだけだからである。
 事業は、人が人の為に為す業(わざ)である。故に、志は、人の心の内にある。人は、誰でも事を為すに当たって志を持つ。しかし、長い年月が志を色褪せたものにし、忘れさせてしまう。そして、事業の目的が金儲けだけになってしまう。
 金儲けが悪いのではない。志をなくし、金儲けだけが全てになってしまうから、いけないのである。志がなくなれば、自らを律する力を失う。
 志があるからこそ事業の規律が守られるのである。そして、それが現実なのである。人間の現実とは、自分の心に写し出された世界なのである。

真 善 美


 価値には、真善美の基準がある。真偽、善悪、美醜である。現実は、真偽の範疇にある。善悪、美醜は、認識した後の問題である。
 真実だから善であるとは限らない。人を騙せば金が儲かるかもしれない。しかし、善であるとは限らない。
 判断の基準には、正しいと思うけれど常識ではない。常識だとは思うけれど正しくないという事もあるのである。
 金があれば、贅沢な生活が出来るかもしれない。しかし、美であるとは限らない。
 真実だけど悪い事もある。真実だけど醜いこともある。事実だからと言って肯定できることばかりではないのである。
 自分から見て現実に悪い事ばかりを誇張することは、現実主義ではない。況や、社会や環境の性にして自分の行為を正当化するのは、現実主義的ではない。第一、現実主義者は、解らないことはわからない、悪い事は悪いとした上で、確実なこと、正しいことを拠り所とするのである。
 現実から目を背けては何も解決できない。自らの罪から目を背けたら、救済はない。確かに、醜い所も、悪い所もある。しかし、善い所も、綺麗な所もあるのである。未来を肯定的に捉えるか、否定的にとらえるかは、現実の問題ではなく。自らの問題なのである。理想も夢も現実的だからこそ理想であり、夢なのである。現実に立脚しているからこそ理想も夢を実現できるのである。それが可能性である。現実を直視することによって絶望し、可能性を捨てるは、諦めてしまうのは、自分なのである。
 どうせ自分なんて、どうせ駄目だからというのは、現実主義的な態度ではない。それは現実逃避である。
 現実は、坩堝のようにあらゆる価値観や規範を熔解してしまう。どんな理想も現実の前には、色褪せてしまう。しかし、それは現実が悪いからではない。現実の性にして高貴な精神を捨て去る者の問題なのである。

 理想の問題は、必要性の問題でもある。しかし、必要性は、必ずしも現実的だとは言えない。では、理想は空想なのかと言えば、そうだとは言い切れない。なぜならば、理想にもそれなりの根拠があるからである。

 空想が悪いのではない。空想と現実とを判別できずに、混同することが拙(まず)いのである。

 現実主義というが、本当に現代人は、現実を理解していると言えるであろうか。目に見えない世界、自分が理解できない世界、不可知な世界をただ否定しているのに過ぎないのではないのか。
 その反面で、ありもしない価値や架空の世界に踊らされているのではないのか。良い例が経済であり、金である。

 そして、その非現実的な世界、仮想的空間、つまり、金融やインターネット上の出来事が現実の世界を大混乱に陥れている。それをただ、科学的とか、合理的だからと言う理由で現実主義的な出来事と言えるのであろうか。

 我々は、現実に立脚した世界に住んでいると思い込んでいる。しかし、この現実が怪しくなり、また、仮想的な現実に取り込まれつつある。

 インターネットやゲームの世界は、現実的と言いながら、実際は、非現実的な世界に惑溺している者が多い。仮想現実を現実と錯覚しているだけである。架空な世界を現実と錯覚し、逃げ込んでいるだけである。

 経済主体は金を集めることが目的なのではない、分配が目的なのである。金銭上の利益は、その目的の延長線上で捉えるべきである。利益を上げることが目的なのではなく、利益を上げることで、継続的、安定的分配を可能とすることが目的なのである。故に、継続が一つの前提要素となるのである。
 現実に多くの人が、何等かの産業に勤めて、そこから所得を得て家族を養い、生活しているという事が重要なのである。金儲けはその手段に過ぎない。手段に過ぎないが、その手段を失えば生活が出来なくなるというのが現実である。

 貨幣主義的な世界というのは、本当に、現実主義といえるであろうか。我々は貨幣経済という虚構の世界にいるのではないだろうか。
 金だけが現実なのではない。金をいくら稼いだところで、人生がなければ、意味がないのである。

 本当に、現代人は、現実的といえるであろうか。現実を見ているであろうか。
 それならば、なぜ、食料も自給でき、いろいろな物資も自前で生産できるというのに、生活が成り立たなくなるのか。また、一方で家が余っているというのに、もう片方で住宅が不足し、満足な家に住めない人達が溢れている。

 経済は現実である。現実を生きることである。だからこそ、金儲けが全てだと経済は言い切れないのである。

 昔は、生きる為には、食べる物を確保することが最優先であった。その次ぎに、住む場所と着る物である。逆に言えば、食べる物と住む場所が確保されれば、何とか生きていける。自給自足できたのである。そして、根本は自給自足であり、市場や貨幣は補助的な物だったのである。
 本来社会は、食料の生産を基礎として、自給自足を目指すものである。アメリカへ欧米人が入植した際も、はじめにしたのは食料の生産である。
 食料を生産できれば、かつては自給自足できたのである。現在、技術的には、少ない人手で大量の食料を生産することが可能である。食料を生産することが出来るのならば、自給自足できるはずである。
 早い話、世間の景気がどうあろうと、生きていくことに事欠かないはずである。しかし、現在の農業は、自立できずに苦しんでいる。つまり、どれ程大量の食料を生産しても自足できないのである。
 なぜ、自給自足できなくなったのかというと、それは借金があるからである。しかし、負債とは何か。それは、人間の意識が生みだしたものである。つまり、観念的所産である。負債のために、人間が生きられなくなったり、また、社会が成り立たなくなるとしたら、それは、虚構に現実が支配されていることを意味するのである。

 現実とは何か。それは実物である。目で見て、触れる実体である。
 例えて言えば、目の前に病で苦しむ人がいれば、それが現実である。家のない人がいるとしたら、それが現実である。放置すれば死んでしまうとしたら、それも現実なのである。その現実を直視するからこそ、貨幣の必要性も明らかになるのである。その現実から目を背ければ、いくら金儲けをしても非現実的なことしかできなくなるのである。
 だからこそ、経済は現実だというのである。現実主義でなければならないのである。そのうえでの経済なのである。現実の上に立脚するから経済は成り立つのである。現実から乖離した時、経済は成り立たなくなる。
 金融市場で起こっている混乱は、実物経済から金融市場が乖離したから起こったのである。それは金融は、実物経済との関連によって成り立っている。実体から離れた金融は、虚構なのである。ところが、貨幣は影である。媒体である。影は、実体があってはじめて成り立つ。その影が実体を支配してしまった。そこに混乱の原因が隠されているのである。

 かつての銀行員は、謹厳実直の代名詞のようであった。仕事も用心深く、慎重なタイプが多かった。昨今のような投機的な行為は、厳に御法度だった。それは投資銀行といえども同様だった。
 銀行員の価値観が変化したのは、銀行の業務の体質や収益構造、利益の質が変化したことによる。以前のような経営や仕事の仕方では、利益が上げられなくなってきたことに起因する。つまり、真面目にやっていたら、やってられないのである。
 本来、銀行は、資金が余っている経済主体から、資金が不足している経済主体へ資金を融通するのが仕事だった。だから、金融機関というのである。しかし、適正な金利収入が得られなくなると、また、銀行から融資を受ける顧客が経ると銀行は、実物市場ではなく。金融市場から利益を得ようとするようになった。本来、金利は、収益をあげるための手段に過ぎない。ところがその手段が目的と化したのである。その時から、銀行員の価値観の質が変化したのである。
 生業で利益が上げられなくなった時、銀行員は、自分達の道徳観を変質せざるを得ない環境に追いやられたのである。

 アメリカは、サブプライム問題で大打撃を受けている。なぜ、この様な事態になったのか、それは、アメリカが金融という実体経済からかけ離れた市場にのめり込んだからである。金融市場というのは、本来、実物経済を補完する機能を持っている。実際的な利益を上げるのは、実物市場である。金融市場というのは、実物市場があって成り立っている市場である。いわば架空の市場である。その架空の市場が、実物経済以上の利益を上げるようになった。これは砂上の楼閣である。実体がない。激震に見舞われれば、土台から崩れ去ることは火を見るより明らかである。その結果、アメリカの製造業は、物造りを忘れてしまった。ゼネラルエレクトロニックGEは、世界最大の電機メーカーであったが、家電部門を売却することになった。今や、GEで最大の部門は、金融部門である。GMは、存亡の危機にあるが、GMの首脳は、株主利益を最優先すると言って憚らない。そこには、自分達の製品に対する誇りや顧客に対する配慮、従業員との一体感はない。

 自動車産業や家電業界も然りである。本業の自動車や家電から利益を上げられなくなった時、アメリカの自動車産業や家電産業は変質した。アメリカの家電の雄だった、GEは、今や金融企業に変質してしまった。

 かつて自動車産業を支えてきた人々は、自動車が好きでたまらなかった。同じ事は、家電メーカーにも言える。そう言った人々が近代産業を築き上げてきたのである。それがいつの間にか、金の好きな人達に入れ替わってしまった。そして、自動車という実体が価格という観念にすり替わってしまったのである。

 そして、教科書でならった数式だけで企業価値を評価する。同じ教科書で、同じ理論で出される答えは、皆同じである。それが彼等の言う現実である。しかし、現実の商売は、机上で予測できることだけではない。そこには、現実の人間が居る。現実の企業を創業したのは、会計学ではない。本田宗一郎であり、松下幸之助であり、豊田喜一郎であり、彼等の才能を見抜いて支援した金融マンである。
 彼等は、現実を見据えていた。
 最初から儲かる商売はない。最初から採算が合うわけではない。ホテルの事業も最初の数年間は、赤字を覚悟しなければならない。人材も、ノウハウも長い時間を掛けて蓄積していくものなのである。それが現実である。ホテルのサービス一つとってもマニュアル通りには行かないし、また、それでは画一的なサービスしかできなくなる。
 世の中は、多様であり、多様であるから成り立っている。現実は、単一な世界ではない。その多様性を前提として成り立っているのが社会なのである。

 金が全て、金で何もかもが手にはいるというのは、現実的であろうか。金融の世界では、実体的経済から離れ、俗に、マネーゲームと言われる架空取引によって実物経済より以上の利益を上げている。

 経済というのは、観念の世界の出来事である。我々は、一億円のダイヤを見ると目を見張る。しかし、ここで言う一億円という価値は、現実の価値ではない。市場経済、貨幣価値による価値である。何千年か以前には、この様なダイヤには何も価値がなかったであろうし、今でも、猫や犬から見れば、一億円と言われてもどのような価値なのか理解することは出来ないであろう。

 経済学は、その前提からして非現実的である。それを現実主義として捉えていることが喜劇的であり、それを現実の政策としていることが悲劇的なのである。

 例えば、人間は、功利主義的な存在といえるであろうか。経済的に功利主義的で合理的な選択をしていると言えるであろうか。

 経済とは何か。目先の現象にとらわれずに、その根源を見ることである。経済とは、生きる為の生業である。金を稼ぐことではない。金のない世界でも、経済は成り立っていた。逆に、金のために経済が成り立たなくなることもあるのである。それが現実である。

 現実に、住宅は不足し、一方で、住宅過剰になっている。なぜ、現実のこの問題が片付けられないのか。それは、経済が非現実的な世界に支配されているからである。

 良い面であろうと、悪い面であろうと、現実を直視すべきなのである。それが現実主義なのである。必要以上に、美化することはないが、かといって卑下する必要もない。透明な目で事実を事実として受け容れることである。

 現代人は、神を非現実的な存在として斥けた。その結果、現代人は、自らの存在という現実の基盤を見失ったのである。道徳心なき社会というのは、本当に現実的な世界であろうか。個人差を認めない社会もまたしかりである。現実主義というのは、現実を曇りのない目で見ると言う事である。現代人は、現実的という色眼鏡でまた現実を見るようになってしまったのではないだろうか。

参考文献
「強欲資本主義 ウォール街の自爆」神谷秀樹著 文藝春秋社 文春新書





                    


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