標 準 化

標準化


 現代経済の根本は、均衡である。その均衡を実現するために標準化がある。

 標準化というのは、任意の集合体を構成する個々の要素をある一定の状態に統一することである。一定の基準に全体を合わせることである。
 標準化は、単位を成立させるための前提となる。標準化は、単位化を促進する。また、標準化は、平均化や、平準化を意味する。

 標準化というのは、平準化に繋がる。そして、平準化というのは、偏りがない事、つまり、均衡である。

 標準化は、効率や生産力を高める。それは、標準化は、互換性、汎用性を高めるからである。標準化された物や作業は、部品化することができる。部品化されると、その部分は、取り替えたり、組み替えることが容易に、かつ、可能になる。つまり、汎用性が高くなる。また、大量にかつ合理的に生産することが可能となる。それによって生産性や効率が高まる。

 現代社会は、あらゆる価値が標準化され、平均化されつつある。
 それは、単位の問題である。つまり、単位が、統一されることによって同一化、均一化されるのである。

 標準化の持つ意味は、重要である。また、その意味を正しく理解しないと重大な過ちを犯す。それは、標準化の意味である。

 標準化の典型的な例は、集合教育である。中でも学級教育である。
 学級化が標準化の典型だとしたら、学級問題の多くは、標準化による弊害でもある。故に、学級問題を考えると標準化の欠点も見えてくる。

 学級教育は、一定の年齢の、一定の人数の子供によって一つの学級を構成し、それを規定された教科書によって決められた人数の教師(基本的には一人の教師)によって規定の時間で教育する制度である。
 この様に、一定の基準によって一定の状態を維持することが標準化である。

 また、標準化は、学級制度を見ても解るように、クラス化、階層化の前提となる。階層間の移動が自由でない場合、規制されている場合は、階級化される。

 所得は、標準化されると階層化される。この階層間が固定され、移動できなくなると階級化し、身分化される。

 市場の規模と拡大を考える時、所得の標準化も合わせて考える必要がある。市場の拡大は、量の増大だけでなく、市場の広がりも認識する必要がある。即ち、市場の拡大は、水平的拡大と、垂直的拡大がある。

 一定の所得の集団が標準化されると生活水準も標準化される。それは、市場の水平的拡大を誘発する。同時に、生活水準によって社会が階層化されると垂直的な市場の拡大を誘発する。水平的拡大は、量的拡大をもたらし、水平的拡大は、質的拡大を意味する。

 つまり、市場の拡大は、所得水準の均衡が重要な要素でもある。最低限の所得が保証され、尚かつ、拡がることが市場の拡大に繋がる。所得水準に偏りがあると、市場は不均衡なものとなり均衡しなくなる。

 バブル現象という言葉が経済ではよく使われる。しかし、実際は、バブルと言うよりも一種の盛り上がりだと考えた方が良い。即ち、偏りである。偏りは、資金の流れを悪くする。必要なところに資金が流れなくする。反面、一部に過剰な資金の流れを作る。金詰まりの原因となり、ストックと、フローの水準の均衡を崩す。

 バブルというのは、ストック部分、つまり、資産、債権が異常な高騰を見せることを言う。債権が高騰すると言う事は、債務の増大も意味する。債権の増大は、ある一定のレベル、実体経済の水準を超えると債務負担からの圧力が徐々に強まる。それが極限に達した時、急速な収縮を招くのである。

 バブルというのは、前兆現象であり、その後に来る、崩壊、収縮現象が破壊的なのである。バブルと崩壊、また、収縮現象を私は、ブラックホール現象と言う。

 債務には、債権を購入する際の資金の提供という作用と負債の返済という作用がある。資金提供という作用は、上昇圧力となり、負債の返済は、下降圧力となる。債権には、債務の裏付けという作用と権利の行使、流動化という作用がある。債務の裏付けは、上昇圧力に、権利の行使、流動化は下降圧力になる。

 ブラックホール現象とは、資産価値が急速に拡大した後、反転して急速に収縮する現象を指して言う。続に、バブルと言うがバブルというのは、資産価値の高騰を意味し、その後に来る資産価値の急速な収縮は考慮されていない。しかし、実際は、急速な収縮活動が怖いのである。

 経済は、暴走すると内部に向かって収縮するか、外部に向かって発散するかしかない。内部に向かって収縮すれば内部崩壊をきたすし、外部に向かって発散すれば爆発かバブルである。それがブラックホール現象を引き起こす原因となる。また、この様な現象は、予測がつきにくい。しかし、それでも何等かの前兆現象があるからそれを的確につかむ必要がある。

 経済が急激に変動する前兆として、なぜか躁な状態が現れる。ある種のエネルギーが市場に蓄積されているのが原因と思われる。そして、市場の破壊的な崩壊の前には、なぜか、急激な膨張現象、即ち、バブル現象が起こる。

 バブルが発生する仕組みは、まだハッキリしないが、バブル発生前に過剰流動性が発生している場合が多い。

 過剰流動性というのは、通貨の流れの偏りを意味するのであり、単純に、通貨が過剰に流通していることだけを意味するのではない。つまり、不必要なところに、過剰に通貨が流れている反面、必要なところに通貨が流れないで資金不足を引き起こしている状態である。例えば、実業に資金が供給されず、投機に資金が集中しているような状態である。つまりは経済の脳溢血のような状態である。

 それが過剰流動性である。過剰流動性というのは、過剰に資金が流れているところと資金が不足しているところが偏って現れる現象である。所謂資金の滞留であり、相対的な現象なのである。故に、金融の歪みないしは、偏りによって引き起こされる。
 なぜ、金融部分に資金が集まり、滞留するのかというと、第一に、収益が圧迫されると資産を活用して、資金を調達しようとする。最初は、不動産を担保して資金を調達するが、それに限界がでてくると、貨幣性資産、金融資産を活用することを考えるようになる。金融は、数字が作れるからである。
 経営的に手詰まりになると経営者は、金融資産をやり繰りする。金融資産は、一攫千金を狙うのにも適している。ただし、それだけリスクも高い。
 貨幣性資産、金融資産の方が、流動性が高く、手っ取り早く結果が出せ、操作しやすい上、その上、金融内部で調整ができる。しかし、金融資産は、対極に債務が発生する。債務の負担が過剰になると内部での調整がつかなくなる。それが債権の上昇に対する下降圧力になるのである。
 流動性が高まると金融市場が資金を吸い上げてしまう。それがバブル現象の原因の一つとなる。その原因は、偏りにある。その結果、実物市場に資金が廻らなくなる。

 アメリカの企業利益において、金融業の利益が占める割合が1985年2割強から2004年には、3割強に上昇し、製造業が、5割弱から3割弱へと下がったと言われる。(日本経済新聞 2008年9月24日)日経新聞では、金融立国と言った表現が使われているが、私は、金融に利益が偏っていることを意味していると考える。金融に利益が偏ることは、実物経済に資金が供給されにくくなっている状態を意味する。金融市場は、貨幣市場を意味しているのであり、貨幣は、媒体に過ぎない。貨幣だけでは何も生産しない。貨幣への偏りは、むしろ、経済にとって歪みである。

 現代人には、思い込みや偏見が多くある。そして、その思い込みや偏見、決めつけが社会を歪めてしまっている場合がままある。その一つが、特殊で、特別な知識、専門的な技能を持っている人間が優秀だと言う事である。普通で、平凡で、一般的な人が大多数なのである。平凡な、普通の人を対象とした。
 スポーツでも、天才的な選手だけで成り立っているわけではなく、ごく平均的で平凡な多くの選手に、また、多くの裏方に支えられて成り立っている事を忘れてはならない。
 そのごく一般的で普通の人達にも人間として最低限の生活していく権利があるのである。経済学者の中には、無能な人間を無意識に差別し、特殊な技能を身につけさせることを前提としている者達が居る。自分達の価値観において有能な人間だけを対象としているのである。しかし、本来人間には、適性がある。物理学の原理はわからなくても運転の上手な人間もいれば、物理学に詳しいけれど運転のできない人もいる。どちらが優秀かではなく。何に適しているかの問題である。
 それを無能だからと言って否定してしまうと、社会は成り立たなくなり、対立抗争が始まる。付加価値を高めることが経済効率を上げるというのは、錯覚である。問題は、仕事の内容であり、仕事を万遍なく国民に割り当てられるかの問題なのである。高度な技能を要求する仕事だけに限定してしまうと、それに適合できないものを社会的に排除することになる。大体、一定の割合で、肉体労働に向いている者がいるものである。勉強が苦手な人間は、社会に一定層いる。しかし、勉強が苦手だから、社会に不必要だという訳にはいかない。頭が良い人間だけで構成された社会が必ずしも理想的な社会とは言えない。それを、全ての産業を頭脳労働にしてしまえと言うのは、乱暴な話なのである。頭脳労働が優秀で、肉体労働は劣っているという差別意識が働いているのである。
 労働の分布と適性による分布が均衡した社会こそが最も安定した、また、効率的な社会といえるのである。

 スポーツの世界を例にとる、全体の収入に限りがある以上、個々人の取り合いは、一定の範囲内における配分の問題なのである。要するに、パイの取り合いに過ぎないのである。プロ野球ならば、プロ野球の総収入は、決まっているから、特定の選手に対する高額な報酬は、取得の偏りを生む。それは、分配の仕組みに齟齬を生じさせる。不公平なのである。

 格差は、相対的比率であるから、極端な格差は、社会に偏りを作る。その偏りが、固定的になれば、身分制度や階級制度と言った差別を生み出すのである。

 格差にしても、流動性にしても、偏りがよくないのである。

単位化

 標準化で重要なのは、単位化と単位の統一である。

 単位とは、一定の基準を満たす一つの塊と言っていい。また、単位は、部分である。つまり、単位が成立するためには、単位を集めた全体の存在が前提となる。単位とは、相対的な基準である。

 単位は、基準や尺度の部分を構成し、単位が集まり、分類されて、一定の基準や尺度の前提が構成される。

 単位は、比較を前提として成り立っている。標準化するためには、基準が必要である。基準を構成する部分が単位である。基準も、単位も、原則的には、任意なものであり、定義によって定められる。

 一つの単位は、全体の部分を構成する。部分が、集合して全体を構成する。単位は、全体としての関係で決まる。単位は、対象の位置を確定する。それによって、対象を測ることが可能となるのである。

 何等かの前提や条件の違いによって固有の単位を設定されるものを個別単位という。それに対して、一定の前提によって共通して用いられる単位を普遍単位という。普遍単位の成立が、近代社会が成立するための基礎的要件でもあった。

 単位には、組み合わせることが出来るものがある。

 尺度や基準は、認識の基盤を構成する。認識の基盤は、意識の枠組みを構成し、行動規範を支配する。尺度や基準は、人間の生活や人生を意識の上で規制する。故に、重要なのである。
 我々は、無意識のうちに一定の尺度、基準に従って世界観を構成している。それが定性的な体系が法であり、定量的な体系が尺度である。

 現在の日本の家屋は、メートル法を基準とし、一部、尺貫法が生きている。しかし、大枠は、メートル法の世界で生きている。
 また、暦は、太陽暦に従って生きている。我々は、無意識のうちにこれらの単位を受け容れ、その枠組みの中で考え、生活している。
 時間は、十二進法が基準である。週は七進法である。尺度の多くは、十進法を基本とするが、必ずしも十進法でなければならないという事はない。むしろ、単位の基礎は、実生活にあると言っていい。なぜならば、単位は、生活の必要上生まれたものだからである。故に、単位の在り方は、深く経済に関わっている。

 貨幣の単位は、十進法で、日本では、円であり、アメリカではドルである。

 単位には、全体を構成する最小限の要素、部分という意味もある。

 経済構造の単位は、家計と、企業と、財政である。つまり、一つの共同体を、一つの単位とする。もう一つの単位が個人である。
 なぜ、家計と財政、企業が経済体制の単位化というと、その基盤となる、家族、経営主体、国家が、共同体の最小単位だからである。そして、家族、経営主体、国家、個人が、市場構成する最小の要素だからである。市場の最小の要素というのは、所有権が帰属する最小の要素であることも意味している。

 経済単位の中では、企業収益が家計や税収の柱となるのであるから、企業収益が柱となる。

 現代人は、企業が経済の最小単位であることを忘れている。その為に、企業の内部に資金や資産を残しておく必要性を認めようとしない。その典型が、現在の企業会計である。企業が内部留保を積むことは罪悪だと考えている。その為に、企業は、痩せ細って体力をなくしているのである。しかし、企業は、景気の変動を耐えて雇用を確保し、納税の義務を果たし、尚かつ、将来への投資をし続けなければならない。可能な限り、企業の内部に体力を温存しておかなければならない。

 資産の持つ信用限度一杯に借入限度を設定した場合、資産の下落が、即、資金繰りに影響をする。しかし、今日の会計や税制は、内部に資金や資産を保たれない様な仕組みに出来ている、つまり含みが持てない仕組みに出来ているから、結局、借入限度額一杯まで負債を高める結果にならざるをえない。それが、資産の下落局面で資金繰りを圧迫するのである。
 現代の経済はあまりに余裕がない。

 現代資本主義は、崩壊の危機にさらされている。それは、基本単位に狂いが生じていることが一因である。企業を単位とする共同体の規模が巨大化している。その為に、企業が共同体として機能しなくなってきている。反対に゜、家計の中に市場が入り込んでいる。その為に、共同体という単位から個人という単位に置き換わろうとしている。しかし、個人という単位では、社会的機能が低下することになり、社会の一員として生活と関わる部分が、薄くなる。それが、疎外感を生み出しているのである。

 個人が経済単位となると所得は全て個人に帰属することになり、社会的な経済は成り立たなくなる。労働も、属人的な部分は削ぎ落とされ、単に、時間と単価によって計算されることになる。そうなると、個人としての自己実現も意味をなくす。労働は、単に機械的な行為でしかないのである。

 共同体に人間関係があるから、経済にも人間関係が反映するのであり、個としての人間に全てを収斂してしまうとこの人間としての関係が保てなくなるのである。故に、経済の最小単位は、基本的に共同体におくべきであり、補助的な個人という単位を用いるべきなのである。

空間的標準化


 標準化するという事は、全てを同じに扱うことを意味しているわけではない。全ては、多種多様であるから、標準化する必要があるのである。その点を誤解してはならない。
 平等に扱うと言う事は、全てを同等に扱うと言う事を意味しているのではない。つまり、違いを認めないと言うのではない。違いを前提とするが故に、平等という思想は成り立つのである。
 男と女は同じだと認識する事が、平等なのではない。男と女は違うという認識の上に平等は成り立つのである。個体差を認めなければかえって不平等を増幅するだけである。それは不道徳でもある。平等主義というのは、違いを認めた上で、その差をどの様に解消するかという事によって成り立つ思想である。最初から差を認めなければ、平等なんてはじめから成り立たない。
 平等も、自由も自己、即ち、主体的存在を前提とする主観的思想である。神は、自己を平等に与えた。故に、人間は、個として平等なのである。全ての人間は、存在において平等なのである。

 普通で、一般的で、標準的な人達の仕事をいかに確保するかが、経済を考える上で最優先すべき事なのである。有能、優秀な人間をどう評価し、どう遇するかは、それはまた、別の話である。

 数値化は、標準化を促進する。故に、貨幣経済は、標準化を促進する性格を持つ。なぜならば、貨幣は、数値情報の一種だからである。

 数値というのは、抽象化を意味する。数値は、対象のあらゆる属性を削ぎ落とし、数に還元する。この点をしっかり理解しておく必要がある。即ち、数値化は、単純化、標準化、平準化も意味する。

 貨幣価値は、財の単位量と単価の関数である。財は、質と量によって形成される。単価は、数値、即ち、量である。

 数値化は、対象を量化することによって経済の規格化を促した。それは、共通の市場、市場の統一を可能とした。しかし反面、価値の質的な側面を削ぎ落とすことにもなった。質的な要素が薄くなれば、必然的に密度も薄くなる。価値に偏りが生じるのである。それは、決して標準化を意味しない。標準化で重要なのは、偏りのないことである。つまり、密度である。質と量の均衡である。

 市場の価値が価格だけに収斂し、価格だけで判断されるようになると市場に働く作用は、量的なものに還元されてしまう。質的な部分が抜け落ちてしまうのである。質的というのは、固有な性格を意味する。差というものがなくなるのである。良い意味で平等で差別がないという事であるが、違う観点から見ると没個性的、特徴のない物と言うことになる。

 ニューヨークで飲むコーヒーも、東京やロンドン、パリ、ベルリン、モスクワ、北京、ローマ、ソウルで飲むコーヒーの味も変わらない。店の造りまで同じという状況を作り出す。服も全て同じ制服にする。それが標準化の行き着く先である。そこには、意識する者がない。つまり、没個性的な世界なのである。

 どこへ行っても変わり映えのない、変化のない世界と言う事になる。着ている服も同じ(かつての中共の人民服みたいに)で、食べる物も同じ、住む家も同じで、全てが統一されている社会、それが標準化の究極的世界である。
 その様な社会は住みやすい社会といえるであろうか。それは、文化の死滅であり、個人主義の終焉である。

 標準化は、意識する者としての個人を前提として為されなければならない。

 現代社会は、標準化を際限なく受け容れてきた。市場を一つに統合するためには、標準化は、不可欠な要素の一つと考えられている。その為に、規格の標準化、法や制度の標準化、貨幣価値の標準化、生活の標準化、価値観の標準化が強引に推し進められている。それは、文化の標準化を意味する。しかし、全てを標準化することが出来るであろうか。

 例えば、生活を標準化するためには、生活の水準が一定に保たれている必要がある。生活の水準は、物価の水準に依拠しているから、物価が一定の水準に保たれている必要がある。
 例えば、それが地球的規模で行われるためには、全世界が一律に一定の水準に保たれていなければ、公正な競争が維持できないために、また、段差が生じるため統一的な市場は実現できない。
 標準化をするためには、水準が重要なのである。

 水準は、場を支配する力であるから、水準の乱高下は、その場を構成する要素に重大に作用を及ぼす。経済を構成する要素の水準の乱高下は、うねりとなって押し寄せ。時によっては、津波のように国家や時代を押し流してしまうことすらある。

 経済を構成する水準には、物価の水準、不動産価格の水準、為替の水準、債務の水準、金利の水準、在庫の水準、人件費の水準、公共投資の水準などがある。

 要は、水準の問題である。水準をどう制御するかである。要するに、何の、どこに水準に合わせるのかの問題である。
 例えば、物価と言っても世界単一の指標が確定できるわけではない。価格を構成する多種多様な要素の要因が複合されて価格は成立しているのである。この様な物の水準を確定するためには範囲を特定する必要がある。

 水準は、空間の問題である。単一の次元、基準、座標軸では捉えきれないという事である。そして、相対的なものだという事である。
 例えば温度の水準と言っても温度と言う事だけ捉えれば、単一の基準であるように思われるが、温度の水準は、その温度の水準を成立させている対象や空間があってはじめて成り立つのである。一定の空間に温度と言う座標軸を加えただけに過ぎない。
 水準は空間的問題であり、範囲の問題なのである。それが、水準の前提条件を構成する。
 世界の気温の平均値をとってそれを世界の気温の標準とするのは馬鹿げているのである。実際の標準化とは、一定の範囲内での標準を設定する事を意味する。
 つまり、標準化と統一化は、同義語ではない。標準化は、範囲の画定化を前提とし、細分化を前提としているのである。

 水準は、場の力の均衡点である。場の力は、その場を支配する力でもある。故に、その場に構築それる構造もその場の力に支配される。
 国家の制度は、国家の法に支配される。また、国家の法は、国民の意識の水準や国民の生活水準、教育の水準に支配されるのである。
 国民の生活水準にも段階や格がある。その国の生活水準の段階や格が実体的な経済の段階や格差を生み出す。

 日本も戦後直後は、貧しかった。その状況の中で法や制度が制定した。しかし、高度成長によって日本も豊かになった。物資も豊富になった。それに応じて、生活水準や生活習慣も変質し、法や制度も変化してきている。その変化が、社会の変に適応したものであるならば、明日の繁栄は約束されるが、変化に適合しないものならば、日本は衰退していくことになる。

 また、生活水準の向上は、放置すれば、生活水準の格差を増幅する。更に、格差を固定的な階級的なものに変質させる。故に、それを補完する所得の再分配の仕組みが重要になるのである。

 水準は、有限な範囲、空間の問題であるから、内部と外部が生じる。水準を決定付ける要因には、内部要因と外部要因がある。

 例えば、企業経営の水準にも、内部要因と外部要因がある。
 企業内部では、債権の水準と債務の水準、収入の水準と支出の水準、収益の水準と費用の水準によって経営の均衡は、保たれる。また、債権や債務の水準と収益と費用の水準は、在庫の水準や固定資産水準に左右され、収入と支出の水準に影響する。また、費用の水準は、所得の水準に影響を受ける。所得の水準は、消費の水準に反映し、消費の水準は、物価に影響する。

 企業外部の水準で重要なのは、市場の水準である。価格水準である。それから、資源の調達価格の水準である。これらは、為替や石油価格の水準の影響を受ける。
 また、物価は、消費や調達水準に影響を及ぼす。

 市場の水準とは、価格の水準に要約される。価格の水準は、価格を構成する要因の水準に分解できる。価格の水準は、市場の作用による外部要因と価格を構成する費用、即ち、内部要因とから成る。価格は、最終的には、外部要因と内部要因の均衡によって成り立っている。

 また、企業経営において債務の水準が高止まりすると長期間にわたって資金的な負担となる。また、不良債権ののような形で、債務の水準が社会的に蓄積すると経済全体に対して足枷となる。不良債権というのは、実体は、不良債務のことである。この言葉は、債権と債務が表裏の関係であることを如実に表している。
 要するに、債務の高水準な状態が問題なのである。債務の水準に対し、資産価格や債権の水準が相対的に上下するために、資金の調達が不安定になるのである。

 貯金の水準と債務の水準は、ライフスタイルを変化させる。貯蓄と借金というのは、一見反対の働きに見えるが実際は、貯蓄と借金は同質の働きを持っている。表裏の関係にある。貯金をするか、借金をするかは、債権にするか、債務にするかの選択だからである。また、金融機関からすれば、逆の関係である。貯蓄というのは、金融機関にとっては、借入と同じであり、借金は、金融機関にとっては、貸出だからである。そして、利息を払うのか受け取るのかの違いが生じる。それは、現在価値をどう評価するのかの差でもある。つまり、今現金化した方が得か、将来現金化した方が得かの選択でもある。この場合の現金というのは、その時点での貨幣価値を実現するという意味である。
 その意味で、貯蓄をするのか、借金をするのか、それは、重要な決断である。
 いずれにせよ、借金の返済は、累積して可処分所得を圧迫する。可処分所得の水準は、物価や債務の水準によって左右されるのである。

 資産、特に、地価の水準は、経営に重大な意味がある。バブル崩壊後、不良債権が社会問題にもなった。しかし、不良債権が問題になるのは、その裏に債務があるからである。債務がなければ債権は、不良化しないのである。つまり、不良債権の問題は、実際は、債務の問題である。しかし、なぜ、債権が債務になったのか、その仕掛けが解らなければ、不良債権の問題は実際には片付かないのである。表面上片付いているように見える不良債権もいつまた再燃するか解らない。それが信用不安の火種なのである。

 バブル後の景気低迷やサブプライム問題においても根底に地価の水準の問題がある。地価の乱高下が、地価の問題だけでなく。企業経営や家計を直撃するからである。それは、債権と債務の均衡が崩れるからである。そして、債務が債権を上回ると返済資金の問題として収益を圧迫するのである。債権、債務の不均衡は、資金の問題に転化する。そして、資金の問題に転化することによって現実の危機となるのである。

 資産価値の下落は、企業経営を悪化させる原因の一つである。資産価値の水準の低下は、企業の資金繰りを悪化させるからである。
 資金調達は、資産を担保する事によって成立している。資産は、債務の裏付けとなる。債務と資産価値の均衡によって経営は成り立っている。
 債務と資産価値の均衡が破れ債務超過に陥ると企業は、新規の資金調達が困難になる。そうなると企業は、投資を抑制し、経費の削減をはかり、収益を改善しようとする。必然的に景気は悪化する。

 資産価値の水準の下落は、資産デフレも意味する。担保力の水準を意味する。担保力の減少は、資金調達力を弱める。景気の後退に収益の悪化が追い打ちを欠けることになる。それが、景気を悪化させるスパイラル状態を引き起こす。

 また、債務の水準や利率の水準は、利子や元本返済額の水準にも影響を与える。そして、それは、収益や所得の水準にも影響を与える。所得は、特に、可処分所得に影響与える。
 一見、経営とは、無縁に思われる資産価格の水準、地価の水準は、資金繰りに重大な影響を及ぼし、最悪の場合、資金調達が困難な状態に陥らせる。また、資産価値の下落だけでなく、金融市場の混乱や為替水準の変動も企業の経営を左右することがある。

 地価と同じ様な働きをする水準に在庫水準がある。
 資産水準を決定させる要素は、基本的に、単価(金)と量(物)、そして、評価(人)からなる。更に近年、記録(情報)が加わった。つまり、金、物、人、そして、情報の動きが資産の水準を決める。在庫水準も、資産であるから同じである。
 在庫水準で問題になるのは、評価と記録である。つまり、人と情報である。つまり、在庫の金額をどこで認識するかの問題である。
 また、在庫水準で問題になるのは、仕入れの水準が上昇している局面と下降局面で、その評価の仕方によって在庫の残高が、収益にプラスにもマイナスにも作用することである。仕入れ水準の動きが損益の動き、収支の動きと連動した動きにならないのである。しかも、損益と収支の動きも連動しているとは限らないという事である。つまり、表面に現れる損益と収支が逆の動きになり、資金繰り倒産を引き起こすことがありうるのである。
 また、在庫水準は、重要な経済指標であることから、表面上に現れる景気が、実体的な資金の動きとは裏腹に見えることがあるのである。
 実際には、不景気なのに表面上は、景気がよく映ったり、逆に、景気が良いはずなのに、不景気に見えると言った現象である。この事を充分に留意しておかないと、適切な政策判断が出来なくなる事がある。特に、在庫の動きは、充分にその前提を確認する必要がある。
 在庫水準は、個々の企業の問題だと考えていると景気見誤る危険性があるのである。

 なぜ、金融市場の混乱が直接的に実物市場に影響するというのは、表に現れない資金繰りが、経営に重大な作用を及ぼすからである。特に、長期借入金の返済資金を止められると損益が黒字でも倒産してしまう。俗に言う黒字倒産である。

 現代社会は、企業経営にせよ、家計にせよ、借金を基礎として組み立てられている。つまり、債務の上に成り立っているのである。それは、現代の会計制度に原因がある。家計は、基本的に会計制度ではなく。現金主義の上に成立している。しかし、債権者側、つまり、貸し手側は、会計制度を基礎としている。故に、結果的に会計制度の影響下におかれなければならないのである。何れにしても、今日の、市場経済は、借金の技術の上に成り立っている。

 所得水準と生活水準、消費水準、生産水準、物価水準は、収益水準、地価水準は結びあって相互に制約している。例えば、所得の水準の上昇は、支出の水準を上昇させ生活水準に影響を与える。支出の水準が上昇すれば、消費の水準も上昇する。当然物価の水準も上昇し、収益の水準を押し上げるというようにである。逆に、市場が成熟して収益を圧迫しはじめると逆回転を始める。また、物価の水準が他の要素の水準よりも急激に上昇すると他の要素を引き上げるか、他の要素が抑制的に機能するかによって全体の整合性をとろうとする。

 物価の水準は、為替の水準や原油価格の水準の関数である。

 収益の水準は、市場の飽和度に左右される。市場の飽和度は、需給の水準によって決まる。それに対し、費用の水準は、所得水準や金利水準、物価水準などによって年々押し上げられる。つまり、収益水準は、市場の状況に左右されると同時に、市場の成熟によって頭打ちになる。それに対し、費用水準は、年々上昇する。
 また、経営は、資金の収支均衡によって成り立っている。資金の調達は、収益と借入による。借入には、長期借入と短期借入がある。通常運転資金は、短期借入によって賄われる。短期資金は、与信枠によっている。与信枠は、担保水準によって決まり、担保は、資産、特に、不動産によって裏付けられる。即ち、短期資金の調達力は、地価の水準によって決まる。この地価が乱高下すると資金の調達力も不安定になる。つまり、費用だけが硬直的な動きをするのに対し、収益力や資金調達力は、外部環境によって不安定な動きをするのである。

 また、企業収益は、債権水準と債務水準、収益水準と費用水準の均衡の上に成り立っている。その根源は、収入と支出の均衡である。この事が意味するのは、経営は、収入と支出の均衡の上に成り立つもので、清算時点では、何も残らないという事である。

 この様に、企業は、ある意味で儲からないように出来ている。
 しかし、それが景気を不安定なものにしているという事を忘れては成らない。いくら頑張って利益を上げても、地価の水準が低ければ、資金繰りにつまって倒産する企業もでてくる。確かに、法外な利益を計上するのもおかしい。しかし、適正な利益を企業が上げられなくなるのも良い事ではないのである。

 突き詰めて考えてみると、現在の経済単位は、見かけ上の実体はあっても実質的な実体は持っていないとも言える。:経済主体の存在意義は、経済活動を通じて所得を得る事にあって、何等かの資産財産を残すことにはない。最後には、何も残さない。残せない仕組みになっている。
 企業で言えば、多くの資産があるようでもその対極には、同量の債務がある。つまり、清算してしまうと債権と債務は、相殺されて何も残らないか、最悪、借金、即ち、債務だけしか残らない構造になっている。
 これは家計にも言える。多少の遺産は残せるかもしれないが、その遺産も、相続でもって行かれてしまう。結局、現在の資本主義は、そう言う思想なのである。
 つまり、そうなると機能こそが重要となる。企業で言えば、経営活動を通じて社員に所得を与え、費用によって関係者に収入をもたらし、金利を払い、税を納める。それが経営主体の役割だと言う事である。つまり、企業の役割というのは、雇用を創出し、資金を廻すことに尽きる。そして、役目が終わればなにもの越さずに消滅するのである。
 企業とは、最終的には、儲からないように出来ているのである。儲かるのは、企業に関係した者達、株主とか、従業員とか、債権者とか、取引先である。それを忘れてはならない。企業というのは、潰してしまえば元も子もないのである。
 いうなれば、経営主体というのは、金の成る樹であり、利用されるだけ利用され、その役割が終われば廃棄されてしまう。企業に搾取されるどころか、企業は、搾取され続ける機関だと言う事である。その割に、誰にも感謝されない哀れな存在である。
 家庭も同様である。家庭は、子育てをする機関に過ぎない。人間的な絆など無価値なのである。要が終わればバラバラに解体し、後は個人個人で始末すればいい。それが現代の根底を成す思想である。現代体制では、共同体は不必要なのである。

 相対的な現象には二面性があるのに、日本人は、一面しか見ない。儲かったと言うが、儲かるというのは、一面でしかない。儲かった、つまり、利益がどうなるのかと言えば、税金や配当であらかた消えてしまう。と言うよりも、企業内部に蓄積できる性格のものではないのである。企業内部には蓄積できないような仕組みになっている。それを忘れては成らない。企業は清算するとき何も残せないのである。

 市場経済において重要なのは、機能である。つまり、働きなのである。企業や家計、財政の働きが重要なのである。その機能に適した構造を考えることなのである。
 例えて言えば、企業は、継続的に経営が出来るような経済構造を築くことであり、生産性や効率性、また、競争は、その為の手段に過ぎないという事である。仮に、過当競争によって企業が収益をあげられなくなってきたら、競争を抑止することであり、企業が破綻してから手を打っても遅いという事である。

 この様な機能を規制するのが水準なのである。

 為替の水準や原油価格の水準の急激な変動から市場を保護するのは、為政者の当然の権利であり、責務である。

時間的平準化


 市場経済においては、前提は常に、成長である。そして、それは市場経済に時間的価値が加わった時から決定付けられた原則なのである。

 時間的価値は、金利と利益と物価である。逆に言うと経済状態というのは、金融機関は、適正な金利を確保し、企業は、金利以上の利益をあげ、物価上昇以上の所得、即ち、賃上げが実現できればいいのである。

 現代経営における資金の活用には、初期投資と運転資金がある。そして、初期投資は、清算の利益によって解消され、運転資金は、期間損益によって解消される。解消とは、均衡を意味する。
 初期投資資金(イニシャルコスト)と運転資金ランニングコストがある。イニシャルコストは、費用における静的な部分を構成し、ランニングコストは、動的な部分を構成する。そして、初期投資は、長期的な時間軸において、ランニングコストは、短期的な時間軸において作用する。

 初期投資というのは、設備投資のような、事業基盤に対する投資を指して言う。それに対して、運転資金というのは、経営活動に必要な資金を指して言う。必然的に初期投資は、長期的資金に運転資金は、短期的資金となる。つまり、長期資金と短期資金の運用である。長期的資金は、基本的には、初期投資によって取得した資産や債権、資本に基づいて調達される。問題は、短期の運転資金である。

 市場には、長期均衡と短期均衡が混在している。しかも、長期的均衡を土台とした部分と短期的均衡を土台とした部分の働き、運動は、一様ではない。
 この長期均衡と、短期均衡の部分を標準化、平準化する必要性から、償却の概念が成立した。

 現金というのは、現在の貨幣価値を指して言う。資金を調達すると現在の貨幣価値が債権と債務を生むのである。その場で所得とするか、消費するか、それとも将来の所得とするか、将来の消費とするかの違いである。将来の所得とする物は債権であり、将来の消費とするものは、債務である。何れにしても資金を調達した時点では、現金、債権、債務は均衡している。

 現在の貨幣価値を実現した物である現金と貨幣が指し示す物から派生する債権、貨幣を調達したことから発生する債務、それらが成立した時点から現金、債務、債権は、独自の運動、変化をするようになる。つまり、時間軸が加わることによって現金、債務、債権は、独自の価値を形成するようになるのである。それがいろいろな現象を引き起こす。その変化をいかに有効に活用するかが、経営であり、また、最終的には、経済政策に繋がるのである。

 現金、債権、債務の問題は、価値の実現に要する速度の問題でもある。即ち、流動性の問題でもある。流動性が低ければ、それだけ、価値の実現に手間取ることになる。速度は、短期、長期という形で表現される。

 企業は、一時的な資金不足を起こす場合がある。短期資金の性格は、産業によって異なるが、短期資金の調達も何等かの債権を担保として行われるのが常である。その為に、所有する土地が担保とされる場合が多い。<
 地価は、資金調達に際し、資金の裏付けとなる。地価の水準の乱高下は、地価を担保にする企業の資金調達力に影響を与える。資金、即ち、貨幣価値は、それが創造された時に、債権と、債務を発生させる。債権の価値が下落すると担保不足を発生させる。

 借金も収入なのである。借金し続けられれば、収益がなくても企業も家計も財政も破綻しない。
 特に、非償却資産であり土地の債務が問題となる。超過した債務は地価の上昇で解消する以外にない。問題は、返済に対する原資をどこに求めるかである。つまり、返済に充てる現金をどの様にして調達するかである。ここでまた、債権と債務が生じる。
 この様に、資金を廻しながら債権と債務を均衡させ続けるのが経営活動なのである。

 現代の市場は、拡大均衡を前提にして制御されている。しかし、市場は、必ずしも拡大均衡するとは限らない。
 市場は、成熟すると縮小均衡に向かう。縮小均衡に市場が向かった時に、市場をどう制度的、構造的に制御するかが、経済を制御するための重要な要件である。

構造経済とは何か。

 市場が成熟してきたら量から質へと転換していかなければならない。それに応じて規制と監視を強化する必要がある。

 近年、規制緩和が、大流行である。しかし、規制を緩和するという事の意味が誤解されているように思われる。近年の規制緩和の前提は、規制は悪である。だから、規制を緩和しろ。場合によっては、撤廃しろと言う極端な話まである。規制をなくして、市場の力に全てを委ねれば、万事うまくいくというのである。それは、自由主義ではなく。市場の無政府主義である。
 市場は、成長するに従って質的な変化を起こす。当然、その質的な変化に対応しきれない規制や法、制度がある。それを改める必要がある。しかし、それだからと言って規制は、悪い、規制を全廃しろと言うのは、極論である。規制を意味もなくなくすのは、市場に無用な混乱を引き起こすだけである。先ず、規制が成立した背景、歴史的経緯を確認し、その本来の目的に適合しなくなったか、否かを明らかにすることが先決なのである。頭から、規制は悪だと決め付けるのは、あまりに短絡的すぎる。

 規制緩和というと規制をなくしてしまえと言う事になる。必要でなくなった規制をなくし、必要な規制を改めて制定することを意味するのである。
 市場の質的な変化によって必然的に、規制の質的な変化が起こっているのにすぎないのである。

 市場が成長している時は、大量生産によって産業を効率化し、競争力を強化することは正しい。しかし、市場が成熟してきたら大量生産、大量消費から、多品種少量生産、計画的消費、合目的的消費、効率的消費へと変化させる事が必要となる。
 例えて言えば、ホテル業界である。多くの人を安く宿泊させると言う目的から、一人一人の所得や要求、目的によってホテルの施設と設備の質を選択できるようにすることである。
 その為に、必要なのは、高品質化である。高品質を保つためには、コストがかかる。その為には、利潤の確保が優先される。
 故に、品質を維持するためには、規制を強化すると同時に、不当廉売の監視を強めることが肝心である。
 市場の成熟してきたら、それまでの安かろう、悪かろうという市場から、高品質の市場へと転化することが要求される。その好例が、食料である。食の安全と言う事が問われるようになってきた。食の安全を保証しつつ、多様な要求に対処することが、食品市場に要求されているのである。
 また、手作りや高品質、耐久性に優れた商品を供給できる仕組みにすることが肝心である。ブランドのような付加価値を高めることも重要になる。また、中古市場やメンテナンス市場、リサイクル、リホームなどが新たな市場として成立する下地を作ることである。それによって雇用の増大を計るのである。

 消費者保護の観点からも市場は規制される必要がある。
 市場の保護と言っても、所謂、保護主義者の言うような関税を高めたり、市場を閉ざすようなことを意味しているわけではない。市場の公正な競争や秩序、規律を守りながら、消費者も保護する。その為に、市場の規制を強化すべきだと言っているのである。それは、商業道徳の問題でもある。

 ところが、現在の市場経済は、これらの方向性からみると逆行している。安売り業者の横行を許すことによって、個人事業者や中小企業が淘汰され、ひたすら、大量生産、大量消費に走っている。競争、競争、競争である。あたかも、競争だけが市場原理のように思い込ませている。

 経済は、人間の意識の所産である。意識は、相対的な基準でしか対象を認識できない。相対的基準とは、比較対照である。比較対照は、位置と運動と関係によって成立する。位置と運動とは、対象間の距離と時間的差、変化の差を意味する。つまり、差を付けることを前提して成り立っているのである。

 その為に、経済を成立させるためには、合理的、構造的な差別化、区別化をする必要が生じる。合理的、構造的というのは、能力や実績に基づく差別化、また、その人その人の働き役割に応じた区別を指して言う。即ち、実力主義である。
 それ以外の属性、即ち、人種、宗教、性別、出自といった要素に基づく差別は、社会を硬直化させるために排除されるべきである。

 対象の所得や要求、用途に応じて合理的、構造的に区分すべきなのである。

 プロスポーツの世界は、それぞれの技能に応じて一軍と二軍が別れてる。ただ、能力と技能、実績によってこの一軍と二軍との間の移動は可能である。この体制があってプロスポーツの質は保たれている。
 ただし、実力以外の要素がこれに加わると制度そのものが硬直的になり、プロスポーツとして成り立たなくなる。

 次ぎに格差の是正である。大幅な格差は、分配構造を歪め、組織のストレスを高めてしまう。最悪の場合、社会構造そのものを破壊してしまう。故に、社会の格差を一定の幅に納める必要がある。
 その為に、所得の再配分と、最低限の生活保障が必要になる。

 また、経済の単位を確立し、複数の経営主体による自律的活動を保証する必要がある。経済単位の確立とは、必要に応じて幾つかの経済主体(共同体)に分割して自律的機能を持たせることを意味する。プロ野球でいえば、チームであり、球団である。
 組織の単位化は、第一に、個人にとっては、選択の自由の保障にもなる。第二に、組織の自律性を維持させる。第三に、機能を分散化し、独裁的権力を抑制する。第四に、適切な規模の維持を目的としいる。適切な規模とは、最も効率的な規模を指して言う。第五に、市場の原理を働かせ、相互牽制作用をもたせる。第六に、格差を抑制する効果が期待できる。

 中小企業の役割を軽視すべきではない。適正な規模の経済単位、即ち、自立的経営主体の働きが経済を活性化してきたのである。中小企業の衰退は、経済を不活性化する。

 もう一つ大事なのは地域社会である。
 社会は、経済的関係だけで成り立っているわけではない。治安上からみても、福祉からみても互助関係が働かく必要がある。老人や弱者の面倒は、本来、地域社会や親族がみてきたのである。そう言った地域社会の果たしてきた役割を無視しては経済は成り立たないのである。それが金銭的関係だけに経済的関係、人間関係を矮小化してしまったために、本来の意味の治安や福祉が形骸化してしまったのである。
 以前は、スーパーは、客ではないと維持もとの商店を優先する風潮があった。その思想は、ある意味で本質的である。全てを価格だけに還元することは、経済を不活性化してしまう。
 重要なことは、その社会の在り方に対する幅広い合意である。

 国家や地域社会には、固有の決まりがある。例えば、自動車の右ハンドル、左ハンドルである。日本では、外国からの輸入車を左ハンドルと表現していたことがある。輸入車が国内の仕様に合わせなかったからである。それに対し、日本は、外国に自動車を輸出する際、相手国の仕様に合わせて自動車を生産した。それが、日本車が輸出先の国に受け容れられた要因の一つである。標準化というのは、個々の国の事情を無視することではない。また、一様にすることでもない。
 言語や文化、風俗、風習の違いなどは決定的な違いである。その様な違いを一律に捉えて何でも標準化してしまえと言うのは、乱暴な話である。何を標準化し、何に、互換性を持たせるかは、国家や地域社会にとっては、重要な戦略である。
 また、進出する国や企業が、自分達の国や企業の仕様を相手国に押し付け、標準化しようと言うのは、横暴であり、相手国の反発を招くだけである。

 皮肉なことに、本来、地方経済を活性化するはずの交通機関の発達が、地域経済を衰退に導いてしまうことがある。交通機関の発達は、国家が意図したわけではなくても、大都市に人口を集中させたり、一極主義的な経済構造を現出させてしまうことがある。また、産業の誘致が必ずしも地域経済の活性化に結びつくとは限らない。産業をなぜ誘致するのか、その目的意識を明らかにしないと、却って、地域の財政に過剰な負担を掛けることにも繋がる。充分にその点を留意して経済構造は、想定されなければならない。

 かつて、沖縄のスタンドは、過剰サービスで問題となった。スタンドに勤務する人間が多いというのである。しかし、沖縄には、産業が少ないために、スタンドが雇用の受け手になっていたという事実もある。沖縄のスタンドは失業対策にもなっていたのである。それを市場の効率によって淘汰することが経済的なのであろうか。

 地域住民は、働き手であると同時に、顧客でもある。資本の論理だけで効率化を計ることは、市場を枯らすことになる。それは、資本の側にとっても自殺行為なのである。生産者側の論理だけを押し付け、消費者側、顧客の意志を無視することは、市場経済にとって致命的な行為であることを忘れてはならない。

 典型的なのが、NFLと、MLBである。アメリカのプロ・スポーツの在り方、それは、地域住民との関わり合いも含めて、一つの経済の在り方を我々に呈示している。

 これが構造経済である。





                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2009.9.4 Keiichirou Koyano