要求の論理


 我々は、論理的前提を忘れている。つまり、論理的展開の基礎となる部分である。壮麗な理論もその前提が間違っていたら、土台から崩れ去ってしまう。砂上の楼閣に過ぎない。学校教育は、その前提が所与のもので、絶対的であるかがごとく教える。そして、その検証の仕方を教えない。しかし、その検証の仕方こそが論理の基礎であり、始まりなのである。

 いくら論理的な展開が正しくても間違った前提や認識を基にしていたら最初から成り立たない。むしろ、論理的な展開が厳格であればあるほど、間違った答えを導き出す。それなのに、多くの人は、前提や問題を確認しようともしない。特に、学校では、問題は、所与の命題であり、批判することも疑ることさえも許されない。それでは、何のための論理か解らなくなる。

 本来、科学とは、問題設定学である。問題の設定にこそ理論の成否の大部分があることを忘れてはならない。
 要求や問題が、はじめから明確ならばやりようがある。しかし、その要求や問題が明確でないから苦労するのである。

 学校では、問題と答えが予め決まっている。その間の論理である。この様な論理展開は、現実の社会、一般的社会にはほとんどあり得ない。

 研究を進め、九分九厘、完成できそうな見通しがたったのに、新たな事実が発見されて最初から理論をやり直さなければならなくなる。新しい技術が開発された事で、自分達の仕事があっという間に陳腐化してしまう。諸行無常。世の中は、日進月歩なのである。

 現実の世界は、絶え間なく変動し、その変化に対応していく事が、常に要求されるのである。

 事実関係からおさえていく事が大切なのである。初期設定、前提条件、経過の確認からはいるのが妥当である。先ず、我々は、要求や問題の根源に何があるのかを確かめる必要がある。この手続きは、論理的になされなければならない。

 自問自答、まさに、問題や要求を明らかにするプロセスは、弁証法的手続きである。

 我々は、仕事を始める以前は、顧客(クライアント)からの要求や仕様が明確であるという前提に立っている場合が多い。ところが、実際に仕事を始めて見るとこの要求や仕様が曖昧であったり、また見当はずれのものであったり、最悪の場合、クライアント自体が理解していないと言うケースに突き当たる事が多い。そして、仕事を進めていく上で、致命的な欠陥として我々の前に立ちはだかるのである。その結果、予想外の費用や日程の延長、仕様の変更などが生じ、最悪の場合、プロジェクトそのものが破綻することすらあるのである。

 なぜこの様なことが生じるのか。それは、我々が何等かの問題に取り組もうとした時、その前提条件や要求、問題点を正確に把握、設定していないからである。我々は、問題や答えを所与のものとしてとらえ、それを疑う事すらしない。しかし、問題の解決やプロジェクトの成否は、その前提条件や要求の中に隠されている部分に負うところが大きいのである。

 要求とは必要性である。要求の裏に隠されている必要性を探り当てることが鍵なのである。相手が何を必要としているのか。何が言いたいのかを明らかにする事、それが、先ずなされなければならない事である。

 要求した者が自分が何を要求したかを理解しているとは限らない。何か得体の知れない欲求や漠然とした不安などが要求の核心である場合が多い。どこかがおかしい。何かが悪い、最初はそんな曖昧模糊とした感覚である。できるかどうかも解らない。理想とか、夢とか、雲をつかむようなそんな願望が根っ子であったりする。しかし、その漠然とした問題意識こそが大切なのである。それを徐々に明確にしていく。そのプロセスが大事なのであり、それが要求の論理なのである。

 問題なのは、彼等が何を必要としているかである。それは、要求や問題点を形成する前提の中に隠されている場合が多い。

 何を要求しているかは、指示という形で表される。しかし、この指示というものがまた問題なのである。指示する者が、全ての作業や結果を読み切っているわけではない。
 だいたい、指示を出した者は、指示を忘れやすいし、自分が出した指示の意味がわかっていないことすらある。指示を受けた者は、指示を覚えきれない。指示を出す者も指示を受ける者も、出された指示が要件を満たしているかどうかを確認する必要がある。
 指示した者は、指示を受けた者を理解しきれない場合が多い。指示を受けた者は、指示をした者の主旨を理解しきれない。
 実際に仕事をするのは、指示した者ではない。実際にやることを決めるのは、指示された者である。そして、指示された者が実行するのである。つまり、詳細は、指示された者が決めるのである。

 要求には、TPOがある。要求は、時と場所と場合を選ぶ。故に、要求を明らかにするためには、その前提が重要となる。
 要求にも動きがある。要求というものは不変的なものではない。絶え間なく変動している。変動させる要因は、内面の要求だったり、環境の変化だったりと複雑である。
 相手の動きに合わせて仕事を読む。相手の動きというのは、相手の要求の変化である。自分の思い込みや独断ではなく。要求は、相手が発するものである。つまり、相手を理解することなく、要求を把握することはできない。要求は、独善を排する。

 問題設定において重要なことは、証明である。問題の検証である。そして、要求や問題は、観察と実験によって検証される。

 重要なことは、要求は、設計思想にかかわっている。つまり、根本理念にかかわっている。要求、問題の根源は、思想です。
 我々は、問題意識を持て、問題意識を持てと言うが、問題意識の本性を教えない。問題意識の本性は、好奇心であり、懐疑心である。なぜだろうと言う、子供の頃の素朴な疑問である。その素朴な疑問こそが、あらゆる思想哲学、事業の核となるのである。




        


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