勧善懲悪についてどう思うか。
戦後の我々は、道徳や倫理を自明な事、所与の事として捉えている。著名な評論家が、テレビで、戦争というのは、悪いときまっているんだからとか。核兵器について、議論することすら憚れると言ったことを平然と語っていることがその証左である。自分達が常識だと思い込んでいることを無批判に、無定義に敷延化している。生まれついての悪人はいないとか。人間は、平等なのだ。いとも簡単に決め付けている。しかし、道徳や倫理というのは、人間の社会の決め事に過ぎない。自然の法則とは違う。人間が守ろうという意志がなければいとも簡単に失われるのである。
道徳の根源は、単純である。それほど数があるものではない。せいぜい言って十善にしかずである。ただ、自明なものではない。社会的約束事、取り決め、契約、即ち、人為的なものである。道徳の根源は、単純であるが、生活信条に発展すると多岐にわたり、一様ではない。また、生活信条であるが故に、観念的なものではなく、現実的、実際的、なものである。故に、道徳は、直観的、経験主義的、体験主義的にしか身につけられない。それが倫理の論理構造である。
近代資本主義は、宗教的倫理観、規律、規範と外的な制約を前提している。規制をなくし、内面の規律を無視して、経済的合理性の追求だけをすれば良いというのは、近代的資本主義に反する思想である。
砂漠の真ん中で信号が赤になっても、かつての日本人は、止まるであろう。人が見ていないからと言ってもお天道様はどこかで見ていると。一見不合理で、愚かに見えるかも知れないが、そうしなければ、モラルは成立しない。道徳というのは、内面の規律である。外面を取り繕うものではない。そう言う馬鹿真面目さがあったから、日本に資本主義は定着した。逆に、この倫理観を失ったら、日本の資本主義は崩壊すると言える。それは、根本に正直という内面の規律が働いているからである。功利主義を錯覚しているのは、功利主義を、道徳心より、自分の利益を優先すると事だと思い込んでいることである。功利主義とは、道徳心を前提に成り立っている思想である。欧米人は、それが一神教的な規律であるとしてきた。それを日本人は、共同体的規律として持っていたのである。
社会がモラルの存在を前提とする限り、何等かの信条を必要とせざるを得ない。近代資本主義を築いた倫理的基礎は、プロテスタンティズムだと言われている。ただ、倫理観や道徳は、政治的な信条ではない。倫理観というのは、生活信条である。日常生活をしていく上での取り決めであり、その国、その社会の歴史、文化、伝統を色濃く反映している。倫理や道徳というのは、社会的な取り決めなのである。
日本人は、勧善懲悪の話が好きだ。時代劇などを見ていると最初から悪玉と善玉が決まっていって最後には必ず善玉が勝つことになっている。しかし、勧善懲悪的な話は、日本人だけが好む話ではなさそうである。ロビンフッドにせよ、ウィリアムテルにしろ勧善懲悪的な話である。ただ、西部劇における騎兵隊とインディアンの話となると単純に勧善懲悪とは決め付けられない。そこに今日的な価値観の揺らぎがある。何が善で何が悪かは、見る人、見る視点によって違ってくるのである。
近代社会が成立する前提は、キリスト教的合理主義を背景としていることを見落としてはならない。近代社会は、キリスト教が母胎なのである。
近代社会が成立したときの当初の平等というのは、神の前の平等である。それもキリスト教的神であって、仏教的な意味での仏の前の平等ではない。
労働を神聖な行為として、一種の修業として考えている日本の伝統的思想と原罪の償いとしての苦役として捉えているキリスト教やイスラム教、ユダヤ教とは、思想的前提が違うのである。
母胎となったキリスト教的、プロテスタント的倫理観が失われたら成り立たないという事も忘れてはならない。拝金主義や唯物主義的な倫理では、近代社会は成り立たなくな理、無政府な状態に成らざるをえないのである。
ただ、日本人の伝統的な価値観も近代資本主義に基礎となりうることは実証されてきた事を留意しなければならない。いずれにしても、モラルの崩壊は、近代資本主義、ひいては、我々の現代の生活を脅かす原因となる。我々は、その背景を理解して自分達が何を善として、何を悪としてきたかを見極める必要がある。土台、日本人が信じてきたものと異質なものなのである。それをあたかも、人類普遍な事のように刷り込んでくる知識人は、何を目的としているのか。先ず我々は、我々の文化をしっかりと見据えた上で、自分達の価値観、約束事を更新すべきなのである。
公平や公正という価値基準もキリスト教的合理精神に基づいている。公平や公正と言われても自分達の言う公平、公正と同じ意味で使われているのかを検証する必要がある。
「一世紀あまりの間に、インディオの民はメキシコから90%もの生命を奪われ、人口は2500万人から150万人に激減し、ペルーでも住民の95%が消滅してしまった。ラス・カサスの算定によると、1495年と1503年の間に300万人の先住民がカリブ海の島々から姿を消している」とボーは述べている。(「宗教の経済思想」保坂俊司著 光文社新書)
西欧近代経済は、金本位制が確立されることによって成立した。その金本位制を支える莫大な金は、どこからもたらされたのか。その謎を解けば、西欧近代経済の成立の謎が解ける。
近代社会の礎(いしずえ)は、きれい事によって成り立っているのではなく。激しい略奪、殺戮、侵略の果てに築かれたものなのである。
確かに、何が正義で、何が善なのか。それを一概に決める尺度がなくなりつつある。しかし、日常生活の中で、我々の価値判断は単純なところにある。その為には、我々は、先ず自分の道徳律を決める必要があるのである。つまり、善と悪とは、経験と慣習に基づかなければ形成できないのである。それは、書籍からではなく。修業によって身につけるものである。
うさねこ研究室の管理人が、
「わしらは世界を征服して、誰もが幸せに暮らせる世界をつくるんじゃよ・・・」という、この「悪」の台詞を聞いたとき、幼少の私はいったいどういう反応をしたのでしょうか?
と言うコメントを自分のブログで公開しています。
アニメの中にあったこの台詞から、善悪に対する問題提起を管理人はしています。管理人は、アニメのような媒体を通じて善悪の刷り込みが行われていることを指摘している。
私も、うさねこ氏が指摘するように、テレビのような媒体を通じて、知らず知らずのうちに特殊な道徳観を植え付けていくことに危惧を感じる。特に、本来、単純であるべきはずの善悪の基準が複雑に、曖昧模糊としたものにされている気がする。その単純さというのは、日本人が、長い歴史伝統の上に築き上げた単純さである。ある意味で単純明快であるが故に、道徳たりうるのである。この日本人的な勧善懲悪の根幹を揺らしているのが、戦後のメディアと教育である。
悪の言った、世の中をよくするというコメントが私は気になる。正しい事を悪に語らせる。私は、その作品の作者にあざとさを感じる。その台詞が子供に対して発せられている。親父達は、勧善懲悪を単純に信じているというのに、子供番組の方がずっと思想的で、複雑なのである。その複雑さを大人になっても引きずっている。
つまり、肝心な時にどうしたらいいのか解らなくなってしまい判断が下せない。善悪なんて元々単純明快なものである。ありふれた、たわいのない価値観でもないよりは良い。と言うより、日常的な価値観は、複雑でも、難しいものでもない。嘘をつくな。人の物を盗みなとっいたものである。
ところが、その単純明快な価値観が形成できない。複雑怪奇なものになってしまっている。そこに問題がある。そのために、自己の信条が形成できないでいる。以前は、弱い者イジメをするなと教えられた。弱い者とは、年下の者、力のない者、女子である。今は、ただイジメは悪いである。それでいて何をイジメというかハッキリしない。一概に暴力は悪いと決め付けているだけである。しかし、何を暴力とするかは、曖昧としている。我々が子供の頃は、卑怯なマネはよせと言われた。卑怯なことと言えば、武器を持って、武器を持たない者を攻撃すること、髪を引っ張る事、噛みつく事、後から襲う事と具体的だった。ただ、暴力は駄目だでは解らないと叱られた。ところが今は、曖昧な概念を示すだけである。
価値観そのものを複雑にしてまえば、問題点があやふやになる。戦前でも戦争で人を殺すことで悩んでいました。戦前でも戦争に反対した人間はいくらでもいる。問題なのは、その価値観、人を殺してはならないとか、戦争に反対すると言ったそのものを否定したことである。相手の価値観を認めようとしないと言うのは、視点を変えてみると、現代でも変わらない様に思える。現代の危険性は、それを相手の考えを認めているように見せかけていることである。
私は、一番悪いのは、考えてから決めなさいと言う教え方だと最近思っています。現代人は、この考え方に、随分汚染されている。考えたら決められない。決めてから考えろ。
決断は、自分の責任で直観的にする。決して断じるです。その為に、価値観の確立がある。その根底が思想である。
ところが複雑なことを教えていて、若者達を決められない環境に置き。そして、考えてから決めろと言う。もし、洗脳をしようとする人間がいれば、ものすごく都合のいい環境を教育的に作り出している。一体誰が、ひきこもりやフリーターを作り出しているのか。
そこに極端な平等論である。人と人との差を一切認めない。平等と同等とは違いう。平等は存在において平等なのであり、同等は認識の問題である。多くのメディアは、ひきこもりやカルトを生み出していながら、それによって金儲けをする。典型的、マッチポンプである。
あの人が好きな理由をあげろと言う設問が成り立つ前提は、その人が好きだという事です。嫌いな人間に好きな理由をあげろと言うのは、無意味です。嫌いな人間を好きになれと強要しているようなものです。
理由、理由なんてないさ。なぜ、だって俺あいつ嫌いだもので全ておしまい。
戦争は、なぜいけないかの理由をあげろも、なぜ、テロは、悪いのかも、なぜ、平等は正のかも同じ、まず、戦争は本当に悪いのか、平等は良いのか、自分の思想を明らかにしなければ、成り立たない。
ところが、今のメディアは、いきなり、戦争は悪いと決め付けて、この世の中、皆、戦争は悪いとしていると普遍化してしまっている。一人一人の根本の思想が問われてない。それでは、相手の意見を尊重した事にはならない。
そう言うと、あなたは、戦争は正しいというのか、テロは正しいというのか、平等を否定するのかとくる。そして、相手の意見を聞かなくなる。
戦争を全ての人間が悪だとしているのならば、なぜ、戦争が起こるのか。戦争を是としている人間がいるからである。ならば、なぜ、戦争をその人は是としているのか。それを明らかにしなければ戦争はなくならない。その為には、先ず相手が何を信じているかを確認する必要がある。その場合、俺は何も信じていないと言うのは、卑怯である。自分の考えを明らかにしてはじめて、相手の考えを尊重する事ができる。先ず名を名乗れである。自分には考えがないと言って、相手を責めるのは、愚劣である。話にならない。相手の考えを聞きもせずに勝手に決め付けるな。自分の考えをハッキリさせずに相手を責めるな。その上で、相手の意見を尊重するのである。
自己善を前提とせずに、無意識に自分の善を敷延化してしまったら民主主義は成り立たない。それは、自分が正しいと思っていることは、皆、正しいと思っていると素朴に思い込んでいるに過ぎない。しかし、それほど危険な思い込みはない。自己善とは、個人それぞれに違うのである。つまり、人がいればいる数だけ自己善は存在する。
だいたい、国際法上、最終的手段として、戦争は是認されている。テロを正しいとしている者がいるから、自爆などと言う究極的な手段に訴えるテロが起こる。平等主義を国是としている北朝鮮になぜ、個人崇拝があり、極端な差別があるのか。
つまり、問題なのは、論理の前提である。倫理の論理の前提、何を是とし、何を非としているのか。何を善とし、何を悪としているのか。神を信じるのか否か。先ずそれをお互いに明らかにしないかぎり、論理の妥当性は評価しえない。自分が正しいとしていることは相手も正しいとしているはずだでは、重大な齟齬が生じるのである。
倫理観でまず最初に問題になるのは、汝、殺すなかれであろう。第一に、戦争の問題がある。第二に、事故のような過失責任がある。第三に、虐めのような意図せざる殺人がある。第四に、自殺がある。第五に、中絶・堕胎の問題がある。第六に、安楽死問題がある。第七に、死刑の問題がある。これらの問題は、決して絵空事ではなく、現実の問題である。
国を守るために、殺人を犯していいのか。また、殺さなければ殺される。その様な極限状態の中では、倫理観は危機に瀕する。飢餓状態の中で、自分が食べなければ死ぬが相手も餓死すると言う時、人間は、人間性を問われる。殺人ではないが、人肉を食べたという、アンデスの聖餐の様な場合もある。また、事故のように過失による殺人は、許されないのか。虐めた相手が自殺した時、自分はどうすればいいのか。自殺は、最も許されない殺人ではないのか。胎児は、人間なのか。助かる見込みがない者まで苦痛を長引かせてまで生かし続ける意味は何処にあるのか。誰が、生命維持装置をはずす決断をするのか。死刑は、殺人ではないのか。
一つの価値観ですっぱりと割り切れればそれにこしたことはない。しかし、我々は、いつ何時、自分が心底から信じている価値観が問われる様な場面に遭遇するともしれないのである。それは、試練である。その時に備えて自分なりの覚悟を決めておく必要がある。
なにが、正しいか、だれが好きか、それを決めるのは、直感である。
好きだから好き。正しいから正しい。それが根本である。好きな理由は、好きだから言えるのである。その根本に理由はない。論理は、自分の根本にある考え方、前提を明らかにしなければ始まらないのである。
だから、キリスト教徒とイスラム教徒には妥協がきかない。ならばどうするのか。そこに哲学の必要性がある。
最初に決断がある。そうして話し合っていれば、最初の前提を覆すこともできる。最初に前提を明らかにしなければ、修正することも変更することもできない。論理はその後の問題である。先ず自分は何を正しいとしているかである。
はじめっから神はいないと決め付けて、それを敷延して、普遍化している。そう言う人間に、今の国際情勢なんて理解のしようがない。理解しようのない人間が、理解していないと言う理由で自分は、公平で公正だという転倒した論理を展開する。先ず自分の考えの基本、前提を明らかにし、そして、相手の考えの基本、前提を確認した上で、共存していくことを捜すのである。
なぜ、好きなのか。それは好きになってみなければ解らない。最初に決断ありきだ。そして愛に悶える。それしか愛の意味は、理解できない。
だから人を愛する前に、性行為をするのは危険なのです。愛する人が現れた時に、取り返しがつかない事になる危険性が潜んでいる。愛が信じられなくなる可能性がある。
最初から愛と性とはなんて議論すること自体無意味です。なぜならば、私が愛している人とあなたが愛している人は、違うのですから。その違いを認識しないで、何を愛と言い、何を性というのでしょう。違いを教える事ができなければ、平等なんて教えようがない。
そこにある行為は、同じかもしれない。しかし愛は明らかに違う。百万言費やしても愛の真実を明らかにすることは難しい。しかし、人を愛すれば、その意味は明らかです。だから、汝、先ず愛せよなのである。
最初は全て、直感なのである。その直感が信じられなければ、全ては無駄である。だから、僕は信仰だと言うのである。神は存在すると言えば存在し、存在しないと言えば存在しないのです。しかし、神が存在すると言おうが、言うまいが、神の存在そのものには影響はない。
愛を信じられない人間に、愛を語ることができますか。況わんや性について。
性は行為です。男にとって行為が先走るのは許されないのです。やっちゃたんだからしょうがないというのは、自らの無節操を明らかにしただけです。やってしまってから考えろは許されない。行為に自分の意志を見出さなければ、何事も正当化しえない。少なくとも男には、行為の前に決断がある。それを否定したら、全ての議論が成り立たない。だから、最初に決断ありきなのです。決めろです。その決断を否定したところに、現代の不毛が隠されている。
密室の中にあなたが裸の女と二人きりになった。さあどうするかです。そこではあなたの理性、思想、信念が問われているに過ぎません。その状況を言い訳にして、自分の行為を正当化することはできないのです。
ところが、性は、行為です。決断なき行為が問題なのであって性行為が問題なのではありません。強姦が問題なのです。相手の意志を無視すれば、また、自分の信念に基づかなければ、女から見れば全て強姦です。もし、自分が誘惑に負けて女を抱いたら、それは単に自分が弱い、負けたことを意味するのにすぎない。それを状況の責任帰し、自らの行為を正当化するのは卑怯なだけです。
愛は意志です。だから行為に先立つものです。女を抱くというのは、衝動的欲情なのか、
意志の問題なのか。欲情だとした瞬間、意志を否定し、自制心を否定する事になる。特に男は、その問題を突きつけられる。つまり、男は常に、強さ、意志の強さを求められるのです。その意志の強さの根源が、信仰であり、愛であり、思想なのです。だから愛を信じられない者が行為を語るのは不毛なのです。
自己善とは、自己の内部にあって自己固有の善である。倫理とは、自己の行動規範で、善と悪との基準である。善とは、積極的に行うべき基準、是認されるべき基準であり、悪とは、抑止されるべき基準、否定されるべき基準である。
この様な自己善は、絶対的規範ではなく、相対的規範である。規範は、概念であり、観念の所産だからである。観念は、その成立基盤において相対的であり、観念の所産である善も相対的である。だから、自己善も相対的である。
いきなり、尺度、善を自分の外に求めるから解らなくなる。社会正義や神の正義とは何か。それは、自らの善と照らし合わせてはじめて明らかになる。自己善が明らかでなければ、外部の尺度は推し量れない。結局、何を信じるかである。
大切なのは、自分にとってなにが正しいかで、他人にとってなにが正しいかではないはずである。自分が正しいと思うことは、自分が正しいとすれば事足りる。他人に了解を求める必要はない。
他人に同調を求める必要があるのは、一緒に生活をする必要がある場合です。一緒に仕事をする相手が嘘をついたり、又は、最後は暴力で決着すればいいとしていたり、物を盗む事を正しいとしていたら、信用しきれない。安心して仕事をすることできない。しかし、その相手が、嘘をつかないと言ったとしても無条件に信じられるであろうか。自分を欺いていないと言う保障、確証は何もないのです。それでは、相互の約束、契約は成立しない。だから、神が介在するのです。嘘をつかないと言うのは、当事者同士の約束に基づくのではなく。神との誓約に基づくというのが契約の根本思想だと山本七平は述べている。お互いが神に誓約し、その神との誓約を信じる事で結果的に約束を信じる、それが契約である。神掛けてお互いが約束をするそれが契約である。
この契約の概念を日本人は理解していない。だから、日本人は、民主主義が理解できないのだと・・・。相手は信用できなくても相手の神に対する誓約は信じられるという事です。この事で言うと、キリスト教徒とイスラム教徒との契約は成立するが、無神論者や絶対的神をもたない日本人とは、契約が成り立たないとも言えるのである。
これから、日本人が国際社会で生きていく上で心しないといけないことである。個人主義というのは、単に個人に信を置いているというのではなく。自己を確立した個人を信じるという思想です。自己のない個人は、信用されません。その自己を確立するためには、絶対普遍な何者かと対峙する必要があるのである。
裁判も同様に宣誓に基づいて行われます。法も裁判も絶対者の前で行われる必要があるのです。神の御名の下に、あるいは、神掛けて証言するのである。
最近、善悪の基準が揺らいでいる。それは、善悪の基準の基盤が揺らいでいるからである。悪をも善とする。そんな思想が流行っているが、それは、善の意味を理解していないからである。少し前は、偽善に対する批判的考えが流行ったが、それと同じ発想で偽悪をもてはやしている。その原因は、同じところにあるように思える。つまりは、善悪の基準が曖昧となり、自分の行動に自信が持てなくなった裏返しである。偽善を排し、悪党ぶる事で自分の行動の正当性を担保する。まあ、保険をかけるわけです。善悪の価値観が大きく変わり、自分のそれまでの行いが結果において悪となって時のためにである。その様なケースは、時代の変革期や戦争の直後によく起こる。それまで、忠勇愛国を善としてきた者が反体制主義者になったり、反戦主義者になったり、全体体制、軍国体制が自由体制になったり、民主体制になったときに起こる。しかし、それは、元々、善悪の基準を自己の外に置いているからである。善悪の基準は、本来純粋に自己固有の体系である。それを改めるのは、自分である。
最初から悪いと思って行う者はいない。正しいと思っているから実行できる。問題は、そこにある。全ての人間は、人殺しは悪いと思っていると考えるから解らないのである。中には、人殺しを悪いと思っていない者がいる。先ず、人殺しが悪い事だと認識させなければ、そのものを罰することができない。罰とは、そのものが悪いと認めているからできるのであり、悪いと認めなければ、ただ単なる嫌がらせか、暴力である。
自分が正しいと思っていることを、皆も正しいと信じていると思い込んでいる。嘘をついてはいけないとか、暴力はいけないと思っている者は、嘘をついたり、暴力を振るうことを正しいと思っている者がいることが解らない。
自己善は、基礎的規範、社会的規範、内的規範の三つから成る構造的体系である。この三つの規範が矛盾なく、統合されている場合は問題ないが、三つの規範に矛盾が生じると自己分裂、自己崩壊、自己喪失の危機が訪れる。
基礎的規範とは、生きていく為に必要な規範である。社会的規範とは、社会生活を営む上で必要な規範である。内的規範とは、自己実現を計る上で必要な規範である。結婚生活を維持するための、規範は、社会的規範であり、恋愛観のような思想は、内的規範である。
では自己善は、何を核として形成されていくのか。自己善の核は、自己実現と自己存在である。自己善の本質的機能、役割は、個としての自己の存在を確立し、維持、かつ、成長させることがである。倫理の目的は、社会的に生存する事である。
倫理の根本は、自分の身を護ると言う事です。つまり、自己の本質は存在である。価値観が周囲の環境、状況、社会に適合しない者は、生存できない。価値観が、適合しない者は、自分の価値観を周囲の人間に秘匿する。
私が、素裸になって、意味不明な言葉を発し、包丁を振り回せば、社会から排除、最悪、抹殺されるであろう。逆に、戦前の日本で、戦場、敵前において、反戦を叫び、武器を投げ捨てて、逃亡すれば、殺されかねない。
つまり、社会生活を営む上で必要な規範が社会的規範である。その社会的規範は、外在的な礼や法の支配下にある。その社会・世間が公の正義としている法、掟に従わないと、その社会から排除される。故に、人は、公の正義を自己の内部に取り込んで、それを社会的規範とすることで、自己善の基礎を構築する。
では、法の前提となる公の正義とは何か。公の正義は、自己善の集合体である。公の正義は、結局は、個人の正義の平均、標準に過ぎない。組織内、世間の掟は、構造的均衡である。それは、個人の力と力の葛藤を経て、均衡した状態である。つまり、所謂(いわゆる)常識、良識によって成り立っている。しかも、この良識や常識の成り立つ範囲というのは、意外と狭い範囲なのである。その上、公の正義は、普遍的、絶対的な基準ではない。相対的な基準である。さらにいえば、個人の社会的規範は、時の権力やその時の体制に靡(なび)く傾向が高いのである。つまり、社会的規範は、環境に適合するようにできている。つまり、社会的な規範は、公の正義の支配下にあると言っていい。この公の正義だけでけに依存していては、主体性は形成されない。主体性を形成するためには、自己実現のために規範が必要となる。自己実現の為の規範とは、自己を他者と区別するための、規範である。つまり、自己を自己として認識するために必要な規範である。自己実現の規範を成立させる為には、例えば罪の意識や恥の意識が重要な働きをする。
人間の行動を抑制するのは、罪悪感である。罪の意識である。罪の意識は、善より派生する。罪の意識が拡大することによって社会の秩序は形作られる。それ故に、善悪の基準は重要なのである。その基準は自己の内部になければならない。法は、自己の外にある規範である。人の行動は、法だけで律することはできない。なぜならば、法は外的基準だからである。人間の行動を律するのは、あくまでも倫理である。
対人、対物的罪から、対社会的罪へと発展する。対人、対物、対社会的罪の根源にあるのは、自己である。自己対人、自己対物、自己対社会である。根本は、罪の意識である。
日本人には、元々罪の意識が希薄である。それは、唯一神を信じないからである。神と自己との厳しい対峙の過程から自己の価値観を確立していない。だから人間は、神にも、自分にも罪の意識を感じなくなった。何に対し、誰に対し、罪を感じるのか。それが、神なき世界の闇である。それは、底なしの闇である。民主主義の根源は原罪意識である。それが日本人にはない。それ故に、真の民主主義確立できないのである。
罪の意識に変わるのが、恥の意識である。恥は、他者との人間関係の中で形成される。それ故に、他者の思惑に影響される。他者が自分のことをどの様に見ているかが、重要な要素なのである。その場合、他者の認識を正確に知ることはできない。つまり、他者の認識に囚われるというのは、実は、自分の思惑と裏腹の関係にあるのである。自分を支配しているのは、相手の考えではなく。きっとあの人は、私の噂をしているに違いない、悪口を聞いているに違いないという思い込みなのである。その様な風評にまともに受け容れれば、自分が抱く幻想に支配されてしまう。その場をリードする発言や行動がその場の雰囲気を形成し、それによって自己善が制約され、左右されるような事態も起こりうる。他者への思惑に囚われている限り、自己善は確立できないのである。
他人に迷惑をかけなければ、何をしても善い。この前提は、他人であり、他人の意志である。しかし、他人の意志など解りようもなければ、特定することもできない。そうなると自分の都合のいいところだけをかき集めれば何とでもなる。そのうえで、他人に迷惑をかけなければと言ったところで意味がない。倫理の基盤には成らない。基礎にならない物を土台にしたら、自ずと揺らぎ、不安定になる。それで価値観が多様だからというのは言い訳である。自己善は多様には成らないのである。多様にしたら、自己は分裂する。
モラルと法は、本来別物である。法は、ルールに過ぎない。モラルは、人間本来の価値観に依拠している。価値観が脆弱ならば法が価値観の上限になる。法に違反しなければ正しい。更に言えば、バレなければ善いと言う考え方に支配されやすい。価値観が脆弱だと、どうしても大勢に迎合的になったり、また、強い者に対して隷属的になる。隷属を是としたらあっという間に全体主義になる。それが法治主義の危険性である。だからこそ、法は、国家に管理されなければならない。国家は制度である。制度を有効たらしめるのは、国民一人一人の意志である。それが個人主義である。
個人主義が成就するためには、一人一人の強固な意志が前提となる。さもないと、民主主義は、すぐに衆愚政治に堕する。その為には、常に、絶対的な存在、普遍的な存在と対峙、自己の行動と規範とを厳しく検証、研鑽する必要がある。善は、自己の意志によって確立される。
保安はモラルなのである。危険物を扱っていると、保安を充分にやったから事故がないとは言い切れなし、ずさんな保安をしていても事故の起こらない会社はいくらでもある。ならば、いい加減にしていいかというとそうではない。保安は、モラルなのである。
法で決められているから保安をするわけではない。保安さえしっかりやれば、事故はなくなるか。その保障はない。しかし、事故をなくそうとする意志がなければ、事故はなくならない。そこにあるのは意志である。だから、保安はモラルなのである。そのモラルがなくなった時、歯止めがなくなり、事故を抑制しようがなくなるのである。成り行きまかせになるのである。それを、運を天に任せると言うのではない。人事を尽くして天命を待つが正しいので、最初から投げ出してしまったらおしまいである。それでは天に任せるではない。無責任なだけである。つまり、モラルがない。モラルとは、守るべき責務・規範である。
土台となる初期の価値観は、幼年期に刷り込まれる。だから、幼児教育が重要なのである。それと人間存在の様式、自己の定義によって価値体系は構造的に形成される。しかし、善と悪とは、自己の領域の問題であり、他者が介在する余地はない。社会正義というのは、自己善の延長線上にあるが、基本的には、社会正義は、自己善を下にした契約関係に過ぎない。それが個人主義であり、民主主義である。
ただ、自己善は、利己主義ではなく。人間の有り様自体に構造的に内包されている。
最初の善は、生存に必要な最低限の事である。生まれたばかりの時は、一人では生きていけない。赤ん坊は、母親にすがる事、服従する事が正しいのである。そうしなければ生きていけない。母親は、絶対者のごとく赤ん坊に接する。それが真実である。その時に、初期の価値観が刷り込まれる。
僕は、初期の価値観は、シンプルな方がいいと思っている。最初から複雑な考え方、例外的なことを一遍に教えるとあたら混乱を引き起こすだけである。その価値観が行動として現れた時、それが、相互作用として、自己の外界と内面に働きかける。その結果を絶え間なくフィードバックバックして複雑な価値体系、構造を構築していく。
人生はその過程である。最初から複雑な体系だと、体系そのものの強度が保てなくなり、結局は破綻してしまう。つまり、価値体系の分裂を引き起こし、自己喪失、自己破綻、自己分裂、自己否定を引き起こす。根本は自己なのである。
人間は、すぐに意義や意味を考る。意義や意味というのは、自己の側の問題であって、神の側の問題ではない。それなのに、自分がひどいことと考えることがあると、何か、罰して欲しいと考える。だから、自分にとって悪いことをした者がひどい死に方をすると天罰だと思いたがるのである。でも、死と言う事を考えると戦争で死ぬのも、病気で死ぬのも、事故で死ぬのも、自殺するのも、災害で死ぬのも、処刑されて死ぬのも、同じ死なのである。
平等というのは、そう考えると非情なものである。死そのものに価値観を持ち込むのは、自分なのである。でも、死の前に人は、無情なほど平等なのです。この平等さの背後に私は神を見出す。
沢山の犠牲者がでるから、戦争は嫌だというのならば、戦争の意味はわからない。戦争を賛美するものの存在が解らない。戦争を反対する者から見ると、戦争が悪いというのは、自明なことのように思える。しかし、戦争を賛美するものは沢山いるのである。その証拠にどれ程多くの戦争映画やアクション映画があるか。それに、現代の日本では、戦争で死ぬものより、交通事故で死ぬ者の方が多い。ならば、自動車の存在は悪なのか。死者の数で善悪は判断できない。
ならば、どんな生き方をしても良いではないかではないのである。だからこそ、自分の意志が問われるのだ。自分にとっての正しさである。あなたは、今の生き方で良いのですかというと言う問い掛けなのである。つまり、正しい生き方をするのは、自分の為なのです。だから一切の妥協ができない。自分の生き方に対する責任は、自分にしかない。苦しみの根源は自分にあるのである。自分が正しいと信じる事のできる生き方ができないから苦しむのである。常に、今の自分の生き方が正しいと信じられるのならば、人はいつ死んでも悔いないはずである。なぜならば、その時、死は結果でしかないからである。
善と悪とは、死の側にあるのではなく。死を受け止める自分の側にある。神は、ある意味で死神である。