計画の論理

 子供達や仲間と旅行する時に我々は決まって計画を立てる。仕事を任せられたら、計画を立てなければ、責任を果たすことができない。家を建てる時には、設計図なしでは、何もできない。施工の際には、図面だけでは立ち行かなくなる。スポーツ大会を開催しようと思ったら、主催する者も、参加する者も何等かの計画がなければ成功することを期待する事はできない。

 我々の生活では、計画は不可欠なものである。ところがこの計画が何気なくされていて論理的になされていないケースが多くある。そして、その計画性のなさ、無計画さが結局、我々の生活や仕事に重大な支障になっている場合が多い。それなのに、多くの人は計画の重要性を自覚していない。計画なんて、適当に作ればいいとか、作文に過ぎないとか、外向けに、外部の者に説明するためにとりあえず作っておく。所詮、計画は、計画さ。現実とは違うのだと嘯(うそぶ)く。
 そういう者に限って計画は、計画、実施する時は、全く違った考えや、やり方で実行する。その結果失敗する。失敗すると計画の性にする。
 無計画というのは、無責任の代名詞でもある。契約社会である欧米においては、計画に沿って仕事をするというのは、道義的問題でもある。
 この様に一方において、計画を軽視しているのに、一度計画や予算を立てるとそれに固執して失敗を招く。いずれにしても、論理的でないのである。計画を軽視する者も、計画に固執する者も、根本的には、計画の本質を理解していない。
 計画は、論理的なものである。ある一定の約束、規則に従って、一つ一つの作業を組み合わせ、組み立てる。そして、評価も最初に立てた計画と対比することによってなされる。更に言えば、計画は、見積もりや予算の基礎資料ともなる。計画の論理をきちんと理解することが今の日本人には求められている。

 約束事や規則をしっかりと覚えていなければ、計画は机上の空論、絵に描いた餅になる。

 計画には、段階や階層がある。概念設計、基本計画、実施(詳細)計画、予実績管理、評価という順で進む。段取り、手筈、用意、実行、始末と言う考え方もある。また、序盤、中盤、終盤という見方も・・・。とにかく、計画は、枠組みや段取りが基本なのである。
 この手順、段取りには、いろいろな異論がある。しかし、その一つ一つの考え方のどれが正しくて、どれが間違っているかという論評はここではしない。ただ、計画には、段階や階層があるという事だけを覚えていて欲しい。つまり、計画には、ある程度、枠組みが必要だと言う事である。その枠が三つが良いか、二つが良いかは、ハッキリ言って企画者の感性、センスの問題である。将棋や麻雀に決まり手がないようにである。
 とりあえずここでは、概念設計、基本計画、実施計画、予実績管理、評価という流れで計画の概要を述べたいと思う。それによって計画の論理性を明らかにしたい。

 計画は、計画の目的、方針、基本原則などを予め明らかにしておかないと立てられない。計画を立てると言うのは、基本的には、作業の組み立てである。作業の組み立ては、計画の全体像を予め想定しておかなければできない。この計画の全体像を想定するのが、概念設計である。

 その概念設計によって、計画の全体像の枠組みや骨組みをして、大枠や骨組みを作る。大枠や骨組みによって仕事のを分類し、分類に従って仕事を仕切る。その仕切りに基づいて段取りをする。段取りに基づいて当面の、または、段階毎の作業目標を設定する。それが基本計画である。計画は、この過程で実務的に段階化し、階層化する。

 次に、段階や目標毎に仕切られた仕事を単位作業に分割する。その作業を順番に並べて、計画の概要を決める。同時に、計画を実施するための陣容、組織を定め、作業を、組織原則に則って各人に割り振る。その上で作業日程を作成する。単位作業に分割すると言うのは、具体的には、作業の洗い出しを意味する。計画は、この過程で組織を形成する。
 この間に必要に応じて要員の教育を併せてする。

 単位作業は、作業時間、作業内容、作業工数によって決められる。単位作業は、基本動作を組み合わせた体系である。基本動作の種類は、そんなに沢山あるわけではなく。類型化しうる範囲である。要は、組み合わせであり、それ故に論理的だといえるのである。

 計画は、観念である。言葉である。抽象である。故に、そのままでは具現化できない。その観念を具体化、具現化するためには、概念を作業化する必要がある。作業として実体化するためには、個々の作業の成果を実体化する必要がある。つまり、作業の結果、成果を物質化、視覚化することによって、観念を作業に置き換え顕現するのである。
 例えば、実施した作業を報告書に文書化するとか、自分の考えを企画書という形で文書化する。そして、企画という観念を企画書の作成という作業に置き換えて実体化するという手続きである。または、調査とか分析と言う観念的仕事を調査書をまとめるとか、分析書を作るとか言う形で実体化する。それによって調査に関係する作業を洗い出す。この様に観念を作業に置き換え、その作業を組み立てることで計画の論理は形成される。

 単位作業が割り出されたら、次に準備作業を組織的に開始する。実施作業には、調査作業や前処理作業も一部含まれる。調査作業や前処理作業は、各段階毎に個別に実施される場合と一括的に実施される場合がある。いずれにしてもこれらの構想は、概念設計の中で織り込まれる。

 また、計画の段階毎に組織体制は変化する。概念設計中には、企画立案のための組織体制が必要とされる。準備段階中は、準備のための組織体制が要求される。実施期間中は、実施部隊の編成が必要となる。この様に、計画の過程で組織は、丁度、昆虫が脱皮変態を繰り返すように組織体制を変化させていく。組織は、一つではないのである。それを錯覚し、一つの組織しか設定しなければ、計画は、たちまち頓挫(とんざ)する。

 個々の作業の前後には、打ち合わせ、会議、指示、命令、連絡といった繋(つな)ぎや調整の作業を介在させる。所謂(いわゆる)接続詞である。それによって作業間の整合性をとるのである。

 作業と作業の繋ぎ目、接続部分は、計画を立案する上での鍵となる。この部分は、定型化したり、共有化する事によって部品化できる部分でもある。

 繋ぎ目を会議体とするのか、それとも、通常の命令系統とするのか。更に、その中に、判定、決定業務を含むまれているのかどうか。それが重要である。いずれにしても繋ぎ目、接続部分は、部品化しておく必要がある。

 計画を視覚化したものとしては、パート・コスト、ガントチャートなどが有名である。

 また、パート・コストは、単位作業をイベントとアクティビティに集約化している。イベントとは、接合点、節目の作業であり、アクティビティとは、過程の作業である。

 計画が貨幣的価値によって表現されたものが予算である。つまり、予算も計画の一種、又は、一部なのである。
 貨幣経済下においては、計画は、予算によって裏付けられることによって効力を発揮する。逆に、予算をコントロールすることで、計画を実質的に支配することもできる。戦前の軍縮は、好例である。

 計画は、恣意的なものである。天然自然に出来上がるものではない。つまり、計画の原則というのは、自然の法則とは違い。人為的なものである。故に、基本的には、事前の契約か合議による合意に基づかなければならない。

 統制者は、計画を絶対的なもの、守らなければならない規律のようなものとして計画を活用しようとする。つまり、計画を統制のための道具にしようとするのである。計画が絶対的なものだとしたら、統制者にとって計画は、最大の武器となる。それが計画経済であり、統制経済、全体主義なのである。

 計画は、相対的な構造物である。計画は、絶対化された瞬間にその効力を失う。計画は、元々観念の所産なのである。観念は、相対的なものである。計画は、人間が創り出すもの、神の側のものではない。計画に絶対という基準はないのである。

 計画を統制の道具としてみるようになると計画は硬直的なものになる。しかし、計画は、硬直化したとたんその本来の機能を失う。修正や変更の利かない計画は、計画としての用をなさないのである。計画は、必ずしも硬直的にものではなく、むしろ、状況に合わせて柔軟に動くものである。

 計画は、実績が出る前に立てられるものである。しかし、計画の評価は、実績に基づいて行われる。計画は、最終的に実績に結びつけられる。問題なのは、過程である。計画は、実績によって変更、修正することが可能なのかである。

 計画と実績を切り離して考えようとするやり方と計画と実績を関連づけて考えるやり方がある。前者の典型が俗に言うお役所仕事である。

 確かに、計画は、計画。実績は、実績。そう言う捉え方もある。しかし、計画は、実績、現実と結びつけられてこそ意味がある。
 計画は、観念。実績は、現実である。計画によってだけでは目的を実現する事は困難である。計画も一種の機構、仕組みである。変更や修正の不可能な計画は、本来、計画の名に値しない。
 予実績管理こそが計画の成否の鍵を最後に握るのである。時と場合によっては、計画そのものを放棄する決定も下さなければならない。

 計画と、予測とは異質なものである。計画と予測とは違う。しかし、両者の関係は、相互補完的関係である。排反的関係、対立的関係ではない。計画は、基本的に予測によって立てられるものである。予測の精度によって、計画の精度も決まる。
 この事前の予測と計画が結びつかなかったり、いい加減な予測に基づいた場合、計画の精度、信頼性は著しく低下する。それによって、計画は、計画といったずさんな考え方が入るのである。

 予測の精度を上げるのは、客観性である。そこに客観性の重視がある。しかし、いずれにしても予測には、主観が入り込む。と言うよりも予測は、最終的な段階で人間の主観に委ねられるのである。問題は、客観性よりも人間のエゴである。むしろ、客観性の問題と言うよりもモラルの問題である。その点を曖昧にしている限り、計画は、計画本来、当初の目的を達成することが困難である。計画の本質はモラルの問題である。




        


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