近代医学が発達する以前、つまり、解剖学が発達して人間の体の仕組みが解明される以前でも、人間の体の仕組みは、同じであった。人間の認識が変わったに過ぎない。
人間の仕組みが解らなかったからといって、何もできなかったというわけではない。漢方医学やそれなりの民間療法は存在したのである。
また、生病老死という根本の問題が全て克服されたわけでもない。人間は、いくら医学が発達しても、死ぬ時には、死ぬのである。死後の世界が解明されていない以上、結局何も解明されていないに等しい。
現代でも人間の認識は、途上にある。不完全なものである。
論理の前提は、直感によって認識するしかない。論理的前提というのを突き詰めていくと、結局、直観的認識至る。最初の認識は、直感によってなされる以外にないのである。それを最も端的に表しているのが、科学である。
科学的論理の前提は、実存、実在を根拠とする。つまり、目に見える対象を前提として成り立っている。目に見えると言う事を敷延すれば、五感によって認識できる対象である。この事は、科学は、五感による直接的認識を前提としていることを意味する。
更に言えば、論理は飛躍する。論理的命題は、一つ、一つが独立していて完結している。この命題を対応させていくためには、一つ一つの命題を飛躍させなければならない。そして、個々の命題間に矛盾があるか、ないかを検証しているのである。この矛盾の有無は、直感によってなされる。
論理は飛躍する。その隙間を埋めるのは、実体・対象である。それは、数学的論理、科学的論理も変わりない。演繹法も、帰納法も、弁証法も結局は、飛躍するのである。
この点に多くの人が気がついていない。気がつかずに、論理を絶対視し、その延長線上で科学を絶対視する。
科学は、公理主義である。公理とは、相互に矛盾しない複数の命題によって構成される集合体である。ところがこの相互に矛盾しないと言うのが問題なのである。矛盾しないと言うのは、論理的にという意味であり、命題間において矛盾していなければいいのである。つまり、並立しえればいいのである。
矛盾していなければ、真なのかと言えばそうとも言い切れない。ただ、矛盾していない方が、論理的な飛躍が少ないというにすぎない。この点を誤ると、科学万能主義に汚染される。
科学の大前提、少なくとも物理学の大前提は、論理は、絶対ではなく、対象、現象が絶対なのである。
科学的論理の特徴の一つは、数学的論理を基礎としていることである。数学的な論理によって論理の無矛盾性を保障している。しかし、これは、論理の正当性を保障したものではない。ただ単に論理上の無矛盾性を保障しているに過ぎない。
それを補っているのが、実証性である。つまり、科学は、数学的な論理と、実証性とによって裏付けられた論理体系である。
科学主義というのは、現実主義であり、写実主義である。最初の認識は、あのがままに受け容れる。綺麗なものも汚いものもあるがままにとりあえずは受け容れる。それが科学である。そこには、理想主義や創造主義は、入り込めない。それは、それで正しい。しかし、それだけになってしまうと、そこには、価値というものが入り込めなくなる。理想や夢は幻になってしまう。
ドンキホーテは、永遠の理想主義者と言われる。ラマンチャの男は、それをミュージカル化したものだが、その中で、作者は、ドンホーテに「私をあなた方は狂っているという。では、あなた方はどうなのか。何を狂気と言い、何を正常というのか。この世の中に正常な者などいるのか。皆、狂っている。皆、狂人というのならば同じ狂気の中で何が許せないのか。それは、在るがままの世界を在るがままに受け容れ仕方がないと諦めていく狂気だ。」と言わせている。
現実主義者は、目に見える対象しか信じない。その背後にいる神や真理を信じようといない。その傲慢さが、科学の狂気を生んだのではないのか。今や人間は、自分達が作り出した狂気に怯えている。核兵器や温暖化、環境汚染はその象徴である。
科学は、不可知なものをとりあえず排除することによって成り立っている。つまり、目に見えないものは対象としないのである。目に見える対象から推測し得るものだけを対象としているのであって、それ以外の対象を真とも、偽ともしていないのである。
例えば、神とか、超自然と言ったものを対象としていないのである。なぜか、それは、不可知な対象だからである。それ故に、神とか超自然現象を偽とも真ともしていない。それは、科学の対象外だとしているに過ぎない。
つまり、科学は、万能どころか、最初から自分の限界を設定しているのである。科学、不完全なものである。そして、その対象外としているものの中に人間の道徳や神の存在も含まれているのである。
十人が十人、なんだ当たり前なことではないかと思うことがあったら、それが、真理である。でも当たり前な事は、つまらない、くだらないことだと軽視する傾向があるから深遠なる真理だと誰も気がつかない。気がついたとしても真理だとは思えない。そこでつい難しい言葉を使ったり、難解な表現をしてしまう。しかし、真理というのは、ごく当たり前なことなのである。その当たり前なことの上に成立しているのが科学である。