勝負の論理


 スポーツやゲームの世界は、基本的に勝負の世界である。確かに、引き分けはあるが、基本的には、勝つか負けるかの二つしかない。

 戦後の日本で何が悪いのかと言えば、考えてから決めろと教え込んだことである。その為に、戦後の日本人は、決断力がなくなった。考えたら決められないのである。
 どうとたらいいか解らないから決められないと言うのはおかしい。どうしてよいか解らない状況が先ずある。そして、決められないと言う状態がある。これは別である。どうしたらいいか解らないと言うのは、常態である。常の状況である。だから、別に不思議はない。問題は、決められないと言う状態なのである。これは意志の問題である。つまり、どうしていいか解らない状況で決めていかなければならない。それが状態なのである。全ての結論、結果が出そろってからでは、決めるというのは、論理矛盾である。つまり、全ての結論が出たら決める必要がないからである。それは、何もかもが決まってから決めるというのに等しい。解らないからこそ、決断が必要なのである。最終的な決断というのは、細々とした決断の集積した結果なのである。全ての条件が揃ってからでは、遅いのである。旅行の計画を例にすれば、あらゆる事が決まってから旅行へ行くのを決めるのでは、何も決められないのである。旅行に行くことを決まっているから、行く先や日程が決まるのである。あらゆる行動は、決断に基づかなければならない。決断に基づいて行動するのである。子供ができてから好きになるわけではない。愛しているから子供ができるのである。そうでなければ責任はとれない。決断を教えないから、無責任な行動、衝動的な行動が増えるのである。

 意思決定とは、論理的飛躍である。決断は、直感によってなされる。故に、決断力を付けるのは経験主義的な教育である。
 決断を身につけるためには、経験が必要である。決断力は、論理的には、身に付かない経験的に身につけるものであり、故に、スポーツは、基本的にトレーニングであり、訓練であり、練習であり、修業である。
 決断とは、決して断じることである。
 それが勝負の論理である。しかし、勝負にかかわらず論理は、常に飛躍する。飛躍のない論理はない。論理的に結論を出したから、決断がないとか、飛躍がないというのは錯覚に過ぎない。

 スポーツは、決断の塊(かたまり)である。仕事も決断の塊(かたまり)である。野球で言えば、投手の場合、ボールを投げる数だけ最低限でも決断がある。一々考え込んでいたら決断はできない。
 決断は、一瞬でできる。決断は、直観的にするものである。理屈でするものではない。決断は、飛躍である。論理は、飛躍である。一行一行、飛躍していくのである。論理は、不連続なものである。一対一の対応というのは、一つ一つを検証し、一つから次の一つに飛躍することを意味する。一つ一つが必ずしも同一であると言う事を意味するのではない。同一ではなく、同等、等しいことを意味するのである。一つ一つは、それ自体単独に、独立し、完結している場合が多い。
 つまりは、一対一対応というのは、一つ一つの積み上げを意味するのである。
 そして、間違いは経験的に修正し、訂正していく。やってしまった事、起きてしまったことは、事実として受け容れていく以外にない。やってない事、なかった事にはできないのである。その為には、過ちは、過ちとして受け止め、それをその後どう対処、処理していくかを問題とすべきなのである。
 その為には、自らが、自らの意志で決断することが大前提となる。特に、男は、自分の決断、意志なくして、性的行為を行うことはできない。女性は、暴力によって自分の意志、決断と関係なく、性的関係を強いられることがあり得る。だからこそ、男は、男女関係において常に責任が問われるのである。男にとって決断なくして行動はあり得ないし、許されない。それが責任の原点である。この一事を忘れて、男女の平等を言ってもはじまらない。男は、常に、自分の行動に責任を持たなければならないし、責任があるのである。それは、男は、性行為に対して自らの意志による事実からである。相手に強要されたという言い訳は許されないのである。
 決断は修練である。道徳は、信念である。つまり、意思決定は、その時、その瞬間、自分の信念の基に直観的に下されるものである。その為に自らを経験によって磨き、信念を固めるのである。それが勝負事の基本である。

 決断とは、決して断じるのである。

 一球入魂。

 意思決定不能というのが最も危険なのである。とにかく決める。決めてから行動する。考えるというのも行動の一種。決めておけば、訂正も修正も止めることもできる。何も決めずに考えれば、何も決まっていないのだから、訂正も、修正も、止めることもできない。それは、何も考えていないのと同じである。

 決断は、始まりである。終わりではない。仕事は、決めてから始まる。ところが戦後生まれの人間は、とかく決めたら仕事は終わると錯覚している。結婚は、結婚すると決めてから、沢山の仕事が始まるのである。野球で投手は、何を投げるかを決めてから投球動作にはいる。何を投げるかを決めずに投球動作にはいることはない。逆に言えば、決めなければ、始まらないのである。
 優柔不断は、最大の誤判断である。意思決定不能に陥ることは、致命的な状況になることである。判断不能・パニックになるからである。判断不能に陥った時、人は、突飛な行動、過激な行動、最悪の判断を下しがちである。それは何をしていいか解らないうえ、決断が付かないからである。出口のない状態になるからである。善悪の判断も付かない状態になるからである。決断力こそ最後の砦である。
 それを考えてから決めろ。考えてから決めろと戦後、繰り返し教え込んだ。その為に、多くの若者は、意思決定不能状態に陥ったのである。
 決断力こそ勝負の論理の本質である。イエスかノーか。答えは、二つに一つ。それを選択していくのが、勝負の論理である。勝負の論理は、二進法なのである。それがシステムの論理へと発展していく。
 決めたからと言って結果が分かるわけではない。決断は、動機であり、原因である。因果の法則である。原因があって結果がある。原因がなければ結果は生じない。決断するから行動がある。決しなければ行動はない。少なくとも意志はない。ところが現代社会では、そのあり得ないことが往々にある。決断に変わるもの、それは衝動である。考えて決めろ。考えて決めろと決断力を鈍らせ、最近、衝動的行動が多いと責めるのはお門違いである。自分達の教育の成果だからである。確実に決断力がなくなった。
 その点、スポーツには、必ず決断が先行する。はじめの宣言なくしてスポーツは、始まらないのである。始めると決め、宣言をしなければ、公式の試合は始まらないのである。それがルールであり、そこにルールがある。だから、単純明快なのである。自分の意志がなければ始まらないのである。

 決断せよ。そして、責任を考えろ。決めろ。そして考えろ。

 武士は、二本差しという。武士道の象徴は、日本刀である。武士は、常に、いつでも、何処でも抜刀する覚悟で事に臨まなければならなかった。だから、自制する。それが武士である。
 やり直しがきくと思うから失敗するのである。やり直すことを考える前に、やり抜く事を考えなければならない。勝負においては、先ず、勝つことを考えるべきなのである。勝負に臨む前から負けることばかり考えたら、勝負にならない。先ず勝つことである。結婚は、一生の大事である。駄目になったら別れればいいなどと言う安易な気持ちで結婚を考えるべきではない。既に、無責任である。そこにあるのは決断である。だから、結婚式という儀式を盛大に行い、純潔を重んじるのである。真剣に、真面目にである。
 決断を軽んじたが故に、真剣さも、真面目さも失われてしまった。何事に対しても、いい加減で、不真面目なのである。安易に結婚し、安易に離婚するのである。一生責任を持つのが結婚である。やり遂げるのである。添い遂げる覚悟が必要なのである。大切なのは覚悟である。覚悟ないままに結婚なんてすべきではない。貫徹である。やり抜く覚悟があれば、やり直しもできる。やり抜く覚悟のない者に、やり直しなんてやりようがない。真剣に愛して、真面目に付き合うのである。

 決断しろ。そして、覚悟しろ。決断しろ。そして、責任をとれ。

 覚悟して。覚悟して。そして、決めて。決めて。やり抜くのである。勝負なのである。それこそが、勝負の論理である。勝つか負けるか、二つに一つ、それが勝負の論理である。

 決断こそがスポーツ精神の根源である。そして、決断こそが、勝負の論理の本質である。




        


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