経済の論理

 経済は、生活である。信仰も生活である。故に、経済と信仰は、不離不可分の関係にある。

 現代資本主義経済は、消費型経済である。大量生産、大量消費の経済である。全てが消費を促すように作用している。それが資本主義、市場経済体制である。貯蓄や蓄積は、悪だと言わんばかり、税制も社会制度も消費を促している。将に現代は、消費型経済ただ中にあるのである。
 現代経済を支配するのは、消費である。

 質素倹約は、真っ向から否定されてしまう。かつての美徳が通用しなくなった。それが、市場経済である。消費と言うより、浪費は美徳なのである。その浪費は、人々の欲望に支えられている。だから、消費型経済は、欲望の経済でもある。

 政治とは、ある意味で消費である。財政は、使うこと、消費することで成立している。政治都市というのは、消費地であり、消費地である故に成り立っている。それが、証拠である。

 消費が経済の源だからである。そして、欲望は、エネルギーである。故に、消費型経済は、欲望経済でもある。つまり、貪欲な経済である。
 消費を支えるために、市場経済は、際限なく欲望を刺激し続ける。自制心や抑制は、邪魔なのである。消費型経済が行き着く先は、麻薬型経済。つまり、強い刺激に通常の感覚は麻痺し、より強い刺激を求めるようになる。そして、刺激がなければいられなくなる。即ち、中毒である。消費型経済は、いろいろな中毒を引き起こす。

 消費型経済の中で貧困の意味が変わってきた。
 経済問題の中で、常に、重大な要素の一つは、貧困の存在である。それは、現代でも変わりない。貧困の意味が、自由、時代や地域によって変わってきている。なぜならば、貧困の基準は、絶対的なものではなく。相対的なものだからである。
 現代人の多くは、自分達の生活がかつての王侯貴族の生活と見紛(みまが)うばかりであることに気がついていない。この贅沢な生活を維持するために、壮大な消費、考えようによっては、無駄が生じていることに気がついてない。現代は、飽食の時代である。
 この様な消費型経済の中での貧困とは、精神の貧困である。つまり、精神の飢餓が引き起こす貧困である。かつては、物質的な貧困が主だった。つまり、実際に食べられないが故の貧困だった。それに対し、現代の貧困は、精神的に充たされないが故に引き起こされる貧困である。貧困の意味が根本的に変わってしまったのである。

 麻薬は、クスリを手に入れるためには、親でも、子でも犠牲にする。物質的な貧困は、自分を犠牲にして、家族を守ろうとする。現代人の貧困は、心の貧しさに起因する。その心の貧しさを生み出しているのが、欲望である。その根本は、消費型経済にある。消費が悪いというのではない。無原則な消費が悪いのである。それは、消費型経済ほど、原則、そして、社会構造が重要であることを意味している。

 資本主義経済は、所有の経済でもある。
 神は、所有せず。故に、人が所有する。所有という概念は、人間の認識力の限界によってもたらされる。
 人間は、対象を分かつことによって対象を認識・識別する。そして、自己と他者とを分別する。自己の側にある物を自分の物とし、他者の側にある物を他人の物とする。それが所有の概念の根本である。

 所有は、占有である。土地も占有していれば、所有権が生じてくる。国家でも、公共地でも、占有を許せば、所有権が生じるのである。一旦、所有権が生じてしまうと、それを取り戻すことは難しい。所有は、占有なのである。この事を理解しないと、領土問題は、解決できない。

 所有の概念は、消費と矛盾する部分を持つ。つまり、貯蓄や蓄積に消費は否定的に作用することがあるからである。消費は、所有の否定でもある。つまり、所有と、所有の否定の相互作用によって市場経済は成り立っている。

 この所有も欲望によって支えられている。つまり、所有の経済も欲望の経済である。つまり、市場経済には、所有と消費という両面から、欲望が、二重に作用しているのである。将に、資本主義、市場経済は、欲望によって成り立っているのである。この様に欲望によって成り立っている以上、欲望を野放しにすることは危険である。つまり、抑止、抑制が重要な課題となる。
 エネルギーは、活用の仕方によっては、極めて有効な物である。しかし、エネルギー源は、危険なものが多い。ガスにしろ、石油にしろ、原子力にしろ、それ自体を野放しにすれば危険な物である。エネルギーは、制御する装置があってはじめて活用できる。それ故に、市場経済、資本主義経済は、構造、制度が重要なのである。

 詰まるところ、経済の活力、エネルギーは、欲望である。生活の本源は、欲望である。だから、経済の主要なテーマは、欲望をいかに制御し、抑制するかである。だからこそ、経済には信仰が必要なのである。
 経済は、最終的には、モラルの問題に行き着く。

 経済の仕組みは、合目的的なものである。必然的に経済政策も合目的的なものである。経済の仕組みの目的の根本は、分配にある。故に、経済政策の基本は、公平な分配の実現であり、その為の再分配である。極端な財の遍在やハイパーインフレや恐慌は、経済政策の失敗とシステムの破綻によってもたらされる。つまり、経済の目的からの逸脱である。財の遍在やハイパーインフレ、恐慌を避けるためには、経済目的を明らかにすると同時に確認をする必要がある。また、国家観や国家構想がなければ、経済の長期的目標を実現することができない。と言うよりも、最初から目標が存在しない。どの様な国を目指すのかに対する国民的合意の形成こそ経済目的の実現に不可欠な要素なのである。

 財政問題もこの分配の問題から考えられるべき問題である。つまり、財政は、公正な分配を促すための再分配の手段の一つである。だからこそ、財政部門と非財政部門との経済的連続性が重視されるのである。その為には、財政規模は、絶対額ではなく、相対的な基準に基づかなければ確定しない。故に、水準と比率が重要な鍵を握ってくるのである。公務員給与の額は、それ単独で確定するのではなく、民間企業の給与水準との整合性がなければ確定できないのである。さもなければ、公正な分配という経済目的を逸脱してしまう。しかし、だからと言って無原則に民間企業の賃金ベースを参考にするわけにはいかない。故に、民間と同じルール即ち会計原則に則る必要があるのである。

 政策には、意図が大切なのである。つまり、どの様な状況にしようとしたのかである。結果的にこうなってしまったでは、政策担当者とはしては資格である。長期的なビジョンに基づいて、ある程度、予測の上に立って政策を立案する必要がある。
 
 経常収支のアンバランスを是正する円高になる。円高不況を避けるために、低金利政策をとる。低金利政策をとったために、地価や株かが暴騰する。地価や株価の暴騰によって引き起こされたバブルを抑制するために、地価対策と高金利政策がとられる。地価対策と高金利政策によってデフレになり不良債権が派生する。デフレや不良債権対策として低金利政策がとられるといった具合に現象を後追いする政策では、問題の抜本的解決には結びつかない。この様な場当たり的な政策によって財政赤字が拡大して、ますます、政策の選択肢の幅を狭める結果を招いている。

 金融再編が一段落ついた。結果的には、幾つかのメガバンクに収斂してきた。多くの銀行が淘汰された。また、大手の証券会社、幾つか清算された。有名なのは、山一証券と三洋証券である。問題なのは、最初から、金融政策、金融行政を担ってきた者が、この状況を望んでいたのかである。自分の行った政策の結果、こうなったでは済まされない。
 教育は、合目的的なものである。自分達は、どの様な目的で、どの様な人間を育てようとして、どの様な教育をすべきかが、明らかにされなければならない。少なくとも、教育行政を担う者は、教育に対する考え方、国家、社会に対する構想を明らかにする責務がある。同様に、経済行政を担う者も、どの様な国家社会にするかを予め明らかにする責任がある。やった結果、こうなってしまったというのは、無責任である。
 金融再編は、銀行の自己資本率という制度的拘束率があり、それに低金利政策、不良債権問題、株価や地価の下落(地価や株価の抑制政策)、税効果、減損会計と言った会計制度の変更があった。それが、貸し渋りという現象を引き起こし。
 企業家の目的は、一見、利益の追求に見られているが、内実は、資金調達である。これは、銀行経営者もしかりである。資金調達の途を閉ざされれば、経営は成り立たない。自己資本率に対する規制は、この資金調達に直接的に結びついている。また、資金の供給というのは、金融機関の主たる業務である。故にも金融機関に自己資本規制をかければ、結果は予め予測が付く。

 経済制度も経済政策も合目的的であり、複合的で、構造的な効果を発揮する。それ故に、どの政策がどの様な経済的効果を与え、経済現象を引き起こしたかを、常に、検証する必要がある。特に、どの産業にどの様な形で現れたのか、それを会計上、損益構造、貸借構造のどの部位に現れたかを解明していく必要がある。

 経済政策に使われるのは、第一に、金利。第二に、金融政策。第三に、国債。第四に、公共投資。第五に、為替政策。第六に、規制(カルテル、地価)。第七に、税制。第八に、会計制度の変更などがある。

 外的な要因には、湾岸戦争のような政治的危機が挙げられる。第二に、ニクソンショックの様な貨幣制度、為替政策の変更。第三に、オイルショックのような急激な資源、エネルギー価格の変動などがある。
 財政上の問題は、赤字国債の発行や財政赤字などがある。

 競争の原理をあたかも、所与の原理、自然の法則のように捉え、何が何でも競争の原理に委ねればいいと言うのは、暴論である。競争原理は、何でも解決する特効薬のようなものではない。その様な考え方は、短絡的で、安直的すぎる。
 経済政策というのは、合目的的なものでなければならない。市場が停滞してきたから競争原理を導入し、企業の効率を高めたいとか、不況で企業の体力が弱ってきたので、カルテルを結ばせ、体力を付けさせようと言ったようにである。いずれにせよ、競争力を付けさせると言う目的は変わりないのである。状況が変わっただけである。

 規制緩和をあたかも万能薬のようにもてはやす傾向が現在ある。しかし、市場の原理を導入すれば、何でもよくなると言うのは、短絡的な発想である。なぜ、規制を緩和するのか。規制を緩和すれば、競争力はつくのか。それは、戦争をしない軍隊は、弱い、だから、戦争をしなければという議論に似ている。規制を緩和するには、規制を緩和するなりの目的がある。それと同時にその前提がある。規制が強くて自由な経済を妨げられることもあれば、過当競争によって必要な資源を削がれ、競争力を低下させることもあるのである。規制を緩和させるかどうかは、環境や状況、条件によって違ってくるのである。前提となる環境や状況、条件を無視してただ、何が何でも、やみくもに規制を取り除けばいいと言うのは、乱暴な話である。粗雑な議論である。
 市場の原理を導入すれば、競争力や技術力、開発力がつくとは、限らないのである。




        


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