市場の論理

 市場原理主義者は、市場の原理に委ねれば、経済はうまく均衡すると主張する。ならば、その市場の原理とは何か。彼等は、市場の原理とは、競争の原理だという。故に、公正な競争を維持できるように、規制を緩和すればいいと言う。しかし、公正な競争なんて未だかつて市場で実現されたためしはない。無原則に競争をさせたら、市場は淘汰され、寡占独占状態に陥り、競争の原理は有効に機能しなくなる。だいたい、市場は作用している原理は、競争の原理なんかではない。
 市場に働いているのは、競争の原理ではない。闘争の原理である。闘争の原理だから、市場は、寡占化し、独占化するのが防げない。

 市場とは、一定の法則を与えられた人為的な場である。市場は、論理的な法則によって形成された人為的空間、場である。市場の法則は、人為的なもので、普遍的な法則ではない。市場の法則は基本的には、契約によって成り立っている。
 市場は、人為的な場である。自然法則によって生み出された場ではない。つまり、所与の法則ではない。市場の法則は、後天的な法則である。市場の法は、基本的には任意な法則であり、普遍的な法則ではない。市場の法則は、相対的であり、絶対的ではない。

 市場は、人為的な場である。つまり、市場を形成する人間や機関の意志や思想によって市場の在り方は変わってくるのである。市場の法則を決定する要素には、歴史的要素、地理的要素、体制的要素、産業の属性から来る要素などが考えられる。しかも、一つの国の中でも市場に働く原理は、市場毎に違うのである。
 個々の市場は、それぞれ個々の市場固有の論理で動いている。必ずしも同一の論理に市場は支配されているわけではない。例えば、一次産業か、二次産業か、三次産業か、鮮度を要求される商品なのか、保存がきくのか、加工品か、原材料か、装置産業か、受注産業か、同じ商品でも市場の在り方は違ってくる。

 政治体制の違いも働く。国毎によって政策や思想の違いから市場に対する規制や制度が違うのである。また、人件費を不当に安く抑え込んでいる国もある。また、全体主義的な国と自由主義的国とでは、同じ市場でも現れる現象は、違ってくる。

 市場は、需要と供給を調整する場である。また、経済的、主として貨幣的価値を生成し、裁定する場である。また、市場は、物流の場でもある。むろん、金融市場や労働市場のように必ずしも物流を伴わない市場もある。しかし、いずれにしても何等かのフロー、流れを生み出し、調整する場である。つまり、経済の循環を促し、司る場である。言うならば、経済の循環器である。その意味で市場は、経済において重大な機能を果たしている。市場が上手く機能しないと、経済は、停滞し、変調し、最悪の場合破綻する。それだけ市場は、現在の経済機構の中枢的な場である。しかし、だからといって経済の全てではない。重要だが部分であって全体ではない。

 市場では、一旦全ての価値を交換価値に変換し、その交換価値を貨幣価値に還元する。それが財の商品化である。つまり、市場価値で最も重視されるのは交換価値である。希少価値や使用価値、社会的価値、倫理的価値は、財貨の属性として従属的な価値になる。
 商品化によって、財と貨幣価値の二面性が生じる。その二面性が会計の二面性、複式簿記の基礎となる。また、財と貨幣価値とが切り離され、交換価値以外の財のもつ価値は、貨幣価値、即ち、数量的価値に還元され、換算される。市場においては、従属的価値は交換性においてのみ問題とされる。この単純化が市場経済の発展を促したのである。同時に多くの問題点も派生させた。我々は、一方において市場の持つ機能を発展させると、同時、市場経済から派生する障害を除いていく必要がある。

 市場は、全ての価値をドロドロに熔解し、社会全体に環流する。それが市場の機能である。同時に貨幣の持つ属性、価値の蓄積によって市場経済は、富の偏在を生み出し原因にも成る。

 市場経済の浸透によってあらゆる財が交換価値に変換され、結果的に、貧困が普遍化されてしまうことがある。
 自給自足的な社会においては、貨幣による分配は、限定的なものである。その様な社会においては、人間的価値や社会的地位は、貨幣価値に依らない。
 自給自足的な社会においては、商品化されていない財によってある程度の豊かさは保証されていた。しかし、市場は、商品化、即ち、貨幣価値に換算できな物の価値をたちまちのうちに奪い取る。その結果、商品化しえない物が経済の表面から奪われ、分配されなくなり、その為に、貧困が生まれる。

 その他、市場経済成るが故に、良品が駆逐されることがある。形が良くて高価だが、拙くて栄養価が低い、農薬だらけの野菜と形が悪いて安いが新鮮で美味しい野菜のどちらが本当に価値があるのだろう。市場価値の中では、前者の方が商品価値を持ち、後者は廃れていってしまうのである。その結果、良品が失われていく。

 教育が良い例である。本来、教育は、市場価値に換算できない性格のものである。しかし、現在、教育も市場価値に換算されてつつある。教育は、一つの産業と成りつつあるのである。教育が産業として確立されていく過程で、それまで教育と見なされていた、地域社会からの目に見えない教育や家庭教育、躾が失われつつある。

 だからといって市場経済を否定してしまうのは愚かである。市場は、たとえれば、経済の循環器である。循環器の病気が怖いからと言って循環器を否定するのは、馬鹿げている。市場経済の弱点を理解して、その長所を生かすべきなのである。

 市場の論理で問題なのは、利益の蓄積、富の偏在、資源の浪費である。これらは、貨幣価値に還元されることによって社会の歪みを加速する。それは、市場が貨幣価値に全ての価値を一元化することに起因する。

 現代の市場経済は、成長を前提としている。技術革新を前提としている。しかし、成熟した産業の中には、コストダウンができない産業もある。コストダウンができれば、競争すればいい。しかし、下方硬直的なコスト構造になると競争力にも限界が生じる。こうなると、人件費の格差によって競争力の差が生じる。更に、コストダウンの是非、競争力は、地域格差や生活水準の格差に依ることになる。

 コストダウンばかりを求めるメディアは、一方において、コストダウンによって起こる弊害も糾弾する。無責任なものである。だいた、メディアは、自分達が起こした問題に対しては、言論の自由を楯にとって責任をとろうともしない。言論の自由は、自らの言論、発言に対して責任をもつことによって保障されている。論証責任を果たそうとしない、放言、暴言に対して保障しているものではない。

 最近、子供が流れるプールの排水溝に引き込まれて死亡するといういたましい事故があった。排水溝の蓋が外れていたのが原因である。監視員が機転を効かせてプールに飛び込み、排水溝の前に立って注意を促せば防げた事故である。しかし、翻(ひるがえ)って考えてみよう。仮に、機転を効かせてプールに飛び込んだ監視員がいたとして、そのお陰で事故が起こらなかったとしても、その監視員は、評価されるであろうか。もともとプールのコストを節約するために民間の業者に委託していたという。市場の原理だけでは、この様な監視員は評価されないのである。たまたま、事故が起きたから、問題にされた。しかし、事故が起こられなければ、何でもない日常的な出来事の一つとして、見過ごされていくのである。仕事には、責任が派生する。その責任とは、貨幣価値に換算されないものが多くある。

 経済的な価値として表面に現れてこない仕事もあるのである。その典型が、家事労働である。つまり、育児や家事、介護である。これらの労働の価値がまったく評価されない。又は、否定されてすらいる。女性の地位向上策は、女性を家事労働から解放し、家外労働に従事しやすくすることである。これは、家内労働の担い手であった女性からして家内労働を否定する事を意味している。しかし、育児や家事、介護というのは、人間生活の中核的労働である。家内労働を否定したら、生活が成り立たなくなる。そこで、これらの家内労働を市場原理に委ねようと言うのである。なんて事はない。要するに家族という単位を否定してしまうことを意味している。

 市場的価値だけが全てになってしまったら、市場性のない労働は廃れていくか。市場に還元されることになる。全てを市場価値に還元すれば、その事によって市場価値以外の価値を喪失していた機構が失われていく。その典型が家族である。家族的な絆は、熔解し、家族的人間関係は破綻する。そうなると、経済本来の目的は何かという本質が見失われる。

 全ての価値が市場価値、即ち、貨幣価値に還元されて、失われるのは、家族だけではない。市場価値として換算できない。仕事に対する責任感、誇り、達成感、モラルなども市場価値に還元することできない。必然的にこれらも崩壊していく。

 会計の論理の問題点は、内部価値と外部価値が分裂していることである。それは、現代経済の問題でもある。この外部価値を形成する場が市場なのである。つまり、市場は、内部価値と外部価値との均衡によって保たれてきたのである。しかし、全ての価値を外在化することによってこの均衡は破られようとしている。
 市場の論理は、貨幣価値の論理の論理である。つまり、全ての価値が貨幣価値に還元されようとしている。人間性や命、名誉、尊厳と言ったものまで、商品化されようとしているのである。

現代の市場の経済は、金が全てである。つまり、貨幣価値の論理によって支配されている。

 人間は、金のためだけに働いているわけではない。確かに、貨幣価値だけでは人間の社会は成り立たない。だから、本来、市場の論理は、限定的なものであるべきなのである。ところが市場によって経済全てを支配しようと言う考え方に支配されつつある。

 医は、医術ではなく、算術だと揶揄(やゆ)される。
 哲学者は、哲学のことばかり考えている。絵描きは、絵を描くことばかり考えている。政治家は、政治のことばかり考えている。だから、世の中は、専門家ばかりになる。そして、その価値を推し量るものが貨幣価値でしかなければ、仕事の持つ本来の目的は失われる。哲学者にとって哲学は金儲けの手段でしかなくなり、絵描きにとって絵を描くことは、生活の糧を得る手段にしかなくなり、政治家は、政治屋になる。

 教育者とは何か。人を指導するという仕事の本質は何か。もともと、教育者は世事に疎く、金儲けよりも、人間としての尊厳や使命感に基づいて仕事をしていた。しかし、市場経済が発展するにつれて、教育を金儲けの手段として考える風潮が強くなってきた。つまり、教育は、一つの産業なのである。それは、教育界が受験戦争という市場に曝されているからである。
 現代、一方において教育者は聖職者という発想、その一方において教育者も労働者だという発想である。その両極端の発想が現在の市場経済には混在している。そして、段々に後者の発想が支配的に成りつつある。

 保安も然りである。保安はモラルである。しかし、モラルも市場価値に換算することができない。市場的価値を優先すれば、保安は犠牲にされる。

 言論も市場価値に支配されている。視聴率が高ければ、どの様に悪質な番組でも正当化される。売れさえすれば正しいのである。

 貨幣価値の論理は、市場の論理でもある。貨幣価値とは、数学的価値である。デジタルな価値である。故に、社会全体がデジタル化してしまう。つまり、統計的な世界に還元されてしまう。

 現代社会では、経済的無政府主義が跋扈している。政治的無政府主義は、直截的な形で現れるが、経済的な無政府主義は、より破壊的な形で人々の精神を蝕む。それは、人間のモラルを直撃するからである。
 政治的帝国主義から経済的帝国主義へと変質してきた。政治的帝国主義は、直接的な手段によって植民地や侵略地を支配してきたが、経済的帝国主義は、間接的な手段によって他国を目に見えない形で支配し、植民地化しようとしている。
 資本主義は、帝国主義とワンセットで発展してきた。言うなれば、資本主義は、経済的帝国主義なのである。経済の民主化こそが必要なのである。

 市場は、元々は、市庭(いちば)だった。

 市場は、かつては、物々交換が主だった。つまり、原初の市場は、非貨幣的市場であった。現代、市場経済は、即、貨幣経済というように思われるが、市場と貨幣経済が結びついたのは、比較的近年である。つい最近まで、非貨幣的市場は存在したのである。市場経済と貨幣経済が結びつく過程で市場経済は、大きく変貌をしたのである。しかし、市場経済の本質には、貨幣経済に結びつく以前の性格が隠されているのである。その根本は、儀礼の場であり、社交の場であり、社会を統一するための象徴的場である。つまり、市場は、文化を創出する場でもあったのである。それが失われてしまうと、市場は、市場本来の機能を喪失してしまう。文化が失われてしまうのである。文化を創出する場とは、その国の価値観を形成する場でもある。文化が失われるとは、倫理や秩序の崩壊を意味する。市場から規律が失われれば、文化が、倫理が喪失する事である。
 物々交換の本質は、社会儀礼である。贈答である。市場は、贈答の場であった。人間関係や社会を構築する手段の一つが物々交換の場だったのである。

 市庭は、本来は儀礼的な場である。つまり、経済的空間と言うより、宗教的な空間だったといえる。そして、宗教的空間であるが故に、非日常的空間として、日常的規則、掟から解放された自由な空間を形成しえたのである。
 宗教的空間なるが故に、市場固有の規律と自由が保障された。神に対する怖れが、契約や規律を保障した。この神による保障を抜きに経済の規律や市場の取引は成り立ちえない。同時に、貨幣の成立に神の介在は不可欠なことである。この様に、市場経済は、絶対・普遍なる存在に対する怖れを抜きにして成立しえないのである。




        


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