近代会計学は、資本の概念が確立されたことによって完成された。資本の部、新会社法では、純資産の部が確立されることによって会計制度は、現代の形を整えることができたのである。その意味では、資本主義と近代会計学は、不離不可分の関係にある。
資本の論理、資本の在り方に、会計制度を基盤とした経済体制の在り方の秘密が隠されている。会計制度を基盤とした体制の代表的なものは、資本主義体制であるが、資本の在り方次第によっては、資本主義以外の体制も考えられる。つまり、資本を誰が支配するのかが重要な鍵になるのである。
会計学は、その成立時点から誤魔化しがある。最初から、無理がある。しかし、その誤魔化しや無理が、資本の概念を生み出し、近代経済の礎を築いたのである。会計学の根本は、アカウントつまり、報告にある。執事(スチュワード)が、主人、特に、不在地主に報告することを目的にして発展した。当然、長期的な投資は帳尻が合わない。その帳尻を合わせるために、簿記、会計は発展した。その根本は、今でも変わりがない。
本当ならば、手持ち現金と財産の残高が解ればいいはずである。その証拠に今日、キャッシュフロー会計が重視されてきた。利益、収益は意見・見解にすぎない、キャッシュ、現金は事実であるとまで言われている。
ならばなぜ、収益を重視した会計が発展したのか。そこに会計の論理がある。それは、資産の構成を見ると解る。資産は、流動資産と固定資産から成る。流動性とは、現金、又は、現金同等物に変換しやすいかどうかの指標である。そして、この流動性から離れていく、つまり、固定化すればするほど、会計の意義が現れてくるのである。
近代経済を構成する重要な要素が民間企業である。つまり、近代社会の経済現象に大きく影響を与えているのが、企業経営である。企業の経営の在り方が経済の動向を決めていると言っても過言ではない。それでありながら、企業経営者の意思決定の法則には、経済学者は触れようともしていない。それでは経済の実体を明らかにすることはできない。
経営というのは、極めて合理的なものである。その経営の合理性を支えているのが、会計制度である。つまり、会計の論理が資本主義経済の論理でもある。会計の論理は、経営者の意思決定、ひいては、経済に重大な影響を及ぼす。その会計の論理を明らかにしたい。
会計の論理の実務的、実際的な基礎を作っているのは、簿記の論理である。
簿記は、帳簿と証憑の論理でもある。簿記の論理は、言葉ではなく、作業によって裏付けられる。記入、仕訳、転記、締め、集計、作表という手順で簿記の論理は組み立てられる。
簿記の論理は、幾つかの前提条件によって成り立っている。前提条件とは、原則である。
簿記の論理の原則は、第一に、期間損益である。第二に、取引をもれなく、重複せずに、全て記録することである。第三に、貨幣価値で表示することである。貨幣価値とは、数値的価値である。つまり、貨幣価値で示すというのは、価値の数値化を意味する。
複式簿記の場合、第一番目に、取引。第二番目に、仕訳。第三番目に、記帳、起票がある。第四番目に、転記。第五番目に、勘定科目毎に集計し、試算表を作成する。第六番目に、精算表の作成。第七番目に、損益と貸借の分離がある。そして、この一つ一つの過程に独自の論理的展開がある。
先ず、何らかの取引の存在を前提とする。
その取引をいつどの様にして認識したのかが問題となる。この取引の認識した時間、仕方によって会計の原則は違ってくる。
会計の論理は、取引の認識から始まる。
現在の簿記会計の論理は、発生主義、実現主義、取得原価主義に基づいている。
実際に費用が発生した時点と支払時点が異なることがある。例えばツケ飲みをした場合や掛けで商品を仕入れた時などである。この様な場合、費用が発生したと思われる時点で取引を認識するのが発生主義である。販売取引は、実際に物品の引き渡しした時点で認識するというのが実現主義である。そして、取得原価というのは、資産の表示は、取得価格でするというのが取得原価主義である。
ここで気おつけなければならないのは、発生主義も実現主義も確定的なものではないという事である。実現主義で言えば、どの時点で物品の引き渡しがあったかは、特定できないという事を意味する。例えば、ある部品を工場に納品したとして、その部品を引き渡したと見なされるのは、その部品を工場に持ち込んだ時か、それとも検収を受けた時か、その部品を使用した時か、それは確定していないという事である。どの時点で物品が引き渡されたかは、当事者の会計処理によるという事である。この様に、会計制度には、会計当事者の判断に委ねられた処理が多くある。そして、それが、会計の論理の基礎を構築しているのである。
発生主義や実現主義に対して、現金の授受をもって取引の認識をするのが現金主義である。
取得原価主義に対し、時価(現在価格)で表示するのが時価主義、時価より低い価格で表示するのが時価以下主義である。
戦後長い間、日本経済は、含み経営と言われ資産に隠された含み益を活用して資金調達を行ってきた。バブル以降、土地価格の下落によってこの含み資産が逆転し、企業の資金繰りを圧迫してきた。また、企業業績の実体も実際の業績を反映してこなかったのではないかという疑念を市場に起こさせた。
その結果、現代の会計は、基本的に、発生主義、実現主義、取得原価主義ではあるが、資産価値の測定には、一部、時価主義、時価以下主義が導入されている。また、現金主義会計である、キャッシュフロー会計によって発生主義、実現主義会計を補足、補助しており。今後、現金主義的、時価主義的な傾向が高まる事が予測されている。
次に仕訳である。
取引には、二面性がある。即ち、得失である。個々の取引は、この得失が均衡しているというのが複式簿記の考え方である。
この得失が取引の二面性として取引には常に存在する。
得た物、失った物、それが、得る権利、与える義務になる。つまり、得る権利、即ち、債権であり、与える義務、即ち、債務である。
この取引の二面性を、取引を認識した後、二つに分割する。それが、仕訳である。
そして、複式簿記の論理の前提は、得た物と失った物が常に均衡しているという事である。
そして、さらに取引は、資産、負債、資本、収益、費用の五つに分類される。
得た物以上の物を失うことはできない。得た物、即ち、所有する物以上の物を与えることはできない。得た物、所有する物を資産という。そして、与える義務を負債と資本という。ただ、資本とは、純資産を指し。所有する物から与えなければならない義務を差し引いたところの投資家の持ち分である。投資家の持ち分とは、分け前を意味する。それは、与える義務の一種である。
企業の事業は、一定期間中の売買取引によって成立する。そして、この売買取引を記録し、事業活動の成果を測定するのが会計の役割である。
この売買取引も、得失によって分類される。ただ、販売取引は、実物資産とのつい概念になる。得る物に対する対概念として収入と失う物に対する対概念としての費用である。
次に、仕訳した物を記帳する。
左側に得た物や概念、右側に失った物や概念を日付と、科目、金額で記入する。
借・債権(資産)貸・債務(負債・資本)である。
売買取引に関わる、即ち、損益に勘定科目は、貸借に関わる勘定科目と違い、物質的な概念ではなく、取引を象徴化した現象的な概念である。
得た物に対する反対・対の概念が収益であり、与えた物に対する反対・対の概念が費用である。また、収益は、分配の対象であるから、与える義務である。つまり、資本に還元される。商品を販売したことによって得た物が現金や売掛金という資産(得た物)対し、その対の概念が売上である。それ故に、費用は、収益、資本の反対側である左側に、収入、収益は、資産の反対側の右側に仕訳される。
簿記の記録は、基本的に加算、積み上げ式である。一定期間に発生した取引額を集計した上でその差を比較し残高を導き出すのである。
故に、簿記の記帳は、基本的に残出入残である。そして、これらが合計残高試算表に集計される。合計残高試算表は、合計試算表と残高試算表から成る。残高試算表は、精算表の基礎となる。ただし、試算表の作成は、転記後になる。
試算表には、決算整理前試算表と決算整理後試算表がある。::決算整理前試算表とは、決算整理処理をする以前の集計表であり、決算整理後試算表とは、決算整理をした後の試算表である。
決算整理とは何か。それは、現在の会計制度、即ち、期間損益の本質を最も端的に表した処理である。つまり、任意の期中の取引を期間損益に変換する処理・手続きである。この決算整理に恣意的な操作が混入しやすいのである。
その上で勘定科目ごとに転記し、分類する。分類した上で集計する。それが転記である。
得た物、所有する物は債権となり、資産勘定に集められる。そして、失った物、与える義務のある物は、債務となり、負債・資本勘定に集められる。勘定科目毎に集められた取引額(取引量を貨幣価値で表した物)を記録し、集計する。それが転記である。
得た物、所有する物が、有形な物とは限らない。むしろ目に見えないものが多い。また、価値が一定している、固定している物とも限らない。つまり、実現していない、未実現損益が含まれている。
また、記帳されている貨幣価値と時価(現在の価値)と一致しているとは限らない。つまり、貨幣価値を直接的に表している現金や現金相当物以外の価値は、表示されている価値と一致していない物があり、それを非貨幣性資産という。非貨幣性資産は、取得原価で表示されるのが現在の原則である。
次に、精算表の作成である。精算表を作成する過程で、損益と貸借に分割され、当期の利益が算出される。
つまり、精算表を作成する過程で期間損益に置換するのである。この期間損益への変換の過程で、費用性資産が混入する。
費用性資産の典型が減価償却であり、繰延勘定、引当金である。減価償却というのは、資産価値を一定の期間に費用として清算することである。減価償却は、資産価値が劣化する資産に限られている。
会計の論理とは、損益の論理である。損益の論理とは、利益構造を知る事である。利益構造を分析する手段として損益分岐点分析が有名である。損益分岐点分析は、費用を固定費と変動費に分けて分析する手法であるが、企業経営の論理を端的に表している。
問題は、期間損益における利益とは何かである。本来ならば、商品の売買によって生じた利益を指すのが正解なのであろうが、商品の売買以外の中から利益が生じ、それが商品の売買益よりもずっと多くの収益をもたらしたり、また、損失をもたらし、場合によっては、その企業の存在を危うくすることもあるのである。
本来、企業の社会的価値は、一定期間内で製造したり、仕入れした物を販売し、それで得た利益によって測られるべきである。それが期間損益の本質である。ところが今日の企業活動は、単なる損益だけでは捕捉し得なくなってきている。
その原因は、未実現損益、費用性資産、非貨幣性資産、資本にある。つまり、貸借対照表に隠れている表面化しない価値の変動要因にある。
会計には、動的な部分と静的な部分がある。動的な部分とは、トランザクション、取引、損益に関わる部分である。静的な部分とは、マスター、資産、貸借に関わる部分である。
問題なのは、静的な部分の価値も伸縮すると言う事実である。動的な部分は、損益として表面に現れやすい。しかし、水面下にある地価や株価、仕入れなども、経済情勢の変化、為替の変動やエネルギー価格の変動などの影響を受け、大きく変動するようになってきた。
この水面下、静的な部分、固定的部分は、資金に大きく影響を与える部分である。即ち、負債のための担保や資金調達のための原資となってきた。企業にとって収益は、重要な要素ではあるが、実際の経営は、資金繰りによって成り立っている。
その為に、損益重視の会計制度から、貸借を重視し、更に、現金、資金を重視した会計制度変貌しつつある。
貸借や現金を重視する会計というのは、会計制度が、我が国に、定着した当初の頃に回帰する様に見える。しかし、当時の経済情勢は、それほど地価や為替の変動に見舞われたわけではない。むしろ、大恐慌などによる企業業績悪化の方が重要だった。故に、動的な部分、損益を重視した会計の論理が、静的な会計を圧倒したのである。
会計は、物の価値観と金の価値観、即ち、物の論理と金の論理の二つの傾倒を併せ持つ。つまり、資産と現金を核にして会計は成り立っている。即物的価値と貨幣価値の関連によって対象を相対的に捉えているのである。
先ず、物の価値としての実体を備えているのは、有形資産である。この点から見ても会計に実体を与えている核心の一つは、資産である。
会計上、何らかの実体を持っているのは、有形資産だけである。それ以外は、観念の所産である。会計の論理の本質が隠されている。つまり、会計は、常に実体と遊離しやすいという事であり、実態を確認するためには、最後には、資産の評価に行き着くと言うことである。
最近は、資産だけではなく、現金主義、つまり、キャッシュフローを併せて明らかにしようとする動きが顕著になってきた。利益は意見、現金は事実といわれ、近年キャッシュを重視した会計が注目されている。しかし、単純な現金主義回帰ではない。元々、現金主義から期間損益による企業評価に移行した動機がある。それは、現金では、企業本来の実力、活動が把握しきれない事に依ったのである。皮肉な事に、期間損益が限界に達した時、同じ理由で、現金主義が台頭した。しかし、いずれにしても、どちらか一方だけで企業経営の実態を明らかにできるわけではない。
結局、損益と収支、両面から企業の実態を推測しなければならない。それが現在の会計の論理の趨勢である。
会計は、貨幣価値を基礎として成り立っている。貨幣価値に全てを還元することによって経済的価値を測定している。この貨幣価値に現れていないところで実体的な貨幣価値を変動させる要因が、会計制度を震撼させる要因となる。
それが、非貨幣性資産、費用性資産、未実現損益、資本(純資産)である。
いずれにしても実体からかけ離れた虚の部分、観念的部分が大きくなると、会計、財務は均衡を失う。均衡を失えば、既に、会計は破綻している。
近年、マネーゲームが盛んになり、資本に関わる虚の部分を悪用して、企業価値を水ぶくれして、実体よりも価値を大きく見せかけて浮利を稼ぐ行為が横行している。その多くが詐欺まがいの行為である。そうして、過剰となった貨幣価値が実物経済を,震撼させる。実は、この虚の部分による経済への影響が、市場経済を危うくしている原因なのである。
今日の会計の論理は、単純なものではない。柱となる論理も一つではない。損益の論理と収支の論理の二つからなる。それは、発生主義、実現主義か、現金主義かの問題である。そして、その二つの論理の間を微妙に揺れながら、会計制度は、保たれている。
さらに、国際的な基準の統一に向けての動きがある反面、大陸的な会計制度の在り方と、コモンロー的な在り方の対立があり、それが会計制度に、微妙な影を落としている。
大陸的な会計制度とコモンロー的な会計制度の決定的な違いは、会計の原則の制定が民間サイドにあるか、体制サイドにあるかの差に現れる。コモンローというのは、あくまでも会計を活用する側に主導権があるのに対し、大陸的、即ち、制定法的な在り方は、法や原則は、体制側に主導権がある傾向を持つ。この事は、会計によって測定されたデータに基づいて計算される税制度に重大な影響を及ぼしている。
制定法に依拠する日本は、確定決算主義という独特の制度によって法人税を算出する。これは、制定法に基づく発想の典型である。つまり、御上が意識の現れである。
今日の会計における変革は、単に静的に部分、貸借を重視するというのではなく。静的な部分と動的な部分を複合的に捉えようとすることから派生している。つまり、固定的部分と変動的部分が掛け合わさっている。
会計制度の目的は何か。一つは、投資家や債権者に、企業の実態を知らせるためである。また、納税のための基礎資料を提供することである。それ以外に、経営者や取引先、従業員の意思決定に必要な情報を提供することである。特に、最近では、株主に対する情報提供が重視されるようになってきた。つまり、株主の論理が優先されるようになってきたのである。
株主価値という論理は、ややもすると企業をただ業績や収益面からのみ見る傾向を高める。しかし、企業には、果たさなければならない社会的責任がある。それを見落とすと社会は、本来の機能を喪失してしまう。それは、自由主義経済の終焉を意味する。自由主義経済の論理は、ただ、収益の追求のみにあるわけではない。
そして、企業が社会的責任を果たすための論理、その実際的な論理は、会計の中にこそあるのである。
経営分析は、第一に、構成比率を見る。第二に、対比する。第三に、推移を見る。第四に回転を見る。それによって、何を知ろうとするのかは、第一に、安全性であり、第二に、生産性であり、第三に、採算性、第四に、成長性をである。実際の分析の着目点は、資金の流れと損益の分岐点である。そして、これらの経営分析の基礎となるのが決算資料である。この経営分析の在り方は、現在の企業経営の論理、会計の論理、そして、経済の論理を知る上で、重要な役割を果たす。数字の背後にある実体とは何か。それを暴き出すのが、会計である。
我々は、ともすると経済活動というのを自然現象と同じように自明な現象として捉える傾向がある。しかし、経済は、あくまでも人為的世界である。いわば虚構である。豚に小判、猫に真珠と言う諺が示すように、人間以外の動物は、貨幣価値を解さない。しかし、本当の価値を知っているのは、人間か、動物なのかと言う議論は、別れるところである。つまり、経済的価値は、人間の論理が創り出したものである。その極みが会計の論理である。つまり、会計の論理は自然界から見ると虚構である。実体は、会計の論理の背後にある。それを忘れると人間は会計制度に振り回されてしまう。
財テクやマネーゲームの危うさがそこにある。財テクやマネーゲームに狂奔すると実物経済の本質が失われる。企業がのめり込むと本業が何をする会社なのか解らなくなる。一体何を目的として事業を営むのか。それが解らなくなると、事業は、全て金儲けの手段に過ぎなくなる。そして、その本質まで、会計制度が明らかにしてくれるわけではない。真面目に事業をやっていればいいという時代ではない。その会計制度の危うさを理解しながら、尚かつ、会計制度に則った経営が求められているのである。
経営分析では、生産性と採算性、成長性が重視される。しかし、成長には限界がある。市場にも企業にも成長には限界がある。その限界を会計では想定していない。資源も有限な物である。
年々上昇するコストがあれば、ただ生産性を追求するだけでは、企業は行き詰まる。成長の限界に達すると加点主義が減点主義に代わる。成長が止まったら、コストを削減しなければならなくなる。コストで一番問題になるのは、生産性が下がるか、変わらないのに上昇だけするコストである。つまり、人件費である。そこには、共同体の論理は通用しなくなる。
かつて、経済は、共同体の論理によって成り立ってきた。それは、経済が、共同体を成り立たせるための重要な要素であると同時に、共同体は、経済活動の基盤だったからである。この共存関係が成り立たなくなってきている。その為に、社会から共同体的な要素が脱落しつつある。無機的な社会に成りつつあるのである。そして、生産性や採算性から人もただ単なる企業を構成するようその一つにしか過ぎなくなりつつあるのである。従業員、労働者の部品化である。採算性が悪くなればただ取り替えればいいのである。
経営というのは、極めて論理的なものである。しかし、同時に、論理では割り切れない要素も多分に含んでいる。論理的に正しければ、真だというのではない。善だというのでもない。逆に、論理的に矛盾しているから偽だというのでもない。悪だというのでもない。論理が保証するのは、確かさである。しかし、より確かなのは、実在であり、現実である。その実体を離れたところでいくら会計を論じたところで経営の現場、現実を理解することはできない。経営の現場は生々しい人間関係の世界なのである。修羅場なのである。
現実の取引は、貨幣でのみされるのではない。現物である商品やサービスも当然取引に関わっている。と言うよりも、本来の主役は、実体は、現物の商品やサービスである。貨幣価値は、その取引を映し出す影に過ぎない。会計制度は、企業の経営状態をよく表している。しかし、それは、企業の姿を現す鏡にしか過ぎない。企業の実態は、企業それ自体にある。
経営分析において生産性や成長性、採算性、安全性を重視する事を否定はしまい。しかし、より大切なのは、社会への貢献度、環境、資源の保護、働く者の幸福ではないであろうか。それがおざなりにされているところに、現代会計制度の論理の限界がある。
企業の法則の重要な柱の一つが、ゴーイング・コンサーン、継続である。継続は、会計の論理の大前提である。企業が継続していくためには、利益が必要である。
ではなぜ、利益が必要なのか。事業を行う以上、利益を上げるのは当たり前だと思っている。収益をあげない事業は罪悪だと広言している経営者がいるくらいである。
企業を継続させるだけならば資金が廻ればいい。現に、公益事業は、収益を度外視している。ただ、その為に公益事業は行き詰まる。それでも行き詰まったことに対する責任を誰もとろうとしない。それは、公益事業の目的を収益に置いていないからである。
利益というのは、均衡を意味している。つまり、会計の論理は均衡にある。それが複式簿記の原則である。資産と負債が均衡しているかである。そして、実体である資産が常に負債を上まわっている必要がある。つまり、実体のない物が実体を上回れば虚構になるからである。故に、資産と負債の差額は、資本(純資産)となる。
なぜ公益企業が失敗するのか。それは、この均衡を無視することに一因がある。そして、それは、社会主義体制が失敗した一因でもある。均衡を忘れて採算性を度外視すれば、民間企業でも成り立たない。ただ、公営事業を民営化すれば何事もうまくいくという論理は、間違いである。なぜ、民営企業にできて、公営事業にできないのか、それを明らかにすれば、公営事業も成立するはずなのである。官の論理と民の論理、何処に違いがあるのか。それが問題なのである。
経営というのは、極めて論理的である。論理を極めると言っても良い。
経営の論理は、社是、社訓でも、経営理念でもない。現金の出納である。それを司るのが、会計の論理である。
収益が会社の経営に何らかの直接的な影響を与えるとなると、会計の論理は、経営の論理に直接影響を及ぼす。極端な場合、経営判断の下敷きになり、経営そのものを左右することになる。例えば、収益力が、公共事業の入札資格や融資の審査の直接的なデータと見なされた場合、会計上の収益を高めるような経営判断をするように促すであろうし、また、非公開企業は、節税対策を目的とした経営判断をとろうとするであろう。また、投資家を重視した経営をしようとすれば、配当を高めるような企業行動をとるようになる。
更に、日本の会計は、商法会計、税法会計、証券取引法の三つの会計基準によって成り立っている。しかも、各々が目的を違えている。
商法会計の論理の目的は、債権者保護であり、税法は、税の徴収のための基礎資料であり、証券取引法の目的は、投資家保護である。これらの目的によって会計原則が微妙に変化している。これらの目的の整合性を取ることは、経営者にとって極めて困難なことである。そのうえ、上場会社と未公開会社では、ウェートのかけ方が違ってくる。大体、非公開会社にとって証券取引法は、無縁なのである。必然的に税法会計を重視することになる。
このように直接的に経営判断に影響を及ぼす。会計の論理に、不思議と、経済学者は、無関心である。経済学者のうちどれくらい簿記に精通している人がいるであろうか。大体、経営問題に会計士の意見が反映されたのを見たことがない。そうなると経済が、現実離れをするのは、必然的なことである。
資本主義経済において、会計の論理が土台になっていることを忘れてはならない。
(友人へのメール)
会計学については、現代経済、市場経済のインフラでありながら、日本では技術的にしか理解されていない。会計学は、原理であって技術ではない。その原理的な側面から言えば、英米会計と大陸会計は、原理が違う。この点に関し、日本人の理解は皮相でしかない。法と会計は、二つの思想が混在している。そこが面白いのです。つまり、コモン・ローと制定法です。
英米会計には、クリエイティブ会計という発想がある。会計というのは、創作的なものである。会計には、やっては成らないことは書いてあっても、やっていいことは決まっていないという思想です。これは、法を絶対視する日本人には、理解できない。法や会計は作るものではなく。所与のものをただ上手く運用するか、善くやって解釈するものという考え方しか日本人にはできない。だから、法曹界も会計界も官制の制度でしかない。それに対し、法曹界も会計界も官制であってはならないという思想が英米には根強くある。だから、ルールそのものを変えてくる。こうなるとルールを変えては成らないと思い込んでいる日本の会計界は太刀打ちができない。ただ、相手のルールに従うしかない。議論の余地がない。しかし、ルールを変えるのは、権利だと主張するのが英米の発想なのである。日本人は、コモン・ローの意味を理解する必要がある。
会計の面白さは、尺度そのものが流動的だという事。それから、フローの部分とストックの部分が分離されていて、別個の動きをするという事。それが動態論と静態論の二つを生み出している。また、最終的な判定基準が収益とキャッシュの二つがあるという事。複式簿記という二元論的構造を持っているという点。それと、先にも述べたように、英米と大陸では、仕組みを共有しながら、思想が違うといったところです。
この様な論的前提の上に会計制度も近代法も成り立っている。故に、会計も法も相対的な体系であり、創られた体系なのである。