日本では、哲学者が生まれにくい。それは、自分が議論を始めるに当たって自分の考えをまとめ、立論をする習慣がないからである。自分の立場、考えを明らかにせずに、他人の考えや思想を批判することは、卑劣な行為であり、潔しとしない、許さない傾向が、欧米にはある。
議論の場である会議においては、尚更のことである。自分の立場、考えを明らかにしなければ、会議は、本来成り立たない。
ところが、日本においては、中立、公正、公平、客観性という名分で、自分の考えや立場を明らかにしようとしない。言論の要である、テレビ局や新聞が、自分達は、公正中立であらねばならないなどと世迷い言を言う。しかも、それがまんざら嘘だと思えないところが怖い。本気で言っているのである。つまり、自分の考えがないからである。日本以外の国で公正というのは、自分立場、考えを明らかにした上で、反対意見の者にも発言の機会を与えその上で討論をする事である。ところが、日本のテレビ局や新聞では、自分の考えを明かにしない事を公正だという。しかし、それは、自分の考えを明らかにしないで、相手を責めるのだから、闇討ちである。欧米人から見れば卑怯である。
国会においてですら、野党で解っているのは、反対という立場だけである。これでは実質的な、まともな審議が行われようがない。
日本人は、会議を話し合いの場だと思っている。討論、闘争の場だと思っていない。
日本人は、話せば解ると思っている。そして、その話し合いの場が、日本人にとって会議なのである。しかし、他の国の人間は、話し合っても解らないと思っている。だから会議を開くのである。この差は大きい。
日本人にとって会議は、話せば解る。それを前提とした話し合いの場であるから日本人は、ルールに囚われずに、融和を求める。いつまでも反対する者がいれば融通のきかない者だと言うことになり、話し合いの場から排除される。そうなるとその場の雰囲気、空気が問題になる。
しかし、外人にとって会議は、討議、闘争の場である。最後まで自分の意見を貫き通そうとする。だから、予めルールを決めておく必要があるのである。それが会議である。
これでは、会議の論理は、日本人と外人とでは、最初から前提が違っている事になる。
そこから、密室政治、料亭政治、談合、示談、和解、裏取引、腹芸、接待と言った日本人固有の問題が起こる。しかも、日本人は、それを不正だとは思わない。当事者間の話し合いで済めばそれにこしたことはないという訳である。
しかし、話し合いでは片が付かない、だから、裁判になるのであるし、会議が必要なのだ。それが会議の論理の大前提である。即ち、話し合いが始まってからでは、ルールは決められない。話し合いが始まる前に、話し合いの規則を定め、契約をした上で話し合いを始めるのである。そうでなければ、試合が始まってからルールを決めるのと同じ事になる。ところが、日本人は、何事につけてもはじめに話し合いがある。話し合ってからルールを決めようとする。だからトラブルになる。それは、会議の論理が転倒しているからである。
会議の前提条件とは、第一に、会議の成立要件、第二に、議決の成立要件である。
会議の論理は、議決の論理でもある。議決というのは、基本的に択一的判断の論理である。択一的判断を積み重ねて、総合的決断をするというのが会議の論理である。それは、賛否の論理でもある。賛否は必ずしも多数決ではない。大切なのは、議決の仕方である。議決の仕方には、第一に、議決が成立する要件。第二に、採決の手順・方法・手続きが問題になる。
命題は、前提条件に制約される。例えば、会議には、幾つかの成立要件(会議の成立要件、議決の成立要件等)があり、議決によって成立する命題は、その前提条件によって制約を受けている。また、法の命題は、法を成立させている前提条件によって制約を受ける。
民主主義の論理を多数決の論理と錯覚している者がいる。しかし、多数決は、議決の一手段に過ぎない。民主主義の論理は、議決の論理である。そして、議決を成立させている条件、要件によって制約を受けているのである。
更に、案件の性格、種類の問題である。案件が規則や法律を制定するためのものなのか、現実の事象を決めるものなのか、又は、個別に処理する案件なのか、総括的に処理する案件なのかによって会議の取り扱い方が違ってくる。
会議の手順は、まず最初に、開会宣言によって始まる。議長選出。議事の確認と採択。議決方法の決定。議案の提出。質疑応答。採決。議事録の確認。そして、最後に、閉会宣言によって終了する。
これが会議の論理の筋道である。