軍人や警官は、礼が求められる。
先ず志を持て。そして、誇り高くあれ。
日本は、戦争に負けた。そして、自分達の手で、自分の国を護ることを許されなくなった。これは隷従である。国家の尊厳は、国家、国民を護ることから発する。自分達の国は、自分達で護る。それが国家主権、、独立の大前提である。
国民を何から護るのか。それは敵から守るのである。敵には、外敵と、内敵がある。また、人的敵と物的な敵、そして、近代では、経済的敵がいる。
外敵から国民を護るのが軍である。内敵から国民を護るのが警察である。人的敵とは、国家を侵略し、国民の権利を脅かそうとする勢力である。物的敵とは、国家、国民の物理的、肉体的財産を破壊する力である。例えば天変地異、事故災害である。経済的敵とは、国家、国民の生活を脅かす行為である。
何を護るのか。それは、国家、国民の名誉である。国家、国民の名誉の基礎にあるものである。国家、国民の名誉の基礎にあるもの、それは、国家、国民が生存するために依って立つところである。
自分のことは、自分で決める。自分の家族のことは、自分達で始末をつける。自分の国の運命は、国民が決める。それが国家、国民の名誉の根源である。名誉を失えば何も自分で決められなくなる。だからこそ、国家、国民の名誉は、国民一人一人が守るべき事なのである。
自分達で、自分達の国を護ることが許されなくなった結果、護ると言う事の意味も日本人は、忘れかけている。
日本人としての誇りもうしないかけているのである。
護ると言う事を最初から放棄したために、護るとはどういうことを意味するのかを戦後、日本人は真面目に討議してこなかった。自分を護ると言う事はどういうことなのか、どうすれば自分の生き方や尊厳を守れるのか。家族を護ると言う事は何を意味するのか。なぜ家族を護らなければならないのか。国を護るとは何か、国防とは何か。
故に、日本には、国防思想が欠けている。つまり、国家観の根幹が欠けているのである。そして、国防を軍国主義に結び付けて臭い物には蓋をしろ式に目を背けてきたのである。
これでは、国民の名誉は守れない。国民の名誉が守られなければ国家の独立は保てないのである。
護るべきものは自分で決める。それでこそ自分の誇りは保てる。命を賭けても護らなければならないのが一分である。その一分を尊重するのが礼である。故に、誇りなき者は礼節を知らない。
戦後の日本人は、愛だの、自由だのと格好(かっこう)をつけていうが、内容が伴わないから愛だと言いながら冷淡、非情であり。自由だと言いながら、実際は、我が儘勝手、放縦に過ぎない。仁も恕もないのである。
夜警国家という言葉がある。夜警国家というのは、突き詰めてみると、国家は、治安維持と国防だけに徹すればいいんだという意味にもとれる。つまり、夜警国家言う言葉を裏返すと国家の最低限の仕事は、治安維持と国防だと言っていることにもなる。
夜警国家という言葉の意味からも解るように、軍も警察も国家の本質である。故に、この地上から軍や警察が消滅する可能性は小さい。
軍事的、又は、治安的な空白が生じた場合、すぐに軍や警察に変わる何等かの暴力的集団によって空白は埋められる。なぜならば、国家や社会を侵略し、或いは、治安を乱す者は、侵略される側や攻撃される側の意志に関わらず自分達の意志を力で押し付けてくるからである。
護ると言う事の真の意味を日本人は、理解しようとしなければ、日本人は、大切なものの全てを失っていく。
自分の矜持を守れなければ、自分を見失う。それが意地であり、誇りである。家族の絆を守れなければ家族を崩壊する。それが愛である。経済を守れなければ、生活は維持できない。それが信である。国家の主権を守れなければ、国家の独立を失う。それが忠である。大切なものは、護らなければ、護ろうとしなければ、護れないのである。それが護ると言う事である。つまり、護るとは、護ろうとする意志、志しである。
何から何を護るのかを明確にすること、それが国防の第一歩である。軍が他国を侵略したり、攻撃を目的として組織された事は稀にしかない。軍は、防人(さきもり)なのである。
そして、何から何を護るかを明らかにすることによって国家の意義や目的が明らかになる。それが建国の精神である。建国の精神は、健軍の精神でもある。
なぜ、何の目的によって軍が組織されるのか、それによってこそ、国防思想を構築することが可能となる。
日本人が、鎖国を解き、明治維新を断行したのは攘夷に基づくのである。明治維新の大義は、攘夷、即ち、国防にあって世界制覇、他国の侵略を目的としたわけではない。国を護ることを目的としたのである。その点を履き違えると大変な過ちを招く。国防の目的は、あくまでも国を護ることである。
戦前の日本人は、必死に生存の目的を探ったのである。そうしなければ、黄色人種の日本人は、人間として生きられなかったのである。隷属の屈辱に甘んじるか。一命をとして独立に賭けるか。自由か、しからずんば死か。二者択一しか日本人には与えられていなかった。それが歴史的真実である。
平和とは何か。平和とは現実である。現実を直視しない限り、平和は実現できない。
敵の居ない社会というのは、一見理想的に見える。しかし、敵の居ない社会というのは夢想に過ぎない。また、敵が居ない社会というのは、理想的に見えるかも知れないが、現実には、これ程、生きにくい社会もない。ありもしない現実をさもあるように前提とし、国家が国防を放棄することは、国民を危険に曝すことである。国民に対する背信であり、国民に対する不忠である。
人間の認識は相対的なものである。全ての国家を均一、均等に見る思想ほど危険な思想はない。国家間の利害は、常に、交錯しており一致する時、処もあれば、対抗する時、、処もある。平和は危うい均衡の上に成り立っているのであり、主体性のない国は、平和を掻き乱すだけ存在なのである。
均一、均等というのでは、自国の位置付けができない。又、均一、均等という社会は現実にはあり得ない。それは個としての自分を、否定する事を意味するからである。
現実というのは、敵が存在し、敵を想定することが現実的なのである。その上でいかにして平和を維持するかが、平和を考えることなのである。
平和が失われるのは、軍隊があるからではない。治安が失われるのも警察があるからではない。
この辺の道理、因果関係が理解できない人がいる。
火事があるのは、消防署があるからではなく。病気になるのは医者がいるからではない。
もう一つ忘れてはならないのは、戦争や内乱を引き起こすのは、基本的に、外交や政治上の失敗による。戦争や内乱は、政治や外交の延長線上で捉えるべきものであり、軍事行動の延長線上に捉えられるものではない。例え、軍の暴走が戦争や内乱を引き起こしたとしても、軍の暴走を抑止できない時点で、政治も外交も破綻しているのである。政治家や外交官の使命は、政治や外交の上で、内政の混乱や国際紛争を収束させることにある。その意味で軍や警察を戦争や内乱の原因にするのは短絡的すぎる。それ以前に、政治体制や外交政策、即ち、国家戦略を正すことである。
軍隊や警察が存在するだけでは、すぐに、戦争や犯罪に結びつくわけではない。むしろ、軍や警察の本来の役割は、紛争や犯罪を抑止することである。即ち、軍や警察は、国家の平和と安全を護ることが任務なのである。
戦争を起こしたり、罪を犯すのは人間である。軍や警察が戦争や犯罪を犯すわけではない。ただ、軍や警察は凶器でもある。その取り扱い方を誤れば、平和を崩し、治安を乱す元凶となる。
車でも包丁でも使い方次第で凶器になる。だからといって車や包丁は殺人の道具だと決め付けるのは短絡的である。
むろん、武器は武器である。刀は刀、包丁とは違う。刀は、本来の目的が戦うための道具である。その点が刀や鉄砲と車や包丁との違いではある。しかし、刀も、犯罪を目的としているわけではない。本来の目的は、身を護るための道具でもある。
日本人が、護身用の武器を携行しないのは、常時、武器を携行しなくてもいい環境が維持されていることが前提となっていることを忘れてはならない。そして、その状況が何によって維持されているのかを思い出すべきなのである。
確かに、武器そのものだけでは、護身用の物か、犯罪用の物かの見分けはつかない。身を護るための武器なのか、犯罪のための武器なのかを決めるのは持ち手である人間である。故に、尚一層の注意や心構えが必要なのである。権力が国民を護るための手段だという前提が信じられるから、一般国民は武装を解除しているのである。さもなければ、武器の携行を認めるのは国民の権利だと言う事になる。それは権力が信じられないからである。
軍や警察と核兵器や生物化学兵器とを同列に語ることは愚かである。核兵器や生物化学兵器は、存在すること自体が危険なのである。
軍や警察は、存在すること自体が危険なのではない。軍や警察を動かす人間の心の問題である。
問題なのは、軍や警察は体制に従属する組織であり、又、従属する組織でなければならないという事である。軍や警察が体制から独立し、独自の判断で行動を始めたら、体制は、軍や警察を統制、制御する事が不可能になる。それは、国家の主権と独立が損なわれることを意味する。なぜならば、国家の定めた法に従わない武力組織を容認することになるからである。その瞬間に法の有効性が失われる。軍や警察は国家の統制下にあってはじめて正当性が保障されるのである。国家の統制から離れた軍や警察は無法集団である。
国家において、正義は、権力によって実現し、保障される。故に、国家を離れた軍や警察に正義はない。大義がなければ、軍や警察は存在意義がなくなる。故に、正義を求めて軍や警察は権力を掌握しようとする。
国民国家以外の国の軍隊は、特定の個人か、組織に対して忠誠を誓う私兵である。封建領主国や君主国の軍は私兵の域を出ない。逆に、私兵によって支配、或いは、公然と私兵が存在する国は、国民国家ではない。なぜならば、軍と警察は国家権力を体現する実体だからである。
軍や警察の性格は、軍や警察の在り方による。つまり、第一に、軍や警察は非生産的な組織だと言う事である。軍や警察は愚なや警察自体が何かを生産するわけではない。軍や警察は、専ら消費するだけである。つまり、軍や警察が存続するために必要な物資は、外部から常に調達し続けなければならないのである。
軍や警察は、非生産的な集団、組織である。故に、軍や警察は、生産的集団に寄生する。
軍と警察は、官僚組織の一部、或いは、一種である。
軍や警察は、自己完結的で、閉鎖的な集団、組織である。即ち、孤立した集団であり、独立した共同体である。故に、軍や警察は、独自、固有の法、規範、規律を持つ。
軍や警察は、軍や警察を構成する構成員の組織、集団に対する忠誠から成り立っている。
本来、軍や警察は、国家を外敵から護る事や国内の治安、秩序を維持する事が本分である。軍や警察が独自の意志を持って動くのではなく。国家の意志を体現する機関、組織であらねばならない。
その為に、軍も警察も独自の規律と論理で動く。即ち、忠誠と自制である。
軍や警察は、平時、日常の法に対し、超越した存在である。つまり、法を超えた存在である。
平時、日常においては、武器を携行し、或いは、妄りに武器を使用することは違法である。しかし、軍や警察は、必要な時をそれを自分の責任下において行使することが許されている。
良い例が交通規則である。速度違反は、違反である。しかし、緊急時や交通違反を取り締まる際においては、警察は、交通規則を超越した存在として行動することが許されている。即ち、警察は、交通法規を取り締まる側にありながら、交通法規に対して超然とした存在、又、特別な交通法規に従う存在だと言う事である。言い換えると警察は、交通法規を取り締まる側にいるから交通法規に対して超然とした存在だと言えるのである。
この様に一般社会の法に対して超然とした存在である軍や警察を取り締まる法は、独自、固有の法を別に制定する必要があるのである。
軍も警察も戦う集団である。即ち、戦闘集団である。その為に、最新鋭の装備で武装している。軍や警察が自制を失って暴走する時、国家は体制は破綻し、治安、秩序は失われる。
軍が国防を放棄すれば、その国の独立と主権は、危うくなる。警察が法を破れは国家の法は、その信を失い。効力を失う。その瞬間から国家は、国家としての基盤、前提を失う。
故に、軍や警察は、強い自制が要求され、また、権力によって抑制されなければならない。
軍も警察も集団行動を規範とし、組織的行動を基本とする。故に、軍隊も警察も団結と規律を旨とする。
即ち、軍も警察も指示、命令によって統率、統御される。指示、命令の厳守が絶対化される。
軍も警察も自己完結型の組織である。故に、自分が所属する組織、或いは、上官に対する忠誠を要求される。
軍も警察も官僚組織の一種であるか、或いは、官僚組織の一種である。
故に、軍も警察も厳格な規則、手続に従って行動する。又、記録や文書によって正当化される。
一にも、二にも国家の独立と安寧は、軍事と警察官の義にある。軍人や警察官の使命感にある。軍や警察の規律は、正義感によって護られているからである。大義を失った軍も、警察も単なる暴力団でしかない。
ヒンズーは、牛を神聖視することによって牛肉を食べず。イスラムは、豚を卑しんで豚肉を食べない。しかし、いずれにしても肉を食べないことに違いはない。
大東亜戦争以前の日本は、統帥権の問題によって、国防は不可侵なものになり、戦後は、平和憲法によって国防は、卑しめられた。そして、いずれにしても、一部の人間でしかまともな議論がされていない。
問題なのは、国防というものを真剣にそして、真面目に議論していないことである。そして、国防の根底にあるのは、国家理念であり、国家観なのである。
軍も警察も孤立しやすい環境、状況にあるという事を忘れてはならない。
軍も警察もそれ自体が自己完結的な組織をでありながら、国家や体制、権力に従属する性格を持っている。それが一度閉鎖的になれば、必然的に社会から孤立する。社会から孤立した武装集団ほど危険な存在はない。
軍や警察を社会から孤立させないためには、軍や警察を開放的な組織とした上に、社会も軍や警察に対して開かれたものにしなければならない。
問題なのは、社会が軍人や警察官を特別視する事である。軍や警察を忌避し、敬して遠ざければ、軍や警察は、必然的に孤立し、独自の社会を形成してしまう。
軍や警察と、社会が融合し、一体とならない限り、真の独立も、秩序も得られない。
檻に入った虎をからかったとしても勇気ある行動とは言えない。ただ、軽率なだけである。
軍人や警察官も人間である。軍人や警察官が、よく自分を自制し、一朝事ある時に、身命を賭して国家、国民を護るのは、軍人としての、警察官としての自尊心、使命感、正義感、名誉に依るのである。故に、軍人や警察官は、大義に殉じ、名誉を重んじる。
国民が軍や警察に自制を求め期待するならば、軍人や警察官の自尊心、誇りを、侮るべきではない。
軍人や警察官が自制しているからといって、妄(みだ)りに、軍人や警察官の名誉を傷つけるべきではない。
主権と独立を護れない国の軍や警察を国民が頼るのは、滑稽と言うよりも、哀れである。
主権と独立を護るのは、軍と警察である。だからこそ軍と警察は、国家の本質を体現しているのである。
軍と警察の有り様こそ、その国の国家理念、思想である。どれ程、自由を装っても独裁的な軍や警察に支配された国を自由主義国とは言わない。他国の軍や警察によっらなければ自国の安全や治安を保障、維持できない国に、主権や独立はない。
自由主義国を標榜するならば、先ず主権と独立を確立することである。その上で、軍と警察を自由主義国に適した軍と警察の体制を確立しなければならない。即ち、国民主権の元に、軍や警察は、統制される体制にしなければならない。
国家の自由、ひいては、国民の自由は、国家の自主独立なくして成り立たない。隷属する者に自由は最初からないのである。戦後の日本人に与えられたのは、家畜の自由である。真の自由は、自らの国を自らが護ることで得られるのである。
国家の独立なくして、国家の自由はない。国家が自由でなくして、国民の自由もない。
独立自尊。同盟と言うが、同盟は、主権と独立が確立されている国同士ではじめて有効となる。何等かの従属関係がある国同士では、同盟関係を維持することは困難である。だからこそ、内政干渉を忌避し、互いの主権を尊重するのである。
国民が誰も護ろうとしない国や秩序は、護りきれるものではない。国を護るのは、軍人だけではなく、国の秩序を護るのは、警察官だけではない。国を護り、秩序を維持する、国民一人一人の自覚と、愛国心、そして、道徳心以外にないのである。