戦争と平和(名誉について)


 他人の過去の過ちを糾弾する事は容易い。しかし、自分の過ちを認め改める事は、端で考えているよりも難しいものである。
 なぜならば、自分の過ちは、自分が当事者になるからである。
 他人を批判ばかりしていても問題の真の解決はできない。自分が責任ある立場に立って決断することによってのみ責任は果たせるのである。
 誰も、望んで過ちを犯したい者はいない。
 誰だって、その時々に、最善の策だと思って決断をしているのである。成功、失敗は結果であって動機ではない。過ぎ去ってみて、失敗だったという事は多々ある。むしろ、うまくいったという事の方が少ない。
 大体、何事も自分の思い通りにいくと思い上がるのが間違いの素なのである。
 思い通りにならないからと言って投げやりになったり、諦めるのではなく。粘り強く、根気強く難問に挑み続ける事によってのみ未来は拓けるのである。
 問題は、過ちを犯すことではなく。過ちだと気がついた時点で、どう改めるかである。責任を問うのは、結果が明らかになった後の問題である。むしろ、過ちを犯すことを恐れて何も決断できなくなることの方が怖い。不決断は、最大の誤判断である。

 戦争が起こる前には、戦争が起こる原因は、数え切れないほどあったはずなのに、終戦後に、戦争になった原因を捜すと、戦争にならなければなならなかった決定的な原因を探し出すのは難しいと言われる。それは、戦争の原因となる要素をその要素がわっかった時点時点で適切に解決していけば戦争を避けられるという事を暗に示している。
 肝心なのは、戦争を起こしてはならないという強い意志を持つことである。その強い意志は、現実を直視する勇気によってのみもたらされる。
 武装を放棄したからと言って戦争がなくなるとはかぎらない。むしろ、武装を放棄することで他国からの侵略を受け、或いは、戦争に巻き込まれるおそれの方が大きい。
 戦争は、なぜ、起こるのか。平和は、何によって実現し、どの様にして護られるのか。その真実を見極めることが何よりもまず求められることである。

 戦争は、人間の愚かさだけによって起こるわけではない。
 何等かの理由で生存が脅かされた場合も戦争は引き起こされるのである。生存を脅かす原因の第一は、食料であり、資源の枯渇である。また、天災や災害による原因も考えられる。気候変動による原因も考えられる。地理的な要件も重大な問題である。人口の増減も考えられる。それこそ、隣国の災害や、民族の移動、他国による侵略も戦争の原因となる。他国の戦争に巻き込まれることもある。内戦やの拡大や権力抗争も戦争を引き込むことがある。思想や信条の違いも戦争の一因である。トロイの神話のように男女問題から戦争に発展することもある。戦争の原因は一様ではない。ただ決定的なのは、生存に関わる問題が何等かの形で介在すると言う事である。

 戦争は国債発行を促し、軍拡競争は財政を悪化させる。戦争とは、経済現象でもあるのだ。戦争は、国家間の生き残りを賭けた戦いなのである。

 日本は、島国であり、自給率も低い。海外からの物資の調達や輸送手段を断たれたら、すぐに、国民生活が成り立たなくなる恐れがある。日本に対して物資の調達や輸送手段を断つことは、例え、それが経済制裁や経済封鎖という行為でも軍事行動と同等の意味を持つと考えざるを得ない。それは、宣戦布告されたのと同じである。

 国家は、暴力装置である。国家の健全さは、一にも二にも、軍人と警察官の良識によって維持されている。国家と国民は、常に、無法の暴力に曝されている。軍と警察の使命は、内にあっては、治安と秩序を守り、外に対しては、外敵の侵略から国民を守ることにある。又、あらゆる災害から国民を防ぐことにある。そして、国家、国民にとって危急存亡の秋(とき)は、いつ訪れるか解らないのである。緊急事態に備えて常に緊張状態に置かれなければならない。
 その為には、軍人、警察、消防士は、国家、国民に対する献身的な精神が常に要求されている。
 軍人や警察官、消防士に良識を期待できなくなった時、また、軍人や警察官、消防士から使命感が失われた時、国家、国民の生命財産の安全は保障されなくなる。国家の秩序と安全は、軍人、警察官、消防士の崇高な精神によって保たれている。

 国民国家の自由と独立は、実に、軍と警察によって守られている。
 国民国家が主権と独立を維持するためには、他国の侵略や脅威から自国の主張や権利を守り通す必要がある。
 国防は理念ではなく。現実である。故に、戦争も平和も現実である。

 戦争の原因の多くは、国内にある。特に国内の権力闘争に端を発する場合が多い。権力者の多くは、自分の立場を危うくするような戦争を自分から望んだりしないものである。国内の逼塞状態をいかに打破するか、その手段として戦争が用いられるのである。
 侵略的に見える軍事行動も国内の事情で追いつめられた結果である場合が多い。
 また、戦争の原因は、防御的な動機による要因が多い。国防というように、過剰な防衛意識が結果的に攻撃的になるのである。
 最初から侵略を目的として軍事行動を起こすことは稀である。只、侵略を目的とした軍事行動は、系統だったものが多いから際立つのである。
 戦争の原因の多くが、国内の問題に原因がある。故に、いかに、一つの国が武装を放棄したとしても戦争をなくすことはできない。警官が武装を放棄しても犯罪がなくならないのと同じである。その様な行為は理想とはほど遠い。

 また、世界が一つの理念によって統合される事があるとしても、それは、かなり先のことである。民主主義者や共産主義者の中には、自分達の思想は普遍的真理だとして、世界は唯一つの思想によって統合されると考える者がいるが、本来の世界は、多様であり、多様だからこそ変化に適合することができるのである。そして、国際社会は、力関係によって成り立っているのである。その現実を無視することの方が平和を乱すことなのである。戦争は、偶発的な衝突によって引き起こされる場合が多いのである。安易な楽観は、事態を不必要に拗らせる危険性がある。

 アメリカは、南北戦争以後、本土が直接攻撃されたのは、日本による真珠湾攻撃と9.11テロだけだと言われる。
 言い換えるとアメリカは、南北戦争以後、アメリカ本土以外の場所を主戦場として戦争をしてきたという事になる。それが戦争の現実である。
 日本人は、国を護るために、アメリカと戦ったという。しかし、日本が戦った主戦場も又、日本本土以外の場所である。
 日本人は、自分達の敵を意識しても戦場に住む人々を意識していない場合が多い。それが、日本人と戦場となった国々の人々との意識に軋轢を生じさせる原因となるのである。

 重要なことは、戦争というのは、当事者、当事国だけに限定された問題ではないという事である。第二次世界大戦においてスイスが中立を守り通せたのは、スイスが自国を護るための民兵制度を保持したことによると言う事である。非武装で中立を守り通せた国家は、古来存在しない。それは、現代日本でも同じである。現代の日本の立場は、中立からほど遠いものであることを日本人は、認識しておく必要がある。もし、日本人が中立的な立場をとりたいというのならば、それ相応の覚悟と再武装化が前提となる。むろん、今日の日本を非武装だと思うお人好しの国は、すくなくも、国際社会には存在しない。

 好むと好まざるとに関わらず。自国の置かれている地理的条件、政治的立場によっては、自国が戦争に巻き込まれる可能性が常に存在することを忘れてはならない。
 国家の主権と独立は、自国民によって護られることを鉄則とする。自分達の力で自分達の国を護ろうという意識を国民が失った時、植民地化は、始まるのである。
 そして、その惨禍は、自らと自らが愛する人々に降りかかるのである。
 平和、そして、国民の生命、財産、自分と自分家族の安全は、自分達の力でしか守れないのである。

 戦場には、敵か味方しかいない。安易な楽観は厳に戒める事である。戦場では、誰が敵で、誰が味方かを見極めることである。敵と味方を見誤れれば自分だけでなく。国家の安危存亡にも関わるのである。

 勝てば官軍、負ければ賊軍である。敗軍に大義は認められない。期待できるのは、勝者の憐憫だけである。それは、明治維新や太平洋戦争を見れば明らかである。

 敗軍の規律を守ることは難しい。
 規律を失えば、軍も警察も山賊、夜盗と変わりがなくなってしまう。軍や警察の規律を守るのは、軍人や警察官の使命感に他ならない。軍人や警察官から道徳観がなくなれば、ただの暴徒、暴漢である。
 現実に、敗軍の規律が乱れ、敗残兵が山賊夜盗に転じたと言う話は、枚挙に遑(いとま)がない。
 警察も江戸時代には、博徒が二足の草鞋を履いてた場所もあり、アメリカも開拓時代は、ガンマンや賞金稼ぎが保安官を兼ねていたのである。

 世の中には、様々な陰謀論や謀略論が横行している。中には、この世の出来事の全てが何等かの謀略によって説明できるとしている者もいる。
 確かに、陰謀や謀略は常に存在している。陰謀や謀略とは意図だからである。他国から見れば日本人こそ謀略的に行動していると見なしてもおかしくない。謀略や陰謀が存在するとして、だからどうだというのである。要は、誰を味方とし、誰を敵とするのかの問題である。

 陰謀や謀略があるのが問題なのではない。陰謀や謀略に無防備なのが問題なのである。

 重要なのは、陰謀や謀略の背後に働く意図である。その意図を見抜き、その意図に対してどう対処すべきかが重大なのである。

 戦いで重要なのは見切りである。自分達の置かれている状況や環境を見切ることである。状況、現実を正しく認識できなければ、その時点で勝負は付いているのである。

 権力が存在するところに、陰謀や謀略は、常に生じるのである。なぜならば、陰謀や謀略は権力抗争のための手段だからである。肝心なのは、陰謀や謀略に翻弄されて主権や独立を失うことである。権力を簒奪されることなのである。

 陰謀や謀略の手段は、情報操作、情宣、啓蒙、教育、即ち、洗脳である。故に、どこにでもスパイはいると考えているべきなのである。
 何の意図もなく。他国や他の組織を支援したり、援助するなどと言う国も組織もない。何等かの利害、或いは、信条に基づいて国も個人も行動しているのである。
 自由主義や民主主義、共産主義、又、何等かの宗教的信条を大義として人々を救済すると言っても、主義主張の違う人間から見れば、陰謀、謀略の類でしかないのである。

 陰謀や謀略というのは、社会の表に現れないところで行われるから効果が期待できるし、又、意味がある。表に現れてしまえば陰謀も謀略も意味を為さない。
 故に、陰謀や謀略は、常に、秘密、或いは、非合法の臭いがつきまとう。組織は、秘密結社であり、動く金は、表に現れない裏金である。その為に、陰謀や謀略の存在自体が国家の秩序や治安の妨げになる。事実、多くの陰謀や謀略は犯罪組織を介して実行される。それが問題なのである。
 つまり、陰謀や謀略というのは、闇の中にある。闇の中から政治の中枢を狙っている。だからこそ、政治的指導者は、常に心しなければならない。政治的指導者の弱味に乗じて陰謀や謀略は為されるのである。政治的指導者の倫理が問われ、禁欲、克己心が求められのは、権力には、常に誘惑が伴うからである。

 日本を取り囲む全ての国や諸国民が日本や日本人に対して好意的で、常に、良識的に行動すると言う前提に立つことの方が平和を乱す考え方なのである。しかも、あたかも日本人だけが好戦的で非常識であるかの発想は、あまりに稚拙だとしかいいようがない。ありもしない現実をさも所与の、或いは、自明の事実のように前提するのは、不合理で馬鹿げた行為である。それが国政からかけ離れたところにいる者が言うのならばまだしも、国政に任ずる者が言うとしたら、国民を欺く、国家に対する背信行為である。また、国家の主権や独立に対して脅威を与える事はない。為政者が善良を装うことは、国民に対する裏切り。

 戦争を構成する要素には、戦争の原因と目的、戦争を引き起こす主体、実際に戦争を実行するための仕組みや組織、戦争をする空間、戦争を引き起こすキッカケ、戦争を終結させる手続などがある。

 戦争は、政治的破綻によって引き起こされる現象である。戦争の原因は、政治的破綻にある。故に、政治の役割は重要なのである。又、軍事は政治に従属すべき事象なのである。さもなければ国家主権の統一性が保たれなくなる。

 外交とは、国防の為の政治的手段の一つである。国防とは、国家が存続する為に必要な主張を実現し続ける事である。

 戦争の原因として、軍部の暴走をあげる者がいるが、軍部の暴走を許した時点で政治は破綻しているのである。そのことを政治家は、決して忘れてはならない。軍というのは仕組みに過ぎないのである。軍を制御するのは、人間である。軍隊があるから戦争が起こるという認識は間違いである。軍隊があるから、平和は守られているのである。その意味で本来、軍は、平和を維持するための仕組みなのである。そして、軍が平和を維持するためには、軍の規律と軍人の克己心が何よりも重要となるのである。

 軍人と警察官の健全さは、愛国心と国家に対する忠誠心によって保たれる。国家への愛国心とは、国家、国民に対する人情であり、国家への忠誠心とは、国家の主権と独立に対する忠誠心である。
 即ち、国家への義理と人情によって軍人と警察官の道徳は守られる。

 国民国家の軍人と警察官の倫理観は、愛国心と国家、国民への忠誠心によって育まれる。軍人や警察官の倫理観は、名誉によって守られている。軍人や警察官から使命感が失われれば、忽ちのうちに軍人と警察官の倫理観は崩壊する。

 戦後の日本は、自衛隊員と警察官の健全さによって保たれてきたと言っても過言ではない。戦後の日本は、自衛官や警察官の名誉を著しく傷つけてきた。それでも、自衛官と警察官は、自らの名誉を保ち健全さを維持し続けてきた。これは、一重に自衛官、警察官、一人一人の使命感の為せる業だと感服する。
 戦後永きに渡って国民の平和と安全が保たれたのは、自衛隊と警察の貢献するところが大きかった。
 この点を日本人は、自覚し、高く評価すべき時が来た。いつまでも、自衛官や警察官の使命感だけを頼るわけにはいかないのである。
 そして、自衛隊と日本の警察を誇りとすべきなのである。

 不健全なのは、外交や国防上の問題政争の具にする政治家である。又、マスメディアの責任は大きい。

 戦争は、政治的問題であると同時に、経済的問題でもある。なぜならば、戦争は、国民生活が破綻することによって引き起こされる現象でもあるからである。戦争は、一部の政治家や特権階級によってのみ引き起こされる問題ではない。戦いたくて戦うのではない。戦わなければならない原因があるから戦うのである。戦いの原因は、観念的なものではなく。実利的問題である。さもなければ、政治的指導者は、国民や兵士の支持を得ることはできない。実際に戦うのは、国民であり、兵士なのである。

 戦争とは、消費である。言い換えると、消耗である。生産的な要素は戦争にはない。時には、戦争による消費が経済を活性化させることもある。しかし、それは、短期的、一時的な現象に過ぎない。戦争は、結果的には、国家経済を破綻させる原因である。消費によって経済を活性化させたいのならば、戦争以外にもいくらでもある。軍事は、再生産のできない消費なのである。

 戦争を始めるのは容易い。しかし、戦争を終結するのは、大変に困難である。結局、終結すべき時機を失い戦いが泥沼化し、ベトナム戦争のように、国民の精神にまで深い傷跡を残すことにもなりかねない。しかも、戦争は益なき消費、消耗である。戦争が長引けば、経済に深刻な禍根を残すことにもなる。戦いにいつどの様な決着をつけるかは、、政治の最も重要な役割である。

 戦争とは、国家間、又は、国家に準ずる組織間において暴力によって自分の主張を相手に強制しようとする行為である。国家間には、絶えず、利害対立が生じやすい環境が存在する。それは、国際社会において国家間が相互に依存した関係を前提としているからである。つまり、国家間は、抗争状態にあるのが常態であり、国家間の力関係によって平和な常態は、作られ維持されていると考えるのが妥当である。

 戦争に対する従来から定義は、基本的に国家を単位としていたが、昨今の戦争は、必ずしも国家単位で発生するとはかぎらなくなってきた。大体、国家という概念そのものが近代にいたって成立したものである。それ以前は、何等かの勢力や集団間において生じた大規模な争いの総称だったのである。

 独立戦争や革命と言った戦争形態が加わるようになると戦争の形態は、正規軍同士の戦いとはかぎらなくなった。パルチザンやゲリラと言った非正規軍との交戦も又戦争の状態となってきた。更に、今日では、テロリストと言った見えない敵を相手とした戦いも加わるようになった。それにつれて、正規軍と非正規軍との境もなくなりつつある。それに伴って軍と警察の垣根も曖昧になってきた。

 戦争の要諦は、敵の中枢を破壊するか、核心を衝くことにある。しかし、中枢なき敵や核心のない相手も現れてきた。それが現代の戦争を終わりなき戦い、泥沼へと引きずり込むのである。当に、見えない敵を相手にした先の見えない戦いなのである。それが戦争を一層凄惨なものにしている。

 当事者能力のない相手との戦いは、長引く上に消耗が激しい。故に、極力避けるべきである。相手国の争乱に乗じて侵略することは愚策である。なぜならば、混乱期の国家は、当事者能力を持たないからである。

 駐留軍を維持するためには、多大な費用を要する上に住民の支持を得ることは難しい。
 軍隊を他国に駐留する行為は、労多くして報われることが少ない。又、駐留される側にとっても駐留軍の目的を理解することは困難である。駐留軍が駐留する国や国民を護るという事はありえないからである。軍を他国に駐留させるという事は、駐留している国を護るという以外に独自の目的がなければ意味がないからである。
 国家の主権と独立は、主権者が護るべき事象なのである。

 実際の戦争の主体が変化するに伴って戦場の範囲や質も変化しつつある。即ち、戦争が一定名かぎられたエリア(地域)から、ゾーン(領域)へと拡大してきたのである。
 又、ネットワークが作り出す空間によって戦場が地球的規模で拡大しつつある。今や戦場は特定の空間に限定することが困難になってきたのである。

 戦後の日本の教育は、日本人を恩恵だけを受けて恩返しを考えない。恩知らずな人間に育ててしまった。しかし、戦後日本の平和を維持してきたのは、自衛隊と警察官の縁の下での働きに依存してきた事は、明らかな事実である。

 自分の親子、兄弟の安全を護りたいのならば、国家の主権と独立を護ることを教育すべきなのである。誰も護ろうとしない国を護りきる事はできない。最近、テレビのアンケートで、自国を命懸けで守れますかという質問にこんな国のために戦えないと全ての者が答えた。では、誰が自分達のために戦うというのか。どこへ逃げるというのか。戦後教育の成果がこんな処にも現れている。

 軍人や警察官、消防士にとって名誉程、重要なものはない。軍事や警察官、消防士の名誉が保たれなくなれば、軍人や警察官の倫理は保証できなくなる。
 軍人、警察官、消防士の名誉を守るのは国民の義務である。
 戦後の日本人は、この点に関し、著しく配慮を欠いている。特に言論界の人間、教育界の人間にこの傾向が強い。
 なぜ、言論や教育においてこの配慮が欠けるようになったのか。それは、日本が敗戦国であり、主権と独立を保てなかったことに起因している。現在の教育は、植民地教育である。また、日本を間接的に統治しようとする者と日本を侵略しようとする者の思惑が一致したからである。

 平和は、秩序によって保たれている。秩序を否定する者は、平和を叫ぶ資格はない。しかし、往々にして平和を口にしながら、秩序を乱す者がいる。
 一方において平和を標榜しながら、もう一方で、秩序を乱す意図は、争乱を起こして社会を根底から覆そうという目的以外考えられない。
 秩序を保つには、組織を受け容れるか否かにかかっている。それは、組織の階層性や規律、統制、規則、分業、機能、格差を認め受け容れる事ができるかどうかの問題でもある。組織性を否定したら社会秩序を保つことはできない。

 戦後の知識人の多くは、秩序が保たれる事を前提として叛逆を試みている。自分達が暴れたところで、大勢に影響はないと高をくくって子供のように反抗してきたのである。今や反体制を気取ってきた連中が、体制側に立っているのである。権力を掌握したのである。責任ある行動を要求されているのである。問題は、それが自覚されているかである。他人を批判することは容易い。しかし、責任を持って決断をすることは大変な勇気を必要とするのである。
 今まで、反体制を標榜してきた者達は、体制側が、受忍して弾圧してこないことを前提にし、言いたい放題言っているに過ぎない。それを勇気ある行動だというのは、間違いである。相手が自重しているのを良いことにして図に乗っているに過ぎない。しかし、物事には限度がある。調子に乗って限度を超えれば、社会秩序を危険に曝すことになる。

 檻の中の虎をからかったとしても勇気のある行為とは言えない。
 日本の言論界の人間は、常に、その時代の時流に合わせてきた。戦前は、戦意を煽り、敗戦へと導き。戦後は、反体制を気取って侵略者に媚びてきた。
 戦後、反体制、反政府を気取っていれば、知識人としての地位が保証されていたからである。

 軍人や警察官が反体制、反政府、無政府的であることほど、不健全で、異常、危険なことはない。
 一時、オーム真理教が自衛隊や警察に侵入しようとしていたことが判明して騒然となった。しかし、それを許したのは、マスコミである。マスコミは常に、争乱の種を蒔きながら、自ら責任をとろうとはしない。責任をとろうとしないどころか自覚すらしていない。世論を煽るだけ煽っておいて争乱が起こるとその首謀者を弾劾する。それが彼等の生業なのである。
 言論の自由は、猥褻物を解禁するためにあるわけではない。

 軍や警察、消防は、常に、革命勢力や無法者の侵略の脅威に曝されていることを忘れてはならない。軍や警察、消防が無法な勢力に支配されれば、国家、国民の安全は、保てなくなる。

 軍や警察、消防、そして、教育の世界に反体制主義者や反権力主義者、反国家主義者が侵入することを許してはならない。それは言論の自由とは別の問題であり、国家の安全保障の問題だからである。

 軍人や警察官は、昔から国民に恐れられてきた。それは、軍や警察は権力の象徴だからである。つまり、国権の根源に関わる勢力だからである。
 軍や警察が公の立場を堅持するかぎり、権力は正常に機能する。
 軍や警察が守らなければならないのは、国家の規律と秩序である。国家の規律と秩序は常に、反国家主義者、反体制主義者、無法者、反逆者によって脅威に曝されている。ゆえに、軍も警察も恐れられる存在でなければならない。また、恐れさせなければならない。故に、軍人や警察官が恐れられるのは宿命的な問題である。
 軍も警察も根本的に公に認められた唯一の暴力装置なのである。また、軍と警察とは、表裏を為す関係にある。その目指すところは一つなのである。

 国民国家においては、軍と警察、消防は、常に国民と共にあらねばならない。
 軍も警察も恐れられる存在だからこそ礼節を重んじなければならない。
 礼を失えば、権力は驕慢となり、暴走する。それを抑制するのも又、軍と警察の役割である。軍人と警察官は自制しなければならない。

 善と悪とは表裏を為す。善は善だけで成り立っているわけではない。善には、悪が、悪には善が相対(あいたい)している。善と悪とは、相対(あいたい)している。何をもって善とし、何をもって悪とするかは、その人の立ち位置と思想に基づくのである。

 敵国に内通する者や敵国のスパイ、テロリストは、自国にとって裏切り者かも知れないが敵対国にとっては英雄である。それに思想が絡むと余計に複雑となる。何を義とし、何を不義とするのか。それこそが、軍と警察の健全さの拠り所である。

 軍と警察は、公をもって善と為す。
 軍人や警察官は、大義、公義を前提として正当化される。大義、公義は、公の正義である。国民国家における大義、公義とは、国家、国民の安全と保障である。内にあっては、治安であり、外にあっては、国防である。大義や公義を滅すれば、軍隊や警察は、私兵、警備員となる。私兵、警備員は、私利私欲のために働く集団に過ぎない。軍や警察は、公に従うから正義があるのである。

 軍人の支えてなるべき精神は、武士道である。国家に対する忠誠と国民に対する仁愛、使命感である。
 警察官が護持しなければならない根本精神は、遵法精神である。
 軍人や警察官に求められるのは、克己心である。

 戦後の知識人の中には、戦前、戦中の日本の庶民は、あたかも被害者であるかの如く主張する者がいる。又、学校教育において教育もする。しかし、戦前、戦中の人々を愚弄する言動である。戦前、戦中の人々にも志はあった。一人一人に愛国心や使命感があったのである。その志すところを議論することは過ちではないが、何の考えもなく戦場に行って意味もなく死んでいったと決め付けるのは、かえって彼等を侮辱することである。
 戦前、戦中の日本人の方が思想や考え方が曖昧模糊とした現代より思想や哲学が生き様に直結していたと言っていい。しっかりしていたのである。

 戦争は厭だ、嫌いだ、怖いと感情に訴え続けるだけでは、平和は保てないのである。

 戦争を起こしたくないと言うのならば、現実を直視すべきなのである。本当に戦争を起こしたくないのならば、つまらぬ被害者意識に囚われることなく戦争の本質、根因を理解することである。

 領土問題において武力か金の力なしに解決を見た例しはない。歴史的事実などといった学術的な事で領土が決着するのならば、戦争など起こりはしないのである。
 それが現実なのである。国際政治というのは現実である。現実を直視した上で、如何にして自分の目的を達成するかを考えなければならないのである。

 治と乱とは、表裏を為す。戦争と平和は、表裏である。平和は、守るべき状態であって、自然になる状態とは違う。なぜならば、国際社会は力によって保たれているからである。世界は、一面において常に戦闘状態なのである。戦争というのは、争いが表面に現れたのに過ぎない。
 国家には、隷属か、独立かしかない。少なくとも国際社会では、いくら自分が独立していると主張しても自国の運命を自分達の力で決められない国を独立国として認めはしない。
 日本人に与えられた自由は、家畜の自由でしかない。それを理解しないと真の独立の意味が理解できない。
 犯罪が起こるのは、警察が存在するからではない。病気が流行るのは医者がいるからではない。火事が起こるのは、消防署が備えているからではない。この様な道理さえ、今の日本人には通用しない。平和を乱すのが軍隊ならば、平和を守るのも軍隊である。

 軍人や警察官に要求されるのは、素養、教養である。そして、中庸である。
 軍人や警察官で肝心なのは修行である。軍人も警官も本分は戦いである。武である。故に、武を窮め、文を修める必要があるのである。
 軍人や警察官に求められるのは徳である。なぜならば、軍人は、外敵から国を守り、警官は、犯罪者から治安を守るからである。徳や義、礼がなければ人を恭順させることは出来ない。

 日本人であることに誇りを持てない。日本人であることが恥ずかしいと思い込むような教育をしている者が、軍人や警察官、消防士の名誉を保つようなことができるはずがない。それは、平和主義の名の下に争乱を引き起こすことである。

 国防というの、何も他国の侵略に備えることのみを指すのではない。犯罪や災害、自己に対して備えるのも又、国防である。故にも国防は、国家の基幹に関わる問題なのである。根本に問われるのは、国家の在り方、構想である。

 戦争が終わってみたら、誰も戦争をしたくなかったという話になりがちである。政治家も、事業家も、官僚も、外交官も、知識人も、軍人ですら戦争を望んでいなかったという事になる。ならばなぜ、戦争が起こったのか。戦争を起こすのは人間である。悪魔でも、悪鬼羅刹でもない。人間が望まなければ戦争にはならないのである。何が戦争を起こしたのかそれを明らかにしない限り戦争は、なくならない。戦争反対、戦争反対と唱えるだけでは戦争はなくならないのである。




        


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