政治とは、何か。難しい問題である。政治とか、経済という言葉を我々は、頻繁に使う。文化系の大学にも政治や経済に関連した学部、学課はたくさんある。しかし、改めて、政治とは何か。経済とは何かを問われると答えに窮す。満足な答えができる者がどれくらいいるであろうか。それなのに、政治や経済は、我々は、既知のこととしている。当たり前、誰でも知っている事を前提としている。
知ってるつもりの最たるものが政治であり、経済である。なぜ我々は、政治や経済を知っているつもりでいるのであろうか。居られるのであろうか。それは、職業としての政治、経済。現象としての政治、経済が比較的明らかにされているからである。新聞も政治欄、経済欄として大きく分類されている。それを見れば大枠、政治と経済が区分されるのである。しかし、それでは、政治とは何か。経済とは何か。改めて定義してみようとするとこれが結構難しい。特に、何が、政治問題で、何が、経済問題なのかを区分分類しようとすると、いわゆる灰色の部分が沢山あって、明確に区分できなくなる部分が多くある。
政治とは何か。政治とは、集団の意思決定の過程である。集団は、集団を維持するために一つの結論を出さなければならない時がある。状況がある。事がある。集団の意志を一つにまとめていく過程が政治である。だから、職業としての政治、現象としての政治は、顕現するのに、政治総体が姿を現すことは稀なのである。また、姿を現したとしても気が付かないのである。
そして、意思決定する対象には、経済的問題や外交的問題、教育的問題、軍事的問題と集団のあらゆる問題が含まれるのである。ただ、その本質は、集団の運営である。その集団が国家となった限定されたものが我々が通常使う、狭義の意味の政治になるのである。
集団には、運営的要素、経営的要素、外交的要素、人事的要素、統合・統制的要素の五つの要素がある。
運営とは政治である。経営とは経済・財政である。人事的要素は、主権者に帰属し、選挙制度となる。統合・統制的要素は、立法が規定し、司法が監視する。治安維持は、運営的要素に含まれ。軍事は、外交的要素に含まれる。
政治は絶対的なものを追求しているわけではない。政治は、相対的な力関係である。政治は、その時の情勢や状況によって変わる。
政治に幻想を抱いてはならない。幻想を持つべきではない。政治は、理想ではない。現実である。政治とは、相対的なものである。政治に絶対的なものを求めるのは間違いである。絶対的なものを求めた瞬間、政治は、破綻する。なぜならば、政治過程を喪失するからである。
政治は、元々俗ぽい仕事なのである。
政治家は、世事に詳しくなければならない。政治家は、人情の機微に通じていなければならない。政治は、俗事にまみれなければならない。政治は、生業に、関わらなければならない。政治は、愛憎の問題に関わらざるをえないのである。政治には、利権が付き物である。政治は財政を決める。政治には、利害関係者が多い。政治は、既得権を生む。政治は特権を生む。政治は情報を早く、詳しく、深く入手できる。政治は、権力を背景としている。政治は、結果でしかない。政治は現実である。政治には人間関係が大切で、いろいろな付き合いが生じる。政治家は、分け隔てなく多くの人の意見を聞かなければならない。その中には、政治家を利用しようと企む者も含まれている。政治とは、生臭い世界なのである。誘惑の多い世界なのである。
政治家は、聖人にはできないのである。凡人でなければできない。なぜならば、政治は、人間がすることだからである。欲と欲の葛藤の中にいなければならないからである。自分も当事者でなければ解決できないからである。泥も被り、血も被らなければならないからである。汗も流さなければならない。この世を超越できないからである。善と悪とを超越し得なければ、同調する者から見て正義でも反対する者から見れば悪だからである。政治家は、逃げられないのである。だから、政治家は悟れない。解脱できないのである。悟りを拓いた政治家、解脱した政治家は、結局、独裁者になるしかない。だから、聖職者が権力を握れば、強権的、専制的、独裁的、全体主義的な体制になる。
だから、政治家に聖人君主を求めるのは愚かなことである。政治家は、相対的な価値観を持ち、妥協で決めからこそやっていけるのである。超俗的な普遍的、絶対不変の価値観を持っている者に政治を任せるのは、危険なことである政治は妥協の産物である。さもなければ、民主主義を否定するしかない。
政治家は、許し合えなければならない。どれ程激しくやり合ってもそれを怨恨にまでされたら、政治家は、生きていけない。政治家を選ぶのは、選挙民であって、政治家同士ではない。怨念や怨恨に支配されたら政治の世界は、血みどろになってしまう。だからこそ、政治家は、血も涙も持たなければならないのである。冷血な指導者は、政治の息の根を止めてしまう。そこに、政治家の潔癖が求められるのである。武士道、騎士道精神が必要なのである憐憫の情、惻隠の情が求められるのである。政敵を許せぬ者は、独裁者となる。政治を窒息させる。激しく鬩(せめ)ぎ合っても後はお互いを許し合う度量がなければ政治家は務まらない。
政治度は度量である。
政治家は神にはなれない。
政治の終焉は、絶対的な力によってこの世が支配されたときである。それは、神の世界か人類の破滅する時かのいずれかである。だから、政治力とは、相対的な力である。絶対不変の力ではない。また、普遍的力でもない。限りある人間の力なのである。だから、政治家は、その時その時、最善を尽くす以外にないのである。
神を否定する者は、自らを神とする。政治家は、自らを過信してはならない。自らを超越する何者かの力を信じ、常に自らを諫め、かつ、許さなければならない。さもないと、政治家は、自らを神としてしまう。
政治の力の源泉は、権力である。その権力を支えている力は、財力であり、武力であり、組織力であり、いずれにせよ力である。
政治的力は、集団の力である。何らかの集団が政治の力の根源になる。ただ力の根源は何であれ、政治は力である。更に言えば力の源は、人間の欲望である。この事を忘れては、政治は語れない。
政治的力とは、集団の力、即ち、団体圧力である。そして、経済力、知力、統制力、集票力、暴力・武力、団結力、発言力、説得力、情報力という団体の力になって政治力を発揮するのである。それ故に、政治力を持とうとする者は、徒党を組む。この団体の力を最大限に使うのが政治家である。
故に、政治家は、説得力を持たなければならない。説得力は、思想に基づく。
政治は力である。政治を担う政治家は、聖人でも、哲学者でもない。力の信奉者なのである。権力は、その集団内では絶大な力を持つ。権力は、集団を統制する力である。政治は、集団を統制、統御しようとする過程に現れる現象であるから、政治家は、当然権力志向となる。政治は、その権力を握ることで成就する。故に、政治は、権力闘争として現れる。我々が目にする政治現象は、権力闘争である。
政治の本質は権力闘争である。集団を統制しようとするのが政治である。政治が求めるのは、統制力である。統制力は、統一によって頂点に達する。故に、政治は、常に統一に向かう。統一に向かう過程が政治だと言っても良い。統一された時、政治過程が失われ、政治は終焉する。つまり、政治は、統一の過程であり、独裁を志向しているのである。皮肉なことに政治は、統一の過程で成立しながら、統一されると終わるのである。戦前の日本が典型である。それは、政治家の性格を表している。政治家は、統一を嫌いながら、統一していこうとするのである。独裁を嫌いながら、独裁者になっていくのが政治家なのである。
周囲に抵抗勢力・反対勢力が居なくなれば、政治家は、すぐに独裁者に変質する。それは、政治家の宿命である。
独裁体制や絶対主義体制が完成した時、政治は終焉する。つまり、独裁体制や絶対体制は、政治の死を意味する。戦前の日本の政治が大政翼賛会が設立された時を以て終焉したのが好例である。
政治の根本は、志である。
政治は、終わりなき過程である。政治で大切なのは、終わりではなく、始まりなのである。政治は、修羅道である。あえて涅槃(ねはん)に赴(おもむ)かず、共に生きて衆生(しゅじょう)の苦しみを救う。つまり、政治は、観念ではなく現実である。生身の人間が行うことである。
政治は、見果てぬ夢である。政治家はドン・キホーテである。手の届くはずのない星に手を伸ばし、勝つはずのない戦いに臨む。永遠の理想主義者である。世俗の泥沼に先ながら、汚れを知らぬ蓮の花のように生きる。それが政治の理想である。だから、志が大切なのである。
政治は決断である。曖昧とした事、判断に迷う事、意見が別れている事、利害が対立している事、迷っている事、悩んでいる事、幾つかの案がある事、結果が分かっていない事、予測付かない事、それらを決断するのが政治の役割である。
だからこそ志なのである。常に、潔くあらねばならない。政治家に未練は禁物なのである。もし、正しいと確信するならば、ただ一人でも貫き通す。それが、政治家である。当たり前に、国民への愛、国家への忠誠がなければ勤まらない。反対するのも、国民への義務、国家への使命故でなければならない。一時の私情を以て判断を誤ってはならないのである。政治家の卑怯未練な行いは、国家を危うくする。
どの様な体制を選ぶかは、その国の主権者が決める事である。主権者とは、権力を掌握した者である。政治は、主権を掌握したところから始まる。
国民が主権を掌握した時、国民国家は、産声を始める。その民主主義国家を育てるのが、国民国家における政治家の役割である。
国民国家の政治家の目的は、国家の独立と国民の主権を守ることである。