戦後の日本人から見ると、かつて、国を統治する者は、稀代の英雄であった。今は、極悪人のようである。
権力とは、悪であり。権力者は悪の権化であるという考え方に、現代人は取り憑かれている。確かに、権力には、魔力がある。しかし、権力欲だけで、人間は、支配者になれるものであろうか。権力は、一個人の力だけでとれるものではない。権力を握るものは、まず、何らかの集団、組織の指導者であらねばならない。指導者としての人望がないものは、権力者にはなれないのである。
だからこそ、権力者達にも、最初は、志しがあったはずである。集団をまとめ、組織を統率するというのは、並大抵の努力ではできない。人々が納得する理由が不可欠な要素なのである。ただ、それを権力闘争という場でしか昇華せざるを得ないのが、権力者の宿命なのである。
権力者の正統性を認めず。私利私欲に狂った悪人のように扱ったら、優れた政治的指導者は現れない。世の乱れは、権力それ自体が原因となって引き起こすのではなく。むしろ、権力が腐敗、堕落した結果、生じるのである。ただ確かに、権力は腐敗しやすいのも、また、事実である。それ故に、政治的指導者に求められる要素は、思想、信念なのである。
政治的指導者が問われるべきなのは、思想であり、哲学である。とわれるのが思想であり、哲学なのならば、思想や哲学は身近なものであるべきなのである。ところが、今日の思想や哲学に関する誤った認識の一つに、思想や哲学は、難解な者で、一部の専門家にしか理解できないものだという錯覚がある。国民の大多数は、自分は、思想や哲学に無縁だ思い込んでいる。
だから政治的指導者の真贋を見抜けないのである。政治的指導者は、大衆に媚びるだけでは、指導力を発揮できない。
現代社会は、人間不信の上に成り立っている。人を見たら泥棒と思えである。ところが、現代社会の基盤は、信用制度である。人間不信でありながら、信頼を基盤としている。これ程、皮肉な話はない。
人間は、放っておけば悪いことをするものである。そう言う目でしか人間を見れないのは不幸である。そう言う目で見れば権力など怖くて認められない。しかし、無秩序の方がどれ程危険なことか。人間は、人間を信じるしかないのである。だからこそ、キリストや孔子は、最後には、人間を信じろと説いているのである。しかし、現代社会の前提は人間不信である。
かつての指導者は、神を怖れ、神の栄光を実現する事を目的とした。今は、神なき世なのである。科学は、本来神の摂理を現したものである。それを人間は、自分達が創り出したものだと錯覚した。そして、この世を生み出したのも自分達だと思い上がったのである。
石油も、近代工業も、原子力も、電気も、貨幣ですら、神の御恵みである。何一つとっても人間が独自に生み出した物はない。その神が与えたもうた、恵みを、自分達の欲望を満たすために弄び、浪費する。これ程の罪があろうか。
科学の名の下に神を現代人は、葬り去った。しかし、科学は、神の恵みである。神の力が衰えたのではない。人間が傲慢になっただけなのである。
人間は、常に、神の怒りに怯えてきた。そして、指導者は、常に、神の栄光を実現する事を目的とした。それ故に、人間としての不完全さを自覚し、神の許しを請うたのである。どの様な帝王も神を超えることはできない。驕る者久しからずである。神や天の意志を無視した者には、必ず天罰が降ると信じてきたのである。今の人間の所業は、神を怖れぬ者の所業である。
だから、天罰が降ろうとしているのである。今、地球規模で拡がる人類の惨禍は、自らが招いた災いである。
現代人は、悪性である。醜く汚い物が好きだ。清潔で、清純、清浄な物を偽だという。自虐的で、自滅的で、暴力的で、疑り深い。人の行為を素直に受け容れられずに、底意地の悪い悪意で見る。そのくせ、人を深く愛することを嫌う。人を愛しもしないで、誰からも愛されていないと嘆く。求めるばかりで与えようとしない。現代社会の根本は性悪説である。人間は、基本的に悪事をする。だから、悪事を働けないようにするというのが、性悪説である。人間には、悪意しかないようである。人間が信じられないのである。その人間が科学によって圧倒的な力を得た。その恐怖で現代人は、押し潰されそうなのである。
それに対し、人間、根からの悪はいない。人間には、倫理がある。根本的には、人間の良心を信じよう。純粋に人を受け容れ、無邪気に人を愛する者達がいた。最終的には、人格や人徳を信頼し、人を信じられぬ自分を責めた。
法とは何か。現代人にとって人間が信じられないから法がある。だから法を守ってさえいれば、何をしてもいいという考え方がある。世界中で落書きが氾濫している。それも、神聖な物や人々が大切に守ってきた物に、何の良心の呵責もなく落書きを平然とする。落書きをなくすためには、法を厳しくするしかない。しかし、それでも落書きを撲滅することはできない。つまり、バレなければいいと言うのである。この様に自堕落の社会はかつてなかった。自制心が働かないのである。誰も見ていなくとも、自分は知っている。神は見ているという心がなくなったのである。それが神なき世である。この様な世界では、法が神よりも力を持つ。万能の力をである。
それに対し、法が全てではないと言う考え方もある。むろん、法は大切である。しかし、法が全てなのではない。本当は、人間の良心こそが大切なのである。その良心は、犯罪者にもある。況わんや、指導者や権力者は良心がないはずがない。それでも悪事をする者がでてこないとはかぎらない。だから、悪事をした者は、法に基づいて取り締まらなければならない。しかし、根本は、人の良心を信じると言う考え方がある。また、良心も教育や環境によって悪心に変わるという考え方である。それが、性善説である。
現代でも、性善説は生きてはいる。ただ、この場合の性善説でも、無条件で人間の善性を信じると言うのではなく。環境や教育を前提している。本性が、善とか悪というのではなく。幼児期の環境や教育によって形成されると言う考え方である。
もし、人間の本性を悪だし、人間不信に陥れば、即ち、人間そのものが信じられないという事になると、人間社会の基盤である信用制度が成り立たなくなる。人間の全盛、つまり、道徳や倫理観が信じられなくて、どうやって信用制度を成り立たせるのか。今日の信用制度は、人間の道徳や倫理ではなく。契約や貨幣制度と結びつくことによって成り立っているとされる。つまり、金によって信用制度は維持されているのである。突き詰めると、金しか信用できない社会だと言える。そして、契約を守らないものは、暴力によって制裁する。それが法治国家である。
しかし、この様な社会に限界が生じるのは、自明である。なぜならば、例え、金銭であろうと、契約であろうと、決め事、約束事は、守らなければならないと言う倫理観を前提としていなければならないからである。人間か信じられなくなれば人間の社会はお終いである。そして、人間を信じられるのは、最終的には、その人の人としての本性、人間性、人間らしい心、モラルである。金が全てではない。金だけしか信じられないような社会になったらお終いである。
人間不信の世だから、当然、疑りの目は、指導者に向けられる。指導者とは、悪の権化であり、私利私欲の塊で、志など無縁な存在だという考え方である。この考え方は、反体制、反権力、反権威主義者の考え方の中に強くある。つまり、経済的指導者にしろ、政治的指導者にしろ、下卑た人間ばかり、最も信用のおけない人間だという思想である。権力者というのは、常に、悪事を企んでいるという考え方である。悪いのは、全て権力者だという考え方である。
なぜ、反体制を標榜し、反権力闘争の果てに政権を奪取したはずの共産主義国において個人崇拝が支配したのか。独裁者を否定しながら、なぜ、独裁者を生みだしたのか。共産主義国の独裁者と全体主義国の独裁者とは違うのか。人類が生み出した独裁国の中でも、共産主義国というのは、最も徹底した独裁だった。それは、共産主義、反権力体制から出発しているからである。
反体制的な人間は、指導者の人間性を否定し、人間不信を土台にしたから、結局、個人崇拝に陥ったのである。これ程、喜劇的で、かつ悲劇的な事はない。権力者が自分以外全ての人間を信じられなくなった時、個人崇拝が生じる。それが反体制、反権力、反権威の究極的な姿である。
確かに、権力というのは、闘争によって勝ち取る側面があり、また、権力特有の誘惑によって多くの権力者は堕落した。しかし、経済的、政治的指導者の全てが、自分の私利私欲のためだけに、権力を奪取しようとしたと考えるのは、あまりに、短慮、浅はかである。後に、独裁者暴君と言われる者でも、その多くは、若い頃何等かの志を持っている者である。さもなければ、困難な状況を乗り越えられるものではない。権力闘争というのは過酷な試練なのである。その過程で多くの人間が堕落してしまうだけである。逆に、それだけ過酷な戦いだとも言える。
カリスマ的指導者などいらないと言いながら、結局、指導者のカリスマ性に頼らざるを得ない。それが共産主義の限界なのである。
人間の個人差を認めないから、結局、目に見えない差別に振り回されるのである。人間の基本的な差を認めないのは、差別である。現実を直視すべきなのである。人間には、個人差がある。自分は、他の人間とは違うと言う事を認めて欲しいという感情が政治や経済を動かす原動力となるのである。
確かに、どんなに優れた指導者でも過ちは犯す。しかし、悪意だけで権力を保つことができないのもまた事実である。権力というのは現実である。生身の人間と人間の問題なのである。
自分は、他人とは違うと思いたい。人に認められたい。その感情が政治や経済を生み出したのである。その感情を否定したら、指導者など現れはしない。それは、利己主義ではない。
会社も国家も公器である。私物ではない。故に、会社や国家は誰の物かと言われれば、当然、本質を見失う。会社や国家は、誰のために、何の目的であるのかを問うべきなのである。故に、国家も会社も合目的的な存在である。
それでしか、経済的指導者や政治的指導者の有り様を評価する基準はない。国家・産業に対し、その指導者がどの様に志し、何を為したかである。だからこそ、私的な価値観ををかつては度外視したのである。それが、許容範囲を越えない限りである。その許容範囲とは、それが国家国民の生活に直接影響を及ぼさない範囲である。いくら潔癖な人間でも、人間の生活に悪影響を与えれば、それは、糾弾、指弾されるべきなのである。
会社の国家も人の世の仕組みである。世の為事のためになってこそ存在意義がある。
会社が人の物でなく。市場という仕組みに対してのみ忠実になれば、効率化すればするほど、経済は衰退する。なぜならば、経済は、人の社会の仕組みに過ぎないからである。つまりは道具なのである。自動車がひたすら性能ばかりを追求し、なぜ、何のために、自動車を必要とするのかを忘れれば、自動車という産業が成り立たなくなるようにである。自動車は、自動車レースのためにだけがあるわけではない。自動車は、必要とする人によってその姿や性能を買えるのである。市場や企業も同様である。
国家には、指導者が必要である。しかも、極めて強い自制心を要求される。その様な指導者が自己を守り、理性を保持できるのは、国家という仕組みによる以外ないのである。国家に、統率が必要だとするならば、また、規律が必要ならば、例え、指導者が独裁者に変貌する危険性があるとしても指導者の存在を否定する根拠にはなりえない。
要は、人間の肉体的、精神的、年齢的限界を知る事なのである。
民主主義国は、相互牽制を前提として成り立っている。つまり、政敵を前提とする。故に、お互いの過ちを厳しく指弾し続けることになる。
だからこそ、礼節が求められるのである。指導者に対する人格や人間性に対する誹謗中傷は、民主主義にとって致命傷となりかねない。政敵の過ちや不正を糾弾することは、やむおえない所業であるが、それでも、最低限の礼節と配慮が必要なのである。
今は、他人の事を思いやる事も少なくなった。助け合うことすら愚かな行為としか映らない。公に尽くすなどと言うのは偽善だという。所詮、自分のことしか考えられないのだとも言う。下心がなければ、他人のために働きはしないと・・・。それは、共同体精神が滅んだからである。
家族や社会という共同体を失いつつあるのである。それが共同体を率いる指導者をも葬り去ろうとしている。
人の上に立つというのは、並大抵のことではない。自分の私利私欲だけでできることではない。また、例え、権力を掌握できたとしても維持しきれるものではない。
根本には、世の中に不条理や理不尽な不正に対する怒り、義憤、公憤がある。それは、弱者への思いやりである。それがなければ指導者にはなれない。そして、それを失ったとき、権力者は権力の座から追われるのである。
権力の座を得たとしても、それを維持する為には、数々の試練を経なければならない。良き指導者を得た国は、栄え。悪しき指導者に導かれたものは滅びるのが世のならいなのである。ただ、政治的指導者を批判するだけでなく。良い指導ができるように補佐するのも国民の務めである事を忘れてはならない。
素養、教養がない者は、救いがたい。なぜならば、素養、教養が効能を発揮するのは窮した時だからである。困った時こそ、素養、教養が問われる。年をとって力が衰えた時、窮地に陥って判断に困った時、貧窮した時、途方に暮れた時、挫折したり、絶望した時、挫けそうになった時、人が妬ましく思った時、他人が皆、自分より優れているように思えた時、孤独な時、孤立した時、どうしたらいいかわからなくなった時、何も決められなくなった時、責任をとらなければならなくなった時、後進に道を譲る時、自分の過ちを認め悔い改めなければならない時、謝るべき時、名誉を傷つけられた時、気後れした時、怠けたくなった時、誘惑に負けそうになった時、不正に荷担させられそうになった時、臆病になった時、失敗した時、人が信じられなくなった時、自分を見失い掛けた時、自信をなくした時、失恋した時、不遇な時、そんな時こそ素養、教養が力を発揮する。
素養、教養で大切なのは歴史と古典である。
日本人なら日本史。そして、ギリシア、ローマ史。中国史である。古典は、中国古典と聖書、コーランは不可欠である。いずれにしても、歴史と古典をもっと重んじるべきである。歴史と古典を軽んずるのは、現代人の驕慢の為せる業であり、悪癖である。
今の政治的指導者には、教養がない。マルクス主義一辺倒で、マルクス主義でなければ人でないが如き環境におかれたせいもある。反体制、反権威主義に被れたからかもしれない。或いは、科学万能主義に囚われて、科学以前の文物を迷信として否定した結果かもしれない。いずれにしても、基本的素養がない。だから、政治が乱れた時にそれを立て直す術を知らない。第一に、姿勢が悪すぎる。だから国民の信認が得られないのである。
政治的指導者に求められるのは、克己心である。年をとって教養のない者は、哀れなほど無様で見苦しい。大切なのは、人間としての修養である。先ず我が身を修めることである。
漢民族は偉大な民族である。中国が真の栄光を取り戻すのは、自らの国の古典に目覚め、そこから現代の思想を生み出したときである。つまり、温故知新である。
権力者が権力を失うと言う事は壮絶なことなのである。それは何もかも奪い取られることを意味する。権力者は、名誉も、富も、権勢も、時には、命さえも奪い取られるのである。その恐怖から、権力者というのは容易くは権力を手放したりはしない。そして、権力者の多くは、暴君と化すのである。そして、権力は腐敗するのである。
権力を失った権力者ほど哀れな者はない。だからこそ、権力の移譲の手続を予め用意しておく必要があるのである。それが国民国家の鉄則である。
指導者は、自制しなければならない。自らに厳しくなければならない。
国民は、国家の指導者の名誉と功績を傷つけないようにすべきである。指導者は、清廉であるべきである。しかし、貧しくてはならない。国民も指導者に貧しさを求めるべきではない。清廉潔白であることを求めるべきである。
指導者に求められるのは徳である。人格である。指導者は、清潔であるべきなのである。潔くあるべきなのである。
権力の座を追われた権力者ほど無惨な者はいない。哀れなものだ。
権力には人を惑わす怪しい力がある。
志操、正しく。圧政と戦い暴君を倒した者でも、一度、権力を手に入れるとその魔力に取り憑かれてしまう。権力の美酒は人を酔わせ、狂わせる。
権力がもたらす欲望や誘惑は、自制心や礼節を失わせ、我と我が身を忘れさせ。己のなんたるかを見失わせる。
理性や道徳心をとろけさせ。誇りや信念を捨てさせてしまう。そして、愛に背かせ。幸せに背を向けせてしまう。
その奢りは、自らを全知全能なる者にまで思い上がらせ、神をも侮らせてしまう。
幾多の英雄豪傑が権力の魔力の前に身を滅ぼしたことか。
恐れるべきは己なのだ。人の心の弱さなのだ。
だからこそ、自己を超越した存在を権力者は必要とする。ただ、神を信じ、敬い恐れよ。神のみが救いなのである。