国体とは、器である。国家体制は、国家理念の上に築かれた制度である。国家理念は、憲法によっる。憲法の構造は、建国理念、国家原則に始まり。国民の定義、主権の所在、国家の範囲と続く。そして、建国の手続と国家制度の枠組みを規定する。
憲法を土台として各種の法制度が構築される。それによって、政治制度と経済制度の基礎が確立されるのである。
器である政治制度も経済制度も人工的な仕組みであり、機構である。故に、設計思想に基づいて設計され、所与の手続きに従って制定されなければならない。
故に、設計者がいなければ成立しない。設計者を明確にする必要がある。
多くの国家が、あたかも経済原則や市場の原理を所与のものとして、戦略的な国家建設を建前では認めていない。そして、政治や国家は、少なくとも経済的には、公正、公平、中立の立場にあるかのように装っている。
しかし、日本や韓国は、かぎられた資源を特定の産業に集中的投下することによって螺旋的、傾斜的に産業を発展させてきた。また、石油や資源を巡る争奪戦が戦争に発展した例は数多くある。かつては、多くの国が他国を植民地として支配してきた。
現実の世界は、経済的にも、政治的にも抗争の世界である。公平、公正、中立的な国家体制は、未だに何処にも実現していない。
この様な観点から、国家体制は考えられなければならない。つまり、現在の国家体制は、各国が国益に基づいて意識的に構築した結果に過ぎない。国家体制は、理念や理想だけで成立したのではない。
国家体制は、未だかつて、建国者の目的理念に反し、また、離れて作られたことはない。あたかも国家が、天然自然に出来上がったかが如き考えは、欺瞞に過ぎない。国家体制は、権力闘争の果てに建国者の国家目的によって設計されているのである。
ただ建国者がその国の国民とはかぎらない。帝国主義が世界を席巻していた時代には、植民地の国家体制は、宗旨国がしていた。植民地の国民の建国の理念や意志は無視されていたのである。
これは国家がその国の国民の意志に基づくという事の欺瞞性を端的に表している。国家体制は、権力者の意志に基づいて作られるのである。神の意志でも自然の法則でもない。人間の意志によって国家は建設されるのである。
だから、国家体制の話は人間の意志の問題である。それも生臭く、血生臭い話である。国を作るのは、人間の意志である。神の意志や天の啓示を持ち出すべきではない。純粋に人間の思惑、理想の問題である。だからこそ、国家が引き起こした災いに対しては、人間が責任を負わなければならないのである。
国民が、常に、主権者であったわけではない。主権在民は、所与の理念ではない。多くの人民の命によって勝ち取られた権利である。
権利を主張した者だけが主権者になれる。権利を主張すると同時に、義務が発生する。義務を行使しなければ権利は失われる。
主権者が全ての力を掌握した時に権力は効力を発揮する。
権力は、法によって発現、具現化され、制度によって制御される。法は、力。制度は、機構・仕組みである。
法は、制度によって権限を規定し、権限が与えられると責任が生じる。国家の体制は、法と制度によって定まり、実体化・現実化する。国家の体制を決めるのは、力である。権力である。
法は、権力の後ろ盾を失えば、効力も失われる。法の力がなければ、制度は保てない。
国家の正義は力であり、個人の倫理とは違う。国家の正義と個人の倫理が対立した場合、双方の力関係によって決着がつけられる。つまり、国家に従うか、自らの信念に殉じるかである。
個人の自由は、個人の権利に依拠している。個人の権利は、国家の主権に依拠している。即ち、自由たらんと欲するものは、主権者にならなければならない。国家の独立を保たなければ実現できない。自由は、与えられるものではない、勝ち取るものである。
飼い慣らされてはいけない。家畜は、自由に見えても、自由ではないのだ。安全は、保障されていると言っても自分の運命は常に飼い主に握られている。飼い主が飢えれば、屠殺されて食料にされるのである。
国民の自由は、国民国家でしか実現できない。つまり、自由が国民一人一人の権利になって時、自由は成立する。国民国家においては、自由を守ることは、国民の義務である。
自由か、しからずんば死か。自由を望む者は、命がけで国民の主権と国家の独立を守らなければならない。
国家は、暴力装置である。
暴力装置である国家は、権力機構によって実現する。
権力を否定するのは、容易い。しかし、権力を否定した後、何によって国や社会を保つというのか。集団を纏める力という存在を認めずに、思想や哲学を論ずることほど空疎なことはない。
権力を肯定しようと、しまいと国家は、何等かの強制力によって維持されている。この強制力の根源が権力である。権力機構によって国家の暴力は公的な統制力に変換される。
権力機構には、集権的機構と分権的機構、連合的機構、無政府的機構の四つしかない。
集権的体制を一方的に悪だと決め付けるのは危険な思想である。集権的体制や分権的体制、連合的体制にも一長一短がある。ただ、無政府主義的体制だけは観念的な領域でしか成立しない。
問題は、権力の移行期、思考手段である。集権的体制から分権的な体制に移行する時は、分権的体制から集権的体制に移行する時よりも抵抗が大きく、乱暴にならざるをえないという傾向であると一般にはみなされている。
ただ、いずれにしても権力の移行が円滑になされない場合は、暴力的な手段が用いられるという事である。そして、過渡的に無政府的状況が現出するのである。
権力機構として最も組織力を発揮するのは、集権的機構である。
無政府的機構というのは、ある種の状況を指すので、厳密には、機構とは言えない。即ち、無政府状況は機構としては成り立たないのである。無政府的状況とは、絶対的な権力が存在しない状況である。
法は、権力機構によってもたらされる。
国を統御する法は統一されていなければならない。
一つの法制度は、一つに圏域を形成する。その法によって成立する圏域を国家というのである。国境とは、法の適用される地域の境界線を意味する。
法によって国内と国外は画定される。
国家、国民の定義は、法によって為される。
一つの国の中に複数の法があるという事は、国家が分裂していることを意味する。
国家の秩序は法によって維持されるというのが法治主義である。
体制には、法治か、無法かしかない。
無法な体制は、絶対主義体制か、無政府主義体制の二つしかない。絶対主義というのは、何等かの勢力か、個人が絶対的権能を持つ体制を言う。無政府主義というのは、公的な権力を容認しない主義である。どちらにしても無法な暴力による支配であることには違いない。
民主主義は法を基盤にして成り立つ体制である。民主主義は手続の正統性に基づく体制である。民主主義は制度によって発現する体制である。民主主義は仕組みによって保たれている。民主主義というのは、複数の要件や条件が整ってはじめて成立する極めて希有な体制である。
どの様な機構であるかは、基本的に民主主義の是非とは無関係である。ただ民主主義的体制を維持するために適した機構か否かの問題である。民主主義を発現する機構の基盤となる法の整合性、正当性が重要となるのである。法が民主主義の正義を形作る。
法治国家においては、国家の秩序は法によって護られる。法は、国民の国家に対する信認によって効力を発揮する。国家に対する国民の信認は、国家の威信にかかっている。国家の威信を支えるのは、国権の権威である。国家の権威の本源は、建国の理念である。建国の理念は憲法として表される。それが国民国家の道理である。
国権の権威、即ち、憲法の権威が弱まれば、国家の威信は、保てなくなる。国家の威信が保てなくなれば、法に対する国民の信認は薄れる。法に対する国民の信認が薄くなれば、国家の規律、綱紀は、保たれなくなり、秩序は乱れる。
国の秩序を護るべき者が国の権威を蔑(ないがし)ろにすれば、国家の威信は損なわれる。
国家の威信が損なわれれば、法の信認は失われ、秩序は乱れる。国の権威の本性は、独立自尊にある。国を護ろうという覚悟のない者には、独立自尊は保てない。
何が正しくて何が悪いのか。その根本を明らかにすることは、国家を治める者の務めである。
何が正しくて、何が間違っているかは、国家理念に基づく事である。国家理念は、国法の根源であり、国家の規矩である。国家理念の根源は、また、国家の主権と独立に依拠する。国家の主権と独立が保たれなければ、国家理念はないに等しいからである。
故に、国防や国家理念を最初から不可侵の事項にしてしまうことこそ独立国として論外なのである。
非武装というのは、思想であって、真理ではない。それは、国民を信じて警察をなくせば犯罪は起こらなくなると言うの同じ事である。そうなると、武装を放棄するというのは、思想と言うより、ある種の宗教的信条、信仰だと言える。
宗教的信条をもって国家理念とするのは狂信である。
為政者が国体の護持をを蔑ろにする態度をとれば、国権の威令は失われる。
国法は、国体を護持するためにあるからである。国体を護持するためには、時には、時の権力に逆らうこともある。ただ唯々諾々と体制に従うだけでは、国体を護持することにはならない。国体を護持するのは、国を憂う心、愛国心の一心である。
だからといって国体を護持するためならば何をやっても許されるという事ではない。
私憤ではなく。義憤、公憤であらねばならない。肝心なのは、どうする事が国を護る事になるのかであり、何が大義であるかである。
根本にあるのは、国家の存在意義である。国家の存在意義を国民が認めるから国家の尊厳は保たれるのである。
国民国家の尊厳は、国家の根本理念、建国理念である。それが、何を国家正義、公の義とするかを決めるのである。
国民の大義とは、国民国家においては、国家に対する主権者、国民の忠誠にある。国家の大義とは、国民の国家に対する忠誠の本となる義である。
権力者が自分達は、国家への忠誠を否定しながら、国民に対して忠誠心を求めるような姿勢が問題なのである。
肝心なのは、規律の問題、綱紀の問題である。
戦後の日本人は、国防について話すこと自体が悪い事のように吹き込まれた。国を護ろうとすることは愚かなことであるかのように意識の奥底に刷り込まれたのである。
それ故に、戦後に於いては、国家の威信を語ることさえ憚れるような風潮があった。しかも、その風潮を醸成したのは、他でもない、教育界と新聞を代表とした言論界である。
国を護ろうとすることは、戦争を鼓舞することであり、平和を乱す行為だと彼等は主張する。平和という状況は、放っておけば自然に成る状況でと言う考え方である。
平和にするのではないとされたのである。しかし、平和は努力なくして維持できる状況ではない。それが彼等の主張の論旨である。
しかし、平和は守られるべき状況であり、自然に成る状況ではない。人々の絶え間ない努力によって平和にするのが真実である。
なぜ、日本は敗戦後国威を否定するように仕向けられたのか。
国家の威信が傷つけられることで誰が得をするのかを考えれば解る。国家の威信が傷つけられれば、秩序が乱れ、国家の主権と独立が危うくなる。国の秩序が乱れ主権や独立が危うくなることで得をする者は、政府の転覆を画策する者か国力を弱体化しようとする国家内外の敵である。
若い頃に正義感にかられて反体制を標榜しても、年をとれば責任ある立場に立たされる。それが自然の理(ことわり)である。
大人になれば、秩序を維持し、規律を保たなければならない立場に立たされるのである。それが指導者である。いつまでも反体制を気取るのは、無責任極まりない態度である。
経験が浅く未熟な者は、とかく先人達の粗(あら)や失敗、過ちが目に付く。特に、戦後世代からみれば戦前の人間は、一方的に間違え、日本を破滅の際(きわ)にまで追い込んできたように見える。だから、何でもかんでも自分達以前の世代のやることを批判し、反対すればいいと思い込んでいる。彼等にとって叛逆こそ美徳なのである。否、美徳だったのである。
しかし、実際に自分が責任ある立場に立たされれば、物事の本質が違って見えてくるものである。自分が責任を持って決断をすれば、自分の言動が、そのまま、自分の問題に跳ね返ってくるのである。いつまでも、反対ばかりはしていられない。自分が自分の行いに対して、断固として責任をとるという覚悟が求められるようになるのである。
今の為政者の多くは、戦前、日本を戦争に追いやった人間を責めたててきた。しかし、今、自分達が国家に対して責任ある行動をとらなければ、結局、自分が批判し、責め立てている戦前の為政者と同罪である。むしろ、反対することばかりに意義を見出し。自分の行いを人のせいにして、進んで責任をとろうとしない分、戦前の為政者よりも質(たち)が悪い。
それでなくとも、人の親は、自分達が、自分達の責任に於いて、国や社会や家族を護らなければならなくなるのである。
況や、政治家は、国家に殉ずる覚悟ができなければその責任を果たすことは、はじめから不可能である。
国家が国民を擁護することが責務ならば、国民は国家を護ることが使命なのである。
然こそ(さこそ)、権力を守る者には、それなりの人徳と言動が求められるようになるのである。
国体は、国家の身体である。身体は魂があって保たれる。魂のない肉体は、屍に過ぎない。しかし、肉体が健全でなければ、生きられない。精神は、肉体を通して外に表れる。肉体と魂は一体なのである。
国家の魂は、国民の意志である。国民の意志は、国民の使命として現れる。国民の使命は、国民国家においては、国家権力に凝縮される。国体と国民の意志は、不離不可分の関係にある。故に、国家に対して国民は責任を負うのである。
国民の意志は、国体を通じて外に表される。国体が国民の意志を表せなくなることは、国体が病んでいることである。国体が健全だからこそ国民精神も健全でいられるのである。国体が病めば、国民も狂う。つまり、国家が国家としての自制心を失うのである。
国民の精神が健全でなければ、国家権力が健全でなければ、国体の自立は保てないのである。国体の自立とは、国家の主権と独立を保つことにあるのである。
権力の存在そのものを認めようとしない者がいる。しかし、社会を統治する機構がなければこの世は無法の力が支配する世界になることは解りきっている。権力を認めない者は、ただ自分を圧迫する外的力が厭なだけである。そういう者にかぎって神や自然の力すら認めようとしない。
権力が悪いのではない。権力を統御できないのが悪いのである。そして、権力を行使する者が権力者としての振るまいができないことが悪いのである。
ただ闇雲に権力を否定したところで、権力がなくなるわけではない。権力が鬱陶しいからと言って権力を否定するのはただ現実から目を背けているに過ぎない。結局は、権力構造の問題である。
権力、又、権力者は、何が何でも悪だと決め付けるのは、反体制、反権力、反権威主義者の悪癖である。そして、その反体制、反権力、反権威主義者に支配されているのが、今の日本である。権力を握った者が反権力を気取っているのは、無責任の極みである。その累は、国家、国民に及ぶのである。
決断とは、一つの考えによって他の考えを切り捨てる事を意味する。決して断じるのである。その責任は、決断者、即ち、権力者が一身に負わなければならない。だからこそ、責任の所在を明らかにするのである。
権力を行使する者は、自分が権力者であることを自覚しなければ務まらない。権力者は職責に対する自覚と強い使命感によって貫かれていなければ、自らを律することは困難である
そして、権力者は、権力を抑制し、尚かつ、自分を自制しなければならない。
権力を認めずに独裁に陥ることは愚かである。
権力を統御する仕組み、構造こそが体制なのである。