政治体制

 政治体制は、主権者の問題である。主権が特定の個人や家族に集中しているのか。何らかの集団や共同体が握っているのか。広く国民全般にあるのかによって政治体制は決まる。政治体制の性格は、主権者が持つ教義、行動規範によって定まるのである。

 政治体制とは、統治の仕組みである。統治の仕組みとは、主権者の権利を守る仕組みである。

 統治の仕組みには、第一に、人による統治の仕組み。第二に、組織、集団による統治の仕組み。第三に、法による統治の仕組み。第四に、象徴による統治の仕組み。第五に、無政府状態がある。

 第一の人による統治の仕組みは、人による統治の体制であり。君主主義や独裁主義が、それに当たる。君主政治や独裁政治は、全ての権力が一人の人間に集中している。この様な国家は、法や制度も一人の人間のために機能する。

 第二の、組織、集団による統治の仕組みとは、組織による統治の体制であり、組織や集団の力に依拠した体制である。そして、組織や集団によって体制の性格付けがされる。
 組織、体制が前面に出ると、全体主義、軍国主義、国家主義になる。
 それに対し、何らかの集団、特に、血縁集団が、上位階級を形成すると、封建主義、寡頭政治、貴族主義になる。
 また、帝国主義、植民地主義も第一か、第二の体制の変形である。

 第三の法に基づく仕組みというのは、立法府を中心とした体制であり、基本的に民主主義体制を指す。むろん、民主主義以外にも法治主義国家は存在する。しかし、超法規的存在がいれば、法そのものの権威は存在しない。それは、法を統治の道具にしているのに過ぎず、法治主義とは言えない。ここで言う法による統治とは、法を国家の最高の国権とした体制を言う。それは、国民が法の前に平等である体制でなければならない。つまり、法の前の平等を実現したはじめて法による統治は成立する。故に、この様な国家は、国民国家、民主主義体制でしかあり得ないのである。

 特定の個人や少数の集団でも権力を掌握し、保持することはできる。専制政治や独裁政治、全体主義国が、それを証明している。民主主義の本質は、属人主義的な国家の排除である。つまり、国家を法と制度の下に置こうという思想である。この点を忘れてはならない。

 民主主義というのは、人間不信の思想である。根本的に人間の善性というものに信を置いていない。個人としての人間が信じられないから集団としての人間の意志を重んじるのである。つまり、公徳心である。そして、この公徳心こそ理性なのである。
 日本人には、この点に誤解がある。民主主義を人間の理性を信じた理想主義的な思想だという風に、楽天的に、無邪気に思い込んでいる。それは、民主主義を幾多の市民革命を経て手に入れた国との違いである。

 フランスにせよ、アメリカにせよ、イギリスにせよ、どれくらい専制君主や独裁者に裏切られてきたか。それでも、民主主義が破綻すると独裁者が台頭する危険性を常に孕んでいる。それが民主主義である。
 民主主義の歴史ほど、血生臭い歴史はない。民主主義は、革命の硝煙の中から生まれたのである。現に、革命によってルイ十六世、マリーアントワネットは、断頭台の露となり、ニコライ二世は、処刑されたのである。中国の言う禅譲とは程遠い。

 民主主義的個人主義とは、公徳心に裏付けられた体制である。公徳心が成り立たなくなれば、民主主義は自壊する。それは、根本的に人間の善意を信じているわけではないからである。
 民主主義で言う理性とは、公徳心を指している。人間の善意を信じているわけではない。だからこそ、民主主義は、公徳心がなくなれば悪意に満ち満ちてくるのである。現今のマスコミの言動を見れば明らかである。自分の儲けのために、平然と言論の自由を持ち出すのである。視聴率さえ取れれば、どんなに不道徳なことでもやってのける。それでも公徳心が失われない内は、民主主義は保たれるのである。この公徳心が失われた時、公より私が重視されるようになると、民主主義は自壊するのである。

 第四の象徴(観念・思想・宗教)による統治の体制とは、宗教的信条や思想、理念による統治の仕組みである。
 社会的な理念に裏打ちされているのが、共産主義、社会主義体制である。それに対し、民族的同一性に根ざしているのが民族主義である。また、宗教的同一性を基としているのが原理主義体制である。原理主義体制には、キリスト教やイスラム教体制がある。
 法に代わる絶対的権威が存在する。しかし、法に代わる真理、教義と言っても特定の集団の合意に基づくものであるかぎり、排他的な体制になる。この様な体制は、広い国民的支持が得られなければ、強権的な体制にならざるを得ない。

 共産主義の政治体制が一党独裁体制を便宜的に敷いたのが、共産主義、イコール、一党独裁体制と囚われたことである。共産主義が一党独裁だというのは、特殊な解釈である。しかも、共産主義が、中央集権的体制でなければならないと言う決まりはない。ただ、革命に伴う無政府状態を克服するために、一党独裁体制を敷いただけである。それが、いつの間にか恒久的な体制となり、共産主義、即、一党独裁主義にすり替わっただけである。

 共産主義も社会主義も市民革命の延長線上にある思想である。どちらかと言えば、本来は、小規模なコミューン、共同体を核とした思想である。国家レベルの体制には、無理がある。地域コミュニティーを土台とし、都市国家的な連合体としてみた方が、本来的である。共産主義や社会主義を既成のドグマから解放しないと本当の姿は見えてこない。

 共産主義や社会主義の不幸は、個人崇拝にある。今や、共産主義や社会主義の個人崇拝は、宗教のレベルまで達している。その為に、理念が本来の働きを失い、教義、聖典とかし、思想そのものが、教条主義かしている。共産主義、社会主義が本来持つ民主性や合理性が損なわれ、全体主義的、独裁的な体制に変質してしまった。共産主義や社会主義の中には、暴力主義的なものではなく。平和主義的なものや共同体主義的なものを広範囲に含めていた。それが失われ、狭い理念の中に閉じこめられているのは、思想界にとっても不幸なことである。

 共産主義も社会主義も本来は、個人崇拝を最も嫌う思想の一つである。

 一党独裁制度は、独裁制度である。共産主義は、本質的に独裁体制を嫌う。もともと反権力、反体制的思想なのであるから、権力の過度の集中に適さない。対極にある思想である。根本が平等思想なのである。ただ、既成の権力という暴力に対抗し、革命後の混乱、無政府、無法状態から脱却する為に、少数派が一時的にとった体制である。あくまでも過渡的な体制としてのみ許される体制であったはずである。故に、一党独裁と共産主義体制とは異質の体制である。
 また、共産主義は、決して暴力的な思想ではない。暴力は、本来自衛的な手段としてのみ肯定されていた。絶対主義的暴力に対する自衛的手段として許容された暴力が、権力を握った瞬間、自分達も絶対主義的になり、統制の手段して用いられるようになっただけである。それ自体が、思想的堕落である。共産主義は、本来は、平和主義的な思想である。
 共産主義や社会主義の思想的系譜は、都市や村落を核とした共同体主義、また、あらゆる権力、体制を否定する無政府主義に繋がる。全体主義や国家主義、独裁主義や民族主義の対極にある思想だった。しかし、共産主義体制は、権力を握った瞬間に思想が変質したのである。
 共産主義の原点は、コミューン主義なのである。

 コミューンというのは、目新しいものではない。原始社会は、コミューン的な社会といえる。また、古代ギリシャの都市国家は、多様なコミューンの在り方を提示している。いわば、コミューンの見本市みたいなものである。宗教教団や修道院のような修行者集団の多くは、典型的コンミューンである。故に、コンミューンは、共産主義の専売特許ではない。そして、コミューンの多くが象徴や教義に基づく体制である。それを敷延化しようというのが、原理主義的国家である。

 また、生産手段の公有、国有体制も新しいものではない。日本の公地公民にもみられる。また、アメリカインディアンには、土地の私有概念がなかったとも言われている。(「所有権の誕生」加藤雅信著 三省堂)北米インディアンやアイヌ達は、コミューン的社会を成立させていた。

 第五の無政府状態といは、基本的に権力機構が喪失した体制であり、統治する機構がないから状態を指して言う。理念としては、無政府主義がある。つまり、一切の権力機構を認めないで、国民の自由意志によって国家を運営する思想である。

 権力の集中状態によって中央集権体制、分権体制、無政府状態に別れる。無政府状態というのは、第三番目の体制を指して言う。ただ、無政府主義というのは、主義として成立しえても、現実には、存在しえない。
 無政府状態というのは、権力の空白によって生じる。国家が、国民の生命財産を保障しているかぎり、権力空白は、許されない。速やかに、国家の空白は埋められなければならない。埋められなければ、他国や侵略者によって権力は、簒奪される。

 共産主義は、究極は、無政府主義である。理想的社会が実現したら、国家、政府は、消滅し、あらゆる暴力を基礎とした権力機構が消滅する。その時、自由と平等は実現するという事を前提とした思想である。その過渡的な体制として一党独裁体制が、必要とされるのである。しかし、現実には、全世界が一つの権力によって支配されるという社会は、現出していない。現時点では、技術的、現実的に不可能である。結果的に巨大で、強大な権力機構を生み出す結果を招いてしまった。

 権力体制は、思想や理念で決まるのではない。政治体制を決めるのは、第一に、権力がどの程度、集中しているのか。第二に、権力の継承・交替は、どの様にしてなされるか。どの様な手続きでなされているか。第三に、権力の継承・交替は、世襲的であるか、ないかで決まる。
 特に、権力の継承、交替は、権力の正当性が現れる。権力の継承、交替の在り方は、その国の政治体制を測る物差しである。

 いくら平等を旨とした共産主義体制でも、共和国と銘打っても、実質的に中央集権的で、世襲的な権力の交替がなされていれば、立派な君主国である。必然的に国民の権利は守られていない。

 民主主義を絶対視している人達がいる。あたかも、民主主義は神の摂理のように捉えている。しかし、民主主義は、どんな国でも成立するとは限らない。と言うよりも、民主主義が成立するには、いろいろな条件がそろわなければならない。
 民主主義は、構造的、制度的体制である。民主主義体制を築こうとする者は、自分を度外視しなければならない。つまり、主権者となりながら、それを放棄し、国民に譲らなければならない。それが第一の困難である。
 民主主義は、成立しないと無政府状態に陥りやすい。無政府主義者が怖れられるのは、結局暴力的になりやすいからだ。無政府主義者の多くは、無邪気に人間の善良性を信じている。しかし、無政府状態は、結果的には、たがをはずれた人間達は、無軌道になり、統制できなくなる。そして、暴力が全てとなる。結局、無政府主義は、暴力主義に陥るのである。

 民主主義というのは、極めて特異な体制であることを忘れてはならない。
 先ず、民主主義を成就するためには、前衛的組織が、全ての権力を掌握する必要がある。民主主義が市民革命を前提とする以上、前提的組織は、軍事的組織でなければならない。
 全権力を掌握した前衛的組織は、速やかに、国民議会を招集する必要がある。その上で、手続に基づいて段階的に権力の移譲がなされなければならない。
 権力が移譲されている間は、内外の干渉を排除しなければならない。
 しかも、全権力から権力を奪取する際には、全権力の法体系が崩壊するため、一時的に無政府状態に陥る。
 この様なことから、民主主義体制は、それが確立されるまでの間に、多くの困難が待ち受けており、混乱状態に陥ることが予測される。その混乱状態を抜け出せなければ、新たな独裁体制を生み出す事が多い。

 権力は、魔物である。権力を手に入れた者は、その魔力に魅了され手放すのが惜しくなる。民主主義者、自由主義者はこの魔力と戦わなければならない。
 先にも述べたように、民主主義というのは、元々人間不信の思想である。ただでさえ弱い人間が、強大な権力を握れば、それだけで、不善、不正をなす。だから、国民が自分達の権利と義務で国家権力を直接監視する。それが民主主義である。しかし、この様な人間不信の上に立脚した民主主義体制は、権力機構が定まる間には、権力の空白期間が生じる。軍隊のような暴力機構が権力を掌握すれば、国民の意志を代表する権力にはならないからである。
 権力な空白期間は、無法状態となり、暴力に支配される。この様な混乱状態の中で、統一的な制度を構築するのは、至難な業である。結局、ナポレオンのような新たな暴力が、国内を統一することが多い。無政府状態は、独裁者を生む下地となるとなるのである。
 しかも、革命的状況から次の体制に移行する際、一時的に政治的空白期間は、無政府状態、無法状態になる。この状況下で行われた行為が、政権が確立した時、問題となる。つまり、法治体制では、無法下での行為は違法となる。革命や戦争とは、超法規的状況なのである。無法状態では、誰もが無法者になる。無法者でない者はいないのである。この時の行動を不問に付そうとした場合は、権力の後ろ盾が必要となる。故に、一度権力を掌握した者は、容易に権力を手放そうとしない。元々、国家は、暴力装置なのである。
 この様なことから、民主主義というのは、国民の強い意志と、環境の条件がそろわないとなかなか成立しない。第一、民主主義は、外から与えられるものではない。その国の国民が自らの意志で選択するものである。確かに、体制だけはできる。しかし、それだけで民主主義は成立しない。なぜならば、民主主義は、国民一人一人の権利と義務によって成り立っているからである。
 民主主義体制は、国民国家の土台である。個人の権利と義務が保障されている体制は、国民国家以外にない。民主主義を成立させる根源は、民主主義的文化である。だからこそ、民主主義的文化を醸成しておくことが重要なのである。
 民主主義体制こそ人間の意志が試される体制はないのである。

 民主主義は、ほとんど奇蹟的体制である。

 人民の意識が創り出す精神世界を前提とするか、しないかによって民主主義は、違ったものになる。

 コモンセンスを前提とすることによってコモンローが形成され、コモンウェルスが成立する。これが英国型民主主義である。これは、パブリック、つまり、公共から派生するリパブリックとは違う。
 公共という概念には、契約の概念が働く。つまり、国家と国民の契約に基づく法である。コモンセンスというのは、人民の意志の背後にある精神世界を前提として、その精神世界に基づいて法や制度を生み出すという思想である。故に、人民の契約ではなく、コモンロー、即ち、判例法に基ずく体制である。判例法とは、日常の世界が法を作り出す、想像する世界である。

 ただ、コモンセンスにせよ、パブリックにせよ、共通しているのは、公という概念である。戦後の日本では、意図的か、否かは、解らないが、この公という概念を教えられなかったし、教えてこなかった。あくまでも、民主主義で重要なのは、個人の意志であり、権利である。しかし、個人の意志は、国民国家においては、公の意志に置き換わらなければならず。その為に権利は義務になる。つまり、民主主義は、公徳心を土台にして成り立っているのである。

 民主主義の本質は、共同体思想である。家族も一種の共同体である。かつての社会は、家を単位とした血縁集団を核として形成された。共同体の核は、集団の意識である。それは、掟(おきて)である。集団が共有する統一的意識が失われると集団は、合目的的な機関でしかなくなる。つまり、一定の目的によって一時的に形成される集団に過ぎなくなる。家族で言えば、夫婦は同居人であり、子供は、扶養家族である。つまり、子供の扶養を目的とした一時的な集団に過ぎなくなる。必然的に子供の扶養期間が終了すると解体してしまう。つまり、一緒に生活する必然性がなくなるのである。機関化した家族には、家族の吸引力である愛情関係が成立していないからである。この様な傾向は、企業にも国家にも見られるようになってきた。機関化された企業では、生きる為に働くのではなく。働くために生きるのである。共同体の目的は、人を生かすことであるが、機関の目的は、効率よく機関を機能されることにあるからである。この事を国家にまで敷延化したらどうなるか。国民のための国家ではなく、国家のための国民になる。それが唯物主義的世界観である。
 ただ、共産主義は、本来、唯物主義的世界ではない。宗教集団のように、精神的世界である。唯物主義は、内面の世界、精神世界を認めない。それは、共同体内部にある精神世界を否定する事でもある。人間は、肉体だけで成立する者ではない。人間は、生き物なのである。社会の機関化は、社会の中にある魂、生命を否定し、最後には、社会から人間性を排除することになる。共産主義が失敗したと言うよりも、共産主義、社会主義が唯物主義によって機関化してしまったことに間違いがあったのである。

 民主主義は、コミュニケーションのよって成り立っている。民主主義の前提は、国民の普遍的意志の存在である。普遍的意志とは、コモンセンス、即ち、常識や良識と一般に言われる集団的意識である。この様な集団的意識は、集団内部での直接的なコミュニケーションによって、培われる。俗に言う、付き合いである。人と人が直接会って話し合う中で、集団の意志は、形成される。その直接的なコミュニケーションを公式化したのが、民主主義の基礎だと思えばいい。
 ところが、近年、そのコミュニケーションの在り方が大きく変化してきた。即ち、通信設備やインターネット、メディアの発達と多様性によって対面的な直接的コミュニケーション手段が主流だった社会からインターネットやメディア、携帯電話のような仮想的な空間を媒体とした間接的コミュニケーション手段が主流な社会へと変化しつつある。

 そのために、直接的なコミュニケーションが廃れ、集団意志、不文律、不文法が形成されにくい環境にある。この事は、民主主義の根幹、変質に関わる重大事である。ネット社会は、国民国家を根底から破壊する危険性を孕んでいる。つまり、インターネットの内側にある仮想的世界が、人民の意志の内側にある精神世界に取って代わろうとしているのである。インターネット社会というのは、対人関係を拒否した、仮装現実の中にある世界である。つまり、民主主義大前提とする直接的なコミュニケーションによる政治体制が失われ、人間関係を否定したところに成立する社会、国家体制が現実のものになろうとしている。しかも、非現実的な仮想空間の中にである。それは、国家が物理的空間の中での実体を喪失することにも繋がる。それは、現実の選挙や議会と言った手段が通用しない世界。メディアによる直接的な支配が可能となる社会の始まりでもある。

 情報系が生み出した仮装現実の世界に埋没すると人間の作った国家は喪失する。仮装現実の世界では、現実・実体は、断片に過ぎない。現実は、情報の一部である。そうなると全体としての実体はなくなる。
 生も、死すら現実からかけ離れたものになる。嫌な現実は、リセットしてしまえばいいのである。人生がゲームならば、ゲームオーバーしてもやり直すだけである。つまり、生も死も現実感がなくなる。現実感どころか、実体がないのである。国家など尚更実体がなくなる。彼等に、コモンセンス、常識や良識を求めても無駄である。公衆道徳など通用しない、無用な世界に彼等は生きているのである。それでも、情報系の中では生きていける。生きていけると思い込んでいる。それが怖いのである。
 現実の良識だの常識が通用しない。現実の国家が実体がなければ、当然、国法も通用しなくなる。情報系の中に住む者には、現実の人間関係も、生活も、社会も、法や規則も、実態がないのである。
 直接的コミュニケーションなき、コミュニケーション。直接人と人が対面して作り出すことのないコミュニケーション。そこには、人と人との間で当然とられるべき配慮も気遣いもない世界。礼儀も常識もない。人間同士の付き合いも共感もない。在るのは、端末機だけの世界である。静かな世界である。社会現象の奥深いところにある問題の本質は、極めて単純なのである。つまり、どう人間と付き合っていいのか解らない。コミュニケーションの問題なのである。
 異性と付き合うにしても情報系の中では、結局、断片的な情報・パーツの寄せ集めになる。顔や姿と、声、性格、そして快楽もバラバラの情報に過ぎない。
 我々の眼前には、全く異次元の国家、影の国家が現出しようとしている。それは、現実の国家を否定するほどの暴力を持ち始めている。

 戦後の日本人は、公徳心、公共道徳、それを(かたち)にした礼儀を全く顧みようとしてこなかった。そして、個人の意志と権利のみが個人主義、民主主義の根本だと教えてきた。しかし、これは明らかに片手落ちである。民主主義の大前提は、良識、常識である。良識や常識をわきまえないとよく言われたが、反面において、常識はずれ、常識破りを奨励もされてきた。しかも、どちらかというと、常識は、古くさくて、かっこ悪いもののようにして教えられてきた。その結果、社会秩序が失われるのは、自明の結果に思われる。良識や常識を否定したら、民主主義は、成り立たないのである。そして、その良識や常識の上に成り立つ人との付き合い方が民主主義の原点なのである。
 民主主義は礼儀正しいものなのである。ただ、その礼は、民主的なものでなければならない。





        


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Copyright(C) 2006.11.16 Keiichirou Koyano




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