経済体制を問題にする場合、経済とは何かを明らかにしておく必要がある。処が経済とは何かを明らかにしないで経済体制を問題にしている場合が多い。その結果、経済体制はいつまでたっても漠然とした根拠に基づいている。
経済というのは、生きる為の活動である。そして、生きる為の手段を、即ち、生産手段と消費手段の所有形態が、経済体制の根底を決める。
また、生産と消費とが集団化、組織化される過程で分配の手段が経済体制の枠組みを決める要素となったのである。
故に、一般には、経済体制の問題は、生産と消費、分配と労働の問題に要約される。分配の手段として市場と貨幣が生じたのである。
経済体制の基盤の違いは、生産手段の私的所有権を認めるか、いなかによって決まる。その上で分配を市場を介して行うか否かの問題となる。また、所有権の問題は、貨幣の性格にも影響を与える。
故に、経済体制は、生産手段の所有の在り方によって左右される。
所有権とは、労務投下や資本投下に裏付けられた排他的で独占的な、利用権、占有権、専用権、使用権である。所有権は、恒久的な権利である。所有権は、譲渡する事が可能である。所有権は、継承・相続される。また、所有者は、所有物を処分することができる。
つまり、所有権は、第一に何らかの労務投下か資本投下によって既得権が発生するという事である。第二に、所有権は、排他的権利だと言う事である。第三に、所有権は、独占的権利だと言う事である。つまり、所有権は、占有権だと言う事である。第四に、所有権は、利用したり、使用する権利だと言う事である。第五に、所有権は、恒久的権利であり。譲渡したり、相続することのできる権利だと言う事である。第六に、所有者は、所有物を改造、廃棄、消去、譲渡することができる。これらの性格は、所有の在り方によって社会そのものの在り方のみならず人間の生き方をも変えてしまう。
特に、排他的で独占的である所有権は、争いの素である。排他的で独占的権利は、持ち主が特定できる。その権利を侵せば必ず争いになる。世の中の争いのほとんどが、所有権を巡っての争いだと言っても過言ではない。戦争ですら、国家間の所有権の争いだと言える。しかし、それでも所有権は、根源的な権利である。なぜならば、人間が生きていく上で最低限必要なもの、衣食住の所有権まで排除することは不可能だからである。
また、所有権が恒久的で、譲渡が可能だと言うところに重要な社会的作用が隠されている。しかも譲渡が相続という形で引き継がれると、最初は、何らかの労力や資本の投下があったとしてもそれが、長い年月を経る内に子孫の既得権益となり、ある種の特権階級を生む下地となる可能性を含んでいる。だからといって相続できない所有権は、その効力を発揮できない。所有権は、相続できる事に意味があるのである。
所有権は、人の意欲を引き出す誘因であると同時に、社会を階級化する原因でもある。
階級制度の元となる不労所得の代表として問題になる。地代、家賃、金利は、所有権から派生する収益である。この様に、所有権は、特権階級を形成する既得権の代表である。
所有権は、国家体制によっては、国家や人、企業の所有権も含まれる。君主体制には、国家の所有権が含まれる。また、民主主義を国是とする国でも奴隷制度を敷く国では、一部の人間に対する所有権が認められていた。資本主義国では、企業は、売買の対象であり、企業に対する所有権がある。
所有権の種類には、第一に、私的所有権。第二に、公的所有。第三に、団体や組織による所有。第四に、資本家による所有。第五に、国家的所有がある。
通常、経済体制は、一つの所有形態に収斂するのではなく。いくつかの所有形態が混在している。経済体制を分けるのは、生産手段の私的所有をどの程度許容しているかである。
共産主義体制というのは、生産手段を国有化している経済体制を指して言う。社会主義体制というのは、生産手段を公有化している体制を指して言う。資本主義体制というのは、資本家が所有する体制を言う。また、市民体制というのは、生産手段を私的に所有する体制を言う。
土地の国有、公有は、近代社会主義や共産主義だけの特徴ではない。我が国でも、斑田収授にみられる公地公民主義なのどは、土地の私有を禁じた制度である。この様に、共産主義的な経済体制や社会主義的経済体制は、決して目新しいものではない。
今日の資本主義体制は、生産手段を資本家が所有することを原則としているが、その他の所有形態を一部混在させた体制である。
また、基本的には、経済の自由主義体制は、貨幣経済、市場経済を原則としている。ただ、ここにも錯覚があるが、共産主義体制、社会主義体制は、市場経済を否定しているわけではない。
ただ、共産主義体制は、生産手段を国有化することによって生産手段の組織化が、全体主義的な傾向を持っただけである。同時に政治体制が一党独裁を前提とし、中央集権的な体制を引かれたことに一因がある。本来、共産主義や社会主義は、地域コミュニティに根ざした、民主的・理想主義的な体制であるはずである。それが一党独裁に偏したことで、その本来の姿を失ったのである。
政治体制が一党独裁に偏った弊害である。結局、政治体制が、一党独裁体制となり、全体主義的になり、それに併せて経済も統制的経済体制になっただけである。
統制的経済か、否かが、共産主義・社会主義であるか、否かを分けているわけではない。専制君主国でも経済手段の国有化をしていた国は沢山ある。また、何も統制経済は、共産主義国や社会主義国だけが行ったものではない。資本主義国や自由主義国でも必要に応じて実施されたことがある。
また、統制的経済は、常に悪いと決め付けるのも危険である。無制限、無原則な統制経済は悪いが、もともと、経済原則や体制とは、不変的な原理ではない。その経済状況にあった体制が最善なのである。
計画的であるか、否かも同様である。計画経済は、資本主義体制、自由主義体制においても実施された。
資本主義体制や市場経済、イコール、自由主義経済だというのは錯覚である。資本主義や市場経済が、私的所有を認めているという点において自由主義的だというのに過ぎない。資本主義体制は、視点を変えれば、新植民地主義といえなくもない。
現在、私的所有は危機に瀕している。私的所有の基礎は、自営業者、自作農を基礎とした所有形態である。これは、近代的市民、市民革命を土台として成立した。私的所有は、自由主義の基礎でもある。
市場経済というのは、市場を通した分配機構を土台とした経済機構を指し、貨幣経済というのは、貨幣を媒体とした価値調整機能を基礎とした経済の仕組みである。
経済体制とは、所有形態や分配機構、価値の調整機能を組み合わせて成立する構造である。一概に、理念思想によって規定すべきものではない。
現代日本人には、幻想がある。戦後日本人は、困窮しなかった。飢餓も戦後の混乱期の一時期だけで、その後は高度成長を享受してきた。しかし、世界中何処を見ても、どの時代を見ても、この様な平和や繁栄が続いていた国はない。一見平和そうな時代でも飢えや疫病から逃れられた世界は稀なのである。この希有な世界を常態だと日本人は思い込んでいる。しかも、国を守ろうという事もしてこなかった。アメリカの軍事力に守られた、極端な話、アメリカの核の傘に守られた繁栄である。この事に日本人は、無自覚である。
その上で、国際的な平和、政治的安定を前提として経済を考えている。しかし、この前提は、極めて危うい均衡の上に成り立っている。
現代の世界は、飽食と飢餓、貧困と浪費、平和と混乱が混在している世界である。一方に飢えに苦しむ人達がいて、その一方に、食に飽きている人達がいる。しかも産地の人々が飢餓に苦しんでいるというのに、消費地である日本の食糧自給率は40%に満たないのである。これが現実である。この現実を前にすると慄然とする。しかも、この様な不均衡、不平等がいつまでも続くという幻想を持っている。
飢えた者達から食に飽きた者達に、貧困な者から富める者に財の転移が起こっているのである。これは、反対方向の流れではない。持たない者から持てる者への流れであり、持てる者から持たない者に対する流れではない。不足している者から持て余している者への流れであり、持て余している者から不足している者への流れではない。求める者から満たされた者への流れであり、満たされた者から求める者への流れではない。ここに危機の源がある。
それなのに、体制派も、反体制派もこの幻想から逃れられない。気が付いていたとしても、現実の生活の中で見て見ぬ振りをしている。明日の心配よりも今日の快楽なのである。結局、日本人は、快楽主義の虜なのである。反体制はと言えども、自分の安定した生活の上にあぐらをかいて人を批判しているに過ぎない。しかし、これは、他人事ではない。我々の問題なのである。
現実の経済体制は、希少資源を分け合って成り立っている。一度、不足すれば、経済は、破綻し生活が成り立たなくなる。世界は、度々経済的惨禍に見舞われたが、何とか凌(しの)いできた。しかし、本当にこの様な幸運が、いつまで続くのであろうか。そう、戦後の日本は幸運だったのである。幸運が続くうちに、自分達の経済体制、経済機構を築き上げておかないと飢餓は、現実の問題となって日本人を襲うであろう。
我々は、経済危機を乗り越えてきたと言うが、その都度、世界のどこかで争いがあったことを忘れてはならない。経済は、自然の果実ではない。人為的な生産物である。そこには、生々しい人間の欲望が蠢(うごめ)いているのである。生活に必要な物資が不足した時、必ず血生臭い争奪戦が繰り広げられてきた。なぜならば、その資源がなければ生きていけないからである。
国家は、誰のものか。会社は、誰のものか。それは、経済に対する本質的問いかけである。つまり、所有権の問題である。所有権の起源が、労働の投下と資本の投下の二面性を持つことがこの問題の本質を表している。即ち、国家を所有するのは、企業を所有するのは、労働者か、資本家かの問題である。企業で言えば、企業の財産と労働の成果物は、誰に帰属するのかの問題である。現代の考え方は、企業の財産は、資本家に、労働の成果物は、労働者に帰属する事を原則としている。ただ、企業の財産の全てを資本家に帰属させるべきか、労働の成果物の全てを労働者に帰属させるべきか、意見が分かれるところである。
しかし、企業は、株主の物であるというのは、明らかに欲のかき過ぎである。企業は、働く者の物である事がやはり土台である。その上で、資本家も債権者も応分の分け前にあずかるべきなのである。なぜならば、企業は、共同体だからである。
今の企業は、株主に偏りすぎる。振り回されすぎる。株主の支配権が過剰に行使されるから、株価が異常な動きをする。本来、株主は、企業という運命共同体の一員でなければならない。キャピタルゲインだけを求めて投資するのは、邪道である。企業の目的、将来性、考え方に共鳴して出資するものである。ところが過剰に権利を行使して、企業の体力や将来性を削ぐことに汲々としている。目先の利益を求めて、事業を育てる意志がない。異常な株価の動きは、人間を狂わせる。資本市場が、投資の場でなくなり、投機の場、博打場、賭場に変質してしまう。マネーゲームによって経済が振り回される。これでは健全な資本主義が育ちようがない。キャピタルゲインのみを目的としているのは、株主資本主義である。
企業は、公器である。競馬馬のような博打の対象ではない。実業である。共同体である。そこで生活の糧を得ている者達がいるのである。人生があるのである。夢があるのである。だからこそ、本質は、企業は、働く者達のものなのである。
翻(ひるがえ)って国家は、誰の物かを考えてみるべきである。国家は投資家のものであろうか。とんでもない発想である。それは、植民地主義を意味している。国家は、本来、国民のものである。それを建国の時に出資した者のものだとは言えない。そんな事を主張したら、以後恥ずかしくて、民主主義も、自由主義も口に出せまい。
国家は、誰のものか。国富は、誰に帰属するのか。それは、国家の所有者、主権者の問題である。
北方の民族、南方の民族を未開だと蔑(さげす)むが、南方の民族は、満ち足りていたから、豊かだったから文明を必要としていなかったとも言える。南方の富を簒奪してきたのは、北方の民族である。北方の民族が南方の民族に資本の論理を振りかざすのは、勝手すぎる。科学文明だけが正義なのではない。
所有権は、貧しさが生み出したという側面がある。土地にせよ、収穫物にせよ、有り余るほど豊かで在れば、所有権を主張する必要がない。逆に、砂漠のような利用する価値のない土地にも所有権は発生しない。我々が、文明を持たざる民族を貧しいと言って蔑んでいるのは、間違いかもしれない。本来豊かだった者が、富を略奪されて貧しくなったのかもしれないのである。経済の本質は、生産財の転移である。どこから、どの様な財がどの様にして何処へ転移されているかを見ない限り、実態は理解できない。
漁業や農業では、近代化したが故に貧しくなることもあるのである。需要なのは、貧しさの背後にある経済の構造である。
かつて、アフリカ大陸やアメリカ大陸において先住民の土地の所有権は無視された。この事実を現代人はどう受け止めるべきなのか。近代文明は、決して正義の基に築かれたものではないのである。文明や進歩を善となし、科学文明を持たない民族を未開と蔑むことが本当に許されるのであろうか。それは、自分達の悪行を正当化する手段として科学文明を利用しているのに過ぎないのではないだろうか。
進化は、進化せざるを得ないから進化したという側面も持つ。幸せという観点から見れば、文明なんてない方がいいのかも知れない。無政府主義の論拠もその点にある。しかし、一旦文明が力を発揮すると、文明を持たぬものは、圧倒され対抗する手段を失い。文明を持つ者の言うなりにならざるを得ない。その時、楽園は失われるのである。
今、日本では、財政赤字が深刻な問題となっている。
財政赤字をもたらすものは、国家体制である。国家体制が赤字を生み出すというのは、財政赤字は構造的な問題だという事を意味する。いくら、政策を講じても根本的経済構造に歪みがあれば、赤字は解消できない。
国家体制の問題とは、根本的には、国家理念である。
経済理念とは、経済、即ち、生活をどの様な状態に維持したいのかという事であり、その為に、経済体制をどの様な仕組みにするかの問題なのである。財政というのは、その為の経済政策や施策の結果にすぎないという事である。
故に、財政の根本は何か。財政の根本は、国家理念である。国家理念は、建国の理念である。それは、国家事業とは何か収斂するのである。
国家事業の第一は、国家建設である。国家建設とは、社会資本の建設を言う。社会資本には、ハードな部分とソフトな部分がある。ソフトな部分には教育が含まれる。
第二は、国防と治安である。国防というのは、軍事的意味だけでなく、あらゆる災害や犯罪から国民を護ることである。
第三は、国民生活の保護である。国民生活とは、国民福利である。
国家経済の機構と市場経済の機構とは、不連続である。なぜ、不連続かというと根本思想が違うからである。国家経済、即ち、財政は、現金主義であるのに対し、市場経済は、損益主義に基づいている。故に、赤字と言っても財政赤字と民間企業の赤字を一律には語れない。
市場経済の原則に財政を従わせたいと思うのならば、現金収支を期間損益に変換する必要がある。
期間損益と現金収支の違いは何か。例えば、民間企業で言う赤字は、期間損益上の赤字であり、財政や家計で言う赤字は、現金収支上の赤字である。
また、現金収支における借入金は、期間損益では負債になる。現金収支上、借入金は、収入になるが、期間損益上では、債務となるのである。そして、何等かの貸方の相手勘定を持つ。
現金収支上の収入を構成するのは、収益と負債と資本である。また、支出は、資産と費用である。
収益と負債や資本の違いは何かが問題なのである。一つは資金の働く時間の差である。
収益も負債も資本も資金調達の形態である。ただ収益は、調達した資金を単位期間内に清算してしまうのに対し、負債は一定期間かけて清算し、資本は、解散時に清算するという違いがあるのである。この違いが重要なのである。
通常、事業を興す時には、大量の資金がいる。その時、調達した資金は、借入と投資による。そこで得た資金は、初期投資として設備投資や開店資金として使用される。故に、資金は、短い期間に支出される。残されるのは、返済と配当の責務である。責務は債務残高として計上される。
支出は、資産と費用からなる。支出も単位期間内に清算する部分を費用とし、長期的に清算する部分を資産に区分するのである。
長期借入金の返済は、費用として計上されない。負債の返済原資にあてられるのは、償却費と利益である。償却費と利益で不足する部分は新たな借入によって充当される。財政赤字で本来問題になる部分の不足分である。
収益に費用が適正に対応し、収益に費用が見合っているか。費用対効果が肝心なのであり、その費用対効果を計る基準は、利益であり、利益を規定するのは国家理念である。
この点が財政理念には欠如している。即ち、財政理念には、利益という概念が欠落しているのである。
だから、公共事業においても利益という概念がない。利益という概念がないから報酬という概念も成り立たない。費用対効果という関係が成り立たないからである。
公共事業において公務員が受け取る所得は、報酬、即ち、労働の対価ではなく。単に、所得なのである。
自由主義経済では、事業収益を見直すべきなのである。なぜ、国家は利益をあげてはならないのか。
自由主義経済において国家だけを特別視しているかぎり、財政の抜本的解決はできない。国家も共通の原理に従うべきなのである。
自由主義経済の原則に従うのならば、国家も国営事業の利益を重視すべきなのである。そして、国家事業にかかる費用の多くを、国家事業から上げられる収益に依って賄う事を考えるべきなのである。
何をどの様な税収に基づき、国家支出を何に対応させるべきなのか。それが課税対象や課税手段の課題でもある。そして、この問題は、国家理念に関わる問題である。
税制は、国家観の上に築かれるべきものである。財政上の都合や政治的理由で財政を経営すれば、財政が歪む(ひずむ・ゆがむ)のは当然の帰結である。
所得の再分配を重視するか否かは、国家理念に関わる問題である。再分配を重視するのならば高税率にならざるをえないし、市場効率を尊重すれば福祉の費用を削減しなければならない。どちらを選択するかは、国民国家においては、国民の意志に委ねられる。文化の問題である。
参考文献
「所有権」の誕生 加藤雅信著 三省堂