形而上のもの、これを道と謂い、形而下のもの、これを器と謂う。(「易の話」金谷治著 講談社学術文庫)
建物の設計者や機械の設計者はいるのに、国家制度の設計者はいない。不思議なことである。
国家制度も、政治制度も、経済制度も器である。そして、それは、国家理念の上に成り立つ。それを国民国家において統括しているのが憲法である。君主国では君主である。
国民国家の主権者は、国民であり、君主国では君主である。君主は実在する人間であるのに対し、国民は、観念の所産である。この点が重要なのである。故に、国民国家においては、国民の定義が明確にされていなければならない。この場合の定義は、要件定義である。
国家を成立させている要素には、第一に、国民がある。第二に、国家理念。第三に、国家体制。第四に、国境である。
国家の根本は、国民である。国民を一概に定義することは難しい。現実に、国家の基盤を構成する要素には、民族、宗教、人種、思想、戸籍、手続き、歴史、法等と多種多様である。国民を定義するのは要件定義にならざるを得ない。
成文化されているか、いないかを別にして、国家には基本理念が国家の統一性は保たれない。
国家とは何か。
国家の定義には、物理的定義、法的定義、経済的定義、人的定義等が考えられる。
国家を一つの単位と捉えると物理的定義は、国境に囲まれた範囲と言う事になる。つまり、領土の問題である。法的定義は、法の及ぶ範囲を言う。経済的定義とは、一つの考え方として通貨圏という考え方がある。人的定義というのは、国民をどう定義するかによる。
国民国家は、国民を前提として成立している。故にも国民の定義が国家の定義を決めるのである。そして、国家という概念は国民国家の成立によって完成されたのである。
国家とは、思想の産物である。特に、国民国家は、国民の合意に基づく思想を前提として成り立っている。故に、国民国家は、手続が重要になるのである。
国家は、天然自然に成る物ではない。国家は、作られた構造物である。故に、国家の法は、人為的な物であり、自然の法則とは異質なものである。即ち、所与、自明な法則ではない。任意な法則である。
戦後の日本の教育は、無思想、即ち、思想的中立を原則としているが、これは国是、憲法に反する。国家は、思想の産物であり、思想に基づいて建築されている。日本は、民主主義、自由主義、個人主義、平和主義を根本理念として成立した国家である。そして、建国の理念によって国民生活は支えられている。建国の理念を教育することは、国家の責務であり、権利である。特に、国民国家は、建国の理念を国民に博く浸透させることを前提して成り立っているのである。
国家の理念に反したり、国家に対して叛逆することを教育することは、国家理念に反することは自明な事である。国民国家は、国家への調整を前提として成り立っているのである。
現実の国家とは権力である。国家とは権力機構である。
第一に国家は、共同体である。
国家は、国民の生活の場である。国民が生まれ、育ち、暮らしている場である。それ故に、国民は、国家と運命を伴にする。
国が乱れれば、人倫も乱れる。国が経済的に破綻すれば、国民の生活も苦しくなる。
国が他国に占領支配されれば、国民も忍従を強いられる。国民の権利も義務も踏み躙られる。国民の生命も財産も蹂躙される。基本的人権も無視され。国土は荒廃し、国民は、飢え、かつ、死ぬ。
国が滅べば国民の歴史は否定され、文化・伝統も失われる。国の名前や自分達の言葉さえも忘れ去られていく。
人民は、辱められ、子供は売られる。土地は奪われ、社稷(しゃしょく)は荒らされ、家族は離散する。今も多くの民が国を追われて世界を漂っている。
国家は、運命共同体なのである。国家が、危急存亡の淵に立たされた時、それまでの生活を維持しつづけられる国民は、誰一人いないのである。
守ろうとする国民のいない国を守りきることはできない。守ろうとする国のない国民を守る者はいない。国家と国民は、運命を伴にしているのである。
国民は、国家と運命を伴にする。国家は、国民と目的を共有する。それ故に、国家は、国民に忠誠を求め、国民は、国家に従う。
歴史上、国益を追求しなかった国家は、存在しない。国益とは、主権者の利益である。国民国家においては、国益は、国民の利益である。そして、国家目的は、国民の福利を実現する事である。それは、主権者が国民だからである。国家には、国家理念がある。国家理念は、国民を一つの機構にまとめるために必要な理念である。それは、法や制度の礎となる。一見、国家理念は、理想的に見える。しかし、国家理念は、理想ではない。現実の国家を維持するための理念である。それが、国家の目的である。国家の目的は、現実である。国家理念が、現実離れをすれば、国家は成り立たなくなる。例えば、イスラム教や共産主義といった何らかの宗教の理念や思想の理念を国家理念としている国であったとしてもイスラム教の目的や共産主義の実現のために、国家を犠牲にするという事はない。また、仮にイスラム教や共産主義のために働いたとしてもそれが国益に叶(かな)うと考えるからであって国益に反した行動を国家は本質的にとらない。それが国家である。
第二に国家は、権力機構である。国家の根源は、力である。国家という共同体の平和と安全、秩序を護るための力である。
権力は、公式に認知されてはじめて効力を発揮する。権力は、オーソライズ(権威付け)されなければならない。今日、国家は、国内外に承認されてオーソライズされる。オーソライズするためには、手続きが必要である。故に、権力は手続きによって正当化される。
国家とは、暴力装置であると同時に、権力装置である。
国家を認めるか、否かは、結局、最終的には、権威権力を認めるか、認めないかにあるのである。国家権力を認めないのは、無政府主義である。無政府主義は、国家権力を認めないのであるから、国家権力によって維持される法も認めないことになる。つまり、無政府主義は、無法主義でもあるのである。
国家は、権力装置であり、統制機関なのである。
やれ反体制だ、革命だと言ったところで無法な状態を善しとしないのならば、権力や権威を受け容れるしかない。
現権力と否定し、現権力を倒したところで、倒しただけでは治まりはしない。無政府主義者でもないかぎり、結局、現権力に取って代わり、権力を握るしかない。無政府主義は、無法をも意味する。無政府主義とは、結局、無法な暴力を受け容れる事である。
突き詰めると権力を絶対化するかしないかの問題なのである。
権力の絶対化を防ぐためには、国家の仕組み、制度が重要となる。
権力の集中と分散、この一見、相対立する働きを統御するのが民主主義の仕組みと手続である。民主主義国家の正統性は、制度と手続によって保たれている。故に、民主主義は、制度と手続による思想と言えるのである。
国家は、一人の国家元首によって代表される。国家元首は、国家権力を象徴する。
国家は、法や掟を定める権能を持つ。法や掟が成文化されていなければ、人が法である。つまり、権力者が法をいかようにでもできる。法は、権力から派生する。
国家は、国民の生命と財産を自由にする権能がある。国民の肉体と思想を拘束し、支配する権能がある。国家には、徴税の権能がある。国家には、国民を裁く権能、即ち、裁判権がある。この様に、国家には、強力な権能がある。国家は、この強力な権能を制御するための機構が必要となる。
この様に国民生活に密着している国家権力は、国民の支持の有無がその消長を左右する。国民の支持が得られない権力は、長続きできない。故に、なるべく権力者、広範囲な合意を取り付けようとする。
それを保障しているのが選挙制度なのである。
第三に、国家は、統治機関である。国家を統治には、強権的なやり方による統治と合意に基づく統治のやり方がある。合意にも範囲がある。つまり、一部の特権階級による合意と国民全体による合意がある。
強権的な体制は、国民の支持を取り付けるのが難しく。合意に基づく体制は、統制をとるのが難しい。
国家は、権威、権力、権能によって支えられている。権威・権力・権能の三つの要件を掌握したものが主権者である。主権者こそ、権力者である。国民が主権者・権力者の国を国民国家という。君主が主権者の国は、君主国である。独裁者が主権者の国は独裁国である。特権階級が支配者の国は、貴族国である。
国家は、この主権者・権力者に奉仕する機関である。つまり、国家は、権力者に服従する。
主権者、権力者は権力を簒奪しようとする者と戦う。それが権力闘争である。故に、政治活動は、基本的に権力闘争である。
全権を集中して握る体制もあるが、この三つを分担して統治する体制もある。その在り方によって政治体制の基礎が固まる。
即ち、政治体制は、集権主義か、分権主義かの二つに分かれる。分権主義にも水平的な分権と垂直的分権とがある。
国家を構成する機関は、合目的的な組織である。故に、その働きを、明確に定義しておく必要がある。
国家には、範囲がある。即ち、境界線(国境)に囲まれた人為的、物理的空間、地域である。
国家は、人為的空間である。国境線は、人為的境界線である。天然自然に引かれた境界線ではない。
国家とは、国家権力の及ぶ範囲に限定される。国家権力の及ばない区域は、国外である。
国家の範囲は、主権の及ぶ範囲である。主権が及ぶ範囲と言う事は、法の及ぶ範囲を指す。そして、国家は、一つの法体系しか持てない。つまり、法制度は、国家を一つの単位とする。貨幣制度や経済制度もこれに準じ、国家を一つの単位とする。
民主主義国は、人に対する不信感によって成立した思想である。故に、法治主義を建前とする。それに対し、君主国や独裁国は、人治主義である。即ち、人による支配を建前とする。君主の徳や独裁者の理性、自制心を信じる事によって成り立っている。貴族制度国や封建主義国、軍国主義は、階級主義、差別主義、組織主義である。即ち、一部の特権階級や組織による統治である。それは、君主の徳も大衆の理性もいずれも信じず、選ばれた者達の知性を信じる体制である。
権力機構である国家は、基本的に暴力装置である。制御する仕組みを持たなければ、凶器である。自動車は凶器になると言うのと同じである。その場合、車が凶器と言うよりも車も扱い方を間違うと凶器になるという事である。制動装置や制御装置がなければ車の暴走は止められないように、国家も制御機構を持たなければ暴走する。国家機構の本質は、国家自身の持つ暴力性の制御にある。そのことを忘れてはならない。
国民は、国家が国民として認めた者をいう。国民であるかないかは、国家権力が決めた法・定義によって定まる。
国民は、国家権力によって国家権力が必要と認めた権利と義務を与えられる。
たとえ、国内居住する者でも国家権力によって国民として認知されていない者は、国民として扱われない。異邦人である。当然、国民としての権利も義務も保障されていない。
国家は、国民の生命と財産を自由にする権能を持つ。国家は、国民の身体と思想を拘束、支配する権能を持つ。それを権力が無条件、無原則に行使すれば、国民は、自分の生命、財産、家族を守ることができなくなる。それ故に、国民は、国家権力に対し、一定の制約をつけようとする。また、国民一人一人が主権者となって国家権力を牽制しようとする。
国民が国家権力を牽制する為に定める機構が法であり、制度である。そして、法や制度の拠り所が国民としての権利と義務である。この様な権利と義務は、作用反作用の関係にある。つまり、国家に向けられた権利は、同じ働きを義務として国民に向けられる。この様な作用反作用に関係によって権利と義務は均衡している。
例えば、教育は、権利であると伴に、義務でもある。納税は、義務であると伴に税の使い道に対する監視・監督は、権利でもある。国を守ることは、権利である。そして、義務である。法を守ることは義務である。しかし、法に守られるのは権利である。この様に、権利と義務は、同じ力である。ただ、それが国家に向けられたとき、権利となり、国民に向けられた時、義務となる。
国民国家においては、法や制度は、礎(いしずえ)である。この様な法や制度は、手続きによって正当化される。法や制度の正当性は、手続きによって保障されている。故に、国民国家では、手続きが重んじられる。
国民国家は、強力な権力機構に対する抵抗運動によって成立した。その典型的なのが市民革命であり、国民国家である。国家の暴力を牽制し、制御する国民の直接的な力を発揮させるのが権利と義務である。その最も中核になるのが、参政権である。
国民に与えられた権利と義務によって権力は制御される。故に、権力機構を牽制、制御するために、国民の諸権利は保障されている。この様な権利には、思想・信条の自由、結社の自由、言論の自由などがある。
これらの自由は、国家の暴力に対し、国民を守るために、保障された権利である。同時に国家権力を国家目標に効率的に集中させるための有効な手段である。権力と義務によって権力機構は、均衡し、その力を最大限に発揮することができる。国民の自由こそ、国民国家の活力である。
国家は、公共の利益、福利を追求する。国民は、自己実現を追求する。その力の均衡するところに国家は成立している。この力の均衡が破れた時、国家と国民は対立するのである。
人間は、自己の利益の実現のために生きているわけではない。自己実現、自己善の成就のために生きているのである。自己の利益は、その自己善の一部に過ぎない。自己善は、公共の大義に繋がる。その公共の大義を実現するのが国家である。国家が、自己善の延長線上にあるかぎり、国民と国家は対立することはない。国家が、自己善に反するようになった時、人は、国家と戦わざるを得なくなるのである。
国家の独立は、国民の自由の保障に不可欠な要件である。国家の自由は、国家の独立によって保障される。故に、独立国でない国家の国民に自由は保障されていない。
故に、国家の独立を守ることは国家の存立を左右することである。一旦失われた独立は、それを取り戻すのに大変な労力と時間を必要とする。ただ、政治的に独立しただけでは、真の独立とは言えないのである。真の独立とは、自分達が、自分達の手で、国家権力をうち立てることである。
独立国でないと国民は、自分の所属する国家に自分の権利を主張することはできない。権利を主張できないという事は、同時に義務も発生しないが、義務の代わりに無条件の服従、隷属が要求される。それは、人間としての人権や財産権も与えられないことを意味する。義務は、権利に基づいている。国民としての義務を忌避し、隷属の途を拓くのは愚かである。国家の独立は、人間としての権利を守るための最低限の条件である。自国の防衛を他国に依存する事は、それ自体、主権を譲り渡すことである。国を守ることと、他国を侵略することは、同じ事ではない。国防のための軍を持つことが、即、戦争に繋がるわけではない。むしろ、備えをしていなければ、相手国を挑発することは、第二次大戦前の大陸国家を見れば解る。備えがなから、他国の侵略を招いたのである。国家の独立は、国家の主権、個人の主体性・自由を保つための大前提である。
家畜の自由か、野生の自由かの違いである。今日、属国や植民地にもある程度の自由を認めているとしている。しかし、属国や植民地の自由は、他国に保障されている自由に過ぎず、いわば家畜の自由に過ぎない。宗主国の都合によってはいつでも破棄されてしまう。与えられた自由である。自由は、主体的なものであり、与えられるものではない。故に、国民は、自らの自由は、自らの手で勝ち取らないかぎり実現できない。
子供の自由というのは、制約がある。何でもかんでも自分の思い通りにできるわけではない。それは、子供が養育者の庇護下にあり、他者の援助に依存しないかぎり生きていけないからである。この様な子供の自由というのは、制限付き、制約付き、条件付きの自由、許された範囲内の自由に過ぎないのである。真の自由ではない。強国の庇護下にある国の自由も同様である。宗旨国によって許された範囲内の自由に過ぎない。
国家が自らの行動の正統性を主張し、国民の自由と権利、生命と財産を守るためには、独立していなければならない。他国に従属している国家は、自国の国民の正当な権利、生命、財産を守ることができない。自覚の国民の生命と財産、権利は宗主国に握られる。属国や植民地は、自国の大義、正義を主張するチャンスすら与えられない。
国際社会において大義名分は、国家にある。国際社会において敗者は、大義名分を失う。故に、敗者は、勝者に公正を求めることができない。敗者が勝者に期待できるのは、勝者の慈悲・憐憫である。勝者は、敗者に服従を強要する。敗者は、勝者の大義名分を受け容れるしかないのである。
かつて国家にも主従関係があった。国が服従をすれば、国民も服従せざるを得ないのである。従属した国には、国家の独立はない。国家も国民も宗主国に隷属しなければならない。その様な環境下において奴隷や富の略奪が行われたのである。
国民は、国家と運命を伴にする。国家は、運命共同体なのである。