国家を国家たらしめている最低限の要件は、主権と独立である。
そして、主権と独立を守ることが、国家の存在を維持するための最低限必要な大事である。
主権は、生殺与奪の権能を持つ。主権は権力である。国家の主権を掌握する者が、その国の支配者である。国家の主権者は、国家の主人である。
主権とは、国家を統一的に支配する権力である。つまり、統治権である。国家は、対外的に独立していなければ成立しない。これが対外的な主権である。また、国家は、一つの意志によって支配されなければならない。これが対内的主権である。この対外的主権から生まれるのが国防であり、対内的主権から生じるのが治安である。故に、国権の基本的機能は国防と治安の維持である。そして、最終的手段として物理的暴力を行使することを公的に認められているのが国家権力である。それが、国家の存在理由である。それを前提として、国家理念が打ち立てられる。つまり、国家理念は、国家主権、国家権力の裏付け、保障があって成立している。
それを担っているのが国防と治安にあたる者である。故に、国防と治安を担う者が無法になると国も無法、無政府状態に陥る。よくよくこの点を国防と治安を担う者は自覚していなければならない。
国防と治安を担う者に対する根本的信頼なくして、国は成り立たない。
主権なき強国は、その存在自体が世界平和に対して脅威となる。なぜならば、力だけあって当事者能力を持たないからである。故に、独立も保障されていない。
日本は、公権力だけが組織的武装を認められている。それは、国家権力の本質を端的な現している。この様な権力を国家に与えているのは、主権者である。
この主権を基礎として国家目的、国家理念が打ち立てられる。また、主権を維持し、国家目的や国家理念を実現するために、法と制度が組み立てられる。
近代国民国家においては、憲法によって国家目的と理念が明示され、その上に、法と制度が成立する。制度の根幹は、立法、司法、行政からなる。
次ぎに、主権者が、要件をもって定義される。
また、主権者は、経済の主権を併せ持つ。経済の主権とは、経済の統治権であり、貨幣の発行権、所有権の範囲、経済制度(市場制度、貨幣制度、財政制度等)、徴税権からなる。
中でも特に重要なのは、富の配分、財の配分である。それは、国家による再配分を意味する。
いかなる国家も主権を有するから国家を維持、制御する事が出来る。主権を維持するためには、統制と倫理観が不可欠である。
国家の主権と独立を維持するのは、国防と治安である。国防を担う組織が軍であり、治安を担う組織が警察である。何れも武装を必要とする。故に、軍と警察にとって必要不可欠な要件は、規律と倫理観である。
法は、倫理観によって護られるものであり、懲罰によって護られるものではない。根本的に遵法精神が存在しなければ、法制度は維持できない。つまり、根本は倫理観である。そして、倫理観とは、道義である。
国際社会の中で何が一番危険な国かと言えば、それは主権が確立されていない、あるいは、分裂している国である。
誰が、どの様な手段で、どの様な権利によって、国家を統治するかによって主権の有り様は決まる。
主権とは、国家理念、即ち、国家の定義、国家の範囲、国民の定義、国民の範囲、建国にあたっての基本的思想に基づいて国家の在り方、国法、国家予算、国家の政策を決める権利を指して言う。つまり、国家の主体性である。
国家の有り様は、主権者、国家理念、国家体制によって決まる。現象は、前提条件と構造の支配下にある。つまり、国家という現象は、国家を成立させている前提と国家構造の支配下にある。
独立とは、主権を行使できる状態、国家が自立自存している状態を指して言う。つまり、国家が主体性を持って存在している状態を意味する。
主権は、内、外から常に脅かされている。
国際的取り決めは、力関係で決まる。領土問題も、力関係によって決着してきたのである。力を失えば、領土を奪われてきたのである。意味もなく他国の利権のために自国民の血を流してまで保護してくれる国はない。そこに正義はないのである。
歴史が、記録が、文献がと言ったところでそんなことで領土問題が片付くほど、国際関係は、生やさしいものではない事は、歴史が証明している。
日本人は、島国であり、戦と言っても明治維新前は、内乱だったに過ぎない。日本が侵略されたという経験は、元寇ぐらいであって極めて少ない希有な国である。
だから、お人好しのことを言っていられるのである。
領土は常に力によって獲得してきたし、又、奪われてきたのである。
国防を放棄する事は、主権を放棄する事と等しい。国防を放棄することは、主権を放棄することと変わりないから、独立国としてはみなされない。
戦争は、相手国があって起こるのであって、自国の意志とは関わりがない。いくら戦争は嫌だと言っても相手国から攻められれば戦闘状態に陥る。戦争は、意志の問題ではなくて、状態を言うのである。
侵略するか、しないかの決定権は、侵略する側にある。つまり、侵略者が決めるのであって、侵略される側にはない。国家の主権は、国権を意味する。故に、主権を守ろうとしない国には、国権は存在しない。国権が存在しない国は独立国とはみなされない。
同盟国と雖も、自国の利益にならないことで、他国の安全を守るために自国民の血を流すことはしない。自国民が許さない。自国民の血を流すのは、自国に何等かの利益、特に、国防に関する利益がある場合だけに限られている。
自国の安全を守るために他国民が血を流すことを期待するのは、あまりに勝手である。それは、理想でも何でもない。ただの身勝手である。
国家の独立は、自立、自存、自決、自衛の権能によって実現する。自立、自存、自決、自衛は、主権の根本である。故に、国家の独立は、主権によって維持される。
国際平和とは、国家間の力が均衡している状態を指す。言い換えると、世界平和は、国家間の力の均衡によって維持されている。国家間の力の均衡が崩れ、世界は緊張状態に陥る。
その際、他国の国の力によって自国の安全が維持されている場合は、従属関係とみなされ、主権が確保され、独立した状態とは言えない。その国は安全を保障している国の属国とみなされる。その場合、自国の平和を独力で護ることはできない。
日米の戦争である太平洋戦争において主たる戦場となったのは、日米の本土ではなく。周辺国である。この事実は、忘れてはならない。
主権と独立は、国家間の力関係の中で維持されているものであり、必然的に平和は、国家間の力関係によって維持されている。そして、それが国家の存在意義でもある。力の空白状態においては、平和の維持は難しい。
尊重すべきは、主権と独立であり、尊重されるべきは、主権と独立である。
侵略とは、主権に対する侵犯を意味し、主権の及ぶ範囲にたいして、主権者以外の国家、あるいは、集団が、何等かの干渉をすることである。
国家の主権は、内政に関することであり。外交に関する事とは次元を異にする。先ず自国の立場、理念があって主権、独立は守られるのである。
近隣諸国との考えの相違は、大前提であり、それを前提とした上で自国の建国の理念、立場を主張するのが主権である。
建国の前提は何かであって無条件に他国の主張に服従することは、隷従であり、それ自体が主権を危うくする行為である。あくまでも国の将来を決めるのは、国民でなければならないのである。
国民国家は、基本的に法治国家である。民主主義は、法を根本とした社会体制である。それは、国民を基礎とした態勢だからである。それ故に、法の根源、根拠が主権の本質となる。
法治国家においては、法を生み出す主体が主権者である。その意味で、法源、法の根源に存在する物こそ国家の本質でもある。民主主義国においては、司法、立法、行政の過程が法を生み出す。
そして、法の根源は、国民の合意、契約、コモンセンス、イデア、神や自然の摂理(自然法)、神意、天命と言ったものがある。
重要なのは、法の正当性は成文化された法の条文にあるのか、それとも、法の背後にある目に見えないなにものか、例えば、精神とか、聖霊とか、国民の意志、法則、摂理といった何等かの真理にあるのかである。それを決めるのが主権者である。故に、国家とは、高度に思想的存在である。
そして、この違いは、国家の成立の起源、つまり、国民の合意を起源とするのか、それとも、天命や神授といった絶対的権威を起源とするのかの違いともなる。
イスラム教国やユダヤ教国のように主権の本源を神授だとする国もある。それも国民が受容すれば正統なのである。そうなると問題は手続である。
主権者の思想の違いが、大陸法のような成文法とコモン・ローのような判例法の違いとなる。この違いは、制度上の差として現れるが本質は思想上の違いである。裁判制度や運用の違いとして現れるが、その根本は、人民裁判や陪審員制度などの本質は、正義に対する思想的問題なのである。故に、他国の制度を安易に導入すると思想的混乱が生じる。
つまり、成文法の国とコモン・ローの国は、厳密に言えば、民主主義といっても思想が違うのである。この事からも解るように、民主主義は、論理的思想と言うよりも制度的思想であり、民主主義で重視されるのは観念よりも、仕組みなのである。民主主義というのは基準ではなく器である。
主権者の思想の違いが国体を決定するのならば、必然的に教育が重要である。教育に思想を持ち込むべきではないと言うのは、とんでもない思い込みである。元来、国家は、思想的な存在である。特に、国民国家には、建国の理念を基盤にして建設された構造物である。当然、建国の理念を国民が共有する必要がある。共有することができない、共有することが恥ずかしい、また、明らかにすることが憚れるような建国の理念ならば、それこそが、国民を欺く行為である。当然に、公教育によって建国の理念に反したり、国家に対する叛逆を是とするような教育は容認されない。それは、建国の理念そのものを国家が否定するような行為だからである。それは又、言論の自由とは、別の次元の問題である。言論の自由は、言論界において守られるべき権利なのである。言論界と教育界とは、別の次元の問題である。故に、公教育は、国家の支配下におかれるべきなのである。
教育は、国家の主権と独立を守るためのものであり、国家の主権と独立を脅かすものであってはならない。国家の主権や独立を危うくするような教育を公教育において行う国は、植民地以外にない。つまり、最初から、主権と独立が認められていない国である。
主権は、獲得するものであり、与えられるものではない。近代国家の起源は、ほとんどが暴力的なものである。それを忘れてはならない。つまり、権力を力で奪い取ったのである。
政権の交代を暴力的でない手続によって行おうというのが、近代国家の前提である。しかし、その様な国でも、建国の際には、暴力的な手段をとられたという歴史的事実を忘れてはならない。
権力の継承手段には、第一に世襲、第二に、禅譲、第三に、互選、第四に、選挙、第五に、暴力(簒奪)、第六に、侵略などがある。暴力的手段には、革命やクーデターがある。
権力承継の主権者の意志は、宣誓や宣言によって発せられる。権威によって承認される。また、主権が確立されるためには、国民が主権者を受容することが要求される。
故に、宣誓や宣言を持って国家の起源とする。
主権は、主権者に権利と義務をもたらし、主権者は、主権に対して権利と義務を持つ。即ち、国家は、主権者に対し権利と義務を課し、主権者は、国家に対して権利と義務を持つ。この様な権利と義務は、作用反作用の関係にある。
権力の正統性は、何等かの権威によって裏付けられる。何等かの権威とは、第一に、宗教的権威、第二に、血統的権威、第三に、議会と言った世俗的権威、第四に、他国承認、第五に、国際機関の承認である。
国家には、中心、核がある。国家には論理がある。国家の主権を実現するのは、この中心と核である。故に、国家の有り様は、この主権のあるところによって決まる。
国家の中心、核とは権力の主体である。権力の主体は、第一に、個人、第二に、機関、第三に、議会、第四に、階級である。
国民国家が成立する以前は、この主権の在処は、必ずしも国民にあったわけではない。君主といった私的な権力にあったり、また、何等かの一族や階級が掌握していたりした。また、国王を中心とした近代国家が成立する以前には、主権という概念すら確立されていなかった。
主権国は、国家としての統一性が要求される。また、国家としての統制が要求される。それは国体をを形成する。統制や統一が維持できなければ、国家を代表したり、制御する事が出来ないからである。
主権には、立法権、司法権、行政権、徴税権、貨幣の発行権、教育権、防衛権がある。これの権能を構造的に分遣した体制が民主主義体制である。
権力の形態には、集権的な体制と分権的な体制がある。この様な体制は、主権者が決定する。
集権と分権と言うが要は均衡である。組織には、求心力と遠心力の均衡が必要となり、個々の部分には、斥力と引力が働いている。集権と分権は、この力の均衡を言う。
国家が成立する大前提は、自国の主権と独立は、主権者が守ると言う事である。自国の主権と独立は、即ち、繁栄と安全は、自国で護る覚悟なければ、護れないのである。自国の安全を自国の力で護ることのできない国家は、その時点で主権と独立を失う。
主権の主体は自国にあり、他国にはない。故、他国の意志で、自国の主権と独立が守られているわけではない。国の主権と独立を守るものが主権者なのである。それ以上でも、それ以下でもない。
国家は、自国の繁栄と安全を最優先に考える存在である。自国の繁栄と安全とは、言い換えれば主権者の繁栄と安全である。
その主権者が君主であれば、君主が、国民であれば、国民が、守らなければならない。国防の主体があるところが主権者である。主権が他国に移れば自動的に独立は損なわれる。
戦後の日本には、この点に錯覚がある。日本国憲法の前文には、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したと書かれているが、そもそも平和を愛する諸国民という主体が、自国内に存在しない。つまり、安全を保障する主体が国外にあることを意味する。
安全と生存は、自らの力で保持されるものであり、自国以外の公正や信義を期待すべきものではない。それは家畜の自由であって野生の自由ではない。
安全と生存は、相手が攻撃してこないことを前提とすべきではない。飢えた虎や狼を前にして、相手が抑制することを期待するのは愚かなことのようにである。相手が、攻撃をしてこないのは、自国の繁栄と安全が保障されている場合に限られている。つまり、柵や番犬によって保護されていることを前提としている。自国の繁栄と安全、国内の治安が脅かされれば、武力を行使することも吝かではない。それが主権国家である。
また、他国が我が国を侵略しようと言う意志を保有した時、他国の意志を他国の主権者に変わって変更する手段を持たない以上、他国が、我が国を侵略しないと言う保証を相手国に求めることは出来ない。また、国際社会は、他国の武力行使を妨げる法を持たない。つまり、無法状態であることを忘れてはならない。この様な状態では、一国で侵略的意図を持てば、国際社会が戦争状態に陥る前提条件として充分なのである。
我が国は、軍国主義の亡霊から解き放たれなければならない。
国家の有り様は、主権の有り様である。主権の有り様は、国家を成立させている前提によって規制されている。それは、憲法である。
戦後の日本は、民主主義、自由主義、平和主義を国是としている。それが大前提である。
軍国主義や帝国主義、全体主義、独裁主義、民族主義を国是としているのではない。
そのうえでの国防問題であり、歴史認識である。
また、歴史認識は、歴史認識であって国策に反映できる性格のものではない。また、歴史認識は絶対的なものではなく。どちらかと言えば思想・信条の部類にはいる。普遍的な真理ではない。
侵略国家であるかないかは、今の国是を持って判断すべき事である。過去の歴史をもって侵略国家かどうかを判断すべきではない。また、歴史をもってしては判断できない。
重要なのは、主権者が何を意図しているかである。認識にあるわけではない。
だから、犯罪でも動機が問題とされるのである。歴史に対する認識がどうのこうのではなくて、侵略をする意図があるかどうかが問題なのである。
認識を問題にするならば、何を前提、つまり、どの様な理念、思想、倫理観を根本に持っているかを、先ず明らかにすべきなのである。
いくら鄭重に謝っても、相手国が、我が国を侵略する意図があれば、その方が問題なのである。逆に、どんなに高飛車な態度でも、我が国の要求を受け容れる用意があれば、それを、重視すべきなのである。
意味もなく、国内の事情によって国家間の緊張を高めるような言動をとることだけは戒めなければならない。それは不測の事態を招くだけである。主権者の真意こそが重要なのである。
軍隊があるから軍国主義というのは、あまりにナィーブ(素朴)で短絡的な発想である。
非武装中立はあり得ない。自分の国を自分の力で護ることのできない国は、中立を保てないからである。自国の立場を守る意志もなく中立を主張するのは、自国民を犠牲にすることを意味する。国民を犠牲にして護る中立はない。
自国の立場を他国が容認したとすれば、それは既に中立ではない。
理想を掲げるのは言い。しかし、理想と現実とを取り違えると取り返しのつかないことになる。それを故意に行ったとしたら、それは傲慢なことである。国家は、現実である。現実だからこそ、理想を掲げる必要があるのである。何が理想で、何が現実かを見極める事をしないで、理想を現実に押し付けることは、理想主義者ではなく、夢想主義者である。
主権の維持は、主権者がするものなのである。それが国際社会の原則なのである。先ず、自(みずか)らの身を護ることのできないものは、自らの権利を主張する力すら与えられない。
他国に安全保障を委ねることは、主権を委ねることに相当する。その点を、忘れてはならない。
自国の安全を他国に委ねることは出来ない。なぜならば、自国の安全を守るために他国の国民の血を流させることになるからである。他国が自国の繁栄と安全を守ること以外に自国の国民を犠牲にすることはありえないからである。
自国の安全を守ろうという意志がなければ他国の侵略的意志を妨げることは出来ない。
魂は、肉体に宿るのである。身の内にある。魂とは、主体性である。故に国家の主体は、国体にある。国家の主体性は、国の内にある。国家の主権は、国家の魂である。
魂のない肉体は、ただの骸である。醜悪なだけだ。そのままでは、外形すら維持できない。残されているのは腐敗。腐り果てるだけである。
魂を外に求めるのは、望んで奴隷になることである。国家の主権を外部に譲り渡すことは、隷属を意味するだけである。それは、主権者の生命・財産を他国に委ねることを意味する。そこには、誇りも正義も微塵もない。主権は、国家の存亡に関わることであり、存亡を賭して護らなければならないものなのである。
国防の任を預かる者は、そのことを良く自覚せねばならない。国防を担う者は、誇りと自制心を持って自分の任務を全うしなければならない。また、国民は、国防を担う者の名誉を守る義務がある。将に、国家の威信、主権は、国防を担う者の誇りによって保たれているのである。
克己復礼。
国家の命運を決めるのは、主権者である。それが定めである。国家の主権者を選んだのが、国民ならば、国家の命運を決めるのは、自国民なのである。
公正と正義は、我にある。戦いに敗れた時、相手の公正と正義に期待をしてはならない。
例え、互いの利害が隠されていても、表に出るのは、大義名分である。
結局、自分の信じるところと、相手の信じるところが相反するから戦いになるのである。相手は、自らの大義に従って戦う。戦いの後に残るのは、勝者の正義である。敗者に公正も正義も許されない。敗北とは屈服なのである。
戦いに敗れた時、敗戦国が期待できるのは、戦勝国の憐憫だけである。
かつて、日本人は、誇り高かった。故に、日本人を誰も支配することができなかったのである。言い換えると、日本人を誰も奴隷にすることはできなかった。
日本は、戦争に負けた。戦争に負けて、自分達で、自分の国を護ることさえ許されなくなった。そして、日本人は、誇りを失ったのである。
護ると言う事。護ると言う事の意義。それが、国家の本質である。
礼節とは、恥を知ることである。恥を知るとは、誇りを持つことである。なぜ、誇りを持つのか。それは、誇りによって護られているのが、自分の存在の尊厳だからである。自分が人として依って立つ処だからである。誇りを守れなければ人でなしになるからである。
自分の身は、自分で護る。自分の家族は、自分で護る。自分の生活は、自分で護る。自分の仲間は、自分で護る。自分の国は、自分で護る。それが、建国の意義である。
国家の主権と独立は、国民一人一人の誇りによって護られている。それを決して忘れてはならない。
誰も護ろうとしない国家は、護りきれない。