国家の象徴は、国家理念を具現化した形象である。
国家理念を言葉で言い表すのは、難しい。故に、形象化するのである。それが国家の象徴である。
つまり、国家の象徴は、その国の源である。
ただ、国家理念が失われれば、国家の象徴は、形骸に過ぎない。
国家という概念は、国民国家が成立することによって確立された比較的新しい概念である。
国家という概念は、極めて、抽象的な概念である。それ故に、国家の範囲を画定し、具現化する対象を必要とする。それが国家の象徴である。
国民国家は、その起源を個人に功績や特定の組織、集団に帰すものではない。国家は、国民という抽象的存在に依拠する。それが国民国家である。故に、象徴によって国民意識を統一する必要がある。
故に、国民国家ほど、国家の象徴を必要とする。
儀式典礼を重んじるのは、国民国家だからである。
その意味では、国民国家である民主主義国家は、国家の象徴を重んじる必要がある。国家の象徴は、国家の求心力、凝集力の源だからである。
国家は主権と独立を保つことを使命とする。その為には、国家は、統制を求められる。統制には、秩序が必要である。その秩序は、権力と権威に依拠している。
法は、遵法精神によって守られている。法に権威がなくなれば、法は威力を失う。法に威力がなくなれば、法は効力を発揮できない。法は、法を守ろうという精神によって保たれているのである。法を守ろうとする意志が国民になければ法は維持できない。
法を守ろうという精神は、一つは恐怖、今一つは倫理から発する。恐怖の源は権力であり、倫理の源は権威である。権威の源は、象徴である。
国家が権威をもって国家の主権と独立を維持できなくなれば、権力が権威に、代わって国家の主権と独立を守ることになる。つまり、恐怖が倫理にとって代わるのである。
権威は、国家の尊厳である。国家の象徴が廃れれば、国威は失われ、力による支配を生み出す。故に、国家の象徴は尊重されなければならない。
国家を象徴する物は、国旗、国家、そして、儀式、式典、典礼、祭典、行事、仕来りなどがある。
式典、典礼、祭典、行事、仕来りは、国家を象徴する大事である。その国の文化の源泉である。
国家の象徴は、国民にその国の国民であることを自覚させ、国家、国民の一体を促す物である。
国家は、国民の財産と生命を守ることを第一とする。しかし、国家の威信を失えば、国家は、その効力を発揮することが出来ない。
国権を簒奪しようと企む者は、国家の象徴を侮辱する。国民を植民地化しようとする者は、国家の象徴を蔑ろにする。
国民の名誉、誇りは、国家の威信から生じる。国家の象徴を侮ることは、その国の国民の名をを踏み躙る行為である。国家に対する侮辱である。
我が国は、敗戦によってその根本精神を破壊された。
精神という言葉まで抹殺された。修養という事も否定された。清廉潔白という言葉も虚しい。
そして、国家としての文化、風俗、習慣を徹底的な卑しめられた。歴史・伝統を頭から否定された。建国の精神まで奪われた。そして、日本人は、儀式、式典、典礼、祭礼、行事、仕来りのことごとくが否定されたのである。更に、礼儀作法も、封建的と蔑まれた。歴史、伝統、風俗、習慣も野蛮とされた。
そして、国体までが否定された。
今の日本では、季節が失われた。正月の行事がなくなり、祭礼が軽んじられ、盆暮れの伝統的仕来りもなくなった。門松もない。餅つきもない。お飾りもない。祭りには、神がいない。神社仏閣は、落書き、いたずら書きで埋められる。悉く神聖な物が破壊された。
過去の全てが抹殺されつつある。過去を否定する事は、今風の文化人の新たなならわしである。日本人であることを否定する事が正しいことなのである。しかし、それを民主主義とも、自由主義ともいわない。
今の日本で、最も、盛んなのは、クリスマスとハローウィンである。国民の大多数が仏教徒だというのにである。
破廉恥が美徳とされ。礼儀知らずが勇気ある者と称揚され。公序良俗が、廃れ。道徳が失われた。大義滅す。
修身、斉家、治国、平天下の志は、嘲笑の的である。
少年よ。大志を抱けと言われたのは過去の事であり、志ある者は、身の程知らずと愚弄される。
この国を護るために死んでいった人を、戦後の繁栄を享受した我々が愚か者よと嘲笑できるであろうか。
克己復礼。
その国の儀式、典礼、仕来りを否定するのは、植民地教育の通例である。
歴史、文化、国民としての誇りを失うことは、国家としてのアイデンティティを喪失させることである。国家としての象徴、国家、国旗の否定も同様である。
その国の内政に対する干渉は、主権に対するあからさま干渉とみなされる。しかし、風俗習慣に対する干渉は、それも、自国民の言論を使った干渉は、主権に対する侵犯としてはなかなか認識されない。
その典型が冠婚葬祭の否定である。
日本人の伝統は、礼節を重んじ、恥を知ることである。その何れもが否定されたことの意味は、自明であり、重大である。日本人の魂の否定を意味するからである。
占領下に行われたことが、全て、民主主義で、正義だとするのは、卑屈である。
何が民主的で、何が正義であるかを判断するのは、我々の責務である。
何をもって国是とするのか。何をもって自由とし、何をもって民主主義とするのかは、その国の国民が決める事である。
それ以前に、その国の体制をどの様な体制にするのかを決めるのも、国民である。その国の国民を裁くのも、その国の定めによるのである。
それが、国民国家である。
日本の国旗、国家、儀式、式典、典礼、祭礼、行事、仕来り、そして、礼儀、作法を選択し、決めるのは国民の仕事であり、権利であり、責務である。さもなければ、国家を継承することは出来ない。
民主主義は、国民国家である。民主主義国家は、国民の意志に基づく憲法を前提とする。国家の威信は、憲法にある。故に、国家を象徴する物は、憲法を具現化した物である。
国民国家において国家に求められるのは、国家の義務と権利である。
国民に求められるのは、国民の義務と権利である。
国民国家は、国民の合意をその根本とする。
国家は、国民を護る。国民は国家を護る。
それ故に、国家に求められるのは、国民に対する忠誠と服従である。
国民に求められるのは、国家への忠誠と服従である。
国民国家は、その国の国民が建国した国なのである。