愛 国 心


 敗戦後の日本人は、愛国心というとすぐに右翼と結び付ける。そして、この場合の右翼とは、主として、国家主義、超国家主義、国粋主義者、全体主義者、独裁主義者、民族主義者、軍国主義者、封建主義者、保守主義者を指している。
 この事は、戦後の日本人が愛国心に関して二重に間違った認識を持っていることを示している。
 つまり、第一に、愛国心は、右翼だけに結びつく感情ではないという事である。第二に、日本人の言う右翼という定義は、日本人固有の定義であり、国際的な基準と一致しているわけではないという事である。

 だから、戦後の日本で愛国心という場合は、自分の思想的立場を明らかにしてから、愛国心を言わないとあらぬ誤解を受けることになる。
 例えて言えば、愛国心と言っただけで、頭から、「俺は、右翼は、嫌いだ」と決め付けて非難されてしまう。
 返す言葉も与えられない。問答無用である。

 アメリカを他国の空からの攻撃から護っているのは、パトリオット、即ち、愛国者という名のミサイルである。愛国者、パトリオットは、パトリ(祖国)を語源とする。パトリオティズム(愛国心)と言う言葉もある。
 また、かつて、反戦集会において、「我が祖国」がよく歌われたものである。祖国という言葉、民族主義者だけに許された言葉ではない。

 自由主義者も、民主主義者も愛国心は言う。むしろ、民主主義者にとって愛国心は、基本である。
 国を愛する心を持たぬ者が、国を変革する事を口にすべきではない。その様な主張は認められない。国を愛するが故に、命賭けてでも国の変革を成し遂げることが出来るのである。つまり、変革者こそ愛国心が求められるのである。
 ところが愛国心と革新は、背反的だと教えられているために、変革者は、愛国心という言葉すら使えない。これでは、真の変革など望めないのである。

 愛国心の核となるのは、国家観である。つまり、国家とは何かである。
 近代的国家観というのは、アメリカ独立戦争やフランス革命によって国民国家が成立するときに確立された。それ以前は、国家という概念そのものが確立されていなかったのである。国家という概念が確立されていないのであるから、必然的に愛国心も存在しない。
 国家と言う概念が確立される以前は、愛国心ではなく。愛国心に代わって君主という個人か、一族に対する忠誠心だったのである。
 愛国心というのは、国民国家が成立することによって付随的に生じた感情である。そして、国民国家が成立したことに準じて生じた感情だと言う事が重大な意義がある。
 国民皆兵による近代的徴兵制度は、フランス革命を端緒としているのがその証である。国民皆兵による徴兵制度には二つの意味がある。一つは、国民が国を自らの力で守ると言う事である。もう一つは、国民が武装するという事である。そして、これが愛国心の本質なのである。即ち、国民が自らの力と意志で国を護ると言う事である。国民が武装すると言う事は、政府が国民の意志に反した時、力でもって排除することが、可能である事をも、意味する。
 つまり、国民という概念を土台にして国家という概念が確立されて国民国家は成立する。国民があって国家が成立するのが、国民国家である。それ以前は、国民ではなく、領民か、農奴か、臣民である。彼等は、国家を持たない。故に、国家に従属しているわけではなく。領主に隷属しているのである。
 人民が主権を持った時、国民という概念は確立する。そして、国民の範囲を特定し、定義するためには、国家が必要とされる。つまり、国民という概念と国家という概念は、不可分に結びついているのである。
 そして、国家は、国民の紐帯なのである。国民は、国家の礎石なのである。それが、国民国家である。故に、国民国家程、愛国心を必要とする。国民国家は、主権在民、主権を国民においている国家である。即ち、基本的に民主主義国である。つまり、民主主義国こそ最も愛国心に支えられている国家なのである。なぜならば、国民国家は、国民の国家に対する忠誠心によって維持されているからである。その国家に対する国民の忠誠心こそ愛国心である。
 また、同時に、国民には、国民国家の理念を明らかにする義務がある。建国の理念はその国の国民が担うべきものだからである。国民国家の主権は、他国から与えられるものではない。また、他国が与えられものでもない。なぜならば、主権が国民にあるからである。国家理念が他国から与えられたものであれば、その時点で主権は消滅する。主権が国民にあるか否かの証は手続をもって検証する。
 故に、正当な手続をもって民意を反映したところに国民国家は成立する。

 ただ、国家は、国民国家のみを指すわけではない。体裁さえ整っていれば、外形的に国家として成立することは可能である。しかし、それは真の国民国家ではない。正統的な意味で国民国家というならば、正当的な手続をもって民意を反映している国を言う。

 忠誠を誓う対象として国に取って代わる対象としては、世界、人類、神、祖先、民族、人類、地球、主義主張と言った普遍的存在や観念。主人、国王、親といった個人。家、一族、組織、結社と言った共同体。領土や富と言った物的な実体。また、自分などがある。つまり、何等かの権威、権力を象徴する対象であれば国家に代わりうるのである。
 これらは、時として国家を代替として利用する場合がある。例えば個人崇拝を国家への忠誠に結び付けて統制の手段とするような事である。
 しかし、それは、方便に過ぎない。「朕は国家なの。」と言った国王がいるが、それは個人崇拝を国家に投影したのにすぎない。
 その様な忠誠心は、統制のための手段に過ぎない。愛国心のような本来的な国家を基礎とした感情とは異質なものである。
 国家への忠誠を求めるならば、国家の定義が前提となる。愛国心を問う時は、国家の定義が大切であり、確認する必要があるのである。

 愛国心というのは、全体主義者や独裁主義者、国家主義、超国家主義、国粋主義者、軍国主義、民族主義者のみに許された感情ではない。むしろ、彼等が愛国心を口にする際は、権力による統制を目的としていて真の愛国心を意味しない場合が多い。

 愛国心は、感情である。理屈ではない。故に、愛国心は、率直で、直接的で、直観的な感情の迸りである。それは、国家と国民が一体であるからである。つまり、国民国家が、愛国心の基本である。愛国心は、国家に根ざしていなければならない。
 この場合の国家は、国民に基礎とした国家、国民国家を指す。国家権力による一方的な支配形態を指しているわけではない。

 国民国家以外の国は、国家への忠誠を求める時のみ愛国心を口にし、鼓舞する。しかし、近代国家が国民を土台と概念である以上、民意を反映しない国家は、本来的な意味で国家とは言えない。それは、権力者に対する忠誠を求めているのに過ぎない。それは愛国心とは言わない。それを愛国心と言うことに欺瞞が既にある。

 日本人が、愛国心を右翼と短絡的に結び付けて考えるのには理由、原因がある。
 一つは、戦前の教育の問題である。二つ目は、戦後の言論界、及び、教育の問題である。三つ目は、戦勝国による占領政策の問題である。

 戦前の教育とは、軍国主義教育の中で愛国心を鼓舞したことである。戦前の教育によって国家主義や軍国主義、全体主義、民族主義とが直接的に結び付けられてしまった。
 敗戦後においては、戦前教育や思想を否定する過程で、愛国心を象徴的に戦前の思想に結び付けて否定した。そして、その対極にある思想、民主主義、自由主義、社会主義、共産主義、無政府主義、、革新主義に反する思想として愛国心が、否定的に、結び付けられた。
 それを裏付けしたのは、占領政策である。戦勝国の占領政策は、基本的に、国民と国家の一体感、敗戦国の国威、国力を削ぐ意図を内包している。つまり、敗戦国の抵抗をなくすことに主たる目的を置いているのである。それに、戦後の言論界、知識人、メディアが便乗したのである。そして、占領政策は、主として、教育と情報に狙いを定め、重点を置いた。その結果、愛国心は、象徴的に扱われたのである。
 何れにしても日本人が国家に対する基本的な認識を欠いていることがその原因である。

 愛国心を要求する思想としては、むしろ、社会主義や共産主義、民主主義、共和主義、平等主義の方が強い。国家の定義こそが優先されるべき事と考える思想だからである。国家を国民の紐帯と考え、それを実現するのが愛国心だと捉えるからである。その対極にあるとすれば自由主義である。しかし、自由主義者も強いて愛国心を否定したりはしない。それは、自由主義者は、基本的に、個人の意志と選択の自由を重んじるからである。
 国を否定する考え方は、無政府主義者や普遍主義者、世界主義者、人道主義を除いてあまり持たない。無政府主義者や普遍主義者、世界主義者(ワンワールド主義、グローバリズム等)、人道主義者が国家に否定的になるのは、国家が権力を象徴しているからである。
 革命思想も国に否定的だとは限らない。革命というのは、人民の国家に対する熱情が根本にあるから成り立つのである。特定の勢力や個人の野心による騒動は動乱であり簒奪である。
 革命思想が国家に否定的になるのは、世界同時革命論のように、普遍主義的な立場に立つからであり、革命そのものが国家を否定するとは限らない。

 愛国心の重要性とは、そこに国家があるという事である。つまり、守るべきものがあるという事である。国家があって、国民がいて、家族がいて、友がいて、師がいて、自分が居る。自分達の日々の生活が成り立ち、暮らしがあり、財産があり、社会があり、歴史や伝統、祭礼、文化、風俗や習慣、そして、何よりも夢や信念、思い出、生きてきた軌跡、故郷があるという事である。
 愛国心は、決して他国を侵略したり、弱者を虐げたり、権力を維持するためにあるわけではない。

 家庭を、家族が、護らずに誰が家庭を護るのであろうか。会社を社員が護らずに、誰が会社を護るのであろうか。国民が国家を護らずに、誰が祖国を護るのであろうか。世界を人類が護らずに誰が護るというのか。
 家族愛も、愛社心も、愛国心も、人類愛も、根っ子は同じである。それを背かせようとするのは、家族も、会社も、国家も滅ぼそうと企む者でしかない。

 愛国心というのは、国を想う心以外の何ものでもないのである。

 日本人は、戦後、半世紀以上も平和で豊かな生活を享受した。そして、戦後生まれの世代は、それが、ごく当たり前なことだと思い込んでいる。それが普通のことだと・・・。しかし、この様に平和で豊かな生活が続いたことの時代や場所が異常なのである。
 その間、反体制、反国家主義的な運動が盛んであった関係で、国家に対する畏敬心を失ってしまった。
 愛国心という事を口に出すのも憚れるような雰囲気が支配的であった。特に、戦後教育を受けた我々の世代は、国を愛する事自体が悪い事であるかのように教え込まれてきた。お陰で、愛国心と大っぴらに言う事すら気恥ずかしく感じたものである。
 我々の生活を支えているのは、間違いなく国家である。しかも、日本の繁栄は、多くの先達の犠牲の上に成り立っている。その前提を忘れてはならない。
 もう一つ忘れてはならないのは、我が国は、民主主義を国是としているという事である。民主主義、即ち、主権在民を前提としている我が国は、国民の意志の上に成り立っているのである。
 誰も護ろうとしない国は、護りきれるものではない。国家の崩壊は、我々の生活の崩壊、家族の崩壊を意味するのである。それは、国民や家族の離散も意味する。
 国は、我々を陰日向なく、四六時中、三百六十五日、護っていてくれる。だから、我々の生活の安寧が保たれるのである。
 その国に感謝する精神を失えば、自ずと国力は衰えていく。国力が衰えることによって一番被害を受けるのは、国民である。それが国民国家の宿命なのである。
 我々は、国家に対して受け身であってはならない。国が悪いのは国民の責任である。政治が悪い、社会が悪いと言ってもはじまらない。況や、アメリカの性にするのはお門違いである。
 自分達の国は自分達で護る。それが国民国家の強さの秘訣である。だからこそ、愛国心が問われているのである。

 愛国心とは、権力に対して絶対的服従することでも、自己を犠牲にする事でもない。国を愛する心である。
 その原点は、自己愛にある。自己を愛する心は、家族を愛する心となり、それが国を愛する国へと発展し、人類愛に昇華され、普遍的存在への信仰になる。それらの本質は同じである。
 自己愛も、家族愛も、愛国心も、人類愛や信仰も、ただ、自分の利益のみを追求する偏狭なものではない。自己への愛は、家族愛になり、それが国家への愛となる。国家への愛は、世界の平和へとつながり、神への信仰になる。
 それは、修身、齋家、治国、平天下となり、万物普遍に対する愛となる。
 愛国心とは、国家への愛なのである。盲目的な感情ではない。国をよくしたいという思いなのである。家族や友達、師や故郷、思い出でといった国家に象徴される大切なものを護ろうとする志の表れなのである。
 愛国心は、時には、腐敗堕落した権力に対する憤激として現れることもある。権力者が愛国心を単なる統治の道具として考えたらならば、愛国心は、権力者にとって両刃の刃となる。
 真の愛国者は国のためと外敵と戦うが、同時に、国のためといって圧制者とも戦うのである。愛国心は道具ではない。国を思う心なのである。
 愛国心とは、国に対する狂おしい程の思いなのである。
 我々は、健全な愛国心を育むように努力しなければならない。それが真の自由と独立に繋がる道である。




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