イジメに関して


 イジメに関する今の議論は、はじめにイジメありきになってしまっている。本当にイジメがあったのかどうか。また、どの様な状況で、どの様にして行われたのかを検証しようともしない。ただ、イジメは、悪いからなくせと大合唱しているだけである。
 だいたい、イジメとは何かすら明らかにしていないし、それ以前に、自殺はいけないとも言わない。自殺は、一番に罪だ。先ずそれだけは、ハッキリさせておかないと。死んではいけない。

 最近、イジメが発覚したら、いじめた者を学校に出席停止処分にするという提言が教育再生会議で検討されたようだ。しかし、イジメは、主観である。苛められたと言えばイジメは基本的に成立してしまう。イジメを理由にして出席を停止したら、苛められたと名指しするだけで、名指しされた者の人権は蹂躙される。その点をよく考える必要がある。


 イジメとは、主観的問題だ。当人が苛(いじ)められたと感じれば、苛められたのであろう。脅迫、恐喝、強請(ゆすり)、タカリ、強姦、暴行、傷害、殺人、監禁、虐待、拉致は、イジメではない。歴(れっき)とした犯罪である。盗み、かっぱらいと同じである。これは、犯罪として処理すべきである。イジメというのは、当人の意識の問題である。苛められている。苛められたと感じていることである。しかし、苛められていると感じるのは、ただ、言動による者だけとは限らない。環境やその場の雰囲気、それまでの経緯、人間関係、思い込み、劣等感などが複雑に絡み合っている場合が多い。叱ったり、注意されても、忠告や冗談でも苛められたと感じるものはいるのである。からかい半分に言った冗談を真に受けるものもいるのである。だから、これがイジメだと、客観的に断定するのは、極めて難しい。所詮主観的に判断せざるをえない。それがイジメ問題を難しくしている。よく調べてみたら、目に見えた形でのハッキリとした行為がない場合もある。それでも当人が苛められているというのならば、そう感じさせる何かがあるのだろう。それが問題なのである。
 親しみをこめて冗談を言って、親身に忠告して、また、注意したら、自殺され、それをイジメだと言われたら立つ瀬がない。だいたい、鬱という病気もあるのである。イジメだけが、自殺の原因とは限らない。しかし、自殺の原因がイジメだったと言われ、名指しされた者がそれを否定しきれるであろうか。それこそ、その時、名指しされた者の人権はどうなるのであろう。
 イジメというのは、被害者意識である。意識の問題である。ただ、被害者意識だから、当人の問題だとばかりは言い切れない。それがイジメの難しいところである。そうなると虐めが悪いと決め付けてばかりはいかない。
 苛められていると感じている人間は、被害者意識が高じているのだから、何を言っても苛められていると思う。こうなると手がつけられない。だいたい、あいつに苛められたな名指しされてもピンとこない人間もいる。苛めたと言われてもふざけただけかもしれないし、親しみをこめた通過儀礼かもしれない。大学のサークルでは、新入部員に手荒い歓迎をする事はよくあることだ。だからといってそれをイジメだと言われても言われた方も困惑するだろう。

 また、よその土地へ行けば、風俗習慣の違いから、行き違うこともある。関東の人間は、親しみをこめてバカバカと言うがアホと言われれば頭に来る。関西の人間にしてみれば逆である。都会の人間は口が悪い。それを一々まともに受けていたらイジメになるだろう。

 では、イジメはないかと言われればそうではない。問題は、コミュニケーションの問題である。意志の疎通があるなしで、イジメにもなり、親しみにもなる。ただ、苛める側にせよ、苛められる側にせよ悪意があれば話は別である。そして、それが問題なのである。

 だいたい、苛めが悪い、苛めが悪いと言うが、イジメのない社会があったら、おめにかかりたい。聖人君子の集まりである僧侶や修行者の修業の道場を例にしてみよう。考えようによっては、修業の場は、イジメの場である。修行僧なんてひどいイジメにあう。禅では、三日三晩、門前で畏(かしこ)まらないと入門すらさせてくれない。修業は、苛(いじ)めそのものである。そうなると、教育現場というのは、イジメの場だとも言える。虐待と躾が紙一重のように、教育と苛めも紙一重なのである。

 イジメのない職場はない。上司の叱責を苛めだと捉えられれば上司は部下を叱れなくなる。それがいい事なのだろうか。徒弟制度には、常に、イジメの陰湿な部分が見え隠れした。しかし、だから職人は、技を磨けたとも言える。嫁姑の問題もイジメ合いが根底にある。お互いがお互いに苛めあっている。苛めているという自覚すらない場合がある。愛の鞭だという。しかし、苛められた方はたまったものではない。イビリだと言う。つまりは、イジメから人間は、社会生活をしているかぎり逃げられない。ならば引き籠もるか。引き籠もってばかりはいられない。それこそ、ひきこもりが世の中に出なければならなくなれば、それ自体で、究極的イジメになってしまう。

 校長が、二人、自殺したけれどメディアにイビリ殺されたようなものである。しかし、メディアには、自分達が苛めたという自覚はない。更に言えば、メディアが騒げば騒ぐほど、事件を模倣する者が出て、類似の事件が起きやすくなる。
 ところで、メディアは誰か責任をとったであろうか。夜のニュース番組で偉そうなことを言って人を責め立てているニュースキャスターは、責任を感じたであろうか。痛痒とも感じてはいまい。彼等は、自分達がイジメの権化などとは思っていない。正義だと思い込んでいる。無自覚にイジメの典型である。おまえ達が校長をイビリ殺したんだと言おうものなら、責任を転嫁するなと開き直るのが関の山だ。

 叱る、怒鳴る、喚(わめ)く、怒る。罰する。それを苛めだと言われればそれまでである。イジメかイジメでないかは、愛情のあるなしだと言われても、愛情というのは、実態がない。確認のしようがない。

 ならば問題は、苛(いじ)めと言うよりもイジメにあった時に、どう対処すべきかなのである。また、それを周囲の人間がどう受け止めるかである。
 校長は、メディアに苛められた時、どうしたのか。こう言う時、一番融通のきかない人間が、真面目で、素直で、責任感の強い人間だ。メディアが、騒げば、騒ぐほど相談する相手がいなくなり、孤立して、自分を追いつめてしまう。
 苛めに強くならなければならない。その為に鍛える必要がある。鍛えられるためには、どうしたらいいのか。それは経験するしかない。つまりは、苛められなければならない。だから修業というのは、ある種のイジメである。心身を苛めることによって心身を鍛えるのである。

 イジメというと悪いイメージしかないが、必ずしも悪い意味ばかりではない。イジメと言うのは、本来は、教育上における有効な一手段と考えられていた。イジメは、しごくと言う意味でも使われてきた。しごきも悪い意味になってしまったが、本来は、厳しく躾る、鍛えるという意味で使われてきた。そして、耐えることを教える事で、現実や仕事をやり抜くねばり強さを身に付かせたのである。強くなければ生きられない環境があったし、その環境は、現代もにもある。その証拠に自殺する者が後を絶たないのである。自殺しないようにいじめるのが本来のイジメである。それが、限界を超えたり、程度を越えて行きすぎるから問題なのである。
 とにかく自殺することが悪いという事を先ず植え付けないと、命の尊さを教えるというが、的はずれに感じるのは、いじめる側に命の尊さを教えようとしているように見えることである。命の尊さを教えなければならないのは、自殺しようとする側の者に対してである。命を粗末にしたのは、自殺しようとする者なのである。どんな理由があっても、自殺することは、最も許されないことである。そのことを全ての前提としなければ、イジメの本質は、見抜けないし、イジメ問題は解決できない。
 一律に教育者の権威や体罰を禁じて、教育者の手足を縛っておいて、何でもかんでも教師の責任にするのはおかしい。イジメが悪い結果を招くのは、集団の統制がなくなり、指導者が指導力を発揮できなくなる事に起因する。教育者は、指導者なのである。教育者が指導者としての力を発揮できる環境を整えない限り、いじめ問題は解決できない。

 教育の目的の一つに、強く逞しくすることがある。その為に、厳しく、心身を鍛えなければならない。しかし、それをイジメだと言われたら、教育はできない。苛めた人間を出席停止にするのは、それこそ、教育の放棄である。教育現場で、それを実行することはできない。それが教育者の本分だからである。

 我々が子供の頃に、シゴキ事件というのがあった。学生の部活動中にシゴキ過ぎて死なせてしまったという事件である。しかし、その時の反応には、シゴキが悪いのではない。シゴキ方が悪いのだという意見を結構聞いた。同じように、イジメが悪いと言うよりイジメ方が悪いとも言える。
 最近、鬱病が増えていると言われています。ストレス社会だからと言われています。しかし、本当にストレスは、現代だけの問題であろうか。確かに、鬱病というのが現代病だと断定できるかどうかは解らない。しかし、鬱病になったら治すという対処療法でなく、心身を鍛えて鬱病にならないようにするという考え方がかつては主流だった。だいたい、僕は、鬱病になる原因の一つは、意思決定の欠如だと思っている。そして、その意思決定の欠如を招いているのは、妙な客観性信仰である。決断というのは、本来、感情の作用で、直観的にするものである。それを考えてから決めなさい、考えてから決めなさいと決断力を削ぐ躾をしたら、成人しても決断力が脆弱になる。そして、決断というのは、言葉にして外に出してはじめて実現する。その会話を封じ込めれば、決断力はなくなってしまう。間違っても良いから、良いから言葉にして外に出させ、それを糾(ただ)していくのである。人は、失敗や間違い、後悔を積み重ねて成長していく。恥はかいて知るものである。その失敗や間違い、恥を糾すことをイジメだと言われればそれまでである。

 イジメというのは、主観の問題だ。苛(いじ)められたと感じるから苛められた事になるのである。そして、そう感じるのは当人の問題なのである。だからこそ、厄介なのである。冗談半分に親しみを込めていった事でも苛(いじ)められたと捉えられてしまう事もある。愛するが故に厳しくした事が裏目に出る事もある。逆にひどいことを言われても平気でいる者も数多くいる。イジメというのは、当事者にしか解らない事情がある。メディアのような部外者の人間が、よく調べもしないで騒ぎ立てるのが一番危険なことなのである。

 でも、それでも、死ぬというのは、一番、卑怯である。やっぱり死ぬのは悪い。死ぬ事は、一番の報復行為である。死んではいけない。それだけは、ハッキリさせておかなければならない。





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