戦略X

戦後の日本に欠けているのは、軍人、武人です。

現代の日本人は、良くも悪しくも、軍人がいないという意味で、軍人的な発想が理解できないでいます。それ故に、国際情勢の変動に翻弄されるのです。
今、この世界では、原則として軍人のいない国はない。ところが日本人は、軍人そのものを否定してしまっている。そして、あたかも、世界中が軍人のいない事を前提として成り立っている世界であるように決めつけてしまっている。ものの考え方が極端すぎて浮き世離れしているのです。軍人嫌いと軍人を否定するのでは意味が違う。
文武両道というように、国際社会の中では、文武の均衡の上に成り立っているのです。この均衡が破れた時、戦争になるのです。そして、この均衡を保っている事こそ、戦略であり、政略なのです。
その意味で、日本人の発想そのものが戦争を招きやすいのです。戦後日本が戦争に巻き込まれなかったのは、他国の都合であって日本の力によるものではない。その点を自覚しないと日本は滅びる事になる。

日本にも自衛隊があります。しかし、日本では自衛隊員を軍人とは見なしていない。その上、軍の存在そのものを否定し、この世の中には軍隊は存在しないかの如く教育している。軍は悪だという思想です。こんな非現実的な国はこれまで地上に存在していない。それが、あたかも当然の如く通用している事が異常なのです。異常なのは日本であって、軍隊が存在する国ではない。
戦争に反対したり、平和を望む事と軍隊そのものを否定する事とは次元を異にしている。
それを一緒くたにするのは、無茶苦茶である。それは、伝染病の原因は、医者にあるのだから医者をなくせとか、火事の原因は、消防士がいるからだとか、犯罪が起きるのは犯罪を取り締まろうとするからだというのと同じくらい暴論なのである。
軍人の中にも戦争に反対する者はいる。むしろ、軍人だからこそ平和を望むのである。

今日、正式の軍隊を持たない国は、どの様な小国に於いても日本以外にはない。この事実を再認識すべきです。
外交官は外交官です。どんなに武闘派と言っても基本は外交です。武人とは根本的発想が違います。国際政治では、文武それぞれが必要なのです。
そして、軍のある国は、必ず軍人的な発想が、国策の一部を場合によっては、全体に影響を及ぼしているのです。

この事は現実であり、この現実を前提としないかぎり、国際情勢を理解する事はできない。しかも、国際情勢という中には、財政も経済も含まれている。
財政に於いては、国防費は、その国の財政状態に重要な影響を与えているし、経済で言えば軍事産業はその国の公共投資、公共事業の多くの部分を占有している。
この点を理解しないと一国の財政問題も経済問題も理解する事はできない。これが現実なのです。

軍事費によって国家財政を破綻させた例は、歴史上、数限りなくあります。国防費によって国家を滅亡させたのでは、話になりません。しかし、国防予算は不可侵な聖域になりやすいのです。
戦争は、経済に甚大な影響を及ぼしている。戦争の気配があるだけで経済は過敏に反応するのです。

戦略の要領は、奇抜な着想にあるわけではありません。ごくごく当たり前な事、誰もが明白だと言える前提にあるのです。例えば、我が国が島国で、食料やエネルギーの自給率が低いといった事です。ですから戦略は別に陰謀の類いではない。明白な事実です。注意深く見れば、相手の戦略は見えてくるものです。
また、戦略の最終目標は、物理的な勝利にあるわけではありません。こちらの意図を相手に受け入れさせる事にあります。極端な場合、負けるが勝ちという選択肢もあるのです。戦略家は、物事の勝敗にこだわって本来の目的を忘れてはならないのです。戦いに勝っても国民の生命財産を失っては真の勝利とは言えないのです。それは戦略的敗北です。

平和国家を祈念する事に吝かではありませんが、平和は、祈念しただけでは訪れないし、維持する事はできません。
平和は勝ち取るものであり、また、護る事です。平和にするのだという強い意志がなければ、平和を維持する事さえ不可能なのです。それが現実です。
日本は、戦後も平和でいられました。平和でいられたのです。平和にしてきたのではありません。戦後の日本は、冷戦という特殊な状況下で、尚且つ、中国や北朝鮮、韓国が国内の問題に専念せざるを得なかったから平和でいられたのです。外交だけでは、他国の軍部に対抗する事はできません。
軍は、相手が弱いと思えば攻めてきます。なぜならば、攻撃は、軍人にとって防御の一手段だからです。

人間が戦いを好まないというのは、幻想です。人間は、戦いを好むものなのです。
人は、争いを厭うものですが嫌いではない。争いが嫌いだと思ったら、現実に起こっている事の説明も理解もできなくなるのです。
戦いから逃げたら負けとなる。それが力に支配された世界の掟なのです。
映画やドラマ、テレビゲームを見ればよくわかります。映画もテレビドラマも、テレビゲームも大部分は戦いをテーマとしています。スポーツは、洗練された闘争です。市場も見方を変えれば戦場です。ですから、平和を求めれば平和になるというのは、理想主義者の妄想に過ぎません。
故に、こちらが戦いを避ければ、戦いは回避できるというのは、幻想に過ぎません。

だから、国家は戦略を駆使して戦争を回避すべきなのです。戦略を間違えれば、戦争になり、戦略が上手く機能すれば戦争は回避できる。だから国家戦略が必要なのです。

軍人は戦う事に専念します。彼等には、政治や経済は眼中にない。あるとしたら、如何に有利に戦って自国の目的を達成するか、その範囲内で必要とあれば、政治や経済に関与する。しかし、軍は、本質的に政治や経済から独立したものであり、また、独立させておくべきである。それ故に、軍人は政治や経済にお構いなしに行動をするそういう前提で考えておくべきです。
この様な軍人をどう制御するのか。軍人は、外交上、決着がついたとしても自分達にとって不利だと考えれば独自の行動をとります。外交上、決着がついた事でも反故にする事さえ厭いません。それは歴史が示しています。
この様な考え方に支配された国が存在したらなら、軍人的な発想がない国はひとたまりもありません。だから、良きにつけ、悪しきにつけ軍人が必要なのです。自国にいないならば、他国の軍事の専門家(例えばルトワック氏)を顧問として招いてでも、隣国の軍人がどの様に動くかを検証し続ける必要があるのです。
有事の対は初動が全てです。、日本は、一朝有事の時、どの様な行動をとるのか、繰り返し、シュミレーションをして訓練を繰り返す必要があります。
孫子の兵法は、詭道なのです。奇襲は常道手段です。
甘く見くびるべきではありません。
軍というのは、暴走を始めたらなかなか止める事はできません。
なぜならば、軍事思想は死生観の問題だからです。死を見つめて生きている人間は、一度戦いを始めたら死にまで止めません。それを制止するものも命がけにならざるを得ないのです。
軍拡競争が始まったら、果てがありません。軍の暴走は、内が乱れてはじめて止まるのです。つまり、外に目を向けている余裕がなくなった時です。
また、軍人は名誉を重んじます。負けるくらいならば死を選びます。そこに妥協が生まれにくいのです。
政治も、経済も、外交も妥協の産物です。だから平和が保たれる。
しかし、軍は、力の論理です。軍では力のあるものが正しい。その上、全ての基準は勝敗です。勝てば多少の事は大目に見られ、敗軍は、最低限のモラルさえ保てなくなるのです。だから、軍人は基本的に負けを簡単には、認めないで戦い続ける。
例え、人類を滅ぼしてでもです。それが軍人なのです。
その様な軍人を相手にできるのは軍人しかいません。

日本のエネルギー戦略には、有事という発想が欠落している。
軍人が不在です。
この様な戦略はまったく用を為さない。平和惚けしているといわれても仕方がない産物です。
有事に於いて最も重視すべきは、兵站です。ですから、軍人は、エネルギーに関しても兵站を重視した戦略を立てるものです。
その場合、政治も、経済も関係ない。戦いに必要なだけのエネルギーさえ確保できれば良いのです。民事は、度外視されます。
それは、映画やドラマの上ですら公然と行われています。
軍は、勝つ事が最優先されるのです。街や寺を焼く事も、洪水を引き起こす事も勝つためのならば平然として行います。
それが軍事行動なのです。
戦場では、往々にして非情に徹し切れた者が勝利するのです。
しかし、軍人は、無法者の集まりではありません。軍は、人間の集団です。軍という集団には大義、名聞が必要なのです。大義、名聞なき軍隊は、山賊、夜盗と変わりはありません。無頼の輩でも仁義を重んじるのです。
国民国家を護る者は、大義がなければ保つ事はできません。
だからこそ、軍人は、思想、哲学、信仰を重んじるのです。
そして、それが戦略の要にもなるのです。

先ず、敵と味方をしっかりと見極める事です。どんなに争っても力に依らずに解決できる国と、最終的には力に依らなければ解決できない国とがあります。
何が、分かつのかと言えば、政治体制であり、思想信条であり、宗教的問題です。これらは妥協を許さないからです。
力による対決しかない国と力に依らない解決策がある国それが分岐点です。
我が国にと米国は、政治体制も、経済体制も、国家理念も共有しているのです。それに対して、社会主義国とは、政治体制も経済体制も国家理念も異にしているのです。その点を我が国も米国も誤解すると極東の勢力均衡は保てなくなります。
日本は、軍事的な発想ができる者を養成すべきです。
ただし、政治家は軍人になってはなりません。
政治家が軍人的発想を持てば国を危うくします。政治は、妥協の産物なのです。政治的に妥協ができなくなれば、戦争になる。
政治には歯切れの悪い部分が生じるものです。それを軍人のように潔くないとしたら戦争を避ける事ができなくなります。政治は政治であり、軍事と一線を画しておくべきなのです。
戦いは初動で決まります。日本のように専守防衛を唱えるならば、尚更の事、一朝有事に備えて訓練をし続ける必要があります。
国難は、時を選びません。災害は、忘れた頃にやって来て、敵は、油断した時を狙って仕掛けてくるのです。災害も、敵も不意を突いてくる事なのです。敵も災害も万全の備えをした時、万全の備えをしたところを避けてくるのです。
敵は、相手の隙や弱みを狙って攻めてきます。隙や弱みがなければ乱して隙や弱みを作ろうとします。油断が禁物なのです。来たらずを頼まず。
非常時の体制を予め用意し、いざと言うために慌てない事です。首相不在時、休日、政治的空白、政争、この様な時を狙って敵は攻撃を仕掛けてくる。その時は、待ったなしで行動を起こさなければなりません。そのためには、不断の努力が欠かせないのです。いつ、いかなる時にも即行動が起こせる体制を整える事が肝心なのです。敵は待ってはくれません。その時、求められるのは、指導者の勇気と決断だけです。

軍人は、一般の人間とは、住む世界が違うのです。軍人は、必ずしも政治や経済の論理で行動しているわけではない。

軍人と、政治家と、外交家、実務家、思想家では、護るべきものが違うのです。

軍人は、名誉を重んじ、外交家は、和を重んじ、政治家は、実を重んじ、実務家は利益を重んじ、思想家は信条を重んじます。名誉を重んじる軍人は、戦いを厭いませんが、和を重んじる外交家は、譲歩を望みます。是非善悪の問題ではなく。何を最終的に護り、何を譲るかのぎりぎりの選択の問題です。
また、軍人は、力の信奉者、実務家は、金の信奉者、外交官は法の信奉者であり、政治家は、言論の信奉者である。故に、軍人は、最終的に力で決着を付けようとするし、実務家は、金で決着を付けようとする。外交官は、条約のような取り決めによって決着を付けようとするし、政治家は話し合いによって決着を付けようとする。自ずと行動規範にも違いが生じるのである。その違いを前提として戦略も政略も立てないと思わぬ齟齬が生じる。
だから、日本の首脳はもっと自衛隊の制服組の意見に耳を傾けるべきなのです。

対中問題は、対米問題に他なりません。
日本は、アメリカとの関係を基軸として考えざるを得ないという点を忘れてはならない。それは、思想的にも、体制的にも、異質の基盤に立っている国とは、最終的には妥協できないという事である。国家理念、経済体制、政治体制の点は、アメリカも、イギリスも、EUも、ASEAN各国も同じ基盤の上にたっているのです。これらの国とは話し合いの余地があります。だから、これらの国との連携を模索すべきなのです。
話し合いの余地のない国とは、相手方を分断し、孤立化させ、利害を明らかにして戦略を立てるべきなのです。

日本の武士は、常日頃から有事の心構えで物事に接してきました。今、日本人から武士の魂が失われつつあるのです。だから世界から侮られ侮辱される。日本人は武士の魂を取り戻さなければなりません。




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