戦略W
戦後日本は、平和で豊かな状況を六十年以上も享受してきました。
そして、多くの日本人は、これからもこの様な状態が永遠に続くと思い込んでいます。
しかし、長い歴史の中では、この様な状況の方が希有なのです。
むしろ、戦争は日常生活の中に忍び込もうとしているのです。
政治家や軍人、実務家は、徹底した現実主義者でなければなりません。戦争も災害も現実なのです。戦争は、政治家や軍人が現実を直視できなくなった時に始まるのです。
希望的観測にも、悲観論にも、楽観論にも、政治家や軍人、実務家は動かされてはならない。況や失望や絶望など抱く必要はない。必要なのは事実だけである。政治家も、軍人も、実務家も、最後の、最後まで、事実を、事実として、冷静に受け止め、判断し続ける事が要求されるのである。
戦略を規定するのは、何から何を、どの様にして護るかです。
戦略は現実なのです。
現代の戦争は非日常的な行為から日常的行為へと変質しつつあります。これまでのように正規軍同士が宣戦布告を以て戦争する形態から、非正規軍や反日といった目に見えない敵にも対処していかなければなりません。また、海賊やテロリスト、サイバーテロ、ゲリラ、犯罪組織対国家といった非対称戦争な戦争が常態化しつつあります。そうなると、戦略も戦時における正規軍同士の戦いといった前提によったものから改める必要があります。
国家による反日行動は、日本対する戦闘行為の一手段として捉え、戦略的に対処する必要があります。即ち、相手の戦略的意図を挫くような戦略をとるべきです。非軍事的戦闘手段というのは、情報戦、宣伝戦、心理戦、外交戦、経済戦等をさします。反日行動自体が焦点なのではありません。反日政策を可能とする統制的国家体制、反日活動をせざるを得ない環境や状況が問題なのです。彼等がどの様な意図を持って何を狙っているかが問題なのです。
現在の反日行動というのは、アメリカが名指しで悪の枢軸国と言ったのとは次元を異にしています。
アメリカが悪の枢軸国と言ったのは、核兵器と言った実体的な裏付けがあったからです。
それに対して、反日というの感情であり、歴史といった抽象的概念に対する行動です。
この様な反日行動に対する戦略を立てる場合、自国の戦略的基盤、即ち、自分達が何によって立っているかを明確にしておく必要があります。その第一に、我が国は、自由主義圏に属し、実質的に米国同盟関係にあるという事です。
戦略を考える上では、文脈というのが重要になります。クラウゼビッツが言うように戦略というのは数学だとも言えます。つまり、論理の働きが重要となります。
反日というのは、核兵器のような実体があるわけではありません。国民感情という目に見えない対象です。つまり、論理的な問題なのです。この辺を弁えて行動する必要があの升。
反日というのは、見方を変えれば、形を変えた反米です。その点をよく理解しておく事です。アメリカに対抗する国の中には、直接、敵対する事は、得策ではないとする国もあります。その様な国が、同盟国で軍事的に弱い国を標的ににするのは常套手段です。
名指しで独立国を誹謗、中傷するからには、その底には、何らかの意図、戦略が隠されています。単なる私情、怨恨、私怨によるだけで独立国を非難する事はありません。
うかうかそれに載ると後背、後方の結束が乱され、相手につけ込まれます。最大の味方を最大の敵にしてはなりません。
この様な問題に対処するためには、何を前提として自国が、また自国の戦略が成り立っているのかを忘れてはなりません。大事なのは、相手の言動の背後にどの様な意図が隠されているかです。そして、その意図は何を前提としているかによって決まるのです。
依って立つところは何か。依って立つところが違えば、一体にはなれないのです。
現代の戦争は、総力戦の様相を呈するという事です。その総力という意味も、非日常的という意味から、日常的という意味に変わりつつあります。我々は、否応なく戦争に巻き込まれつつあるのです。
安直に、国防を特定のイデオロギーと結びつけて考えるのは危険です。
平和、平和と言うが、それでは平和とは何か。平和とは戦争がない状態、争いのない状態を言う。ならば、平和の意義を知るためには、戦争の意味を知る必要があります。
戦争とは、暴力によって自国の意志を相手国に強要する行為、或いは、相手国を暴力によって支配しようとする行為である。
では、なぜ、人間は、戦うのか。
非暴力主義者、無抵抗主義者、平和主義者は、暴力を否定すれば、平和が訪れると信じている。しかし、暴力を否定しただけで平和は訪れるのであろうか。大体、彼等だって戦ってはいないのか。見方を変えれば彼等も、暴力と戦っている事になる。
戦うというのは、多くの場合、単純に、戦いを好んで戦っているというだけではない。自由や独立、正義を実現する為に戦っている者もいるのです。
反戦主義者の中には、反戦、反戦と言って暴力をふるう者もいるのです。
無抵抗主義というのは、護るべき物が自分の生命財産しかない者がとる戦略の一つです。国民の生命財産、国土という護らなければならない物がある国民国家がとるべき戦略ではありません。
要は、何を信じて戦っているかです。
人は、なぜ、戦うのか。
戦いという行為を単に否定的にばかり考えているとその答えは得られない。
この世の中には、戦いを好む人間が沢山いる事を忘れてはならない。その証拠に、映画の多くは、戦いをテーマにした作品であるではないか。
世の中には、力を好む者もいる。
そして、暴力でしか解決できない問題もあるのです。
この現実を受け入れないかぎり、真の平和の意味は理解できない。
歴史問題と国境が絡められれば、力でしか問題の解決はできなくなる。日本を取り囲む今の国際状況は、楽観できる状態ではないのです。
人が戦いを好む要因の一つは、人の一生が死を前提としている事です。
ただ生まれて、老いて、死んでいく。それを潔しとしないから戦うのである。それは、内面の正義においてである。この点を理解しないと戦争はなくならない。
戦いを単に否定的に捉えるばかりではなく。闘争心の持つエネルギーをより建設的、生産的な方向に向ける事が大切なのです。それが市場に於いては、競争となり、経済を活性化する。また、スポーツの世界の原動力となる。それが経済を動かす力です。
生きる事が当たり前な事である人間と死と隣り合わせにぎりぎりのところで生きてい者とでは最初から戦う事に対する認識が違う。
また人は、自分を拘束するいろいろな柵に気がついた時、多くの人は、戦うことを決意する。
人生が学校のようなものだと考えたら耐えられない人間が出てきてもおかしくない。学校というのは、毎日毎日、同じように決められた日々が続き、人間関係も教室という狭い範囲に限られ。人々の評価は、成績によって厳格に管理されている。そして、一定の期間が過ぎると当たり前のように序列が決められ卒業していく。
その平穏無事の生き方に耐えられなくなった時、人々の闘争心に火がつくのである。なぜならば、一見平穏無事に見える日々の裏には、差別や格差、貧困、汚職、犯罪、不正といった矛盾や不条理が隠されているからです。権力は、犯罪に近いほど抑圧的になって人々を押さえつけてくる事もあるのです。どうにもならないと感じた時、人々は、変化を求め戦いを始めるのです。
そう考えると不平不満なんて自分の問題である。何に対して我々は欲求不満になるのか。不平不満があるから闘争心が沸くのか。それとも闘争心があるから、不平不満が生じるのか。考えてみれば、不平不満は戦うための口実に過ぎない時があります。
この世の中が相対的で、矛盾に満ちた世界である限り、戦いはなくならない。だとしたら、破滅的な戦いにならないように戦いを制御する事が必要となるのです。
その一つが戦略です。
戦いというのは相手があって成り立っているのであり、当方に戦う意志がないとしても先方に戦う意志があれば、戦争は成り立つのです。戦争にならなければ、一方的な殺戮である。それは虐殺です。
医者がいなくなっても病気はなくなりません。警察が犯罪を起こすわけではありません。火事が多いからと言って消防署をなくせというのは暴論です。軍隊をなくしたからと言って他国が攻めてこないという保障は何処にもないのです。それは、国防思想と言うよりも信仰に近い。或いは、我が国を侵略せんとする国の謀略です。
我が国の国家戦略の前提は、第一に、我が国は、島国だという点である。第二に、資源が少なく自給率が低いと言う点でありす。第三に、米中露に国境を接触し、尚且つ、中心に位置しているという事であります。第四に、自由主義圏に属し、経済体制は自由主義を、政治は民主主義を国是としている事です。第五に、アメリカの軍事システムと基盤を共有している。第六に、海外で活躍する邦人保護をどの様にするのか。この六点です。
これらを前提とした場合、我が国の国家戦略の原則は、第一に、覇権主義、帝国主義、植民地主義的戦略はとれない。とらない。第二に、食料、エネルギーの絶対量を確保する事が最優先となる。第三に、第二点を実現するために、北米(アメリカ、カナダ)、オーストラリア、南米、ASEANとの関係が重要となる。第四に自由主義陣営の一画を占めている事による責務を果たし、自由主義陣営に属する事によるメリットを最大限に活用する。第六に、米軍との連携を深める。第七に、最低必要な箇所を集中的に防御すると同時に、地方は、個々自立した防御態勢を確立する。ミサイル防御システムを強化する。島嶼部防衛に対する陸海空の連携体制を整える。第八に、海外の危険地帯で活躍する邦人をどの様な組織によってどの様に保護するからです。
戦略には、攻撃的、積極的なものと、防御的、消極的なものがあります。
帝国主義時代は、攻撃的な戦略を帝国主義国はとりました。それが世界大戦をひき起こしたと言えます。しかし、今日、植民地を前提とした帝国主義的な発想は根本的に破綻したと考えるべきです。
帝国主義や覇権主義、植民地主義的戦略は通用しません。他国を侵略し、支配するという事が経済的に成り立たない事が明らかになってきたからである。
今、我が国が最も戦略上重視する事は我が国土を戦場とさせないという事です。そのためには、我が国に上陸し占領するためには高いコストと多大な犠牲が出るという事を相手国に知らしめておく事が必要です。
福島の原発事故は、我が国のエネルギー政策にいろいろな教訓を与えてくれました。
中でも、一番の教訓は、我が国に、有事という発想が欠けている点です。
我々の先祖は、百年に一度というような災害や戦争に備えて自分達の国作りや街作りをしてきました。古い町の多くが城壁な囲まれ、国という漢字自体が玉を四角く囲んでいる事がその証左です。有事に対してどの様な行動をとるべきか、それが、街の外見や都市計画に反映されてきたのです。
ところが現代の日本人からは有事という発想が消えてしまった。そして、有事に備えたつもりの諸々の施設が形骸化してしまったのです。それは市場に関しても同じです。
どんな仕組みにも安全装置や制御装置は不可欠です。
新しい技術は、安全を如何に確保するかによって進化してきたともいえます。ところが現代社会では、安全よりも効率が優先される傾向があります。
日本エネルギー経済研究所の調査でも省エネルギー化が進んでいないのは、実は、発電部門と運輸部分だという事に注目すべきなのです。
最終エネルギー消費での電力化は一次ベースでは増エネルギーになるのです。電力化は省エネルギーの決め手にはなりません。
電力化によって温暖化問題を解決するためには、原子力が鍵を握っていました。その原子力行政が根本から覆ったのです。
発電部門の問題を前提としても、省エネルギーで鍵を握っているのは、民生用と業務用と運輸部門です。産業用部門の省エネ化は、六十パーセント近くも成功しているのに、民生用と運輸部門は、増加傾向にすらあります。
民生用や業務用エネルギーの省エネ化を進めようというのに、都市ガスと同規模のシェアを持つプロパンガスを認知もしていないのでは話にはなりません。
プロパンガスというのは、隙間や空白地帯を埋めるようにして発展してきました。逆に言えば、プロパンガスが埋めなければならない空白地帯や隙間がエネルギー業界にあるのです。そして、その空白や隙間をプロパン業界が埋めてきたから、エネルギー政策は成り立ってきたのです。この事実を多くの識者は見て見ぬふりをしている。
プロパンガスには。エネルギー業界の空白地帯や隙間を埋める事の特性があり、それが日本のエネルギー業界に不可欠な要素でもあるのです。
一つは、無線ネットワークだという事。二つ目は、運搬が容易だという事。第三に、消費場所に近いところに設置できるという事。第四に、設備の設置が簡便だという事。第五に、狭いスペースに設置ができる上、設置場所を選ばないという事、第六に、小分けできる。第七に、容易に液化ができる、対八に、貯蔵も簡単な容器でできる。第九に、分業が可能だという事、第十に自己完結型、閉じた仕組みだという事、第十一に、巨額の設備投資を必要としていない事です。
エネルギー効率を考えたならば、消費する場所に近いところにエネルギー源を置く事が最適なのです。
プロパンガスは、危険だという印象がありますが、それはエネルギー源が消費場所に近いところに設置されている事から来るのです。逆に言うと、この度の原発事故の例を見ても解るように、安全なエネルギーだからこそ、住宅地にも設置できると言えるのです。
エネルギー効率を考えれば、都市ガスや電力は、第一に、パイプラインや電力回線には送配電損失が必ず生じる。第二に、保安やメンテナンス、更新費用も馬鹿にならない。第三に、リスク管理も大変です。また、第四に、原発でも、水力発電所でも巨額の設備投資が必要です。第五に、一度事故があると、巨額の賠償責任が発生する。
それに対して、プロパンガスは、中小零細業者が扱えるほど利便性があります。
プロパンガスの重要な特性は、自己完結型という事です。都市ガスや電力というのは回線につなげなければ機能しませんが、プロパンガスは、一つの仕組み仕組みが完結している。それが小口、分散型を可能にしている。この点が重要なんですね。だから、これからの中軸的な資源となり得るのです。
エネルギー政策を考える上で重要なのは、単位消費量と単価です。
エネルギー戦略は、単位消費量を削減する事につきるのです。そのために、単価を上げざるを得ない。それは、単位消費量が減少すると企業収益が圧迫され経営が成り立たなくなる上に、単価の低下は、消費量の増加要因でもあるからです。
実際、高効率ガス器具が開発されていますが、それが普及しない最大の理由は、単位消費量の現に繋がるために、ガス会社の収益を圧迫するからです。
現在の電力業界を鑑みても、これからは、エネルギーの高価格時代にする必要があるのです。その上で、エネルギーを効率よく消費する。
エネルギー効率を高めるのは、供給者よりも消費者に追うところが大きい。エネルギー効率の高い者かを構築するためには、消費経済を確立する必要があるのです。
むろん、ガス会社の集約化、合理化、効率化は避けて通れません。しかし、それは単純に規制を緩和し、市場の競争を促して淘汰すれば良いというものではありません。
なぜなら、エネルギー政策は、国策に沿ったものであると同時に、保安やメンテナンスに関わる高度な技術が恒久的に個々の企業に要求されるからです。
むしろ市場の原理を活用するならば、適当の数の企業が節度ある競争ができる環境を作るのがエネルギー戦略の骨子です。
今の経済の最大の問題点は、私利私欲を経済の中心に据えている事です。
私利私欲が経済を牛耳っている為に、経済から公共の利益が失われていく。つまり、大義、公儀が経済から失われ利己主義だけが経済行為を正当化する根拠となる。
それでも、神を怖れ敬っているうちはまだ救いがあるが、神さえ信じられなくなったら、残されるのは、強欲だけです。
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