礼の本性は、畏敬である。
 礼の根底には、自分を生かし、自分を超越する何ものかに対する畏れがある。
 自分を存在させるものに対する崇敬である。

 礼を礼たらしめているのは、威である。
 威とは、聖(ひじり)である。聖の威光である。
 聖の威光は、となる。
 礼は仁と義に従い、仁と義を表し、これを護る。
 礼は、道理を象徴化し、形を与えたものである。
 礼の従うのは、内面にある懼(おそ)れがあるからである。
 礼に従うのは己(おのれ)である。
 礼が守るのは人としての尊厳である。誇りである。

 礼は処世術ではない。
 礼に求められるのは、誠忠である。
 礼が嫌うのは、媚びへつらう心である。
 礼が嫌うのは、卑屈さである。
 礼は、形として現れるが、形だけの礼は、虚礼である。
 それは魂のない肉体である。屍である。
 不仁にして礼なし。礼を礼たらしめるのは、仁と義である。懼れである。
 それは、自己の存在、生命に対する根源的な畏敬心である。

 義人は、時流に流されることを潔しとはしない。
 礼は、場に合わせることばかりを求めはしない。
 礼を保てば直言することも許される。
 故に、人は、礼によって自由となる。

 昨今、場の雰囲気とか、空気とかを重んじる風潮がある。
 場の雰囲気や空気と言って得体の知れない物に合わせることが礼であるような誤解が若者に広まっている。
 礼は、己があってはじめて成り立つ。
 礼とは、毅然たる形である。時には、頑固に見えるほど、断固たる姿勢である。
 己を滅して場や時流に迎合することは、醜く、礼に反し、礼を失する行為である。
 礼は、何時、如何なる時にも、守らなければならない。

 和して同ぜず。それが礼の基本である。

 故に、礼が尊ぶのは、名誉である。
 礼が好むのは、誇り高き孤高である。
 礼の根本は、公に在って独立不羈である。
 凛(りん)とした気高さこそ礼が好む姿勢である。
 清潔こそ礼の望む姿である。
 礼は、姿勢である。姿勢を正す事である。
 背筋を伸ばすことである。
 我慢、辛抱である。
 故に、礼の根本は道である。

 礼は、紳士、淑女によって実現する。
 大切なのは、人としての品格、人格である。

 人間、何に従うかが重要なのである。
 威に従うのか、力に従うのか。
 威は、義により、力は、法による。威は、権威となって礼を形成し、力は、権力となって制度を構成する。
 威に従うのは、内面の畏れであり、力に従うのは、外圧に対する怖れである。
 礼は、根源は、権威に対する畏敬心である。法の根源は、権力に対する恐怖心である。
 礼は、信を基とし、法は、約を基とする。
 礼は、廉恥によって維持され、法は、罰によって保たれる。
 礼は、自らの意志で従う則である。法は、の力によって保たれる則である。

 礼は、人の徳によって律せられ。
 礼によって、人は、己(おのれ)を律する。
 礼の核心は、自己の意志である。
 権力に屈せず、自らの善を貫き通すのが真の礼である。

 恐れるべきは、自分である。
 自分の虚栄心、強欲、傲慢、怠惰である。
 結局、礼に求められるのは自分との戦いである。
 自分に克つことである。
 故に、礼は行いである。礼は修業である。

 克己復礼。
 己に克ちて礼に復る。その時、真の自由を手に入れることができる。
 礼こそ、自由の芯である。

 礼が信を置くのは、自己である。
 法が信を置くのは、公権力である。
 故に、礼こそ個人主義の礎である。
 礼の民主主義こそ民主主義の極致である。
 それが徳の民主主義なのである。

 最近の若者は礼儀知らずだと新聞やテレビで叱責する。しかし、礼儀知らずの若者に育てたのは、新聞やテレビである。
 礼を自分達で壊し、若者達を躾しないでおいて礼儀知らずと罵るのは残虐な話である。
 昨今問題になる粗暴な成人式を見ても礼を失った社会がいかに無軌道な社会になるのかを思い知らされる。
 民主主義にこそ、礼は不可欠なのである。
 民主主義こそ、礼を尊ぶべきなのである。

 若者を礼儀知らずと糾弾する前に、先ず、自(みずか)らが懺悔し、自分達の前非を悔い改め、自らの姿勢を改める必要がある。
 自らを緩くして人に厳しく接するのは無礼である。

 日本は、敗戦後、帝政から民主主義体制へと、体制が替わった。
 体制が替わっても法を改めろと言う話は、法をなくせと言う話は聞かない。しかし、礼に対しては、礼を改めろと言わずに礼をなくせと言う。
 礼は、封建主義的だから民主主義になったら礼をなくせと言うのは、礼の本質を理解していないからである。
 民主主義には、民主主義の礼がある。
 礼儀を棄てるのは、独立自尊の志を棄てることである。
 日本人は、自らの礼節を棄てた時に、植民地となった。
 力に隷属する礼は、奴隷の礼である。

 戦後、日本人の知識人の多くは、礼を目の仇にした。
 礼を封建的と罵り、形式主義を徹底的な排した。
 その結果、成人式が荒れたとしても当然の帰結である。
 子供達の生き様が定まらないのは、礼を排した者の責任である。
 なぜ、戦後、礼を徹底的に排斥したのか。
 形を壊したのか。
 それは日本の文化であり、歴史と伝統の賜物だからである。
 日本人の誇りの源だからである。
 日本人を隷属させたいと思う者にとって邪魔な仕来り(しきたり)だからである。
 礼を失うことは、その一時を持っても明らかである。

 自由主義に礼はいらないというのは自由の意味を知らぬ者の言い分である。
 礼節があって人間は自由になれる。
 独立自尊の精神が養われるのである。
 礼の根本は内面の則である。義である。

 怖れるべきは、恐れるべきは自分である。
 畏れるべきは、懼れるべきは天道である。聖(ひじり)である。

 礼は、象徴である。
 礼は、様式である。礼は美である。
 礼は清浄である。

 礼は、心技体からなる。心と、技と、身体によって礼は成り立つ。
 心は、礼の中心である。技は、礼の行いである。身体は、礼の形である。姿勢である。

 心技体は、真善美と一体になり、心気力によって発現する。

 礼は形である。礼は姿勢である。

 礼が乱れれば、規律や士気の低下を招く。
 敗軍は、統制を失って暴徒と化しやすい。懼れる権威を失って礼儀を保てなくなるからである。
 苦しい時は、失望や挫折により、栄える時は、奢りによって礼節が弛む。礼節が弛めば秩序が乱れる。秩序が失われれば、正道が行われなく、道徳は危機に瀕する。
 世が乱れ、戦乱に明け暮れれば礼が失われ、非道が横行する。
 故に、礼の根本を否定する者は、非道である。
 国民国家における礼の本質は、国民生活の安寧と幸せにある。

 礼の働きは、人間関係を円滑にし、社会秩序を維持することにある。
 戦争に負けた後、日本人は、礼儀を軽んじるようになった。形式を維持し、保つことは、鬱陶(うっとう)しい、煩(わずら)わしい、無意味だ、無駄だと形式を疎(うと)んじるようになる。そして、何でも、簡素、簡略、省力と礼儀を守らなくなった。結婚式がその典型である。結婚から礼はなくなり、ただのどんちゃん騒ぎに過ぎなくなった。その結果、結婚による身内の固めも弱まり、お互いの覚悟も消滅した。その結果、離婚、離縁が安易になり、家族の崩壊が社会問題となるのである。そのなれの果てが無縁社会であり、孤独死である。
 礼節が軽んじられる様になって日本人は、社会的役割や分担が自覚が薄れ、社会的責務が果たせなくなった。社会性が身につけられなくなった。要するに、社会人、大人になれないのである。
 礼を否定した者が、最近の若者は、自覚が足りないと責めるのは、お門違いである。礼節を否定した自分をこそ責めるべきなのである。
 礼がなくなれば、組織の規律や統制が保てなくなる。
 家族も、会社も、国家も結束力や団結力を失う。結束力や団結力がなくなれば集中力も失うのである。
 だから、暴力団や窃盗団のような犯罪組織にも、その組織固有の仕来りや礼がある。不良の様な反社会的集団、暴走族にもその社会特有の仁義はある。組合のような反体制的組織こそ礼儀を重んじる。そうしなければ、組織や社会は束ねられないからである。統率できないからである。
 それこそ、動物の社会にも礼はある。犬や猿の社会にも礼はある。

 礼が発展して掟や法は出来上がった。つまり、礼こそ、法の原形なのである。礼を否定する事は法を否定する事に通じるのである。
 礼を否定する事は、社会を否定する事である。日本の礼を否定する事は、日本人社会を崩壊させることを意図しているからである。家族の礼を否定する事は家族の崩壊を願うことである。
 だから反社会的集団は、自分達の礼を重んじ、社会の礼を排斥するのである。

 社会は、礼に始まり、礼に終わる。

 礼の本義は、恕と忠である。
 礼は法ではない。力によって強要される則ではない。犯しても罰する者は自分以外いない。礼は、自分で自分を律する道である。故に、礼を棄てれば自己は放縦になる。抑制心がなくなる。
 礼の本性は、自制心である。故に、礼は、義であり、道である。礼が成就した時、真の徳は表れる。

社会の規律は、言語によって成り立っている部分と形象、象徴によって成り立っている部分とがある。
 言葉にできないところにある真義を形に表すのが礼である。
 故に、礼は、生き様である。人生そのものである。

 言葉にできない、思い、感謝の念を行為や形で伝えるのが礼である。故に、言葉が生まれる以前から礼は存在した。
 一人の人間の過ちを戒めるのも又礼である。故、礼は、日常生活の隅々にまで及ぶ。
 日本人は、戦後、礼を失ったから、言葉でしか自分の想いを伝えることができなくなった。しかし、本来、言葉で伝えにくい事柄を形として表した行為が礼である。日ごろの感謝の気持ちや反省した事、相手に誠意を尽くして伝えようとする処に礼生じる。だから、礼には真心が求められるのである。不仁にして礼なし。
 礼が形となった時、人と人との関係は、落ち着く。礼をとれないから人と人との関係を形に表せず、処世の術も身につけられないのである。処世の術を身につけられないから、一人一人自分の殻の中に閉じこもり、社会から隔絶して引き籠もるようになる。

 形式が悪いと言っているのではない。ただ、形だけでは、真の礼ではないと言うだけである。形だけの礼は虚礼だと言っているのである。そして、形がなくなれば心も籠もる場所がなくなる。

 形式を侮ったから、親子の情は表すところを失い。友に信を固める形がなく、夫婦の絆を固める事ができず、師を敬い譲る心を籠める場所がなくなった。
 仁こそ礼の魂、作法、形式こそ礼の身体。姿形を壊したから、礼は、魂魄が宿る肉体を失ったのである。
 日本人社会は魂を失いつつあるのである。

 形から入り、形によって出る。それが礼の基本である。
 物事には、本末、前後、終始がある。物事の順序、筋道を形にしたのが礼である。
 故に、一つ一つの作法に意味があるのではない。礼の形、有り様、全体に意義が潜んでいるのである。礼は、物事の本質を象徴しているのである。

 入魂。形を作ったら魂を入れる。
 魂のない肉体は、屍である。真(まこと)のない礼は、虚礼である。
 鄭重、丁寧でも心ない言葉は慇懃にして無礼である。
 体面を取り繕うのではなく。真心を籠めてこそ礼である。

 礼は、けじめである。礼は仕切である。
 行いは、礼に始まり、礼に終わる。無礼、失礼も礼の形の一つである。
 人生に、始まりと終わりがあるように、物事には、始まりがあり、終わりがある。人生の始まりと終わり、夫婦の始まりと終わり、親と子の始まりと終わり、一年の始まりと終わり、一日の始まりと終わり、出逢いの始まりと終わり、取引の始まりと終わり、仕事の始まりと終わり、学習の始まりと終わりその節々に礼節が生じる。
 故に、礼は、けじめである。無礼、失礼は、けじめがないことを意味する。故にだらしなくなる。

 親と子の礼、夫と妻の礼、兄弟、姉妹の礼、友との礼、師弟の礼。礼があって社会の規律は定まる。それぞれの位置が定まれば、和が成立する。それが平和である。
 それがけじめである。

 礼は、恕である。故に、礼に求められるのは節度である。中庸である。
 仁の行いは、忠と恕として現れる。忠は行いやすく、恕は行いがたい。故に、忠が主となり、恕は忘れられた。しかし、仁は、忠恕をもって行われる。
 礼は独善を嫌う。独り善がりの礼は、偽礼である。恕がない。
 礼の本質は仁である。
 仁がなければ礼は成り立たない。

 礼には、公式がある。
 公式とは、公に定められた形である。
 公に定められた形とは、社会、即ち、共同体が定めた手続きに従って決められた様式や形である。
 公式を修得すれば、迷わずに済む。恥をかかずに済む。故に、公式はある。
 公式が定められていれば、人間関係において苦労をせずに済むのである。
 公式の礼がなければ、その都度その人に合わせて付き合い方を決めなければならなくなる。
 礼が否定されたために、人々は人間関係に疲れて引き籠もるようになった。
 公式の礼は、人を人間関係の煩わしさから解放するためにある。
 煩わしい礼は、根本を間違っているのである。
 公式な礼は単純な形に限るのである。

 組織的決断には、礼と義が必要である。
 決断を組織に形を持って示す必要があるからである。
 それが儀礼であり、作法であり、手続である。
 儀礼、作法、手続には、形それ自体に意味があるのである。それが礼である。

 礼の有り様は、単純反復繰り返しである。
 同じ事を同じように繰り返すことによって生きようが見えてくる。
 同じ事を、同じように、繰り返す時、時が明らかになる。
 心安らかになる。
 単純、反復、繰り返しこそ不易である。
 不易にあって心の安寧は得られる。
 心の安寧こそ礼の望むところである。
 穏やかに時が過ぎ去っていく時、礼は、その本性を現す。

 神事には、意味があった。
 なぜ、神を奉るのかである。
 神を奉らんとする姿勢にこそ礼の本源がある。
 そこに礼の真実が隠されている。

 聖なる空間は臨在する。
 聖なる存在に対する懼れがが作り出す空間にこそ礼の根源である。
 森羅万象、変わらぬ物はない。
 変わり往く物象の背後にある不易の理(ことわり)を形にしたのが礼である。
 聖なる存在と俗なる自己とを分かつところに礼が成立する。
 聖なる存在を懼れることなくして礼を保つことはできない。
 その聖なる存在は、自分を生かす存在である。
 存在を存在たらしめる存在である。

 聖(ひじり)の前に立って礼を窮める。
 故に、礼の基本は平等である。
 あるのは立ち位置である。

 親はとしての立ち位置があり、子は子としての立ち位置がある。
 師には、師としての立ち位置があり、弟子には、弟子の立ち位置がある。
 友には、友の立ち位置がある。指導者には、指導者の立ち位置があり、各々の持つ立場が、礼の基準を定めるのである。

 礼は、処世術ではない。
 生きる真実を形にしたものである。
 人の一生を形にしたものなのである。
 日常の生き様を形として整えたものである。
 生命の神秘と尊さに対する畏敬心である。

 礼をなくせば、聖と俗とを分かつ仕切がなくなる。
 何によって生きるべきか。
 礼を滅すれば生きる拠り所を見失う。
 生きる所在が消えてしまうと、人は、生と死の間を当て所なく漂うことになる。
 礼があってこそ人生は定まる。
 生きる意義が明らかになる。
 生き方が定かになるのである。

 礼とは、綺麗に生きることである。
 礼とは、清く、正しく、美しく生きることに他ならない。
 礼が求めるのは、美である。
 礼は、美学である。

 個人主義、自由主義、民主主義が追い求めるのは礼である。
 礼は、個人主義の美学である。
 礼は、自由主義の美学である。
 礼は、民主主義の美学である。

 克己復礼こそ自由の境地である。

 日本人は、天に対する礼、大地に対する礼、山河に対する礼、祖先に対する礼、子孫に対する礼、祖国に対する礼を失ったから天下は乱れ、大地は、荒廃し、山河は穢れ、社会は衰退を辿り、家族は離散し、国家は、独立の気概を失いをいる。

 戦争に負け、日本人は心まで挫かれようとしている。負け犬だから、礼を省みようとしない。日本人としての誇りを棄てようとしているのである。醜く生きることを潔しとしている。それは心の荒廃堕落である。

 恐れるべきは、自らの心の内にある怯懦(きょうだ)である。己に克ちて礼に復す。日本人よ。誇り高くあれ。日本の若者よ。誇りを取り戻せ。





                       



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