義とは、決断するための基準、行動を促す働きである。
生きるとは、気魄である。
決断とは、決して断ずることである。
決断とは、一つを選んで他を断ち切ることである。決断とは、未練を断ち切る事に他ならない。未練の根源は迷いである。迷いを断つ。それが決断である。
決断を妨げるのは、ただ、未練。
やると決めたら、ただ、実行あるのみ。
この女だと決めたら、他を省みない。いい女が又現れるんでは、などと、迷わない。浮気はただ未練。
義とは一途な誠である。素であり、直である。故に、義は忠を求める。
正しいと信じるところに従ってただ決断するのみ。
迅速なる決断をするためには、心構えが必要である。
心構えを整えるためには、常に、何が正しくて、何が間違っているかを明らかにしておく必要がある。
それが義である。義が定まって生きる覚悟できる。義が定まってこそ、一人前の大人である。
義は、性根である。
生きる覚悟がない者は、時に当たって迷いが生じる。迷いは、未練となって決断を鈍らせる。
修業勉学は、義を明らかにするために日々行う業である。
人は、何時(いつ)、どこで危難に遭うか解らない。何時、一命をとして決断しなければならない時に遭遇するか解らない。その時に迷えば決断ができなくなる。不決断は、最大の誤判断。不覚である。
時に中(あた)りて即決・即断・即行する覚悟がなければ、事は成就できない。その為に、義を定め、己の出処進退を、常に明らかにする。それが、日々、学ぶべき事である。
何が、正しくて、何が間違いなのかを明らかにし、決断すべき的に迷わないようにするのが勉学である。故に、勉学には、座学探求と修業鍛錬とがある。
今の人は、座学探求ばかりを専(もっぱ)らにし、修業鍛錬を忘れる。
しかし、義は行動の本成り。故に、修業鍛錬を本とすべきなのである。修業鍛錬を怠れば、義は、衰える。
義は、廉直と潔さを好む。
義とは、人が、人として守るべき基準である。義の本性は仁であり、その大元は善である。
義を穏やかにするのは仁である。
義に方向性をもたらせるのは志である。
義は。廉恥の情をもたらし、仁は、即陰の情を生む。
故に、義は、名誉の源である。義がなければ矜持、誇りは保てない。義は、意地や、意気地を生み出す。
義によって信念は育まれる。義は、思想信条の根である。
今の学問には、徳がない。それは、学問に、人間いかに生きるべきかの問いが失われたからである。その為に、教育に道徳が成り立たない。教育者に徳がない。
今の子供達は、何を恥、何を誇りにして生きていけばいいのか、何に従って生きればいいのか、教えられてはいない。人として守るべき道が示されていないのである。
義とは、厳父の徳、指導者の徳である。
今の世は義が廃れ、徳が失われようとしている。
法さえ犯さなければ何をやっても許されると思っている風潮が近頃は蔓延している。又、謝れば済むと思っている。逆に、何でもかんでも偉い人に頭を下げさせないときが済まない。人は、徳を求めず、義が廃れているのである。
義は、道徳の礎である。義は道である。
義には道筋があり、順序がある。それが道理である。
義は、理であり、知となる。義は理念。理念は、知恵から生まれる。叡知は人の世を救う。それは義理に基づくからである。
義は、良知、良識、理性によって保たれる。
この世の理非曲直を明らかにし、正否善悪を定める。それが義の力、義の働きである。
誰も見ていなければ、露見しなければ糾されない。正直者は馬鹿を見る。その様な世の中に道理は通じない。強権を持ってしなければ法は守られなくなる。
無法の世で最も虐げられるのは弱者だけである。力だけによって支配されるからである。力に頼らなければ秩序が保てなくなるからである。つまり、力が正義のような働きをするようになる。
義は、正直を好む。嘘、不善を憎む。
昨今の政治的指導者には徳がない。義がない。
国民のために何をすべきかが解っていない。政治家になることを目的とし、民意を忘れて政争に明け暮れている。志がないから総理になっても続かない。指導者としての覚悟、心構えができていないのである。
政治を志す者は命懸けである。なぜならば、政治の乱れは、民に塗炭の苦しみをもたらすからである。
自分の国や国民、家族を守るべきかどうかも解らない政治家に義など持ちようがない。自分の国をどの様な国にしたいのかの展望もない政治家に志など持ちようがない。
今の政治家から義は失われた。
嘘をついても露見しなければいい。いくら心に疚(やましい)しいことがあっても法で罰せられることはない。故に、救いもない。
勝負事は、どんな汚い手段を用いても勝てば善いんだ。金儲けのためなら手段を選ばす。どんな非道、無道もお構いない。人を欺いても法に違反していないのだから悪い事をしているわけではない。何でもかんでも法によって決めなければ、世の不正は正せない。
選挙に勝てるならば、どんな嘘でもつくし、一度権力を握ったら好き勝手やりたい放題やる。官僚も政治家も私利私欲にしか動かされない。それを不義という。不義、不仁では、法の精神は保てない。全てを法によって定めることは不可能であり、強権、独裁を招くだけである。民主主義に必要なのは義である。
今の民主主義には徳がない。
仁は、真を求め、善を尊び、美を愛する。真善美が均衡した時、仁は発揚する。
真は、知となり、善は義となり、美は礼となる。義は、規範、基準である。
義は、志の帥である。義によって志は、進むべき方向を与えられ、志によって義は安定する。義が定まれば自由の境地が与えられる。
言論の自由は義によって守られる。法によって守られるわけではない。自由は、義によって守られる。なぜならば、義は、自己の行動指針だからである。
やれ自由よ、やれ平等よと言ったところで、義もなくば、理(ことわり)もない。
テレビ局の言論の自由の根拠と言って視聴率であり、大衆に受けたかである。道徳など視聴率の前では風前の灯火に過ぎない。どんな不正な番組でも、悪辣な人間でも人気さえあれば許される。それがテレビ局の言う言論の自由の根拠である。それは、単に、己(おのれ)の行為を正当化しているのに過ぎない。しかも、その理屈には、義もなければ、理もない。単なるこじつけである。信ずるところがないのである。
言論の自由と言うが、現代にも言論弾圧は隠然として存在する。
その最たる事が言葉狩りである。差別は、差別する者の心にある。言葉にあるわけではない。差別用語と言って言葉を狩っても差別がなくならない限り、新たな差別用語が生まれるだけだ。言葉の正しい意味も知らずに言葉を狩るのは愚かな行為だ。それこそが本当の差別である。
なぜ、反体制派の言論は守られても体制派の言論は封じ込められるのか。それこそが言論の自由を犯すことである。
糖尿病患者が欲しがるからと言って無制限に甘い物を与えることが、正しいことであろうか。売れるからと言って明らかに子供の教育に悪い影響を与える事は、不義であり、不忠である。それを自由とは言わない。
言論人に徳が失われたからである。だから、売れる物を良しとするのである。
戦後、日本の価値は逆転した。今の言論が是とするのは、偽悪醜である。偽を求め、悪を尊び、醜を愛するそれが今の言論界である。
戦争に負けて日本人は、体制に逆らうことばかりを教えられた。叛逆は美徳とされたのである。それは、日本が精神的に植民地とされたからである。
独立の気概を失ったからである。それから、日本人は、信じ合い、助け合う事を忘れ。嫉みあい、啀み合い、妬みあうようになった。
背信、裏切り、自虐、自暴自棄、独り善がり、傲慢、強欲、放縦、我が儘いずれにしても、義がないからである。義がないから自分の抑えが効かなくなるのである。自分の正体が定まらない。
人を見たら泥棒と教わり、何でも疑ってかかれと躾(しつけ)られた。世の為、人の為に働く事は愚か者のすることだと教えられ、正直者は馬鹿を見ると叩き込まれた。
その結果、楽することばかりを覚え、狡(ずる)く立ち回ることが賢いと思いこけようになった。結局、結果だけが全てなのである。動機も心根も関係ない。
戦争で国のために死んでいったものは犬死にだと罵り侮辱し続けたのである。
誰のために、何のために彼等は死んでいったのかを省(かえり)みようともしない。
そして、現代の日本人は、義を忘れ、真の美徳を見失ったのである。
日本人は、義を忘れ、徳を失った。その結果、見栄や外聞だけに囚われて日本人としての誇りまで失いつつある。日本を守るために戦った者は日本の義のために戦ったのである。
大義を滅すれば、戦は、残虐となり、凄惨になる。義のない戦は、ただの殺戮である。日本人は、日本人として、アジア人としての義を見失ったら、何のために、あれだけの犠牲を払ったのか、その意義が失せてしまう事を忘れてはならない。
自由は、自主自立を礎(もとい)とする。故に、その根底に義を必要とする。義は、決断の基準、行動を促す力だからである。
義は正しさの尺度である。正しさの源は善である。
善というのは、私(わたくし)の尺度である。私の尺度である善が公(おおやけ)に止揚して義となる。
公とは社会である。公とは、社会正義である。
国民国家において公とは、国民の利益である。
国民国家において、社会正義は、法に結実する。
しかし、法は結果であり、その根本は義にある。義が行われなければ法の精神は失われる。
国民国家の義は民の義である。義は民にある。それが国民の義務である。国民の義務は権利でもある。
義は行動指針である。義は行動に直結している。
義は、行動を促す働きであるから、時に当たって直情的にもなる。
故に、義に求められるのは勇気である。義を見てせざるは勇なきなりである。
義は行動をもって貫くものである。義を廉直なものである。義は不正を嫌う。義は妥協を許さない。故に、義は、剛直にして鋭い。
故に、義を、突き詰め、窮め、貫けば狂に至ることも屡々(しばしば)ある。義は、不義、不正に対する憤りによって世に現れる事があるからである。
だから、こそ世は糺せるのである。
義を貫き通すには覚悟が必要である。故に、義は誉(ほま)れとなる。
不義、不正に対する憤りが義を発する。義憤によって、悪を懲らしめる動きが発憤する
天に代わりて不義を撃つ、それが志を生むのである。その根源は、公の義である。
この世に義が行われなくなれば、この世の秩序は失われる。世は、無明の闇となる。国民は志を持たなければならない。さもなくば、国民国家の義は保てない。
私怨、私の怨恨によっては、正義は実現しない。私利私欲に走れば、如何なる行動も不義となる。義に従って私(わたくし)を投げ出せば、不義、不正を断つことができる。それが忠である。故に、忠は隷属を意味しない。奴隷に忠義はないのである。忠こそが自由の本源なのである。故に、忠は義を求め、自由は義を必要とするのである。
義には通すべき筋、道筋がある。それが道義である。道義こそ自由の道筋である。
法によって許されても道義的に許されないことがある。それは、その人の心の問題である。それが道義心である。そして、道義心こそ法の礎、柱となるのである。
心なき者は、恩義、義理といった徳のある言葉を侮る。今や、恩は、唾棄すべき言葉として扱われている。必然的に恩は忘られる。感謝の念など何の価値もない。礼節は金のためにあるのである。金の世では、道義心など損得上邪魔になるばかりである。
故に、行為に対する報いは、力で強要され、或いは、金に換算されて解消される。たとえ、善意で為された行為でも善意は関係がない。恩など最初から関係ないから、恩着せがましいことは嫌われる。感謝などする必要がない。全て金で済ませれば事足りると思っている。
しかし、本当は、道義心があるからこそ損得勘定が成り立つのである。義は、根源的目的だからである。義なければ生計は立たない。
今の経済には徳がない。今の経済的指導者には義がない。人を養う気概がない。郷土貢献する意気がない。企業は、金を儲けるだけの場であり、仕事を金儲けの手段に過ぎない。仕事に誇りを持てと言っても無駄である。仕事は、金儲けの手段でしかないからである。
労働は、金を儲けること以外に目的も意義もない。
人を指導するのも金のためである。師の恩は、授業料にしか値しない。それでは、人を教導する志を持つことはできない。
志など嘲笑の的でしかない。高邁な理想など一文の得にもならない。人を薫陶するなどというのは、単なる綺麗事よと笑って済まされ。師の行為は尊敬には、値しなくなる。なぜならば、教育は、労働であり、金儲けの手段に過ぎないからである。師弟愛など望みようがない。
仕事に使命、天命など見出せやしない。天職、聖職などありえない。義が消滅すれば、仕事に金をもうける以外の意味はなくなる。
家に義がなければ、家は棄てられ家事など顧みる者はいなくなる。人を育むのも、単なる金儲けの手段でしかなく、労働の対価でしかなくなる。
政治は、世過ぎ身過ぎに過ぎず。世の為、人の為など世迷い言に過ぎない。政治家が国のためなどと言うと真意を疑われる。無償の行為など愚か者のすることである。それが今の世である。
子供の喜ぶ姿も愛する人、感謝の念も、助け合いも愚か者の戯言(たわごと)に過ぎず。金のためならば、家を捨て、子を捨て、親を捨てても何ら責任を問われない。道義心など最初からないのである。金の問題だから、金で済ませればいいのである。家族への愛は、今の世では、心の問題ではない。夫婦関係は、性欲の代償でしかない。愛など求めようがないのである。
それで本当に幸せになれるというのであろうか。生き甲斐はどこに求めるべきなのか。金儲けは生き甲斐にはならない。貧しすぎる。
自由も、平等も義があってはじめて魂が籠もるのである。
今の民主主義は、外見だけで内容がない。肉体だけあって魂が宿っていないのである。つまり、死んでいる。
人は、義によって自由になる。
義のないところに自由はない。
真善美が一体となった時、人は自由になる。
故に、義が求めるのは真善美の一体である。
人は、義に背くと偽悪醜に逃げる。
偽悪醜は人を放逸にする。
自由と放逸は違う。放逸は、自分を失うことである。
人は、義によって自由になるのである。
人は、義によって生かされている。
人は、何ものか力によって以下連れているのである。
その何ものか後からの根源は義である。
人は、義を失えば、人として生きられない。
人は、義によって人として生かされているのである。
義を知る事は天命を知る事である。
故に、義に生きる。
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures
belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout
permission of the author.Thanks.
Copyright(C) 2010.6.17 Keiichirou Koyano