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民主主義を反宗教、反倫理として考える傾向があるが、それは、民主主義と無政府主義を混同しているだけなのである。
なぜ、この様な錯誤が起こるのか。それは、自己の定義が曖昧だからである。
民主主義は、個人主義と自由主義を基盤としている。個人主義と自由主義は、基礎となる部分に曖昧なところがある。それが、民主主義の地盤を脆弱なものにしている。
個人主義も自由主義も自己を基礎とした思想である。つまり、自己の定義が、思想的な基礎を形成している。ところが、この自己の定義が曖昧なのである。だから、個人主義も自由主義もその基盤が脆弱なものとなり、ひいては、民主主義の地盤も脆弱なものになってしまっているのである。
同じ自己中心の思想に、利己主義、快楽主義、刹那主義、功利主義、独裁主義、無政府主義がある。利己主義とは、仮想的な自己、自我を基礎にした思想である。ただ、自分の刹那的な欲望や快楽を追い求めるのが快楽主義であり、刹那主義、功利主義である。そして、利己主義を下敷きにした思想が、独裁主義であり、無政府主義である。
これらの思想には、自己あるようで、実はない。なぜなら、自己だと思っているのは、幻にすぎない。つまり、仮想的自己、自我だからだ。
個人主義に対応するのが利己主義であり、自由主義の対極にあるのが、刹那主義、快楽主義、功利主義であり、民主主義の対極にあるのが、独裁主義、無政府主義である。そして、どれもが対極にある思想に仮装し、仮面して社会に忍び寄ってくる。故に、個人主義社会には、利己主義の影が、自由主義社会には、刹那主義、快楽主義、功利主義の影が、民主主義社会には、独裁主義、無政府主義の影が、潜んでいる。
自由の根本が善と意志、それを、欲望に置き換えれば、刹那主義や快楽主義に変貌する。社会を自分の思い通りに支配しようとすれば独裁主義に陥り、自己以外の全てを受け入れなければ、無政府主義になる。つまり、ある特定の個人の為に社会が存在しているとするならば、独裁主義に、個人の意志のみを認め社会のあらゆる制度を認めなければ、無政府主義なる。
そして、個人主義や自由主義、民主主義の仮面をかぶって、彼等は、民主主義の脆弱な地盤につけ込み、利己主義や独裁主義、無政府主義は、自分の勢力を拡大しようとするのである。故に、民主主義の地盤を強固なものにする為には、自己の概念を強固なものにする必要がある。