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民主主義の本質は法ではない。愛である。
法治主義と民主主義を混同している者が多くいる。民主主義においては、法に違反しなければ、何をしても良いと勘違いしている。民主主義の基礎は、個人主義である。個人主義では、もともと個人の価値観、倫理観に基礎を置いており、法を絶対的なものとは見なしていない。だから、科学でさえ、法則を絶対的な真理とせずに仮説であることを前提にして、論理そのものも相対的なものと位置づけているのである。
個人主義は、人を律するのは、内面の規律であり、外部の規律、即ち、法や掟は、補助的なものにすぎないとする。だからこそ、個人主義や自由主義は、内面の規律を根拠として成立するのである。そして、個人主義や自由主義の土台の上に民主主義は成立している。
民主主義は、内面の規律、つまりは、道徳やモラルを前提としている。というより、前提としないと成り立たないのである。法は、必要に応じて人間と人間との関係を規制し、内的な規律と外的な世界を調和させる為にある。故に、民主主義においては、内なる神を信じ、内面の規律を重んじるから、信教の自由や思想信条の自由が、保証されているのである。
このように、民主主義というのは、個人のモラルを大前提としている。ところが、それを、意図的かどうかは、解らないけれど、皆、忘れている。
個人主義では、内面の規律を最も重んじた結果として、対外的関係を、相互の意志による合意に基づいた法だけに、制約せざるをえなくなったのである。つまり、内面の規律を尊重するが故に、内面の規律は、個人の自由とし、個人の内面の規律を前提として、法による統治を構築したのである。故に、法とは、国家や社会を成立させるために必要な必要最小限の約束事、契約にすぎないのである。つまり、民主主義における法は、最大公約数による最小限の合意を前提しており、万人にわかりやすく、理解できるものである上に、合意を得られる内容でなければならない。そして、法は、個人の意志を補完する存在であり、あくまでも、主体は、個人のモラル、道徳に置かれるべきなのである。
だからこそ、民主主義においては、信仰とモラルが大切なのであり。そしてまた、民主主義においては、教育が重要なのである。そこに、民主主義教育の根源がある。民主主義において、教育が義務になるのは、必然的結果なのである。
個人主義、自由主義、民主主義を一貫して支えているのは、理性と道徳と自制心、そして、主体性である。これらの根源は、他ならぬ、存在の神性である。この存在の神性が失われると個人主義、自由主義、民主主義は、その根拠を失い、効力がなくなる。
現代社会の為政者達や識者が、民主主義があたかも無神論であり、信仰を否定しているかのように捉える。為政者や識者のそのような態度によって、民主主義の魂は失われてしまった。その結果、民主主義は、その本来の効力を喪失してしまったのである。それが、現代社会の病根であり、現代社会の堕落を招いている。個人の名の下に無頼が跋扈し、自由の名の下に欲望が、はびこり、民主主義の名の下に無秩序が支配する。このまま放置すれば、やがて、民主主義は、崩壊するであろう。それは、人類にとてつもない災禍をもたらす。
民主主義の魂は、神聖であり、崇高である。それは、人類の英知でもある。そして、人類の救いでもある。ここに、個人と、自由の名の下に民主主義の魂を、今一度、蘇らせたい。