現代人の最大の錯覚は、全ては、相対的で、客観的な存在だと決め付けていることである。しかも、相対的な事と絶対的な事、客観的な事と主観的な事を対立的に捉えていることにある。そして、それが結果的に無神論に繋がる。
相対的、絶対的、また、客観的、主観的というのは認識上の問題であり、二律背反的なものではなく、相互補完的なものである。つまり、相対的認識は、絶対的認識の上に、又は、絶対的認識を前提として成り立つ概念である。
主観と客観は、依って立つ視点に関わる観念であり、対象固有の属性ではない。
自己というのは、主体であり、自己がする認識は主体的な行為である。自己以外の対象は客体である。即ち、自己の認識を一旦外部の対象にと投影することで客観的認識は成立するのである。
そして、それらの認識の前提となる存在、つまり、自己存在の前提こそが神なのである。この様な観点から否定されるべきなのは、人格神である。神に人格はない。故に、絶対で完全なのである。神に人格を見出すのは、自己の人格の投影に過ぎない。人格を見出した時、神は、相対的な存在となり、不完全な存在となる。つまり、神が神でなくなるのである。
故に、神に人格はない。あるのは、絶対性である。なぜならば、神は、絶対的で完全無欠な存在だからである。
現代社会の問題点は、現代社会から神性が失われた事にある。
神性を否定したところに合理性はない。なぜなら、論理的根拠を失うからだ。
物理学的な法則は、対象の位置と運動と関係から成り立っている。そして、法則が明らかにしようとしているのは、そこから推測される働きである。その対象の存在そのものを考察の対象としているわけではない。その位置と運動と関係の背後にある存在そのものは絶対である。その絶対なるものの根源が神である。故に、神を否定したら、物理学は成立しない。存在そのものが否定されてしまうからである。
存在の根源を突き詰めると神に至る。虚や無、空では、存在そのものに対し否定的になる。神を否定すれば、存在そのものの前提をも危うくなる。それでは、論理の前提を失う。ただ、神の定義によって合理的整合性が微妙に変化する。そこで、近代的合理主義とは、神を前提としながら、神の性格については、言及しないのである。神を信じ、尊び、前提とするが、神には、触れない。なぜなら、神は、伺い知れない存在だからである。だからといって、信じないと言えば嘘になる。論理的前提を失う。だから、大前提は、仮説とし、論理そのものは、相対的なものとするのである。それが科学者の基本的姿勢である。科学的合理精神である。
この様な姿勢は、儒教精神に共通している。
人間の法も同様である。人間の存在そのものを法は、明らかにしているわけでもなく、根拠としているわけでもない。人間の行動と立場と関係から、その人の行為の是非を推測しているにすぎない。それは、人間関係を根本としているのであり、それ以上でもそれ以下でもないのである。つまり、物理学が、物の存在自体を対象としていないように、人間の本源には、法は触れていないし、触れない事を前提としているのである。それが、個人主義の基本姿勢であり、民主主義的合理精神である。
当然、個人主義も自由主義も民主主義も科学的合理主義を基盤としている。
科学は、物事の本質を何も解き明かしては、いないのだ。人間の苦悩の根本である生病老死は、何も解決していない。医学が、いかに発達しても、生命の神秘、人間の命はどこから来て、どこへ去っていくのかは、明らかではない。いくつかの難病の治療法は、解明されたとはいえ、病はなくなったわけではない。人は老い、死んでいくことにかわりはない。
結婚生活は、法によって保たれるのではない。結婚生活は、愛によって支えられるのである。民主主義は、法によって愛の形を規制しているわけではない。また、法によって愛の形を規制することはできない。それが、道理である。
物の存在自体や人間の本源は、神の領域である。その神がどのような存在かは、科学も、民主主義も触れていないし、触れられないのである。ただ、個人の信仰を前提にし、その信仰に対し、どのように関わるかだけを問題にしているのである。それが民主主義である。
民主主義は、信教の自由を認めている。だからといって、神に否定的だというのは、考え違いである。ただ、信じる神によって人を差別しないと言っているだけである。つまり、何を信じるかは、個人の自由だという事である。信仰を重んじるからこそ、信教の自由を認めているのである。
信教の自由には、神を信じる自由と、神を信じない自由とがある。神を信じる自由とは、個人がどの様な神を信じるかは、護身の意志に委ねられているという思想であり、選択の自由を意味する。それに対し、神を信じない自由とは、既成の神のドグマ、戒律からの解放を意味する。旧体制が確立していたヨーロッパでは、主として後者の意味合いが強く。新興国であるアメリカでは、前者の意味合いが強い。いずれにしても信教の自由と言っても二面性があり、一面だけから捉えていてら自由の真の理解は得られないのである。
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