自由について


 

自己善と社会契約


 良しにつけ悪しきにつけ、善悪の判断をするのは、最終的には、自分である。このように、善悪の価値判断は、自己固有の属性である。
 自己は、存在そのものであり、それ以外の何ものでもない。それ故に、自己は絶対的なのである。価値基準は、自己のを肉体を保つために、自己の肉体とと外界との関係によって生じる。故に、価値基準は、相対的なものである。絶対的な自己の存在と価値基準とは、本質が違う。また、価値基準は、自己の肉体と外界との関係から派生する。価値基準は、自己に依存し、価値基準自体が独立して存在しているわけではない。故に、価値基準は、自己の属性なのである。
 自己善、価値基準は、言葉より行為、言動より行動に現れる。なぜなら、価値基準の本質は、行動規範だからである。それ故に、その人の発する言葉よりも行為にこそ、価値観は、現れるのである。
 いくら美辞麗句を並べたところで、その人の本心は現れない。行動を起こしてはじめてその人間の真価が、現れるのである。
 自己は、主体である。価値判断の基準は、自己の主体性を発揮するための基盤である。自己の価値観を決定したり変更する力を失ってしまえば、主体性を保つことはできない。それは、自己の崩壊、自己の喪失につながる。故に、善とは、本質的に自己善以外は、ありえない。つまり、善は自己固有の属性である。
 自己を客体化する事によって個人主義は成立している。このことによって、個人は、自己の属性を基本的に保有している。
 つまり、個人は、すべての存在の前提である。個人は、存在である。個人は、それ自体で存在している。個人は、独立した存在である。個人は、それ自体で完結した存在である。個人は、主体である。個人は、他との関わり合いによって自己を認識する。
 そして、個人主義においては、根本的に自己善を前提とする。
 ただし、絶対的なのは、自己の存在であり、自己の属性は相対的なものである。個人の肉体も価値観も、属性にすぎない。故に、肉体も価値観も相対的なものである。
 これらのことから、モラルや倫理といった価値基準は、相対的な体系であり、かつ、最終的には、個人に帰属する。
 このように、個人主義において、個人を基本単位として価値基準が成立している以上、個人主義の社会は、合意と契約によって形成されいく。もっといえば、合意と契約によってしか個人主義社会は、成立し得ない。なぜならば、個人主義社会において個人の主体を離れたところに、社会正義は、成り立たないからである。基本的なところに、統一された社会正義や規律、秩序が存在しなければ、社会制度の統一性が保たれない。そして、個人の主体性を根本とし、個々人の価値観が独立したものである以上、価値観の統一は、合意と契約以外に成立し得ないからである。そして、このことは、個人主義を基礎としている民主主義においては、基本的な原理となるのである。


善の形成社会性
善と悪

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