エピローグ(法と道徳)

 中国のチベット自治区の近況に対するドキュメンタリーをNHKで放映していた。チベット自治区は、敬虔なラマ教の国であり、多くのチベット人は、自給自足の生活を旨に、貧しくとも信仰に基づいて慎ましく暮らしている。また、中央からの迫害にあっても信仰を捨てることなく、質素な生活をしてきた。ところが最近、鉄道の敷設に伴い、多くの外国資本が入り込んできて、チベット人の生活の在り方を根底から覆そうとしている。中でも貨幣経済の浸透により、それまで、堅固であった信仰生活も変化の兆しが見え始めた。聖なるものとしてきた、仏像やタンカといった物まで換金する傾向が出始めていると報道された。また、本来、慈善事業機関や寺院でなされるべき法要も観光目的でホテルで営まれようとしている。
 暴力による迫害を耐えた信仰も金の前に脆く崩れ去ろうとしている。神や仏と言った、人間が神聖視し、倫理観や社会規範の拠り所としてきた聖なる物や生きてきて記憶、思い出に繋がる品々まで、金銭に換算して止まない。この様な社会は、本当に人々の幸せを実現しうる社会といえるのであろうか。
 一体、人間にとって精神世界とは何なのだろうか。それを捨て去ってしまって良いのであろうか。そして、金の魔力とはいかなるものなのだろうか。金の魔力というのは、考えようによっては、暴力よりもずっと恐ろしい化け物のようなものなのかもしれない。
 制度というのは、人間が生み出した装置である。しかし、いつの間にか人間を支配し、人間の心の奥底まで、蝕んでいるようにすら思える。
 我々は考えなければならない。人の心までも金で買われて良いのか。何が人間にとっての幸せなのか。人間を幸せにする物は何なのかを・・・。さもないと、我々は醜い妖怪のようなものに変じてしまうだろう。

 近代という時代は、契約の概念に基ずく時代だと言われている。では、契約の概念とは何か。それが日本人は、よく理解していない。日本人の考える契約というのは、基本的に人と人との契約である。そこに神が介在したとしても絶対的ではない。多神教徒である日本人にとって神は、唯一絶対なる存在ではない。ところが、近代という自体を形成した契約概念の根本は、唯一絶対なる存在を介してなされる契約である。つまり、一神教的神に対する信仰を基礎とした契約なのである。自分が契約しようとする人間は、不特定多数であり、その一人一人を確認し、信じる事は、物理的に不可能である。しかし、一神教徒の信仰を信じる事はできる。その不変的信仰心を前提とすることによって、契約は成り立っているのである。つまり、神に対する誓約が契約の大前提である。(「聖書の常識」山本七平ライブラリー15 山本七平著 文藝春秋社)
 それは、契約社会は、唯一絶対なる存在を前提として成り立っていることを意味する。法も例外ではない。例外どころか、法こそが近代的契約主義の権化である。無神論的な社会、多神論的な社会を前提として成り立っているわけではない。それを戦後の日本人は理解していない。戦後の日本人は、唯物論的世界観のドグマに囚われ、相対的、客観的実在を前提として近代社会が成り立っていると錯覚している。それが道徳の不在、道徳の否定に結びついている。そして、法の根本から、道徳性や神性を排除しているのである。しかし、法の根本は、本来、神聖なのである。

 一神教との契約は、神掛けて行うのである。だから、裁判でも、議会でも、宣誓の下に成立するのである。彼等にとって法の正義とは、神の正義である。それは、神は、唯一の存在だと信じているからである。日本人のように、八百万の神ではないのである。神に背くことは許されない、救いがないことなのである。一神教徒にとって神は、選べないのであり、他には、存在しないのである。だから、駄目と決められた事は、何が、何でも駄目なのである。そのことを日本人は理解していない。少しぐらい許されるだろうと言うのは、浅はかなのである。一神教徒にとって禁忌、タブー、絶対的である。
 ヒンズー教とは、牛肉を食べないし、ユダヤ教やイスラム教徒とは、豚肉を食べないなど、現代でも多くの人々は、宗教的戒律を守って生きている。それは法と同じなのである。そして、倫理でもあるのである。
 日本人は、思想信条の自由を、思想信条の否定と錯覚している。思想信条の自由、即ち、個々人が独自の思想、信条を持つことを前提とし、尊重するが故に、制度上に反映しないのであって、思想・信条を認めない、又、均一だという前提にたっているわけではない。信仰を持つことは、迷信ではないのである。

 戦後生まれの世代は、倫理観が欠如した世代と言ってもも良い。確かに、倫理観が全くないのかというと、そうとは言い切れない。しかし、戦後世代の倫理観というのは、外形的倫理観であったり、客観的倫理観であったり、唯物論的倫理観である場合が多い。しかし、倫理観というのは、本来内在的な基準であり、主観的な価値観であり、内面的、心的な規範でなければならない。
 つまり、倫理の持つ役割は、自己の行動の制御にある。内面に根ざし、主観的な規範でなければ、自己の自律的な行動を制御することができない。
 外形的な規範というのは、見栄や外聞と言った外から見た場合の外形的な基準である。又、豪邸に住んでいるとか服装と言った外見による基準も外形的な基準である。また、客観的基準とは、学歴、地位や名誉、家柄と言った基準である。又、唯物的基準とは、収入や財産といった基準である。この様な外形的基準というのは、本来倫理とは相容れない、対極にあるものである。倫理の基準を外に求めれば、自己の喪失を招き、自分を制御できなくなるからである。
 地位や財産が道徳の基となれば、欲望は際限なくなり、自分を見失わせてしまう。結果は、自己の破滅である。本来なら、その様な基準が倫理的基準になりようがない。ところがその様な基準があたかも倫理的基準であるように、振る舞う事が、現代社会の病理なのである。

 日本人は、第二次世界大戦の敗戦により、暴力的に、それまで固く信じていた倫理観を全否定され。その上で、それまでと百八十度違う倫理観を刷り込まれたのである。その時に、日本人の倫理観に重大な断然が生じた。特に、思春期において強制的に転向させられた世代には、重大な瑕疵が生じた。
 この倫理観の断絶によって日本人は、日本人固有の倫理観に対する自信を喪失した。その影響が顕著に現れたのが教育である。そして、その倫理観の伝承を怠ったのである。つまり、自信を持って子供達に道徳教育や、躾(しつけ)ができなくなったのである。その結果、外形的な価値基準しか持てなくなってしまった。また、その空白期に入り込んだのが唯物的価値基準である。

 現代日本人にとって、自由と言い、民主と言っても借り物の価値観に過ぎない。だから、自由主義も、民主主義も、自分達のものとして消化できずに、必然的に制御できず、振り回され続けている。意味もわからずに、自由、民主と振りかざし、日本人が大切にしてきた伝統や文化を、徹底的に破壊し尽くしている。

 倫理観は、幼児期に親、特に母親から刷り込まれるものである。幼児期に刷り込まれた倫理観に対し、需要と反発を繰り返しながら、自己の倫理観を形成していく。
 自由にしろ、民主にしろ、まず、そこに何等かの倫理観があってはじめて確立される。その原初的な道徳観を植え付けるのは、母親最大の使命である。母親からその自信を奪い、あげくに、確たる倫理観すら喪失させたら、その国の文化は、絶えてしまう。

 更に深刻なのは、道徳観が欠如した世代が子育てをしていることである。反権威、反権力思想が反倫理主義結びつくのは容易かった。一度、道徳に反する行為を行えば、歯止めがなくなる。そして、暴走する。自己を抑制するものがなくなるからである。行為が、後戻りを許さないからである。その様にして、道徳観を失った者は、自分すら許せなくなる。その世代が子育てをする世代になった。ネグレクトや虐待がおさまらないはずである。

 道徳観の喪失における深刻な問題は、否定すべき価値すら持てないと言うことである。親が自信を持って自分の価値を子供に刷り込む。子供は、その刷り込まれた価値と、自分の経験や得た知識との葛藤を通じて自分の内面の価値観を築き上げる。いわば親が子に対して与える価値は、その核である。否定すべき価値もなければ、人は、自己の内面に固有の価値体系を築き上げることができなくなる。それは自己の喪失であり、主体性の崩壊を意味する。自律的な人格形成の重大な障害となる。

 倫理観が欠如している故に、人間の異常な行動や犯罪行為は、倫理的な行為として捉えずに、心理学的な行為として捉えようとする傾向がある。
 犯罪の成立も倫理観に依ってではなく、精神状態によって判定しようとする。そのくせ、病理学的に判断することを忌避する。なぜか、個人のプライバシーだと言う。その場合も、個々人の倫理はまったく問題にされない。人間性を信じるのだとも言う。しかし、その人間性という概念もあやふやである。これでは、犯罪の持つ真の動機は解明されない。

 法は、その本質が規範である。規範である以上、倫理的な要素を多分に含んでいる。法こそ、基本的に外形的、客観的、唯物的な規範である。つまり、法と倫理は、表裏をなすものであり、補完的な基準であり、一体的なものである。

 国民国家において制度は肉体である。その魂は、国民一人一人の倫理、道義心による。国民一人一人から、倫理観、道義心が失われれば、国民国家は、ただの骸(むくろ)となり死に絶えるのである。

 差別は、外形的なことである。内面的規律によれば差別はなくなる。なぜならば、自己は、唯一の存在であり、一体的な存在だからである。

 我々は、考えなければいけない。なぜ、イギリスやアメリカが、コモン・ローの世界にいるのか。フランスやドイツが、シビル・ロー、大陸法の世界にいるのか。その根本は、国民一人一人の意識が横たわっている。それがなければ、自国の独立などあり得ないことを彼等は良く知っているのだ。
  法は、絶対不変なる精神、心理、存在を信じる事によって成り立っている。日本人は、その正義を司る何ものかを信じる心を失った。正義を司る絶対不変なるものを信じ受け容れられるからこそ法の正義を信じる事ができる。なぜならば、法の正義は、法として書かれた条文にあるのではなく。正義を信じる国民一人一人の意識の中に存在するからである。それが、国民国家をも成立させた法の精神である。
 その好例がスイスである。日本は、戦後、東洋のスイスになれなどと煽(おだ)てられた。しかし、スイスには、スイスの歴史がある。スイスには、スイスの苦悩がある。その現実を見ずにただ、外見だけを見習ったとしても滑稽なだけである。それは悲劇を通り越して喜劇になってしまう。スイスは、スイスの抱える矛盾や苦悩を引っ括(くる)めた現実の全てを受け容れてはじめて、スイスの理想が透け見えてくるのである。
 我々は、考えなければならない。透徹した目で、我々の未来を、そして在るべき姿を、その根底にある我々の歴史について・・・。





        


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