権     力

 国家組織とは、権力機構である。権力とは、強制力である。強制力の根源は暴力である。故に、暴力を抑制することが制度の基本的機能となる。

 権力は、暴力だと思っておく必要がある。人間は、権力を怖れなければいけない。権力は、エネルギー、力(power)である。エネルギーは、危険物である。上手く活用できれば絶大な効果を発揮する。しかし、むき出しのままでは、人を傷つける。それを制御する装置があって活用できるのである。その装置が制度である。
 法の正義と言ってもその根拠は国家権力から発する。つまり、根本に暴力がある。故に、それを行使する場合には十分に注意が必要なのである。

 その暴力性が、遺憾なく発揮されるのが、冤罪事件である。冤罪ほど国家権力の暴力性が、露骨に、発揮され行為はない。しかし、一方において治安と秩序は維持されなければならない。その背反的な作用が国家権力にはあるのである。つまり、国家権力は両刃の剣なのである。

 権力の交替は、本質的に、権力闘争による。それは、選挙であろうが、暴力革命であろうが、その基本は権力闘争である。その闘争が、ルールに基づくものであるか、無法なものであるかの違いに過ぎない。いずれにせよ権力利口対は、権力闘争の形をとる。

 権力の本性は基本的に暴力であって、正当性はない。権力に正当性を与えるのは権威である。権力自体に正当性を求めるのは愚かである。エネルギーは、エネルギーである。手段・道具に過ぎない。包丁は、包丁である。包丁も使い方によっては、料理をする道具にもなるし、又、凶器にもなる。しかし、包丁そのものに罪があるわけではない。権力も然りである。正否善悪は、それを用いる側の問題である。

 国家権力を成立させるのは権威である。権威とは、象徴である。権威が国家権力の正統性を裏付けている。人は、権力に服従するのではなく。権威に服従するのである。しかし、権威には、統制力、実力がない。故に、権威は、権力を、権力は権威を必要とするのである。

 権力を正当化するのは、権威である。しかし、権力を受け容れるか、容れないかは、国民の自由意志による。国民が権力を受け容れるためには、その時の国民が、正当だと受け容れるための理由や大義がなければならない。それを裏付ける象徴が権威である。

 かつては、この権力の裏付けは、宗教的権威によってなされていた。宗教的権威が世俗化するに従って、憲法がこれに変わった。憲法が、権威になることによって、法が権威となり、法治主義が確立されるのである。

 権力闘争の場で、権力の正統性を争うのは笑止である。最終的に権力を奪い取る力は、暴力である。権力の本性が暴力である以上、権力そのものに正当性などない。権力そのものの本性は暴力だからである。

 権力そのものには、正当性はない。権力は暴力だからである。故に、権力だけでは、権力を維持することはできない。権力が権力機構を維持するためには、権力の裏付けとなる権威が必要となる。

 権威とは、国民や民衆を統一、統合するための象徴である。又、大義である。この様な権威の保障があってはじめて権力は成立する。

 又、権力者と権威者が対立関係に陥ることがある。その時、権力は危機的状況に陥る。幕末の幕府と朝廷の関係が好例である。
 欧米においては、世俗的権力と宗教的な権威の対立が近代社会の下地を形成した。そして、世俗的権力と宗教的な権威の対立の中で近代市民階級が止揚したのである。

 権力と権威が未分化に体制もある。しかし、その場合でも、権力派も権威の裏付けを必要とする。それがあからさまに現れるのが権力の継承時と交替時である。
 ただし、権力と権威が一体となると権力が絶対化する危険性がある。この様な体制では、権力者は、超越的存在となり、無法者になる。この場合の無法者とは、超越者、法をも超越した存在と言う意味である。この場合、庶民にとっての法は、御上から与えられた恩恵でしかない。法は、人民を守るためのものではなく。人民を統治するものでしかない。制度は確立されずに、慣行に支配される。つまり、法より、礼の方が権威があるのである。

 日本の統治機構は、かつては、権力者と権威者が明確に分離してきた。それが一体となったのが、戦前の大日本帝国である。
 しかし、たとえ、権力と権威が一体だとしてもその果たす機能は別である。

 簒奪者は、権力を奪うために、権力者の正統性を否定し、奪い取ろうとする。その為に、時の権力の背後にある権威を傷つけ、新たな権威をうち立てようとする。

 権力に服従するか、しないかの国民が、その時の国家権力を受け容れるか、受け容れないかである。時の権力を受け容れるか、受け容れないかの選択は、国民の自由意志によるのである。その時の権力を受け容れなければ、権力闘争になるだけである。

 我々は、民主主義を絶対視するために、権力の本性を見落としがちであるが、民主主義であってもその本性に変わりがあるわけではない。
 民主主義体制だからと言って国民の権利を侵さないという保障はどこにもない。その証拠に、ヒットラーと言う独裁者を生み出したのは、ワイマール憲法下のドイツである。また、民主化を標榜し、国民を解放したはずのイラクの政情が定まらないのは、民主主義体制が絶対的でないことを証明している。

 国家権力と国民は、常に対立関係にあるわけではない。むしろ、通常は、国家権力と国民は、協調関係にある。国家権力と国民が対立関係におちいるのは、国家権力が国民の権利を侵害した場合と国民が、国家権力の統制を乱した場合である。

 近代国民国家における権威は、憲法である。つまり、近代国家権力は、憲法によって権威付けられている。

 かつて、「俺がルールだ」と言い放った野球の審判がいる。権力者とは、本質的にこの野球の審判と同じである。権力者は、無礼だと言って無法を働くものである。つまり、権力者にとって法は、権力者自身なのである。つまり、権威なき法は、権力者の道具に過ぎない。権威がない法を守らせるのは、権力者の暴力である。

 しかし、近代法は、権力者をも従わせる。それは、法に権威があるからである。

 「朕は、国家なり」である。この様な権力者を抑制するために、近代法は、成立した。そして、法が権威として権力を超越した存在として権力が認めているかぎりは、権力は、その正当性を法の権威によって保障されているのである。当然、権力も法に従わなければならない。

 全体主義国においては、この関係が成立していない場合が多い。つまり、権力が法の権威を超越しているのである。その場合は、法よりも権力者に対する礼の方が重んじられるのである。ただ、その場合でも法に変わる権威は存在する。

 法に権威がなければ、礼の方が法より優先する。法が制度して確立する以前の世界では、法より礼や慣行の方が権威があるのである。

 近代法は、権力者の横暴から国民を護る目的から欧米において成立した。それは、権力者と権威者は、一体として見なしていないからである。その為に、権力者が絶対化しえなかった。絶対主義、絶対王制が維持しえなかったのである。
 それに対し、欧米以外の国においては、権力者に対抗する宗教的権威が存在せず。権力者が絶対化しやすかった。
 日本人の法に対する従来の考え方の根本は、法は御上が人民を支配するための道具だという考え方である。それは、日本人が法の背後に権力を認めても、権威を認めないからである。こうなと近代法は成立しない。なぜならば、近代国家は、法が権威でなければ成立しないからである。

 権力は腐敗する。特に、絶対的権力は腐敗する。制度の老朽化や自浄能力の喪失すれば民主主義であっても腐敗する。アリストテレスをはじめ、古代の哲学者は、民主主義だといっても例外視はしなかった。むしろ、民主主義が腐敗したときの方が弊害が強いと考えていた。

 近年は、政治的権力や権威に経済力が加わってきた。つまり、経済力が政治的権力を上回ってきたのである。それが政治的権力の腐敗を促している。

 権力が腐敗したら、権力に抵抗する権利がある。それは、権力は本質的に暴力だからである。権力に対する抵抗権は、常に認められるべきである。国家権力を選択する権利、国家選択の自由は、保障されなければならない。なぜならば、権力は暴力だからである。国家権力がその暴力性を剥き出しにし、個人の権利が危機に瀕した時は、他国を選択する権利がなければ自分の身を護ることはできなくなる。

 権力が腐敗したら、制度は改革されなければならない。国家制度も長い時間がたてば、老朽化し、利権や格差が澱のようにたまる。この様な制度的な歪みは、制度そのものを変革しないかぎり、改善できない場合も生じる。

 格差は、どこの社会にもある。と言うよりも、人は格差によって他と自分とを識別し、認識する。しかし、制度が老朽化すると制度が格差を保障するようになる。こうなると、民主主義といえども権力は横暴になる。この様に格差を制度が内包するようになると厄介である。制度が格差を固定してしまうからである。格差が固定されると階級が生まれる。

 階級というのは、基本的に民族問題や宗教問題、人種問題を含んでいるものである。階級は、水平的、垂直的対立を内包し、それを制度的に固定化した体制である。それ故に、常に、階級間は、緊張状態におかれる。それが極限に達すると紛争が始まる。

 もし、権力が暴力的に国民の権利を奪おうとしたら、国民は武器を持って戦う権利、すなわち、革命権がある。それは、それ以外に国民が人間としても尊厳のみならず、生存をも脅かされるからである。

 国民は、権力者に倫理観を期待すべきではない。権力者に国民が期待すべきなのは、公益、国益である。なぜならば、倫理というのは私的なものであり、また仮に、倫理観なき権力者が出た時にそれを抑止する術を失うからである。例え、倫理観なき権力者が出現したとしてもそれを抑止する制度があればいいのである。なまじ権力者に倫理観を期待するから、権力が暴走するのである。だからこそ、アメリカでは、大統領の任期を制限しているのである。
 国民が期待すべきなのは、権力者個人の資質、人間性ではなく。制度の持つ抑止力なのである。そして、権力者に要求すべきは、公益、国益の追求なのである。




        


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