場の理念

場とは何か


 よくその場の雰囲気とか、力に支配されるなどと言う。場の力は侮れない。革命や戦争という惨禍の中には、後世、考えると、その時代や社会が作り出す場の力押し流された結果だとも言える例がよく見受けられる。
 また、株の暴騰や暴落、恐慌、バブルといった現象も市場という場の力によって引き起こされていると思われている節がある。おかしい、おかしいといいながら、その時の勢いに抗しきれずに、破滅への道を押し進んでしまう例が多く見られる。熱狂は場の力が生み出すエネルギーに根源がある。
 しかし、では何が場の力かというと判然としてものが多い。

 幾つかの座標軸によって区切られた場所を空間という。何等かの力によって満たされた空間を場という。力は、作用を引き起こす原因である。

 空間は幾つかの場が重層的に重なり合ってできている。個々の場に働く力は、それぞれ独立した法則に従っている。
 個々の場を結び付けているのは、個々の場の力の作用を受けているものである。故に、場には階層がある。

 場というのは、何等かの作用、力に満たされた空間である。
 即ち、場は、空間と力からなる。
 場に働く力は、一様均一な力とされる。故に、場の力で重要なのは、水準である。場の力が一様であるから、問題になるのは、場の歪みである。
 場に作用する力、作用には、方向と量(強さ)がある。この様な場の力は、流れを作る。

 場の力は、放置すると一定の安定した状態に戻り、その状態を保とうとする。安定した状態とは、力が一様に働いている状態である。熱力学で言うところのエントロピーである。

 重層的に重なり合った場から構成される空間には、階層がある。これが空間の階層性である。

 インターネットが作り出す場にも階層がある。
 インターネットの階層は、第一層が物理層、第二層がデータリンク層、第三層が、ネットワーク層、第四層が、トランスポート層、第五層が、セション層、第六層が、プレゼンテーション層、第七層が、応用層に区分される。
 この様な区分は、経済の階層にも応用が出来る。

 産業空間を構成する場には、第一層の物理的場があり、第二層に貨幣的な場がある。第三層に人的な場がある。また、それぞれの場は、基盤的(インフラ・ストラクチャー)場。ネットワークの場。法が作り出す場、市場の場。構造体・共同体の場からなる。
 物理的場から言うと、先ず、道路、鉄道、港湾、空港、ダム、通信設備、情報設備と言った設備によって形成される場。それから、交通網、通信網、情報網と言ったネットワークや制度が作り出す場。道路交通法や通信法などと言う法が作用する場、そして、情報交換や物流と言った取引が形成する場があり、それから、個々の機関が作り出す製造設備や店舗と言った固有の場がある。
 貨幣的な場は、現金、貨幣、有価証券、国債と言った要素や会計制度、外国為替制度、税制度、貨幣制度と言った制度的基盤によって形成される場、金融ネットワーク、国際決済ネットワークが作り出す場、証券取引法、外為法、商法、税法と言った法や基準が形成する場、そして、金融市場、為替市場、資本市場と言った市場が形成する場、銀行、保険会社、証券会社、企業、国家、家計といった経済主体が作り出す内的場がある。
 人的な場には、言語、宗教、風俗、習慣、教育、価値観と言った文化的、また、身体的能力、知識、経験、技術と言った人間としての能力によって形成される場、人間関係や組織間、国家間、家族間に派生する関係や制度が生み出す外的場、民法や刑法、商法と言った法によって作り出される場、そして、労働市場によって作り出される場、家族、企業、公共自治体と言った組織、共同体、固有の規律や規則、仕組み、制度によって作られる内的場がある。

 経済的な場には、生活の場、仕事場(職場)、市場などがある。そして、それぞれに独自の規範による力が働いている。
 経済的な場には、第一に、物理的な場があり、インフラストラクチャー(ガス、水道、電気、石油、交通網)を形成している。第二に、文化的な場があり、言語、教育、道徳と言った社会の基礎を形成している。第三に、貨幣的な場があり、会計や金融制度、為替制度などの土台を形成している。第四に、法的な場があり国家制度、国際制度、法体系などを形成している。第五に、組織な場があり、企業や国家、家族などの組織を成立させている。これは、経済単位の基礎を構成している。第五に、情報の場があり、情報網やインターネットなどを構成している。第六に、取引の場があり、市場を形成している。

 場は、存在物によって結び付けられている。存在物の位置と運動と関係によって、場は構成される。また、存在物は、事象として現れる。
 この様な存在物の位置や運動や関係は、認識の必要性から生じる。
 故に、場における事象は相対的なものであり、位置も運動も関係も相対的なものである。
 事象には、全体と部分がある。

 場の力の中で全体は構成される。場の力によって部分は、位置を与えられ、変化の力を与えられ、関係を作られる。
 
 空間の内部にある事象の全体は、全体を構成する部分の位置と運動関係によって成り立っている。
 場の力だけでは、個々の部分の位置と運動と関係を維持することは出来ない。全体を保存するのは、構造的作用である。

 たとえば、国家は、物理的な場、社会的な場、政治的な場、経済的な場、個人的な場から構成されている。これらの場を結び付けているのは、個人である。
 そして、国家を成立させているのは、法と制度と国民である。法は、場の力を作り、制度は、国家全体を作り、個人は、部分を構成する。この三つの要素が調和する事によって国民国家は成り立っている。この調和が崩れた時に、国民国家は崩壊する。

経済的な場


 経済的場は、人的空間であり、人為的場である。

 経済は、物理的場とは違う。人為的な場である。人為的に範囲を特定し、合意に基づいて形成された場である。場に働く作用も法的な作用である。つまり、人為的に強制されて働く作用である。その点を忘れてはならない。無為にしてできる場でも、制御される場でもない。経済の場は、人為的に制御される場である。

 スポーツは、人為的場によって成立している。人為的場は、その効力が及ぶ範囲を人為的に確定する必要がある。範囲は、時空間的なものである。野球で言えばフィールドである。フィールド内では、ルールは生きている。そして、フィールド内において野球はゲームとして成立するのである。
 国家は、人為的空間であり、法や制度が作り出す場である。日本の法は、日本国内でこそ有効なのである。つまり、空間的な範囲が決められている。そして、法には、始まりと終わりがある。法の始まりと終わりは、手続によって決まる。つまり、法には単位があるのである。

 経済の場は、そこに働く力によって物的な場、文化的な場、貨幣的な場、法的な場、組織的な場、情報の場、取引の場からなる。物的な場に、働くのは、物理的法則である。貨幣的な場に働くのは、会計制度や為替制度の基準や原則である。法的な場に働くのは、商法や証券取引法のような法である。組織的な場に働くのは、規則である。情報の場に働くのは、インターネット上の規制である。取引の場で働くのは、市場の原理である。

 物理的場には、交通網の様な構造がある。文化的な場は、言語や行動規範、教育などを司っている。貨幣的な場には、会計制度のような体系がある。また、金融制度のような制度がある。法的場には、国法や国際法という制度がある。組織には、組織制度がある。情報には、インターネット、情報網がある。取引の場には、市場網や市場制度がある。

 経済的場は、市場と共同体によって構成される。そして、それぞれの場は独立している。
 市場は、人的市場、財的市場、貨幣的市場の三つの場から成っている。経済主体は、企業、家計、財政である。

 よくこれだけの金があれば、何万人もの生活費となり、多くの人が救えるという者がいるが、その多くは、錯覚である。人の生活を良くするのは金ではない。現実の物である。貨幣は、その物を分配する上での道具に過ぎない。最終的には、その物を必要とする者の数とその物が現在どのくらいで廻っているかの問題になるのである。そして、貨幣の問題とは、財を必要とする人に、必要なだけの貨幣が行き渡っているかの問題なのである。財と通貨の均衡が崩れるとインフレーションやデフレーションの原因となるのである。

 市場に生起する現象というのは単純ではない。市場の流通する通貨の量によって引き起こされる物価の乱高下もある。また、財の量、需給の不均衡が引き起こす物価の変動もある。所得や費用の高騰によって引き起こされる物価の上昇もある。実際は、貨幣的場の圧力や作用、物的場の圧力や作用、人的場の圧力や作用が複合して現象を引き起こしている場合が多い。

 経済は、分配と労働である。その分配と労働を担ってきたのは、経済単位である共同体である。
 しかし、共同体にも限界がある。その限界を補完してきたのが市場である。
 共同体は、基本的に意志の疎通がとれる範囲内でなければ有効に機能しなくなる。第一に垂直に階層化し、組織としての効率、分業が困難になる。第二に、全体が大きくなると、管理機構が増殖し、複雑化する。結果的に、統制がとれなくなり、制御ができなくなるからである。第三に、全体の意思の統一が図れなくなる。その為に、疎外される者が出る。第四に、機構が、画一的で統制的になり、強権的になる。その結果、第五に、個人の意志が抑圧されるようになる。
 故に、共同体は、適正な規模を維持する必要がある。そして、共同体の規模を維持するために生じる共同体間の隙間を埋めるのが市場である。

 市場は、本来、生活の外にある場である。生活の土台は、家族や企業と言った共同体の内部の場にある。それ故に、経済の基本単位は、家計、経営主体、財政に置く。いわば、経済単位は、市場という大海に浮く島である。
 市場という大海が共同体という経済単位を呑み込もうとしている。そして、その為に、市場も共同体もその働きを失おうとしている。市場か、共同体かではなく。それぞれが、構造的にそれぞれの役割を果たすべきなのである。

 経済的な場には範囲がある。範囲は、経済単位によって仕切られている。つまり、家計は世帯であり、経営主体は企業であり、財政は国家である。市場は、その機能によって範囲が特定されている。

 人為的な場は、連続しているとは限らない。不連続な場もある。不連続でも全体を一定の水準に保とうとする力は常に働いている。為替が典型である。

 市場は、前提や制約条件、仕組みによって形成される。人為的場の力は、前提や環境によって成立し、制約条件や仕組みによって制御される。

 何でもかんでも保護主義的政策を悪いと決め付けることはない。保護主義的政策とは、報復的な関税、異常に高い関税によって他国の商品を閉め出し、市場を閉ざすような政策ばかりを指すわけではない。

 また、景気の悪化は、自国の産業の競争力が゜失われることに起因されるみらる。しかし、競争力の低下は、過当競争のみを原因としているとは限らない。為替の変動や原材料の高騰などの防ぎようのない原因によって起こることもあるのである。つまり、何等かのハンディーに原因することがあるのである。

 市場は常に、外的変動に曝されている。外的な条件の急激な変化に対する対策として保護主義的対策を採用することは、間違いではない。しかし、絶対という政策はないのである。絶対にいけないという政策もない。政策というのは、相対的なものである。

 市場の機能を維持するために、重要なのは、変換と制御である。市場は、常に、内外の圧力に曝されている。市場取り巻く環境は、絶え間なく変動している。その環境の変化から市場を保護しないと、市場の内部の世界、経済は、崩壊状態になる。

 市場以外の要素によって、価格を決める事も可能だが、その場合は、経済力以外の働き、即ち、政治力の方が強くなる。市場という機能を除くと統制的な仕組み、つまり、組織的に決めざるをえないからである。

 貨幣による市場価値は、銀行が創造しているのではなく。銀行は、貨幣価値を媒体として信用を供与しているだけだと言う見方も可能である。貨幣というのは、その根底に信用制度がなければ成立しない。その信用を裏付けている機構が金融機関であり、国家である。

 市場と共同体との境界線が曖昧になりつつある。
 市場を規制しているのは、道徳律ではない。つまり、不道徳な世界である。それが市場を蔑視する原因ともなる。しかし、それは、市場の機能が、共同体の機能と違うからであり、それぞれが自分達の領域を守り、お互いの領域を侵さない限り問題はない。
 市場の原理である。基本的には、取引の決まりであり、契約であり、競争の原理である。そして、貨幣価値を基準としている。
 問題なのは、市場経済の発達に伴い、お互いの境界線が曖昧になってきたことである。そして、それが市場の機能と共同体の働きを狂わす元凶となっている。

 市場の機能は、本来交換にある。しかし、交換価値が敷延化されて価値そのものを支配するようになってきたのである。その為に、貨幣価値が絶対的価値と錯覚されるようになってきた。市場価値、貨幣価値は相対的な価値であり、本来は、市場内部においてその効用が発揮される。それが価値全般に優先するようになると共同体まで支配されることになる。そうなると道徳律が貨幣価値の下位に置かれることになる。

 市場というのは、本来的に不道徳な場である。貨幣価値が全てに優先する。故に、快楽を貪り、酒を飲み、遊郭で遊び、博打が流行る。金が全て。金、金、金の世界である。
 しかし、生活の土台である、生活の場である共同体に働くのは、道徳律である。その共同体に市場が侵略すると必然的に道徳は乱れることになる。

 共同体の崩壊は、道徳の崩壊でもある。
 共同体に働く規律は、市場の規律とは次元が違うのである。これは、組織、つまり、国家や企業の内部に働く規律とも違う。労働市場と言うが、それは、共同体外で働く作用であって、組織には、組織の規律がある。そこに、市場の原理を持ち込むと組織が成り立たなくなる。市場の原理で組織の効率や生産性のみを追求すると人間関係としての組織は成り立たなくなる。人間の社会は、合理的、能率的な人間だけで構成されているわけではない。また、人間の能力や性格は均一ではない。一人として同じ人間はいないのである。人間を一つの部品としてみることはできない。人間は個性的なのである。それぞれの個性に応じて役割を分担するのは、市場の原理ではなく。組織の論理である。劣っている人間だからと言って市場の原理で切り捨てることはできない。それは不道徳なことである。
 また、組織に働く作用は、統制的作用であり、競争を主体とした作用とは異質である。確かに、組織内における競争作用はあるが、それは、市場における競争とは質が違う。何等かの評価基準に基づくものであり、統制的なものである。さもないと、組織は、凝集力を失う。また、評価基準は、分配を目的とした体系である。原則、需給を基準としてはいない。
 市場の原理は全てではない。

 組織には、組織の場があり、そこに働く作用は、市場の作用とは違うのである。

市場(取引の場・交換の場)


A 市場取引と貨幣の働き


 先ず、貨幣は、人的概念であり、貨幣を基礎とした、金利、利益、所得、価格も人為的概念であることを確認しておく。
 豚に真珠、猫に小判と豚や猫を馬鹿にするが、本当の価値を知っているのは、人間なのか、豚や猫なのか。少なくとも、真珠や小判で、豚や猫は、殺し合いをしたりはしない。人は、パンのために生きているのではなく、人が生きるためにパンが必要なのである。

 表象貨幣とは、名目的貨幣である。名目的貨幣は、貨幣そのものに実質的な価値はない。名目的貨幣は、その時の貨幣価値を指し示す物である。
 表象貨幣は、それが発行されると同量の債権と債務を生じる。債権と債務の関係は、作用と反作用である。表象貨幣は、発行者に回収されることによって清算される。即ち、表象貨幣によって発生した債務・債権、信用は、発行元に回収されたときに解消される。故に、通貨の流量は、表象貨幣の発行元によって管理される。

 表象貨幣を考える場合、重要なのは、最初に何を担保としているかである。現在の貨幣経済が成立する時に、担保したのは、金、銀といった希少金属と、国債と言った国の借金と税である。そして、その担保した金の出所は、戦争による賠償金と植民地からの金・銀である。
 よく物語や映画に財宝が出てくるが、その時、頭に思い描くのは、金、銀、財宝であり。その金、銀というのは、主として金貨、銀貨、特に、金貨である。この事が何を象徴しているのか。本来、我々が一般に財宝として考えるのは、金貨である事を象徴している。
 また、借金と言っても返すあてのない借用証書を力ずくでおいていったようなものである。例えば、アメリカの南北戦争時において、兵隊に対する支払を支払証書で行った。それが、紙幣の始まりだといわれている。
 早い話、支払義務を、国家権力が裏付け保証をしていたのが、表象貨幣の始まりである。れも支払不能になると反故にされた場合が多々あった。
 紙幣は、成立時点で、借金、略奪、搾取、支配と言った事象によって成り立ったのである。それは、紙幣が時としてむき出しにする本性でもある。

 国債の働きを、ただ、国の借金としてしか捉えられないとしたら、それは間違いである。国債を負の作用だけで見るべきではない。国債には、信用を創出するという作用や資金を調達するという働きがある。更に、通貨を発行するための根源でもある。
 つまり、国債は、通貨を制御するための重要な手段ともなるのである。問題は、国債を発行する際の財政規律である。国債が悪いのではなく。国債を無原則に発行することが悪いのである。
 国債は、財政破綻の補填という機能よりも通貨の制御するための手段と言う事の働きの方が重要なのである。問題なのは、財政が国債本来の機能を阻害することである。財政の規律があって国債は正常に機能する。故に、財政の赤字が問題なのではなく。財政の赤字によって国債が本来の機能を発揮できなくなり、経済が混乱することなのである。

 国債は、紙幣の根源だとも言える。

 紙幣には、常に、戦争の臭いがつきまとっている。イギリスが国債を発行し、それを担保に紙幣をイングランド銀行が発行した際もイギリスとフランスの長期の戦争が原因とされている。(「国債の歴史」富田俊基著 東洋経済新報社)また、日本の紙幣の基礎となった金は、日清戦争における賠償金を基としていると言われている。(「貨幣の経済学」岩村充著 集英社)また、アメリカの紙幣の始まりは、南北戦争時における兵士への支払証明書(グリーンバック)だと言われている。いずれにしても、紙幣は、戦争という人類の惨禍を根底に抱いているという事を忘れてはならない。紙幣の成り立ち、暗部を直視しない限り、近代貨幣経済の問題点は解決できない。
 もう一つ言えることは、戦争というのは、一時的に消費と生産が爆発的に拡大する現象でもある。それが貨幣経済を成立せしめた要因の一つでもある。

 成熟した市場では、金があっても使わなくなるか、使っても無駄遣いする。貨幣が退蔵されるようになると、通貨の流通、通じが悪くなる。また、無駄遣いは、市場に偏りを生じさせ、市場を歪めてしまう。

 貨幣の特性の一つに蓄積性がある。つまり、貨幣は、必要以上に流通すると貯蔵される正確がある。貯蔵されるというのは、退蔵されることを意味する場合もある。
 一般には、通貨が過剰に供給されるとインフレを引き起こすと想われているが、それは、物的市場と貨幣的市場が相互に作用することによって起こる現象であり、通貨の流通量と言う一面から判断されることではない。
 財が不足している時に貨幣が過剰に供給されれば、インフレを引き起こすが、市場が過飽和な状況では、貨幣は、退蔵され、必ずしもインフレを引き起こさない。逆に、市場が過飽和な時は、買い控えを呼んでデフレに陥る場合すらある。

 貨幣価値は、貨幣を所有しているだけでは、発現・実現しない。表象貨幣の貨幣価値は、貨幣が使用されることによって実現する。実現された貨幣価値は、現金価値と言い、その時に使用される貨幣の現物を現金とする。
 貨幣価値は、最終的には、財との交換によって、実現する。財は、潜在的貨幣価値を有する事を前提として成立する。財の貨幣価値は、人の必要性によって決まる。人は、貨幣価値を貨幣によって表現する。ここに、市場経済、貨幣経済における、人、物、金の関係が形成される。

 貨幣経済の基盤は、決済制度である。金融危機の多くは、この決済制度の障害によって引き起こされる。

 一般に、貨幣は、決済の手段、即ち、売買取引の手段、道具として発達してきたように考えられがちであるが、表象貨幣である紙幣に関しては、その端緒が預かり証、借用書という点から見れば解るように、貸し借り、即ち、貸借取引を基盤にして発達した。つまり、現代の貨幣経済の基盤は、貸借取引である。つまり、売買を基本とした損益計算は、貸借を基盤とした貸借取引の上に成り立っているのである。

 貨幣の供給、即ち、信用力は、貸し付け、即ち、融資によって生じる。言い換えると、貸し付けの増加分だけ、通貨の量は増える。
 貸し付け、融資量が減少すると実物市場に流通する通貨の量は減少する。

 貨幣価値は、物理的制約を受けない。貨幣価値は、財との交換によって清算され、解消される。それが消費である。貨幣自体は、発行元に、即ち、発券銀行、中央銀行に回収されることによってのみ清算される。

 市場では、貨幣価値は、取引によって顕在化する。取引は、市場と貨幣とを連結する役割を担っている。

 市場における貨幣価値は均衡しており、総和はゼロである。即ち、市場における貨幣価値は基本的にゼロサムである。

 次ぎに、市場取引の前提を上げると次のようになる。
 第一の前提は、市場取引は、通貨の流量の制約を受けるという事である。第二の前提は、市場取引は、基本的にゼロサムだと言う事である。

 市場価値は、市場に流通する通貨の量と財の量による関数である。市場取引は、売り手と買い手、通貨と、財からなる。売り手に財、買い手に貨幣の双方が必要な量だけ存在しないと取引は成立しない。故に、市場の取引は、財と通貨の量の双方に制約される。

 市場取引には、売買、貸借の二つがあり、売買とは、売りと買い、貸借とは、貸しと借りという逆方向の同量の貨幣価値として現れ、取引は、同量の現金によって行われる。いずれの取引も、発生した時点では均衡している。貸借取引は、同量の債権と債務を発生させ、同量の現金の遣り取りによって成立する。
 つまり、市場取引は、常に均衡しており、市場取引が、均衡していると言う事は、その時点時点の収支の総和は、常にゼロだと言う事である。
 これらが大前提である。

B 利益は、差によって生み出される


 利益は、差によって生み出される。
 利益を生み出し差には、空間的な差、時間的な差がある。空間的な差は、通貨圏や国家間、地域間における為替の水準や物価水準、所得水準、生活水準などに依って生じる差である。時間的な差というのは、時間の経過によって生じる差である。

 入りと出の点の場所や時間、価格、通貨の差が損益を生み出していると言える。入りと出と言うからには、何に対する入りと出なのかである。それは、経営主体や家計主体、財政主体であるといった経済主体である。また、その他には通貨圏などの特定の閉鎖された空間がある。その主体や空間にとって経済的価値は入りと出が決まるのである。

 かつては、地理的な差が、利益に重要な役割を果たしてきた。典型的なのは、三角貿易である。英国から工業製品を積み込み、それを北米に持っていって農産物や魚に代え、西インドに持っていって砂糖や糖蜜に代えると言った貿易である。(「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」)
 今日では、為替によって生じる通貨の価値の差や時間的な差がこの差に加わっている。

 金利や利益、地代、家賃と言った付加価値は、時間が生み出す価値である。それを時間価値という。金利や利益は、時間によって増加した貨幣価値であり、増加した分だけ余剰の貨幣価値を必要とする。その余剰の価値は、空間的差、時間的差によって清算される。即ち、差が解消されると清算することが出来なくなる。即ち、利益や金利を必要とした時点で、市場は、常に、空間的、時間的な差を前提としなければならない。それに対し、市場の圧力は、常にこの差を解消する方向に働く。利益や金利を生み出そうとする力と、利益や金利を生み出す差を解消しようとする市場の力を、調整するのが市場の仕組みである。

 成長段階から成熟期に移行する段階の市場は、実質的な資金需要が減退する。つまり、投資対効果の効率が減退する。投資したほどに収益が上がらなくなるのである。
 金融側から見ると貸付金の回収段階にはいる。そうなると市場の拡大速度が遅くなり、やがては、成長の限界に達する。市場取引は、通貨の流量の制約を受けるために、実物市場に流通する通貨の量が減少する。通貨の量の減少は、実物市場の市場取引に制約を加える。つまり、負荷となる。
 それによって、実物市場において時間的価値が負に作用しはじめる。その結果、企業収益が圧迫を受け、時間的価値である利益が減少に転じる。それが成熟市場である。

 時間価値が負に作用した時、信用収縮が生じる。

 負債というのは、資金調達の有力な手段であることを念頭に置いておく必要がある。資金の調達というのは、信用の創出を意味する。借金の原点は、資金調達なのである。つまり、資金、現金を調達したから、得たから支払義務、返済義務が生じたのである。そのことを忘れてはならない。
 取引の一面しか見ない傾向が、一般にはある。しかし、経済取引は一面だけでは捉えきれない。売ると言うことも買うという取引の表裏を為す行為である様に、貸借関係にも、借りると言う事は、貸すという行為の表裏を為す行為、取引であると言う二面性がある。つまり、取引には、必ず、同量の反対取引が存在する。債務には、同量の債権が生じる。
 これを取引の作用反作用という。銀行が融資を実行すると言う事は、借りる側に債務と現金収入が生じると、同時に、貸した側に債権と現金支出が生じると言う事を意味する。そして、その元は、金融が預金者から資金を借りること中央銀行から融資を受けることなのである。
 借金というのは、反対給付のない一方通行的な行為ではない。借りたから返さなければならないのである。逆に言えば、借りなければ、返す義務は生じないのである。借りてもいない物を返すと言う行為は、返済ではなく、強奪である。
 もう一つ、借りたから、信用取引が生じるのである。売掛金も買掛金も、受取手形や支払手形も信用によって成り立っている信用取引の一種である。この信用取引が、貨幣制度の前提となる。貸借関係がなければ、現在の貨幣制度は成り立たないのである。
 国債の問題を考える時これを忘れてはならない。貨幣制度の根本は、融資、即ち、借入にあるのである。信用収縮というのは、この貸借関係が収縮することによって始まる。借入を行ったから、信用関係が生じたという事である。
 そして、返済が始まった瞬間から信用収縮は始まると言うことである。この事は、貸借関係というのは、貸し手だけでは成り立たず。借り手だけでも成り立たないという事である。優良な債務は、優良な貸し手があって成り立っているという事である。貸し手の論理ばかりが先行すると本来の信用制度は確立されない。
 金融不安の根本には、金融機関が優良な貸し手を見いだせなくなったことある事を見落としてはならない。

 もう一つ、覚えてなく必要があるのは、現金勘定というのは、支払準備を意味するという事である。支払を準備するために、現金預金が必要とされる。
 融資と言っても現実に現金のやりとりが行われる取引は少ない。多くは、帳簿上で行われ、実際には、金融機関内部での取引に置き換えられる。

 金融機関からの借入金と支払に充てた現金とが全く同じだと仮定した場合、金融機関が現金を支払って購入し、借り手側が使用料を支払っているという解釈も成り立つ。ただ、その場合、最終的所有権の問題が発生するが最終的に資産の所有権も移転するとなると、実体は、融資と変わりない。その実例が、ファイナンスリースである。
 この事は、借金、即ち、貨幣の働きの持つ一面を現れているとも言える。つまり、貨幣というのは、信用で成り立っていて、実際に現金という物を介さなくても成り立つのである。つまり、貨幣制度の根本は、現物の貨幣というより貨幣が生み出す信用制度だと言う事である。そして、通貨量の前提となる信用の規模というのは、負債によって成り立っているのである。
 急速な信用収縮は、金融機関の貸付金の毀損が原因となり、これは、借り手側の債務の毀損より生じる。借り手側の債務の毀損とは、貸し手が担保としている債権の毀損である。この事は、金融機関の債権の毀損を意味する。金融機関の債権を圧縮しても、金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の持つ債権を健全化したことにはならない。つまり、何等かの形で金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の経営は健全化されないことを意味している。必然的に、預金の価値を圧縮することも含まれる事を意味するのである。

 空間も、時間も均衡した状態が安定した状態である。故に、空間的差も、時間的差も解消される方向に圧力がかかる。エントロピーの増大である。定常状態に市場が近づくと金利は、低下する方向に向く。
 日本は、現在、歴史的な低金利が持続的に続いている。低金利と言うよりも、ゼロ金利、マイナス金利と言ってもいい。つまり、時間的価値が消滅した状態が続いていることを意味する。
 宗教的倫理観の多くが、金利を悪と見なすが、それを意図したわけではなく。市場が欲しているのである。
 これが一体何を意味するのか。また、長期にわたってゼロ金利が続くことによってどの様な状態になるのかをよく見極める必要がある。

 市場は、時間価値が喪失した状態を放置すると、市場取引の総和は、ゼロに収束する。

 取引は、それが成立した時点では、均衡している。それが複式簿記の原則であり、複式簿記を土台とした会計制度の基本である。
 時点時点で取引が均衡しているのであるから、放置すれば、市場は、定常的状態に陥る。利益は、変化や差がもたらすのであるから、定常的状態とは、利益がないである。
 市場の均衡を避けるためには、人為的に格差を付けるしかない。それが規制であり、市場の仕組みである。

C 市場取引における債務の働き


 過剰流動性とは、金余り現象を指すわけではない。金融市場に、貨幣が滞留した状態を指すのである。

 短期的な収益を基準としている金融機関は、実物市場で収益が上がらなくなり、金融機関は、資金の回収をはじめる。その結果、金融市場に資金が滞留するようになる。それが過剰流動性である。金融機関に滞留した通貨は、借りた金であるから、時間と伴に、金利が債務として増殖する。この債務を解消するために、債券を発行して、金利を稼ぎ出そうとする。つまり、金利で金利を返そうとする。
 つまり、、金融機関は、時間的価値である金利を稼がないと経営が、成り立たなくなる。その為に、金融機関は、金融商品を開発して金融市場内部で貨幣価値を増殖させるようになる。それが実体のない貨幣価値の増殖を生み出すのである。それが、バブル現象である。
 一旦バブル現象が始まると実物市場から金融市場が資金を吸い上げてしまう。その為に、名目的な市場の拡大、経済成長は持続するが、実体を伴わないために、市場が疎となり、仮需要が旺盛になる。実物市場は衰弱し、金融市場は隆盛する。
 金融市場は、潜在的資産価値、即ち、財の将来の時間価値を担保とする。それは、土地や株と言った財の時間的価値を担保とする。それは、財の将来価値と、現在価値との差に依拠する。現在価値、即ち、財として取り引きされる実質的価値と将来的価値の差が制約条件として働く事を意味する。自ずと金融商品の価値にも限界がある。将来的価値と現在的価値の管理が限界に達した時、バブルは、崩壊する。
 バブルは、財の将来価値、即ち、未実現利益を前提している。バブルが崩壊すると、巨額の負の時間価値が発生する。この時間価値は、実物市場に対して返済圧力として作用する。つまり、通貨の流通に対する負荷となる。そのために、実物市場に通貨が流通しなくなるのである。

 借入、借金というと一般にあまり良い印象を持たれない。どちらかという悪いことのように捉えがちである。しかし、現代社会は、負債によって成り立っている。信用の裏付けには、負債があるのである。借入金もただ返せば良いというものではない。借入金の減少は、信用収縮を意味する場合があるからである。
 景気が悪くなりはじめると、一時的に企業の財務内容が改善されているように見えることがある。しかし、それは、資金が回収されていることを意味する。つまり、収益の多くを借金の返済に充てている結果である。信用の収縮を意味する。企業の財務内容が改善されているわけではない。
 逆に、借入を活用して利鞘を稼ぐことは、有能の証だと見なされたときもある。アメリカで、キャッシュフローがもてはやされた時代、つまり、2008年の金融危機が起こる直前は、借入によるレパレッジ効果が高く評価されたこともある。
 現金をただ蓄え、あるいは、含み資産を持つ事は、企業経営として資産を無為に遊ばせているだけだというのである。

 負債を単純に返済のための準備金のように捉えると負債の持つ能動的な働きが否定されてしまう。人は、借金をすると返済することばかりに追われてしまうが、借金は、資金調達という積極的な要素があることを忘れてはならない。もう一つの機能として、信用の創出である。ある意味で今日の信用制度は、債務、即ち、負債、借金を下地にして成り立っていると言えるのである。

 債務には、支払義務が生じる。それが信用の基盤になるのである。借金というのは、資金の調達手段という側面が先にあって、支払義務が付随的に生じる行為なのである。そして、その支払義務は、借り入れた者に対する信用に基づいて成立している。更に、それを担保する物が裏付けに在れば、信用は確立される。また、法制度がこの信用を保証することによって信用制度は社会的な裏付けも持たされる。その信用制度を基盤にして成り立っているのが今日の市場制度である。
 故に、債務は、現在的貨幣価値の実現を意味している。つまり、現金収入を実現する変わりに、支払義務を負うことを意味するのである。そして、この事が同量の貨幣価値を持つ現金と債権を生じさせるのである。

 借入金は、良くも悪くもない。ただ借入には、波があるという事だけは覚えておく必要がある。その波に合わせて資金の収支を調整するのが金融機関の役割である。
 借入金の波は、資金の波に重なる。資金の波には、現金の受け取りと支払の二つの波があり、受取による波と支払による波の間には、時間差が生じる。その為に、現金の受け取りと支払の間にある時間差を調整する必要がある。
 それが運転資金である。また、運転資金に支障をきたすと企業経営は、継続できなくなる。運転資金の調達は、一般に借入によってなされる。
 目先の利益や短期的収益だけで企業業績を判断し、運転資金を供給しなくなったり、資金の回収に走ると企業は破産する。
 景気の下降局面や上昇局面と言った運転資金の変動期におこる資金繰り倒産、黒字倒産の原因は、この様な金融機関のご都合主義や短絡的発想に依るところが大きい。
 現象だけを追いかけ対症療法的な対策では、換えって、資金の必要なところから資金を回収し、資金が余っているところに融資すると言った、逆方向の動きをしかねないのである。
 それは、金融機関だけでなく社会全体に経済のあるべき姿に対する構想が欠けているからである。

 産業は、資金を循環させることによって成り立っている。資金繰りがつかなくなれば、業績に関係なく、経営は成り立たなくなる。実物市場に資金が廻らなくなれば、消費は減退し、産業は衰退する。つまり、市場が機能しなくなり、財の分配が滞るようになるのである。その極端な例が恐慌である。

 恐慌で問題なのは、財を必要としているのに、財を購入するための資金が廻っていないという事なのである。
 故に、恐慌に対する対策は、資金を循環させることである。つまり、買い手に資金が廻るようにすることである。買い手は、財を必要としているのであるから、資金が廻れば需要は喚起される。
 その為には、雇用を作り出して、資金を供給することである。ただ、それは、闇雲に公共投資を増やせばいいと言うのではない。資金や財の環流は、市場のおける空間的差、時間的差によって生じる。

 ゆえに、公共投資による景気の浮揚は、市場の差を利用しないと効果が上げられない。なぜならば、資金を循環させ、景気を活性化するのは、市場における差の活力だからである。
 一つの産業が興隆する初期の段階に公共の資金を投入すれば、市場の所得が先行的に上がり、成長による時間的差を先取りすることによって景気は活性化する。しかし、成熟段階に在る市場に資金を投入しても新たな需要ぱ喚起されず。市場は活性化されない。むしろ、余剰の資金が金融市場に吸い上げられ、滞留して過剰流動性を引き起こす原因になる。つまり、成長が見込める産業に集中的に資金を投入しない限り、資金は環流せず。市場に偏りを生じさせるだけの結果に終わるのである。
 もう一つ重要なのは、市場に万遍なく貨幣を行き渡らせる必要があることである。その為には、市場の密度を高めるような形で資金を投入する必要がある。

 雇用を担っているのは、中小企業である。SBAの資料によると、2004年現在、アメリカの全雇用企業数に占める中小企業の比率は、99.7%にのぼり、民間部門就業者数に占める比率は、50.9%、民間雇用者所得に占める比率は、44.3%をそれぞれ占めている。それを考えても景気を良くする鍵は、中小企業が担っている。また、金を回しているのは、根本的に日銭商売である。また、景気の変動によるダメージを受けやすいのも中小自営業者である。逆にしたたかに生き残るのも自営業者である。
 中小企業を成立させているのは、経済的に自立した自営業者、市民である。ささやかな成功者である。だからこそ、政治的な影響力も大きい。また、中小自営業者は、地域経済の要でもある。
 産業的には、新興産業よりも、斜陽産業と見られている、伝統的産業、コモディティ産業である。
 一見、新興産業は、新たな雇用と、需要を生み出すように見える。しかし、実際は、新興産業には、リスクも限界もあると、考えるべきである。バブルを引き起こし、市場の混乱を引き起こしているのが、新興産業である事が好例である。
 問題は、なぜ、伝統的産業やコモディティ産業が斜陽化したかである。それは、市場にある。つまり、市場が適正な価格を維持できないことにある。
 市場にいかに差を作り出すか、また、差を維持するのかが、重要な鍵を握っている。成熟期の市場の差は、市場の仕組みによって維持される。つまり、何等かの装置によって維持されるのである。

 重要なことは、産業や企業を保護することではなく。市場を保護することである。
 いつの時代でも夢は、町工場から生まれた。

 アメリカでは、中小企業は、銀行借入が困難で、規制が厳しいという日本の研究もある。何れにしても、市場の密度を高め、資金の円滑な循環を促す意味においても中小企業の育成は欠かせない。

 実際的なところ景気が悪化した時、雇用を創出している余地があるのは、中小企業や自営業、個人事業である。
 不景気になると大企業は、すぐに人員削減を打ち出す。それは、大企業にとって人件費はコストでしかないからである。それに対して、中小企業にとって人件費は人である。また、大企業にとっては、人件費は下方硬直的な費用であるのにたいし、中小企業では、柔軟性がある程度、保たれるからである。それに誰も雇ってくれなければ、自分で事業を興すしかなくなる。いずれにせよ、景気が悪化した時に市場の緩衝材になるのは、中小企業や自営業、個人事業である。

 大多数の人が財の将来価値が上がると考えれば時間的価値はプラスに作用し、下がると考えるとマイナスに作用する。市場の成長や拡大が期待できる内は、将来的価値が上昇すると判断して投資する。しかし、将来的価値が下落すると考えるようになると投資した資金を回収する方向に動く。
 では、その変化の分岐点は何か。それは、支払い能力に求められる。支払い能力というのは、所得から固定的な支払を差し引いたもの、即ち、可処分所得が基本となる。
 人は投資する場合、手持ち資金か、手持ち資金が足りない場合は、借金、即ち、負債に頼る。負債というのは、将来的価値の先取りである。今、買って、後から払うと言う事を意味する。つまり、返済が生じるのである。この返済は、固定的な出費であるから、所得からこの固定的出費を差し引いた額が可処分所得である。この可処分所得の範囲内で生計費を納める必要がある。故に、可処分所得の限界が個々の人達の臨界点になる。負債は、累積するために、固定的な出費も嵩んでくる。それがある臨界点に達すると投資に陰りが生じ、市場は、収縮を始める。

 時間的価値において、何が重要なのか。それは、希望。希望である。

 2008年に始まる金融危機の背景にもアメリカの住宅市場の乱高下がある。それは、住宅価格の上昇期待が失われた事と支払い能力の限界を超えたことが原因なのである。

 市場は、拡大と収縮を繰り返している。その拡大と収縮の繰り返しが、経済の循環運動と周期運動を引き起こしている。市場の拡大と収縮の運動を前提とした市場の仕組みを構築しないと、経済は制御できないのである。

D 市場(いちば)と市場(しじょう)

 一口に市場と言うが、市場には、物理的空間を意味する市場(いちば)と抽象的空間を意味する市場(しじょう)の二つがある。
 段々に、我々の頭の中から物理的空間にある市場(いちば)が消えて、抽象的空間である市場(しじょう)に頭の中が占められつつある。
 抽象的空間の市場は、抽象的基準である貨幣、そして、貨幣から派生する貨幣価値に重きが置かれる空間である。抽象的空間に支配されることが意味するのは、物理的概念が抽象的観念に置き換えられることを意味する。
 つまり、物的経済、実物や現物、実体と言った概念が、貨幣的観念にすり替わっていくことをである。それは、現実的世界が観念的世界に、仮想的空間に置き換わり、その仮想的空間に現実の空間が支配されてしまうことを意味する。

 また、重要なことは、物理的空間である市場(いちば)には、物理的限界があるのに対し、抽象的空間である市場(しじょう)は、論理的には限界を持たないという事である。例えて言えば、食料の生産量は、物理的に限られているのに対し、食料価格は、際限なく上昇する事も、下降する事も可能だと言う事である。そして、貨幣空間に支配されるようになると価格が生産量や消費量を決定するようになる。

 市場は、本来、物理的制約の範囲内でしか機能しない。市場は、物理的制約によって保護、維持されているとも言える。

 市場は、一律、一様な空間ではない。
 市場は、一般に思われているほど単純な構造をしているわけではない。
 現代人は、市場経済と貨幣経済を一体のものとして捉えがちである。しかし、市場は、貨幣が成立するずっと以前から存在した。
 食料や衣料と言った日常的な財には、伝統がある市場が多くある。そして、伝統的な市場には、多くの仕来りや掟があるものである。
 また、市場を考える上では、物的側面も重要なのである。市場価値を検討する時、貨幣単位で考察する傾向があるが、物の単位も重要である。

 市場価値は、需要と供給だけで決まるわけではない。それに、需要と供給の均衡点が適正価格を形成するとも限らない。

 消費や投資の根源には、動機が隠されている。つまり、消費や投資を促す要因である。その要因の妥当性が経済の活力となる。
 消費や投資の動機は、金銭的動機が主たる要因ではない。金銭的動機というのは、二義的、付随的、副次的な要因である。消費や投資は、もっと直接的で生々しい人間の欲求にに基づいている。なぜならば、消費や投資は、即物的、現物的欲求、欲望から派生するからである。
 本来は、「お金」が欲しくて消費や投資をするのではない。「お金」は、自分の欲求、欲望を充足、実現するための手段、権利を留保したものだから「お金」を欲するのである。その証拠に「お金」はその権利を行使しなければ何の価値もないのである。

 物の価値という物が見失われ、ただ、貨幣価値だけが世の中を動かしている。
 市場では、金の単位ばかりが問題にされて、物の単位が忘れられている。しかし、実際に経済を動かしているのは物なのである。この大原則、大前提を忘れてはならない。貨幣は、あくまでも物の動きの影なのである。その影に操られるようになってから物の動きは怪しくなった。

 本来、経済というものは、物を基礎にして成り立っている。市場も当初は、物と物との交換の場であった。だから、経済現象の根底は物の流れによって引き起こされる事象であった。物には、物固有の属性がある。その属性によって個々の市場の性格や構造が形作られた。
 現代では、経済は、金の動きが全てであるような錯覚があるが、実際は、物の動きによって支配されている部分が数多くある。好例がオイルショック時の物価の高騰である。それでなくとも、買い占め、売り惜しみによって物価が上昇したり、また、暴落するような現象は歴史を見れば枚挙に遑がない。需給は、恣意的に調整できるのである。

 物の生産と消費を制御できなければ、環境問題も、資源問題も。貧困問題も解決することはできない。

 価値は、財の寿命や生活習慣、風俗、価値観、宗教、文化によっても違ってくる。
 ブランド価値は、需要と供給だけに左右されるわけではない。ブランド価値も市場価値を形成する需要な要因の一つである。
 その上、情報の非対称性の問題もある。市場価格が公正、公平を実現するとは言い切れない。
 需要と供給と言っても物の需要と供給があり、「お金」の需要と供給、労働力の需要と供給がある。
 また、価格が需要と供給に左右されるとしても需要と供給を支える要素が重要な役割を果たしているのである。
 例えば、供給を決定する要素には、生産手段の問題がある。生産の仕組みの問題がある。また、支払手段や支払い能力、支払方法なども需要を決定する重要な要素の一つである。

 また、市場と言っても天候に左右され、鮮度を重視される農作物のような物を扱う市場と工業製品を扱う市場とでは基本的構造が違う。

 石油やガス、貴金属、鉄と言って資源は、地質的な要素、地理的要素、また、必然的に地政学的要素や技術的要素、費用的要素によって市場構造は左右される。

 また、石油のように埋蔵量が決定的な要素となる市場もある。

 日本は、資源が少なく、エネルギーの大半を輸入に頼っている上に、食糧自給率が低い。故に、市場は、原材料の価格の変動や為替の変動による影響を受けやすい構造になっている。また、それに見合った金融市場を形成することが要求される。
 石油や米のような日本の国家の生命線を握るような物資は、備蓄を義務づけている。しかし、その経済的効果や市場への影響を充分に考慮する必要がある。さもないとたとえ、備蓄しても効果的に石油を市場に放出することができない。

 物の経済の仕組みを理解しないと経済の実相を制御し、資源を有効に活用することができない。

 鉄道や空港、港湾、通信と言った市場は、地理的な要素によって制約を受ける。
 深海や宇宙、南極、北極の開発は、技術的な制約がある。必然的に衛星や海底油田、環境などの市場は、技術的な制約がある。

 有毒物質やガス、原子力、化学製品といった危険物を扱う市場や建物、設備、自動車と言った構築物を扱う市場は、保安上や耐久性、廃棄手段、環境上の制約がある。

 また、原子力や航空機と言った先端的市場には、研究開発上の制約がある。

 生産量や在庫量は、経済活動に決定的な役割を果たしている。
 それは、市場の有り様まで変えてしまう。例えば、冷蔵倉庫が、建設されたことによって、生鮮食料市場の基本的構造が変化した。また、交通機関の発達も生鮮食料市場の構造を根本から一新させてしまった。

 この様に、市場は物や財による制約を受けている。その制約条件によって市場の有り様に変化が生じる。

 物の経済は、生産力、消費者、物流、在庫、保存といった実体的な要素によって構成されている。

 人の経済は、市場と言っていいかどうかも解らない。人の経済で重要な要素は、生病老死と言った人の一生である。そして、人間関係である。つまり、社会、組織の在り方である。その人の働きと報酬のバランスである。また、人の評価、役割である。人格である。だから、労働市場と単純に割り切れないし、単純化もできない。
 しかし、その人間と仕事、職業の有り様が、市場の有り様を決定する。

 この世は、「お金」だけでは片付けられないのである。市場は金だけが全てではない。

 人的な経済には、人間としての能力、人間性、人間の尊厳がある。

 そして、人間は、生物学的な限界の範囲で経済活動を営んでいるのである。人的市場は、生物学的制約の範囲内で成立している。人間は、死ぬのである。そして、人間は、生きる為に食事をしなければならない。生活の場を確保する必要がある。住む家が必要である。人間は、働かなければ生きていけない。人間の人間としての基本が人的な経済の土台にある。それを忘れては、経済は成り立たないのである。

 市場は一律一様な空間ではない。市場を支配するのは需要と供給関係だけではない。市場に働いているのは競争の原理だけではない。市場というのは、多種多様な構造を持っている。そして、それ故に市場は成り立つのである。市場から多様性を奪えば、市場は、本来の機能を失う。市場は、多種多様であるから、文化たりえるのである。そして、経済は文化である。市場が文化だから、市場は経済であり得るのである。
 むろん、需要と供給関係は、市場を構成する重要な要素であることに、違いはない。また、競争の原理も需要な働きの一つである。しかし、需給関係や競争の原理だけで市場を特定するのは間違いである。

産業の場(収益的場)


 生産の場は、職場である。職場というのは、所得を得る仕事の場である。
 消費の場は、生活の場である。生活の場であるから、住む場である。
 家計から見ると生産的労働は、外在的労働であり、消費的労働は、内在的労働である。経済主体から見て、外部にあるのが市場であり、内部にあるのが共同体である。市場は、財や貨幣の交換と流通の場であり、共同体は、財の生産と分配消費の場である。

 生産の場には、人的な場、物的な場、貨幣的な場がある。

 生産の場と、消費の場が分離する事が、市場や貨幣経済を形成するための前提となる。生産の場と消費の場の分離は、職業の場と生活の場の分離を意味する。つまり、職住の分離である。

 職業というのは、単一的、専門的、特殊、外向的、組織的な仕事である。家事というのは、複合的、総合的、一般的、内向的、自己完結的労働である。
 また、職業は、所得に関わる労働、生活は、支出に関わる労働である。
 この様な差は、労働の性格や在り方の変化になる。つまり、労働の質を決定付ける。即ち、職業は、社会的、組織的、貨幣的な性格を持ち。家事は、内向的、自己完結的、非貨幣的性格を持つ。ただし、地域社会に対する密着度は、家事労働の方が高い。その場合も、非貨幣的、即ち、ボランティア的性格を持つ。

 市場経済では、生活に必要な財は、市場における財と、貨幣の交換によって手に入れることになる。交換は、所有権を前提として成り立つ概念である。市場において、必要な財を交換するためには、貨幣が必要となる。その貨幣、即ち、金を調達する場が職場である。そして、労働力のような財を提供することによって調達された貨幣の量を所得というのである。

 プロフェショナルという言葉がある。プロフェショナルに対する言葉は、素人である。プロフェショナルと素人とを分ける要素は、その仕事から収入、即ち、所得を得ているか否かである。むろん、素人でも、賞金や商品をえることはある。しかし、プロフェショナル、即ち、職業人というのは、それによって生計を立てている。つまり、継続的に一定の収入を得ていることが前提となる。
 即ち、プロフェショナルという概念は、職業という概念に密接に結びついており、職業という概念は、収入、所得という概念と密接に結びついている。故に、プロフェショナルという概念は、市場的、外在的概念である。

 家事は、内に籠もり。職業は、表に顕れる。故に、陰陽で言えば、家事は陰で、職業は陽である。
 生活にとっては、家事が主で、職業は従である。つまり、家族が生活するために必要な所得を得るために、働きに出るのである。ただ金を儲けることが目的なのではない。生活のための原資、生計を立てるために働きにに出るのである。内が空疎になったら、働きに出ることの意味がなくなる。また、家計を成立させている根拠を失う。それは家族の崩壊を意味する。

 経済的には、職業の成果は、収益によって現れ、利益によって計られる。つまり、貨幣経済において職業を成り立たせているのは、収益である。

 収益構造にも場があり、階層がある。
 収益構造に対する認識は、欧米と日本では差がある。なぜ、この様な差があるかというとそれは、損益に対する欧米と日本との認識の差による。
 認識によって場の解釈に差があって良いのかというと、それはかまわないのである。それは、場は認識の問題だからである。とくに、収益構造は、人為的場だからである。
 場は実際にあるか、否かは、問題にならない。場が確かにあるらしいと認識できればいいのである。基本的には認識の問題である。問題となるとしたら、確からしさ、又は、確からしさの度合いの程度である。

 収益構造は、日本では、粗利益、営業利益、経常利益、税引き前利益、純利益など利益が形成される五つの場によって仕切られている。欧米では、経常利益が形成される場はなく。粗利益、営業利益、税引き前利益、純利益が形成する四つの場を指す。

 場を維持するために、重要な要素の一つに水準の問題がある。場には、場の状態を一定に保とうとする力が常に働いている。つまり、一定の水準に、安定した状態に場の状態は、収束しようとする。それが、エントロピーの増大に繋がる。

 個々の場の力が均衡するところに対象の運動は、規制される。個々の部分の動きは、働きは、場の力の作用によって制約される。

 個々の場の力が、場に流れを作り、圧力を生じさせる。
 場の流れや圧力に抗するのは、相当の力を必要とする。個々の要素が単独では、抗しきれない。市場が安売り一辺倒になれば安売りに走らざるをえない。価格だけが基準になれば、市場から多様性は失われる。しかし、それは社会の価値観の力の問題である。
 民主主義も数の力だけが横行するようになると政策が蔑ろにされやすくなる。政策の力が弱まるからである。それは制度の問題でもある。

 生産の場は、共同体の場、あるいは、組織的場である。そして、幾つかの場が重層的に重なり合った空間である。

 市場経済では、生産の場は、経営単位と市場に依って構成される。経営単位とは、経営主体を指す。
 市場とは、交換の場である。生産の場は、通常、複数の経営主体や個人からなる。経営主体は、基本的に、共同体か、あるいは、組織である。

 生産の場は、経営単位の市場における位置と運動、及び、経営単位間の関係によって形成される。

 生産の場は、経営単位の内側に形成される場と外側に形成される場からなる。経営単位の外側に形成される場は、市場である。
 場に働く力は、場によって形成される空間に働く力の均衡点を求めて一様に作用する。即ち、経営単位内部に働く力は、内部の均衡を求めて、市場に働く力は、市場の均衡を求めて作用する。
 それを制御するのは、経営単位内部の仕組みであり、市場内部の仕組みである。

 生産の場は、観念の所産であるから、生産の場に働く力も仕組みも観念的なもの、即ち、法や制度と言った観念的なものを指して言う。この様な観念的な力や仕組みは、集団的、社会的な合意によって成り立つ。集団的、社会的合意は、社会的な力を背景とした、手続によって成立する。
 故に、生産の場は、権力に裏付けられた手続によって形成される。つまり、生産の場は、権力によって形成され、権力によって維持される。ただし、その権力は、国家権力に限定されているわけではない。
 場は、一定の法則によって形成される。つまり、法は、場を形成する。法や規則の数だけ、場は派生する。つまり、場は、自然の法則を土台にして、自然の法則の上に国家の法、国家の法の上に企業の法積み上がるのである。
 また、法というのは、その社会に所属する者が最低限守らなければならない取り決め、あるいは前提である。

 例えば、プロ野球に例えると、プロ野球は、複数のチームと球団に依って構成されるリーグかになる。チーム間は、試合によって結び付けられている。試合は、いわば市場である。そして、試合を商品化することによって収益をえている。個々のチームは、内部に組織という仕組みを持っており、選手に対する分配は、組織的に行われる。また、リーグは、複数の要素を階層的に組み合わせることによって構築される。
 個々の場に働く力は、個々の場の規則によって決められる。試合には、試合のルール、チームには、チームのルール、リーグには、リーグのルールがあり、一つの単位として成立しているルールの数だけ、場は形成される。

 場に働く潜在的な価値の水準が重要なのである。市場には、市場に働く力の水準、経営主体には、経営主体内部に働く力の水準がある。

 市場に働く水準で重要なのは、価格である。価格の水準は、需要と供給の水準の均衡によって成り立つ。
 また、経営主体内部の水準で重要なのは利益の水準である。また、資金残高の水準である。これらの水準は、仕事の内容、即ち、業種によって異なる。

 また、経済全体で重要なのは、通貨の流量の水準である。また、物価や所得の水準、生活水準などである。

 例えば、経営主体内部に働く水準の中で、地価の水準は、資金調達力の水準を間接的に規制する。地価の水準は、担保力の水準を意味する。担保力の水準は、上昇している時は、債務の裏付けてして作用するが、下落すると不良債権の原因となる。しかし、この様な水準の乱高下は、本来的には、経営活動と無縁な動きなのである。

 市場に影響を与える水準には、物価の水準、為替の水準、株価の水準などがある。これらは、一つの市場の内部では一定の水準を維持しようとする力が働いている。

 コストは、コストを構成する個々の課目の価格水準によって制約を受ける。また、個々の課目の性格によっても左右される。
 オイルショック以後、石油価格の水準は、世界経済に多大な影響を与えている。石油価格の上昇圧力は、世界経済の構造的変化を誘発している。この様な、水準には、為替の水準がある。ただ、為替の水準は、国家間の貨幣価値の均衡によって保たれるが、石油は、需給や国家間の力関係、投機と言った場の作用が働いている。

 現在発生している経済問題は、構造的なものだと私は考える。

 産業の存亡を決するのは、市場経済、貨幣経済下では、価格である。即ち、価格構造である。価格構造は、原価構造に基礎にする。適正な価格が維持できなくなれば、価格は、(Race to the Bottom)下限に向かって収束していく。行きすぎてしまうと、原価構造を破壊してしまう。原価構造とは、付加価値構造の土台となる。付加価値の構造は、分配構造でもある。

 経済にとって重要なのは、廉価なのか、利益なのか、それとも産業なのか。現代のマスコミは、ただ安ければいいと思い込んで、安売り、価格破壊を煽り、その結果に対して責任をとろうとはしていない。
 大切なのは、適正な価格であり、利潤である。そして、それは、コモディティ産業の収益性に顕れてくる。

 産業で重要なのは、密度と構造的一体性である。産業の構造的一体性が失われると産業や市場は、分裂する。
 また、産業の構造が疎になると物流や雇用に偏りが生じ、経済が、上手く循環しなくなる。その結果、分配に支障が生じる。

: 経営主体には、経営形態によって個人事業、自営業、株式会社などの分類がある。また、企業の規模や業種による分類がある。経営主体は、経営形態や業種によって規範や構造に相違が生じる。

 雇用を担っているのは、中小企業である。不景気になると真っ先に打撃を受けるのも中小企業である。しかし、不景気な時に失業者を吸収できるのも中小企業であることを忘れてはならない。大企業というのは、身勝手なものである。と言うよりも、共同体意識が希薄である。労働者を働く仲間としてみない。単なる、経費の一部、統計的な数字でしかない。しかし、中小企業にとって社員は、働く仲間である。人情がある。だから、容易く解雇できない。それが足枷になって成長にも限界があるのである。スケールメリットと言うが規模が大きければいいとは限らない。小さいから融通がきくこともある。また、創業という点でも自営業や個人事業は、即効性がある。不景気の時には、中小企業、自営業、個人事業こそ雇用を、創出できるのである。
 景気を良くする鍵は、中小企業が担っている。金を回しているのは、根本的に日銭商売である。何れにしても、市場の密度を高め、資金の円滑な循環を促す意味においても中小企業の育成は欠かせない。
 しかし、景気の変動によるダメージを受けやすいのも中小自営業者である。不景気になると中小企業は、銀行借入が困難になる。資金さえ回れば、したたかに生き残るのも自営業者である。だからこそ、不景気には、中小企業の資金繰り対策が重要になるのである。
 中小企業を成立させているのは、経済的に自立した自営業者、市民である。ささやかな成功者である。だからこそ、政治的な影響力も大きい。また、中小自営業者は、地域経済の要でもある。
 産業的には、新興産業よりも、斜陽産業と見られている、伝統的産業、コモディティ産業である。
 一見、新興産業は、新たな雇用と、需要を生み出すように見える。しかし、実際は、新興産業には、リスクも限界もあると、我々は、考えるべきである。バブルを引き起こし、市場の混乱を引き起こしているのが、新興産業である事が好例である。
 問題は、なぜ、伝統的産業やコモディティ産業が斜陽化したかである。それは、市場にある。つまり、市場が適正な価格を維持できないことにある。

 近代経済を象徴する産業とは、所謂、エンターテイメント産業や金融業だと言えるかもしれない。
 エンターテイメント産業や金融業は、虚業と言われる。鉱工業や農林水産業のように実物による産業を実業とすると、実物に依らないから虚であり、虚業だと言うのである。確かに、エンターテイメント産業や金融業には、虚業としての側面がある。だから、今日<隆盛をきたしているとも言える。つまり、現代経済は、人間の観念の上に成り立っており、エンターテイメント産業や金融業は、人間の観念が生み出した産業だからである。
 根本的に実業と違いエンターテイメント産業も金融業も生きていく上に絶対に必要だという物ではない。人間は、本来、金がなくても生きていけるのである。しかし、金がなければ生きていけないのが現代社会なのである。
 エンターテイメントというのは、映画やテレビ、劇場、ゲーム、ビデオ、音楽といった架空の世界に成り立つものである。つまり、現実の世界に存在する空間ではない。いわば仮想空間である。エンターテイメント産業は、仮想空間において擬制的価値の上に成り立っている産業といえる。。
 この様な空間の基盤の一つにインターネットがある。インターネットの発達は、仮想空間を爆発的に拡大している。この仮想空間が、経済の成長や雇用を担い。実業の世界を押し退けようとしている。
 つまり、これからの成長市場の担い手は、虚業なのである。問題は、この様な仮想空間でしか利益が上げられなくなりつつあるという点である。それが現代社会の病巣なのである。
 在りもしない世界に在りもしない現実を作り出し、それが経済を実質的に牽引している。それが現代である。虚無である。
 エンターテイメント産業が悪いというのではなく。経済が実体を失いつつあることが問題なのである。
 確かに、市場は人為的な空間である。しかし、実業は、物的空間の裏付けを持っていた。だからこそ、物的限界によって制御されてきたのである。現代、物的空間より以上に仮想的空間の法が発展してきた。仮想的空間には、物的な裏付けがない。つまり、抑止する存在がない。それが実物市場を支配した時、実物市場も制御する事が難しくなるのである。それが2008年に起こった、石油や一次産品の高騰の一因なのである。
 つまり、架空の空間で起きた仮想的現実によって実体的世界が大混乱をきたしたのである。

 かつては、必要性が一番価値があった。現代社会では、必要性は価値を持たなくなりつつある。その為に、必要な産業が成り立たなくなっている。そして、不必要な産業が成長産業としてもてはやされている。必要性は、価値の全てである必要はないと私は、考える。しかし、だからといって必要な産業が成り立たないのも困る。
 現代社会の最大の問題点、必要性に価値を見出さなくなったことである。

 なぜ、虚業が成り立ち、また、栄えるのか。そこに貨幣経済、市場経済の絡繰り(からくり)が隠されている。つまり、経済の根本は、労働と分配なのである。労働と分配を関連付けるために、貨幣が働いていると考えると解る。
 貨幣経済、市場経済では、自給自足の生活は成り立たない仕組みになっている。一つは、社会的分業が進んでいて、孤立した閉鎖的な空間では、生きていけない仕組みに社会が出来上がっているからである。もう一つは、所有権が確立しており、所有権を得るために、何等かの社会的コストが必要となるからである。
 そして、貨幣経済、市場経済では、市場で生活に必要な差性を手に入れるためには、貨幣を所有していることが前提となる。その貨幣、即ち、お金をうるのは、所得による。所得には、労働による所得と不労所得がある。不労所得は、何等かの生産手段を所有し、それを貸すことによっ得られる所得である。不労所得は、何等かの生産手段を所有している事が前提となり、その様な層は限られている。故に、大多数の人は、労働によって所得を得ている。
 つまり、何等かの仕事が社会に存在することが前提となるのである。つまり、市場経済、貨幣経済において、重要なのは、どの様な生産財が必要なのかではなく、労働の素である仕事そのものの存在が重要となるのである。社会を構成する者は、何等かの形で所得を得る手段を所有している状態、それが、市場経済の大前提なのである。
 つまり、仕事が実体的な生産に関わっているか、否かが重要なのではなく。多くの金を集められるか、否かが一番の問題なのである。多くの金を集めるのは、小口でも不特定多数から集金することが可能な産業が有利になる。
 また、擬制的価値の上に築かれた市場は、物的な制約から開放されている。実体的価値の上に築かれた実物市場は、物的制約があるために、限界がある。それに対して、偽装空間上に築かれた世界には、制約がない、その分、重要を創造することが出来るのである。それが、虚業が、一見、無制限に成長可能だと錯覚するのである。しかし、物的な制約から開放されていても人的な制約から開放されているわけではない。虚業は、人間の欲望を土台としているのである。人間の欲は気まぐれである。飽きてしまえば幻のように消えてしまうのが、虚業の作りだした市場である。
 それが市場経済の本質なのである。

消費の場


A 消費の場


 消費は文化の源である。食文化が好例である。食の多様化が食の文化を生み出し、人々の生活に潤いをもたらした。食は、単なる餌から、嗜好品になった。食事は、喜びに変じたのである。そして、食が文化になった。その根底には、消費経済がある。
 消費が経済を牽引し、生産が、経済を推進する。

 本来、消費者が一番力を持っていなければならないのに、生産者、市場から見ると今、一番、力をなくしている。その現れが家内労働の軽視と、それに端を発した家庭労働である。また、介護や育児、家事の外注化も家庭崩壊に拍車をかけている。つまり、消費の場の崩壊が根底にある。

 経済には、消費の場があり、消費経済がある。労働にも、生産的労働の他に、消費的労働がある。そして、消費の場は、消費的労働の場である。
 消費的労働の代表的なものは、掃除、洗濯、料理と言った家事、それから、育児、教育、介護、医療、福祉、政治、司法、行政、治安、防災、国防と言ったものである。
 また、消費の場は、家計、財政といった共同体内部に多くが占められている。つまり、家庭の内、家内である。

 消費の場には、人的な場、物的な場、貨幣的な場がある。

 狭い意味の仕事や働くという言葉の中には、生産的な仕事という意味に限定されている場合がある。それが問題なのである。所得を得る労働だけが仕事や働きなのではない。家事も立派な仕事であり、働きである。
 また、政治や行政というのは、消費的労働に含まれる。
 家計から見ると生産的労働は、外在的労働であり、消費的労働は、内在的労働である。
 働きに出るとか、稼いでくると言った表現に外の労働を暗に高く評価している響きがある。しかし、生産労働と消費労働は、表裏を為す労働であり、どちらか一方が優れているというわけではない。
 ただ、労働の評価を、所得によって計る傾向がある。その為に、仕事というと、専ら家の外の仕事、職業を指すような風潮が強くなった。それが、家事労働の社会的地位が確立されない原因の一つである。
 しかし、家計から見ると家事が主であり、職業は従である。

 消費の場は、生活の場である。生活の場であるから、住む場である。職場というのは、所得を得る仕事の場である。

 家事というのは、複合的、総合的、一般的、内向的、自己完結的労働である。それに対して、職業というのは、単一的、専門的、特殊、外向的、組織的な仕事である。つまり、家事に要求されるのは、総合的能力であり、職業に要求されるのは専門的能力である。

 現代では、稼ぐことばかりが経済の主要問題だが、使い方も重要なのである。例えば、公共事業として景気浮揚策は、専ら予算ばかりが問題にされ、使い道は、あまり斟酌されない。しかし、景気に対する影響、効果は、むしろ使い道に左右される場合が多い。使い方を間違うと景気を良くするどころか、かえって悪化させてしまう。財政問題の主要な部分は、公金の使い方である。何に公金を使うかである。
 稼ぎ方も重要だが、使い方も重要なのである。職業は、所得に関わる労働、生活は、支出に関わる労働である。

 無駄遣いという考え方がいつの間にか忘れられた。しかし、無駄遣いは、いろいろな弊害をもたらす。
 無駄遣いの最たるものが戦争である。戦争は、人類最大の壮大な無駄遣いである。例え、その様な無駄遣いが景気を浮揚させたとしても何の益もない。戦争でしか景気が、よくならない経済体制があったとしたら、それは、経済構造のどこかに欠陥があるのである。

 消費の場は消費の構造によって形作られる。

 原初、経済は、自給自足を旨とした。その時代の経済は、専ら共同体内部の現象だったのである。
 自給自足の時代には、市場は必要とされなかった。つまり、生産と消費が分離していなかったのである。生産の場と、消費の場が分離する過程で市場が生じ、市場が成立する過程で貨幣が流通した。貨幣が流通することによって社会的な分業が促進されたのである。この段階で経済を構成する場は、生産の場、市場、消費の場である。ただ、自給自足体制が混在する社会では、生産と消費は、同じ共同体内部に存在していた。即ち、経済の場は、共同体と市場からなっていたのである。そして、仕事には、共同体内部の仕事と共同体外部、即ち、市場的仕事に分類することも出来る。

 発生の要因から見ても解るように、市場は、貨幣的空間であり、交換の場である。市場の仕事は、一般に取引を基調とした仕事である。
 共同体は、生産の場であり、消費の場である。共同が作り出す場は、共同の場であり、生活の現場である。共同体は、非貨幣的空間であり、倫理的、また、掟によって成り立つ空間である。故に、共同体内部の仕事は、人間関係を基礎とした 仕事である。
 つまり、市場では取引に拘束され、共同体では、人間関係に束縛される。
 その為に、生産的労働、消費的労働、市場の労働は、質、量、密度が違う。また、その労働とその労働に対する考え方、評価の仕方が違う。この点を念頭に置いておく必要がある。市場と共同体では、価値観の基盤が違うのである。市場では、損得が価値観の基盤となり、共同体では、善悪が価値観の基盤となる。

B 消費経済


 消費は、長い間、経済とは思われてこなかった。
 例えば労働が良い例である。労働というと、生産労働をさし、消費に労働は、関係していないと決め付けられていた。
 それが消費労働の社会的地位を低めてきた。そして、消費労働の重要な部分を女性が占めてきた。それが、女性の社会的地位を低くしてきた原因の一つでもある。よく外に働きに出る、又は、女性の社会進出と言う事が話題になるが、労働は、外にあるものだけとは限らないのである。生産労働と消費労働は、本来社会的分業の範疇で考えられなければならない問題である。そして、また、文化の問題でもある。
 また、労働は、所得の源泉でしかなく、支出を生み出す元だとは考えられてこなかった。しかし、生産だけで経済は成り立っているわけではない。需要と供給と言い。市場においては、需要が供給以上に重視されてきたというのに、供給の素である生産ばかりが取り上げられて、需要の素である消費は忘れられてきた。そして、消費に関わる労働は、蔑まれ。衰退の一歩を辿っている。
 経済を推進するのは、専ら生産力であり、消費力は無視され続けてきたのである。それが大量生産型経済を作り上げ、人類に壮大な無駄を強いているのである。お客様は神様などと言いながら、結局、お客様である消費者をどこかにやってしまったのである。しかし、消費は利益の源泉なのである。
 また、所得に関しても、現在の経営主体には、消費に基づいた給与体制はなく、生産に基づいた給与体制しかない。ただし、生産性だけでは、給与体系は成り立たないので、生活給のようなものが導入されている。しかし、それはあくまでも補助的、補完的なものにすぎない。
 それは、経営主体の共同体としての在り方を真っ向から否定している。本来、経営主体というのは、生活共同体であった。その原形は家族主義である。江戸時代においては、生活は、即、仕事であった。生計、生活費を稼ぐことを目的として仕事は位置付けられていた。現在は、生活費や生計という発想がどこかにとんで、仕事場は、所得を得るだけの場に堕している。かつても武士は、家に殉じたのである。そして、代々、家に忠勤を励んだのである。家とは、生活共同体である。この家という発想がなくなった為に、職場から生活感が失われたのである。

 現代人の多くは、経営主体から得るのは、貨幣収入だけだと思い込んでいる。しかし、実際には、多くのフリンジベネフィトをえている。フリンジベネフィットとは、給与外給付とか、給与外報酬というもので、給与として支払われ以外にえる給付を指して言う。必ずしも貨幣として支払われるとは限らない。そして、その部分こそ、経営主体の共同体的な部分を色濃く残している部分なのである。生活に直結し、密着しているから共同体のとしての意義がある。
 生産の場から見ると、賃金というのは、労働の対価、労働の値段だが、消費の場から見ると賃金は、生活費であり、生計であり、所得である。それは、家計に直結したものである。生産効率を上げるためには、賃金に格差を付けて仕事に対する、モチベーション、意欲を上げる事がいいが、生活設計をするためには、極力、格差を少なくし、一定の収入を保証された方が良い。問題は、両者の均衡にある。
 唯一つ言えることは、賃金、給与を生産性という側面だけで捉えるべきではないという事である。報酬は、共同体の一員として支払われるべき性格のものであり、収益を生み出した者、全員に分配されるべき性格の物である。特定の者が独占すべき者でもない。また、共同体の経営、経済状態には、その企業に携わった者、全員が責任を負うべきなのである。そうでなくても、結果において責任をとらされるのである。過激な組合の中には、自分達の権利と会社の経営とは無縁だと豪語する者もいる。しかし、会社が倒産すれば、組合も無事ではすまないのである。また、高額な報酬を受けるのは、当然だと考えている経営者もいる。しかし、利益を独占するのは、組織そのものを否定する事に繋がる。
 良い例が、NFLである。NFLは、リーグ全体の収益と球団の収益、個人の収入、そして、チームの戦力を調和させるための仕組みを構築している。それは、経済の在り方の一つの方向性を示しているのである。

 同一労働同一賃金と機械的に計算するのは、労働者の意欲を削ぐことになる。また、能力だけで評価をすれば、偏りが生じる。
 働く者は仲間なのである。運命や目的を共有する仲間なのである。
 目に見えた数字に現せない、実績や功績もある。二軍、三軍で将来のために自分達の才能を磨いている者もいる。試合にはでなくともコーチやフロントとしてチームを支えている者もいる。社会の水面下にいる人々をいかに評価するか、それが、経営主体の重要な役割でもある。ただ、実績や成果だけで報酬を決める事は、分配という、本来の役割を喪失されることにもなる。分配の本質は、共同体の論理に基づく必要があるのである。分配の原点は、助け合い、分かち合いの精神なのである。

 また、経済を決定付ける物価は、半分の分野を消費に依拠している。
 今こそ、消費経済の確立を確立する必要がある。
 経済は、所得だけで成り立っているわけではなく。消費も反面を担っているのである。
 収入ばかりが経済をになっているわけではなく。支出も重要な要素である。収入と支出は、表裏の関係にある。金は儲けるだけが能ではない。使い方も大事なのである。

 ただ、誤解してはならないのは、消費経済というのは、消費者運動のようなものを指しているわけではない。消費構造が経済に与える影響を明らかにすることによって成立する経済である。つまり、鍵は、消費の仕組みにあるのである。

 現代経済の欠点の一つは、消費という場を設定していないことである。どこまで行っても生産が主導であって消費は二の次にされる。
 その為に、あらゆる基準が生産を土台として計算される。そして、生産や生産の効率性が最大の基準となる。

 しかし、景気は、消費によって支えられている。消費が減退すれば景気も減退する。
 生産と消費は、経済の両輪である。そして、生産と消費は、労働と分配に結びついてはじめてその効果を発揮する。
 消費を置き忘れていては、経済は成り立たないのである。

 消費経済がない経済は、蓋のない圧力鍋のようなものである。鍋として機能はしても本来の圧力鍋としての機能は果たせない。

 消費は、市場の半分を形成している。消費の形態は、生産の形態を規制し、生産の形態は、消費の形態を創造する。
 大量生産型産業は、大量消費型社会を前提とし、多品種少量生産体制は、多様な社会を前提とする。

 消費の場は、生活の場である。市場的な部分があるが共同体的要素が強い場である。消費の場は、企業や財政にもあるが、中でも家計によって形成される場の働きが大きい。

 生産と消費の周期のズレは、市場に疎の状態と飽和状態を作り出す。それが、需要と供給の均衡を乱し、物や金の流れを阻害するのである。

 生産側の都合から見ると消費は、一定であるべきである。しかし、消費にも限界はある。その消費の限界が景気に波を持たせる。一日の中にも人間の生理的欲求に従った周期的な波がある。つまり、食欲が起こす景気の波動である。また、夜と昼の生活パターンが作り出す生活の波である。それは、人間の勤務体系にも影響を及ぼしている。

 人は、満腹になるのである。そして、欲望が満たされると、次ぎに、空腹になるまでどんなに美味しいものを見せられても食欲がわかない。逆に空腹な時は、何を食べても美味しく感じる。即ち、空腹な時と、満腹な時では、食事に対する価値が違うのである。また、人間が食べられる量には限界がある。その限界を超えて食事を摂取することは出来ない。

 満腹なのに更に食欲を喚起しようとする。ある意味で、今の経済は、餓鬼道である。
 それは大量生産型経済だからである。大量に生産することで市場経済は成り立っているからである。そして、それは、常に市場の拡大、即ち、消費の拡大を前提としている。

 市場が飽和状態になる。つまり、人々の欲求が満たされることを前提としてはいない。それが現在経済である。

 また、空気のように必要不可欠な物でも無尽蔵にある財は、経済的価値を持たない。つまり、必需品だからと言って価値があるとは限らないのである。
 何が生活をする上で、また、生きていく上で必要不可欠かは、本来、消費の場で決められていく。生産者の都合によって決められるべき事ではない。
 ところが現在の産業の仕組みは、消費者の嗜好、選好は、産業、即ち、生産者側に決定権があるような仕組みになっている。それが経済を不安定にしているのである。

 市場はあらゆる面で、必ずしも、合理的、効率的とは限らない。市場には不合理で、不条理、非効率な部分がある。特に、消費が絡むと嗜好の問題が大きく作用するからである。

 経済や景気は、生産の側からだけ見ていたら理解できないのである。
 生産と消費は、供給と需要を引き起こす。生産力は、供給の裏付けとなり、消費力は、需要を喚起する。
 需給という言葉が示すように、本来は、需要が供給を引っ張らなくてはならない。しかし、現在は、供給側の都合が優先される傾向が強い。それが、経済を不安定にさせる要因の一つである。

 この様に、景気や経済は、消費者の都合によって左右される部分がある。景気や経済は、消費を源として現れる事象だとも言える。

 生産量が増えれば、消費の形態が変わり。消費量が変われば、生産の形態も変わる。大量生産は、消費の在り方も変えてしまうのである。しかし、それは必ずしも、消費者が望んだ状態とは限らない。

 生産の在り方は、産業の在り方に反映し、消費の在り方は、家計の在り方に反映する。故に、産業の在り方が家計・消費を変革し、家計は、産業を規定する。家計は、産業を規定する。

 産業の在り方は、個々の企業の経営の在り方を確定し、利益を構成する。企業の投資活動に影響する。
 家計は、個人の生活の在り方によって決まり。生活の在り方は、個人の価値観による。個人の価値観は、家庭環境や社会環境、教育、文化によって形成される。

 生産は消費の、消費は生産の鏡である。
 ここにも、三面等価の原則が働いている。即ち、分配(所得)と生産と消費は、経済現象を三つの側面から捉えている。

 消費は、物価を構成する。物価には、一般物価と個別物価がある。一般物価と個別物価が消費の仕組みを形成していく。それが消費の構造である。

 消費には、質がある。量がある。速度がある。そして、周期がある。故に、消費の量と質と速度が問題なのである。そして、消費の速度は、周期に関係する。
 消費の質と量は、消費の密度である。
 消費に周期があるように、生産にも周期がある。生産の周期と消費の周期のズレが経済に及ぼす影響が市場に歪みを生み出すのである。その歪みは、利益の源泉であると伴に、景気の流れを乱す原因にもなる。

 大量生産、大量消費型経済下では、消費は美徳で、使い捨てが消費の形態の基本となる。しかし、消費の形態は一つではない。使い捨てだけでなく、使い廻し、改造、修理・修繕、交換、貸借と言った消費の形態もある。基本的に生産に過程があるように、消費にも過程があるのである。自然界では、この消費の過程と生産の過程が結びあって大きな循環運動になっている。ところが人為的世界では、個々の過程が分断され、循環運動にならないのである。財を循環させるためには、回収、分解、再生という過程も必要になる。つまり、リサイクルである。捨てるだけでは、経済は歪むのである。

 建設業界を例にとると、新築、増築、改築、解体、建て替え、買い換え、交換、再建などがある。
 これらの消費の個々の局面において市場が形成される。新築には、新築市場が、増築には、増築市場が、改築には、改築市場がと言う具合に成立する。そして、買い換え、交換には、中古市場が成立するのである。更に、用途の違いによって、持ち家や賃貸という形式の違いも生み出す。

 自動車にも、新車の市場だけでなく、中古車の市場、改造車の市場、修理・修繕市場、車検市場、オーダーメードの市場、アクセサリー市場、部品市場と言うように多様な市場が存在する。そして、それらの市場そのものが人的仕組み、物的仕組み、貨幣的仕組みを固有に持っている場合が多い。つまり、一律に市場を語ることは出来ないのである。
 そして、市場は、生産経済、消費経済双方からの働きによって形成される。生産側と消費側の均衡が保たれなくなると市場は、破綻する。つまり、経済の仕組みは構造的なのである。

 また、消費の形態が、市場価値や借金・金融の形体、支払形態にも差が生じる。市場や労働の質も変化させる。

 そして、この様な消費の形態が市場を通じて生産形態に影響を及ぼし、産業を変化を促していく。消費と生産は、経済の両輪であり、生産と消費の相互作用によって市場は形成されていく。どちらかが硬直的になると、市場は機能しなくなり、経済は、破綻する。

C 消費的負債


 借金にも、生産的な借金と消費的な借金がある。即ち、金融にも消費者金融がある。投資は、生産的な借金を貸す側から見たものである。それに対し、住宅ローン、自動車ローン、消費者ローン、カードローン、割賦販売、クレジットカード、プリペイドカード、電子マネー、ポイント制度、商品券、小切手、掛け売りのようなものは、消費的な借金である。
 そして、証券化によって借金の形態は、更に高度化した。サブプライムローンに端を発した金融危機の背後には、高度化した消費者金融がある。
 そして、消費の借金の在り方が生産の在り方にも影響を与える。

 消費者は、債権者でもある。つまり、金融市場においては、消費者は、有力な資金の出してでもある。

 サラ金、高利貸し、街金、質屋と言ったように、借金というとあまり良い印象がない借金には、取り立てや、夜逃げと言ったくらいイメージかまとわりつく。
 借金というと預金が、典型的なものだというと以外に想われるかもしれない。しかし、預金は、借入金であり、貸付金である。
 つまり、預金というのは、預金者が金融機関に資金を貸し付けることなのである。ところが、預金者のほとんどは、自分が金融機関に貸し付けていると自覚していない。預金者の多くは、融資しているといは想っていない。預金という言葉から見ても解るように、多くの預金者は、お金を預けているという感覚だと思う。
 借金のことを考える上で、預金の事を考えるといい。
 預金という言葉は、貯金、貯蓄と言う意味合いが強い。それは、お金を預けている。そして、銀行は、貯めている(プール)しているところという認識である。
 しかし、預金は、現実には、金融機関への融資を意味しているのである。つまり、貸付金が減り預貸率が下がると金融機関は、借入の負担が高まるのである。だから、金融機関には、預金をされて困る時もあるのである。運用先、即ち、優良な貸出先が見つからないのに、むやみやたらに預金を集めるという行為は、使い道もない癖に、むやみやたらに借金をする行為を意味するのである。その上、高利で預金を集めるという行為は、高利貸しから借金をすることと変わりないのである。
 もう一つ重要なのは、借入を立てた時、金融側から見ると貸し付けた時、つまり、融資が実現したときに一番、信用の度合いが強い時、つまり、信用枠が大きい時である。そして、回収、即ち、返済が始まるとその信用枠は、収縮していくのである。
 貸す側から見て返して欲しくない借金もあるのである。返して欲しくないどころか、返されたら困る場合すらある。それを理解しておかないと、金融危機時における、不良債権の持つ意味が理解されない。
 金融市場というのは、貸し手だけでも成り立たず。借り手だけでも成り立たない。金融機関も借り手がいなければ成り立たない。金融不安の根本には、貸し手の論理ばかり、つまり、金融側の論理ばかりが重視され、借り手側の論理が軽視されていることがある。その結果、優良な借り手が金融市場からいなくなってしまったのである。その為に、蛸が自分の足を食べるような結果を招いてしまった。それが、投資銀行を破綻させた原因の一つである。

 返済とは、融資との関係から捉えるべきなのである。それは、元本の返済と利払いの違いにも表れる。会計的に見て元本と金利は、本質が違う。故に、会計上の処理の仕方も違てくる。会計上、元本は、負債であり、金利は費用である。この区分には、本質的な意味が隠されている。

 また、借りた側にも返したくても返せない借金もある。また、返しても得にならない借金もある。
 例えば、操業中の工場の敷地を担保に借金をしている場合、地価が下がったからと言って借金を無理矢理回収すれば、その工場が、高業績を上げてる場合でも経営が継続できなくなる事がある。
 あるいは、借金を返したことで、儲かっているのに、資金繰りがつかなくなり、倒産する。即ち、黒字倒産してしまうことがある。
 それは、元本の返済は、費用として見なされないからである。それでも、償却資産の原資は、減価償却費によって確保されるが、非償却資産の返済は、利益処分の中から為されなければならない。それが内部留保である。ところが内部留保の持つ意味もわからずに、内部留保は、余剰利益だから、従業員や株主、あるいは国家に還元すべきだと考える者がいる。そうすると非償却資産に対する元本の返済が滞り、場合によっては資金繰りがつかなくなって倒産することもあり得るのである。
 何が、何でも、借金は返せばいいとは限らないのである。多くの金融危機は、借金を回収することによっひきおこされる。不良債権というのは、借金を回収することによって作られてしまう場合もあるのである。金融行政に携わる者は、その点をよく理解しておく必要がある。

 また、預金が貸付金だとすると、預金の種類の数だけ貸付金の種類があるといえるのである。例えば、普通預金、定期預金、積立金、定期積立金等、これらの仕組みは、即ち、貸し付けの仕組みでもあるのである。だから、借金のことを考える場合、預金を考える事は、いろいろと含蓄があるのである。

 金融機関からの借入金と支払に充てた現金とが全く同じだと仮定した場合、金融機関が現金を支払って購入し、借り手側が使用料を支払っているという解釈も成り立つ。ただ、その場合、最終的所有権の問題が発生するが最終的に資産の所有権も移転するとなると、実体は、融資と変わりない。その実例が、ファイナンスリースである。この様なリースや分割も貸し付けの手段である。また、手形も、貸し付けの手段として有効な物の一つである。有価証券も貸出の道具として有効な手段である。

 急速な信用収縮は、金融機関の貸付金の毀損が原因となり、これは、借り手側の債務の毀損より生じる。借り手側の債務の毀損とは、貸し手が担保としている債権の毀損である。この事は、金融機関の債権の毀損を意味する。金融機関の債権を圧縮しても、金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の持つ債権を健全化したことにはならない。つまり、何等かの形で金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の経営は健全化されないことを意味している。必然的に、預金の価値を圧縮することも含まれる事を意味するのである。

 金利にも、生産的金利と消費的金利がある。生産的金利は、貸出金利であり、消費的金利は預金金利である。貸出金利は、金融機関にとって出口にある金利だとすれば、預金金利は入り口にある金利である。預金というと、金を預けるという受け止め方が一般だが、経済学的に見ると金融機関に対する融資なのである。これは、消費金融を考える上で重要な意味がある。
 消費者の投資先がどこに向かうかは、経済構造を決定するほどの大事である。預金というのは、将来的価値の蓄積を意味する。また、金融機関の貸出の裏付けでもある。金融不安は、預金の取り付け騒ぎに始まるのである。負債の消費構造は、経済の基盤を形成している。

 消費者向けの金融商品は、消費者の返済能力を担保として成立している。消費者金融が担保しているのは、将来の収入と財産である。将来の収入は、一定期間の定収入を基礎として成り立っている。ある時払いの、催促なしでは成り立たないのである。所有権と所得を前提として消費者金融は成り立っていると言える。それは、安定した長期雇用が保障された社会を前提としている。その前提が崩壊すると、忽ち、消費経済は、信用制度の基盤が崩壊し、破綻してしまうことを意味している。
 経済危機は、実際のところ、常雇いと言う雇用形態が失われ、労働の流動化した時点で始まっていると言ってもいい。

 消費にとっていいのは、安定か、変化か、それが重要なのである。消費にとって重要なのは、安定である。収益や技術革新というのは、不確実であり、変動的である。しかし、人の一生には、一定の周期がある。資金需要にも計画性がある。つまり、一定の収入が確保されることによって生活は安定するのである。それは、長期借入の条件でもある。
 また、借入金の返済は、固定的である。つまり、一定である。そして、消費的負債は、月々の返済が原則、即ち月賦が一般的である。
 その為に、収入が中断し、貯金が底をつくと忽ち返済が滞るようになる。つまり、借入金というのは、支出と時間の関数なのである。借金は、月々決まった収入を前提して成り立っている。借金というのは、「バイ・ナウ ペイ・レイター、今買って、後で払う。」という事なのである。(「金融資産崩壊」岩崎日出俊著 詳伝社新書)つまり、借金というのは、将来の貨幣価値の先取りを意味する。
 また、地代、家賃、リースと言った物的賃貸契約も長期の定収入を前提としている。収入の総額よりも大きな変動、波がない事が借金の前提となるのである。そして、長期的借入が可能になることで、収入や所得が時間の関数になるのである。また、市場価値、貨幣価値の座標軸に時間軸を加えることが可能となるのである。
 消費経済が確立された背景には、長期的に保証された定収入がある。それは、長期常雇用制度にある。その背景にあるのは、共同体思想である。今は、否定されつつあるが家族主義的経営である。
 つまり、消費的負債は、雇用形態にも影響される。その雇用形態が、崩壊しようとしている。重要なのは、失業だけでなく。常雇いという雇用形態の崩壊がもたらす影響である。つまり、安定した長期の定収入の保証が失われると消費的負債、借入に支障が生じ、成り立たなくなるのである。

 返済力は、財産の担保力と月々の支払い能力を加算した貨幣的価値である。重要なのは、月々に予め決められた一定額の支払い能力を前提していると言うことである。そして、これは支払実績を基として、本来、評価されるべきものである。月々の支払が滞ると、この支払い能力に対する信用は失われ、財産の担保価値の残高しか残らなくなる。そして、月々の支払い能力は、月々の定収を根拠とする。故に、長期のローンを組む時は、仕事内容、勤務内容を確認されるのである。そうなると個人事業、自由業、派遣や、季節工、パート、アルバイトのような臨時雇いは、圧倒的に不利になる。一時的にいくら臨時収入があったとしてもそれは評価、査定の対象にはならない。継続的、かつ一定の収入があるか否かが、鍵を握っているのである。
 これが、消費者金融の最大の問題点である。この様な経済体制では、失業は、全ての信用を喪失することに直結しているのである。
 消費経済の崩壊は、生産経済を崩壊させる。その鍵を雇用の形態が握っていることを忘れてはならない。派遣問題は、根の深い問題なのである。

 ここで注意しなければならないのは、財産と資産は違うと言う事である。財産は、実体的価値を有する者であり、資産は会計上の概念である。財産は、実体的な取引を前提とするが、資産は、会計上の取引を前提としている。

 消費者金融を成り立たせている要素は、負債の平準化であり、その負債の平準化を成り立たせるためには、収入、即ち、所得の平準化が必要とされる。

 その典型が住宅ローンや分割払いである。住宅ローンは、住宅ローンが設定されたが、一番、与信枠が拡大した時である。そして、非償却資産である土地の価格が上昇している時は、元本の保証は、土地の価格によって為されるのである。
 そうなると、金融機関は、金利さえ、確実に払ってもらえるのならば、借金を返してもらうことよりも、借金をしつづけていてもらう方が得なのである。
 問題は、担保不足が生じた時、最初の前提が忘れられてしまうことである。返済に問題があった場合は、返済を見直すべきなのであって、担保不足は、そのうちの一つの要素でしかない。担保不足が生じたり、返済が一時的に滞ったからと言って借金の全額を回収したり、担保を回収しようとすれば、信用制度そのものを破綻させてしまう。銀行、ひいては、信用制度を維持するためには、返されては困る借金もあるのである。無理な借金の取り立てが、金融不安を引き起こす場合があることを忘れてはならない。

 サブプライム問題の根底には、負債に対する間違った捉え方が隠されている。負債の在り方が、現代の経済の根幹にある原理である点を理解してないと、今の金融危機や財政の本質が見えてこない。貸す側は、借金を返されると信用枠が収縮するのである。その為に、あらゆる金融機関が、一斉に資金を回収しようと動き出すと、急激な信用収縮を引き起こすのである。それが金融危機の根本原因である。
 逆に言うと、貸付金によって信用枠は拡大する。この信用枠が紙幣の流通の根拠となるのである。
 金融機関は、金を借りてもらわないとなりたたない。また、金を借りてもらわないと、信用量、即ち、紙幣の裏付けも拡大しないのである。
 同様なことは、国債にも言える。国債も返されては困る部分があるのである。

 消費という観点から見て借金というのは、決して、社会、国家に対して負の作用だけをしているわけではない。
 預金も債務の一つだと考えると、負債には、第一に、資金を貯めておく、貯蔵しておくという働きがある。第二に、信用を生み出し、貨幣の裏付けをするという働きがある。第三に、支払を準備するという働きがある。
 この様な点を考えると、元本の保証である債権が急速に収縮したからと言って不良債権の回収を急ぐと急激な信用の収縮が起こり、信用制度を根本から瓦解させてしまう危険性があるといえる。
 むしろ、借金があるから、市場は成り立っているのだとも言える。国債は、通貨の量を決定付ける重要な要素なのである。表象貨幣の根源には、国債があるとも言えるのである。故に、国債は、残高水準が重要なのである。

 市場経済が成り立つためには、価値の総額を時間的価値に置き換えることであり、それは、単位時間あたりの価値を計算可能であることが前提となる。そして、それは、価値総額の長期間にわたる繰延が可能であることを前提とする。長期間にわたる支払を前提として負債が組まれていながら、短期間における変動に対応できないのが、現代の債務の最大の欠陥なのである。

 また、収入や所得の平準化を前提として成り立っている制度は、消費者金融だけでなく。保険、中でも社会保険、年金、税制などがある。

 また、計画的に組まれなければならない資金需要に、住宅資金、結婚資金、育児資金、教育資金、老後資金などがある。
 また、消費財には、ライフサイクル、消費周期があり、更に、新規、更新、買い換えなどの需要がある。

 生産の側からすると市場や経済の成長と拡大が続くことが望ましいが、消費の側からすると成熟し安定した、変化の少ない市場や経済が望ましいのである。この生産者側と消費者側の根本的な姿勢の差が景気の変動の源にある。つまり、経済政策の要諦は、生産者側の都合と消費者側の要求をどの様に調整し、整合性を持たせるかにある。

 労働にも生産的労働と消費的労働がある。生産的労働は、所得を形成し、消費的労働は、支出の元となる。取得は、収益に還元され、支出は費用に還元される。生産は価値を創出し、消費は、価値を実現する。

 労働を共同体の外、即ち、市場化することは、労働の量化、即ち、単元化を招く。
 労働の量化というのは、労働を時間と単位賃金の積に還元する。つまり、還元主義を意味する。単一労働単一賃金という発想は、単純反復作業には当て嵌まるが、付加価値の高い労働には、当て嵌まらないのである。
 労働の市場化は、労働から創出する価値を交換価値に特化させてしまう。この事は、労働の質的部分を削ぎ落とすことになる。この事を労働運動が取り込めば、労働運動は、致命的な欠陥を背負い込むことになる。
 労働の質的部分は、個人の属性に依る。個人の属性とは、能力や経験、知識、技倆、資格、年齢、家族構成と言った要素である。この様な属性は、人間性でもある。つまり、労働の質的な部分を否定する労働運動は、人間性を喪失してしまう。

 今の企業は、景気が悪くなれば簡単に人員削減に走る傾向がある。景気が悪いときこそ雇用の確保を一番に考えなければならないのが企業である。
 現代の雇用体系で問題になるのは、給与体系が生産性のみに立脚しているという事である。今日は体系は、消費という視点からも考えられるべきものである。一部に生活給という部分があるにしても、共同体本来の持つ機能という点から、分配の仕組みが考えられてはいない。例えて言えば内部留保の在り方や使い道である。

 経済主体が獲得した収益は、収益を獲得するのに関係した人や機関によって分配されるべきものである。損益に対しては、経済主体を構成するもの全員が責任を負うべきものであり、分配は、経済主体との合意や契約によって為されるべきものである。経営者だけが責任を負うべき性格のものでなければ、経営者だけが、独占するものでもない。

 単一労働単一賃金をスポーツに例えれば、ポジションによって一律に賃金を決める事を意味する。単一労働単一賃金によって選手達のモチベーションを維持することが可能であろうか。私には疑問に思える。

 経済危機の背景には、雇用の崩壊がある。過剰流動性は、資金だけでなく、労働にも言える。何でも、過剰なのがいけないのである。固定性が過剰になれば、物量は停滞する。しかし、過剰な流動性は、社会の基盤を不安定にするのである。

 2008年の秋口から急速に景気が悪化し、それに伴って雇用情勢の厳しさを増した。そこで問題になったのは、臨時雇い労働者が真っ先に切られたのである。所謂(いわゆる)、派遣社員問題である。正規社員と非正規社員の処遇問題にまで発展した。
 しかし、この問題は、何も、今、始まったことではない。終身雇用、年功序列型雇用体制が崩壊した時点から予測しえた事態なのである。

 消費の場は、主として、共同体内部にある。共同体内部は、非貨幣的空間である。そこには、道徳的規範が働いている。経済の根本的目的は、競争力や効率にあるのではなく。この共同体内部の分配機能の維持にある。なぜならば、労働と分配を司っているのは、共同体だからである。共同体内部の市場化は、共同体の外生化である。それは、共同体の形骸化、あるいは解体を意味する。
 企業において、極端な話し、正社員、常雇い社員を全て止めさせ、臨時雇い、日雇い、一時雇用、季節工、パート、アルバイト、派遣社員だけにしてしまうという発想である。つまり、内的人間関係のない経済体制である。

 終身雇用や年功序列というのは、共同体の論理である。共同体の論理を否定すれば、必然的に市場の論理が取って代わるのである。それは、人間の持つ質的部分を否定し、人間をただの統計的な存在にしてしまうことである。
 それは、人的な関係が物的関係や貨幣的関係に変質することを意味するのである。それは、人間性や人道、文化への挑戦以外の何ものでもない。

 現代の経済というのは、奪い合いの経済である。市場を奪い合い、利益を奪い合い、市場を独占し、利益を独占しようとする。結局、そのあげくに何もかも失っているのである。奪い合いは、結局、何も生み出さない。
 奪い合う経済から与え合う経済への転換が必要なのである。助け合いの精神であり、譲り合いの精神である。助け合い、与え合う。それは、消費の経済である。つまり、必要な物を必要なだけ分かち合う精神なのである。必要でもないのに、相手から奪おうとするから、奪い合いになるのである。
 分業に依って成り立っている社会は、本来、お互いを必要としあう事によって成り立っているのである。
 男と女、国と国がお互いを必要としている。そこから、与え合う精神も奪い合う精神も生まれる。しかし、その結果は、一方は、助け合いに、他方は、争いに発展する。対極に別れるのである。
 必要性というのは、消費から導かれる。必要性の根本は、使用価値である。つまり、本来は、使用価値こそが交換価値に優先すべきなのである。使用価値が忘れられ、交換価値だけが全てになったことが、市場経済を堕落させてしまったのである。
 必要性、つまり、消費から生産計画は立てられるべきなのである。消費から生産の仕組みは考えられるべき物なのである。

為替(変換の場)

 今や子供でも円高や、円安という言葉を知っている。それほど為替問題は、我々の生活に密着してきた。
 個人事業者や自営業者でも為替の問題に無関心ではいられなくなった。また、日用雑貨の値段も為替の変動に敏感に反応する。好例が、ガソリン価格である。ガソリンの価格は、毎日、あるいは、一日の内に何度も、その日の為替の変動や原油価格に連動して動いている。まことに、景気の良し、悪しも、為替に左右されると言っていい。

 国民の生活は、為替に左右されている。そのことは、誰もが、知っている。常識である。しかし、それでありながら、為替がどの様な仕組みで動いているのかは、以外と知られていない。

 多くの人は、ドルや円という貨幣があるというふうに考えがちであるが、そうではなく、貨幣の中に、ドルという要素、円という要素、言い換えれば、ドルという単位、円という単位があるのである。つまり、ドルや円というのは、貨幣の尺度の単位に過ぎない。貨幣そのものを指して言うわけではない。
 貨幣という機能は、ドルであろうと円であろうと基本的には変わらない。つまり、貨幣としての連続性は保たれているのである。貨幣とは、その時点における貨幣価値を示す物である。
 ただ、通貨圏に応じて尺度が変化するだけである。即ち、貨幣は、一つの通貨圏の境界線を超えるとその単位が変化する。通貨圏の境界線は、物理的空間に必ずしも拘束されていない。通貨圏の境界線は、何等かの装置、あるいは、機関である。
 貨幣が姿を換えるという事である。つまり、通貨圏によって装いが変わってしまうのである。
 通貨圏というのは、一つの通貨単位が作り出す領域である。
 通貨の単位の変換の仕方は、国家間の取り決められている。実際の貨幣単位の変換は当事者間で予め設定された取り決めに従って行われる。自然に、通貨単位の変換の仕方が決まるわけでもなく、単位の変換、即ち、両替がされるわけでもない。
 両替は、即ち、貨幣単位の変換は、予め、国家間、あるいは国際間で決められた場所で、これもまた予め決められた機関が行う。
 ただ、実際に支払手段を行使する時は、物としての貨幣、即ち、紙幣やコインを必要とする。つまり、実意の取引は、現金、及び、現金に相当する代替物を媒体とする。現金というのは、その時点における現金価値を実現した物、あるいは、表象した物である。つまり、財の現在的貨幣価値を実体化した物、具現化した物が現金である。
 そして、現金を両替するためには、国家や通貨を管理する機関は、決済に必要なだけのそれぞれの通貨圏に通用する現金、つまり、紙幣やコインを準備しておく必要がある。それが外貨準備金である。
 決済に必要なだけの現金を用意するためには、自国の通貨の価値を保証する物を予め担保しておく必要がある。金本位制の時代は、この担保する物は、金であった。つまり、金本位時代においては、金は、その国、あるいは、通貨圏の通貨の単位を規定する実体的基準であった。金本位制が崩壊した今日、金に変わるのが、基軸通貨である。現在は、基軸通貨とされているのは、アメリカドルである。アメリカドルは、かつては、兌換紙幣、即ち、金にリンク、結び付けられていたが、1971年8月15日のニクソンショックによって金との結びつきが失われた。この日は、きしくも日本の終戦記念日であった。
 その結果、貨幣は、金という基準を失ったのである。貨幣は、国家に対する請求権を失い交換のための媒介物、あるいは、情報でしかなくなった。つまり、貨幣単位は、通貨圏間の相対的貨幣価値を示していることになる。
 各国が金本位制から離脱し、金という外貨の裏付けを失った為に、外貨準備金は、基軸通貨に依存することとなる。つまり、アメリカの経常赤字は、必然的帰結なのである。
 この事は、基軸通貨国は、基軸通貨を国際市場に必要なだけ流通させることを意味する。そして、国際通貨の管理は、基軸通貨国の通貨政策に直結することを意味するのである。以後の通貨、政策は、基軸通貨国が主となり、国際市場で公益をする国は、基軸通貨国の通貨政策に従わなければならなくなる。
 金本位制時代は、貨幣の単位は、金によって保障されていた。それに対して、金という裏付けを失った貨幣は、基軸通貨によってその単位を保障されることになる。これは、貨幣が貨幣の価値を決めると言う事になり、これでは、循環論法におちいる。(「貨幣の経済学」岩村 充著 集英社)そこで貨幣単位の実質的価値は、為替相場で決まることになる。それが変動相場制である。
 金本制度下では、金の価値によって通貨の流量は制御され、結果的に物価は、抑制されることになる。変動相場制では、各国間の通貨の流量や物価は、為替相場によって抑制されることになる。つまり、物から仕組みに制御の在り方が変化したと言える。

 固定相場制も一種類ではなく、変動相場制も一種類ではない。固定相場制と変動相場制の折衷的な制度や期間限定的な制度もあるのである。何れにしても、どの様な為替の制度を採用するかは、政治的な問題である。

 金本位制度と為替の固定相場制は、密接に結びついている。貨幣制度と為替制度は一体的に考えていく必要がある。

 重要なのは、通貨が、国際市場においてどの様に循環し、どの様な役割を果たしているかである。そして、その基盤である金融制度の役割と働きであり、金融制度をどの様に構築するかである。

 市場が国際化するに従って通貨制度や通貨政策も連動するようになる。つまり、通貨を制御するためには、国際協力が不可欠であり、国際機関の設置が避けて通れなくなるのである。

 ここに基軸通貨国の役割と機能、責任があり、基軸通貨国の国際市場における位置付けが決められる。

 そして、中長期的に見ると相場を決する重要な基準は、水準である。
 問題となる水準は、国内と国外との水準の変動である。水準の要素には、金利水準、経済成長率の水準、物価水準、雇用水準、所得水準、生産水準、消費水準、貯蓄水準、生活水準などがある。内外の水準の差が為替相場を動かしている要因である。
 また、為替の水準を制約する水準は、経常収支の水準、資本収支の水準、財政収支の水準、外貨準備高の水準、金利水準などが重要になる。

 ただ直接的に為替相場を動かしているのは、ディーラーやトレーダーと言った人間で在り、多分にその時の相場心理に影響されている。

 為替取引を構成する取引には、経常取引と資本取引がある。
 経常取引とは、貿易取引とサービス取引、所得収支、経常移転収支を合算したものである。

 為替の働きは、作用、反作用の関係の典型的な例である。つまり、一つの運動は、二つの方向が反対で、同量の作用を引き起こす。そして、為替の作用、反作用の働きは、内と外との方向性を基本とする。そして、この作用が貨幣単位を制御することになるのである。

 基本的に為替取引はゼロサム取引である。つまり、為替取引で生じる価値の総和はゼロになる事が前提である。この点は、非常に重要である。
 為替市場を構成する資本取引、経常取引、外貨準備金、財政、金融政策は、ゼロサム取引であるが故に、不可分に結び付けられている。

 日本の外貨準備金は、アメリカの国債を担保していると言っていい国債本位制度のようなものである。
 また、アメリカの経常赤字は、日本や中国の資本取引によって補完されていると言ってもいい。

 基軸通貨国と、被基軸通貨国とは、持ちつ持たれつの関係にある。つまり、基軸通貨国と被基軸通貨国とは、外貨準備金や資本において表裏の関係にある。
 基軸通貨国は、自国の通貨を国際市場に行き渡らせるために、経常収支を赤字にしておかなければならず。経常収支を赤字に保つためには、自国の通貨を高めに誘導する必要がある。それは、自国の産業が他国の産業に対し、競争力において不利に作用させることを意味する。つまり、絶えず余剰資金を市場に供給し続ける必要がある。それは、国家の負債を大きくすることが前提となり、財政収支を赤字にせざるを得なくなる。
 生産拠点を失った国内の産業は、必然的に、消費型産業に移行せざるをえなくなる。つまり、国も国民も借金に依存せざるを得ない体制になるのである。借金が出来るうちは良いが、負債の残高が臨界点に達した時、一機に破綻するのである。所謂、カタストロフィである。借金をするためには、担保するものが前提となる。

 仕組みによって為替制度を支えるとしたら、特定の国に偏った形の市場は、市場に何等かの歪みを生じさせる。それは、極端な形、消費国と生産国といった分裂を引き起こす結果を招くことになる。

 特定の国が、基軸通貨を担う体制は、過渡的なものであり、変則的な体制である。輸出と輸入は、本来偏りがなく、均衡した状態が良好なのであり、極端に、輸出や輸入、どちらかに偏った状態が恒常化すれば、その国の経済体制も輸出型、輸入型、あるいは、消費型、生産型と言った偏った形態が定着することになる。また、経常収支にせよ、資本収支にせよ、財政にせよ、不均衡な形が常態化する。つまり、経常赤字が慢性化した国と経常黒字が慢性化した国と分裂してしまうことになる。それは、その国の消費活動にも影響を与えることになる。
 歪みは、拡がる一方となり、経常赤字や財政赤字が、臨界点に達したところで破滅的な崩壊を引き起こすことになる。

 また、市場の歪みは、通貨の過剰流動性を招きやすい。実物経済が成り立たなくなれば、金融によって利益を上げようとするからである。
 資金の歪んだ流れは、いろいろな部位に資金の滞留や澱みを生じさせる。その滞留した箇所や淀んだところから金融制度は腐敗していくのである。

 為替相場を決定する要因は、通貨の流れである。
 市場取引は、基本的にゼロサムで均衡している。利益を生むのは、空間的差、時間的差である。例えば、買った場所や時間と売った場所と時間の差である。空間的な差とは、地理的な差以外に通貨圏の違いもある。先物取引というのは、時間的な差によって生じる市場である。
 この様な空間的な差や時間的な差が通貨の流れを生み出す。通貨の流れというのは、均衡に向かって流れる。即ち、空間的な差を解消する状態に向かう性質がある。水が高きから低きに流れるように、また、熱が均衡状態に向かうように(エントロピーの増大)、均衡状態に向けた流れが生じる。市場を放置すると市場の活力は均衡状態に収束する。故に、絶えず、何等かの差を生みだして、市場を活性化する必要が生じる。そが、企業や会計制度のような経済装置である。

 また、経済は、市場が成熟するにつれて、内的の水準、即ち、所得水準や生活水準、労働水準が均衡してくる。一方が、一方に低所得や低生活水準を抑えつけておかないと市場間の格差は解消される方向に向く。しかし、無理に抑えつけようとしても、市場の歪みは拡大するだけである。
 それは、格差によって成り立っている体制を解消させる方向の圧力として働く。つまり、市場は、対等な関係の上で成り立つように出来ているのである。

 それらの歪みを強制的に固定化しようとすると、歪みにかかる働きは、経常収支や資本収支、財政収支に圧縮される、潜在的なエネルギーが蓄積されていくのである。

 現代、先進国の経済は、後発した国々の成長エネルギーに支えられている。しかし、それは、先進国と後発国との格差を是正しようとする圧力からなっている事を忘れてはならない。いわば、先進国に対する後発国のバネ、反発力なのである。
 先進国が常に優位に立とうとすれば、その圧力は先進国を圧倒する方向に向く。その点をよく理解し、今後の国際関係の在り方を構想していかないと、世界は、破局に向かっていくことになる。

 成熟した国際関係は、交易相手国の通貨を外貨準備として適正な量持ち合い、経常収支や資本収支、財政収支が均衡した関係を保てる状態である。つまり、特定の国家が基軸通貨国として為替制度を支えるのではなく。世界が一つの仕組みとして機能した状態である。つまり、世界の国々が対等な関係で、経済体制を構築していくことが求められているのである。

 通貨を国際市場で安定的に運用しようとしたら、国際的な決済機関、決済制度が前提となる。故に、為替を調整するためには、国際機関が必要となる。
 国際機関の機能は、一つは、政府の機能、もう一つは、中央銀行の機能の二つが必要となる。

 政府の機能は、司法、立法、行政の三権があり、それぞれを独立した機関が担う分立型と、統一型がある。
 また、中央銀行にも政府機関が兼務する型と、FRBのように、各国、あるいは、地域や経済力に応じた代表者による委員会型、または、国家間の取り決め、条約に基づいて、調停を行う調整機関型がある。

 基盤は、国家を基盤とする考え方や世界を幾つかの地域に分割し、分割された個々の地域を基盤とする考え方、出資率のようなものに応じた考え方などがある。

 何れにも一長一短があり、これが絶対という機関の形態はない。その時の国際情勢や経済情勢に合わせて柔軟な体制を敷くことが肝心である。

 国際為替制度を考える上での根本は、通貨の問題である。通貨、即ち、現在の表象貨幣の源、素は、国債だとも言える。国際通貨制度を確立するためには、国債が鍵を握っていると思われる。例えば、各国の国債を国際機関に拠出し、それを資本として世界紙幣を発行すると言った具合にである。何れにしても、現代の市場は、債務と債権を基盤としている。

経済に与える場の作用


 場の力は、抗しがたい強さがある。株の値動きは、資本市場の場の力の方向によって左右される。この場の力に逆らうことは、かなりの勇気が必要である。百戦錬磨の相場師でも、相場に働く力を支配することは出来ない。結局、相場に働く力の方向性を読み、将来を予測して、場の力に従う以外にない。資本市場に働く力を制御しなければ、経済の安定はない。そして、資本市場を制御できるのは、個人の力ではなく。市場の仕組みなのである。

 所謂、コモディティ、成熟期に達した産業に対する安売りの圧力というのは強烈である。世論まで安売り業者の味方をする。何でもかんでもやすければいいという事になる。その商品の適正な価格というのはどこかへ行ってしまう。マスコミも、適正な価格ではなく。企業努力の不足の結果だと言う事になる。
 この様な価格圧力は、産業から収益力を奪い、構造不況業種へと転落させてしまう。最後には、産業そのものが成り立たなくなるか、寡占、独占体制に陥る危険性が高い。

 景気に対する認識に誤解がある。それは、経済に対する認識の間違いから来る。経済を単なる現象とみなし、合目的的な仕組みと考えないことに原因がある。そして、産業を構成する企業の目的を生産性や効率、競争力に置いていることである。
 その為に、場の力を制御できない。典型的なのは、市場である。市場は常に制御不能な状態に陥り、暴走する。それをあたかも神の仕業と考える学者が多くいる。その様な学者は、市場が荒れるのにまかせ、ただ、祈祷や雨乞いのようなことで市場が正常な機能を取り戻すのを辛抱強く待てばいいと考えている。市場の原理は、競争だけにあるわけではない。競争は、市場を制御する一手段に過ぎない。競争だけにしか、市場の機能、目的を置かないのは、アクセルだけでブレーキもクラッチ、ハンドルもない自動車のようなものである。市場を制御するのは仕組みなのである。その仕組みの部分的な働きが競争なのである。それは、ブレーキが車の速度を制御するための部品であるのと同様である。ブレーキだけが自動車ではない。アクセルだけが自動車ではない。ブレーキも、アクセルも、重要ではあるが、自動車という機械の全体の中の部分、部品に過ぎないのである。
 景気が悪いのは、企業が収益をあげられないからである。そして、家計を維持するだけの所得が確保されないからである。また、財政が収益を無視しているからである。
 つまり、エンジンだけが突出している車のようなものであり、均衡が悪いのである。
 景気を回復するためには、企業が適正な収益をあげ、適正な賃金を支払い、金利を支払い、しっかりと納税をすることが大事なのである。そして、それが、企業の目的であり、役割なのである。
 また、財政は、社会資本を充実させ、所得の再分配をし、公共の福利を実現し、社会の治安と国家の独立を守るための資源を確保できればいいのである。
 家計は、生活を維持し、家族を養い、社会に労働力を提供できればいいのである。つまりは、財政も、家計も、企業も国民を幸せにするための環境を整備することが経済の目的なのである。
 その様な企業活動や家計活動、財政活動が維持されるような市場環境を整えるのが国家の役割なのである。

 よく市場の失敗と言うことを言う者がいる。市場の失敗というのは、自動車事故は、自動車の失敗というような詭弁である。事故を起こすのは、人間であって自動車ではない。自動車には、意志はないのである。自動車事故を引き起こすのは、運転手か、それとも、自動車の仕組みに何等かの欠陥があるからである。自動車の仕組みに欠陥があるとしてもそれは自動車の責任ではない。自動車を設計した者や自動車を組み立てた者、製造した者の責任である。自動車が間違ったわけではない。それを自動車の失敗というのは、責任逃れの口実である。市場の失敗も同様である。
 市場を生み出したのは、人間であり、市場の仕組みを構築したのも人間である。そのことを忘れてはならない。

 競争の原理と、競争する事は何等かの法則、摂理のように言われている。競争は、万能の原理であり、競争さえしていれば、全ては解決するように言われている。それでありながら、競争の効能、意義について何ら語られていない。
 なぜ、競争が正しいのか明らかにされないまま、競争の原理が一人歩きをはじめている。

 競争の原理と言っても予定調和ぐらいが根拠であり、その根本は、神の手である。ある意味で信仰に近い。こうなると、競争の在り方を客観的に分析することが許されなくなる。市場原理主義者の中には、とにかく何でもかんでも競争さえさせていればいい。競争を阻害するものは悪だと決め付けている者さえいるぐらいである。

 第一に、競争が成り立つには、競争が成り立つような前提がある。それを無視しては競争は、成立しない。例えば、競争は、一人ではできない。この当たり前なことさえ、理解していない者が、市場原理主義者の中にはいるのである。

 競争が成り立つ前提を明らかにする前に、競争の意義や働きを明らかにする必要がある。
 競争の意義とは、第一に、競争には、合理化や効率化を促す働きがあることである。第二に、技術革新を促進する。第三に、相互牽制作用によって不正を明らかにする働きがある。第四に、調整機能を円滑にする。第五に、価値の流動性、変動性を高める。第六に、価値を相対化する。第七に、市場価値を均衡させる。第八に、市場価値の適正化がある。

 気を付けなければならない競争の問題点は、競争というのは、競争を抑止し、競争関係を解消する方向に働く特性があるという事である。つまり、競争を放置しておくと、競争は解消される方向に状態は向かうのである。競争状態を維持するためには、競争状態を維持する仕組み、装置が必要となる。それが市場の仕組みである。

 つまり、競争が成り立つ前提には、競争を成り立たせている仕組みが必要なのである。また、競争は、ルールによって成り立っている事を忘れてはならない。

 競争の持つ弊害には、第一に、競争は、手段であるのに、競争自体が目的化する危険性があるという点である。第二に、競争は、価値を流動化させ、不安定にする働きがあるという事である。第二に、競争は、価値を均質化、均一化させてしまう傾向がある。第三に、競争は、価値観に偏りや歪みを生じさせてしまうことがある点である。第四に、競争は、暴走を引き起こす時がある事である。

 現在は、価格、即ち、貨幣価値に競争の目的を収斂させてしまう傾向がある。つまり、競争を量によって判定しようとする事である。しかし、競争にも、質的側面がある事を忘れてはならない。例えば、品質や嗜好による競争である。質的な側面を競争に取り込むためには、先ず、何を、どの様に競争させるかの問題を明らかにする必要がある。
 ただ競争をさせればいいと言うわけではない。スポーツで言えば、陸上競技や水泳競技のように、ただ、記録を競うことだけがスポーツではないという事である。サッカーのようにチームワークをどの様に評価するかによって競争の有り様も違ってくるのである。






                    


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