平等主義

平等と同等とは違う

 平等という概念は、分配という概念と不可分な関係にある。ただ、平等という概念は、一律とか、同等と言う概念と同一なものではない。平等というのは、基本的に存在からでる概念であるのに対し、一律や、同等というのは、分配における基準から発生する概念だからである。
 公平という概念も平等から派生する概念である。しかし、平等というのが原因ならば、公平というのは、結果である。故に、平等と公平は、必ずしも同一視できる概念ではない。

 平等というのは、存在に基礎を置く概念である。究極的には、死の前の平等である。人間は、存在という点において平等であり、存在から派生とする権利と義務において平等なのである。そして、権利と義務は、自己に対して作用反作用の関係にある。自己の内に向かえば、義務となり、外へ向かえば権利となる。
 選挙権は、自己に対しては、義務であり、国家に対しては権利である。教育は、自己に対しては義務であり、国家に対しては権利である。納税は、自己に対しては、義務であり、国家に対しては権利である。国防は、自己に対しては義務であり、国家に対しては義務である。この様な自己と国家に対する関係は、国家権力によって規定される。即ち、国家は、力である。

 国民国家においては、この国家と自己とは、一対一の関係にあるとする。この一対一の関係を、即ち、平等というのである。平等というのは、他者との比較において成り立つ概念ではなく。自己と国家との関係において成り立つ概念なのである。なぜならば、自己というのは主体的存在であり、唯一の存在であるから、他との比較が成り立たないからである。つまり、自己存在というのは、相対的存在ではなく。絶対的存在なのである。ただ認識において相対的なのである。

 一対一の関係にあるから平等は成立するのである。これは、神と人間との関係にも相当する。神と人間との関係が一対一であれば、神の前の平等は成立する。
 自己と死の関係は、一対一だから、死の前の平等は成立するのである。

 平等主義とは、この存在に根拠をおき。国家と自己との関係を一対一ととらえることによって成立する。
 その上で認識上の問題を相対的な対象とするのである。それ故に、認識の根源にある意識が生み出す対象は相対的な物である。

 経済的関係というのは、認識から生じる関係である。故に、相対的関係である。経済的関係に絶対的関係というのは成立しない。

 経済的関係というのは、経済的な位置から生じる。経済的な関係が、経済的な運動を生じさせる。故に、経済活動の原動力は、経済的位置から生じる。経済的な位置から生じる力、位置エネルギーは、差によって決まる。
 経済的活動は、差によって動かされる。つまり、差が原動力なのである。差は位置から生じる。
 故に、経済的な差がなくなると、経済的なエントロピーが増大し、経済活動は、停滞する。
 経済的な差は、大きすぎれば、対象間に関係を生じない。位置から生じる作用がお互いに影響を及ぼすほど強くならないからである。お互いが作用を及ぼすためには、対象間の距離が問題となる。差が大きすぎると相互の関係は成立せず。結びつきは生じない。差が極端大きい場合は、関係は分離する。
 また、位置は、対象間の距離と基準点と距離によって決まる。されに運動は、これに時間軸が加わることによって成立する。即ち、位置と運動と関係は構造的に決まる。
 また、位置関係に変化が生じなければ、又は、認識されなければ、運動は生じない。なぜならば、運動は、変化だからである。

 貧富は、格差によって生じる。貧富にとって格差は原因であり、結果ではない。貧富というのは認識上の問題であり。格差によって生じる意識なのである。貧富という概念は、相対的な概念なのである。格差は、偏りによって生じる。
 ある程度の経済的な差は、経済を活性化するが、極端な格差は、人間関係を破綻させ、経済活動を停滞させる。状況によっては、社会構造を破綻させる原因となる。

 経済的位置は、所有権から生じる。所有権は、交換価値の基となり、交換価値は、数値化する事によって貨幣価値に変換される。貨幣価値、債権と債務を生じる。
 所有権は、債権と債務を生じる。債権と債務は、認識上の作用反作用の関係にある。債権、債務の根源は所有権である。

 所有権は、所有したいと思う物、所有したいと意識する主体、所有を保証する権威の三つの要素によって成立している。債権、債務関係は、所有権から派生する概念であり、この三つの要素が関係している。

 資産には、経済的な価値がある。資産価値は、潜在的な価値である。資産は、貨幣価値に対置されてはじめて価値を顕在化させる。資産価値と貨幣価値は対置させられると債権、債務関係が生じる。つまり、資産は、貨幣と交換する権利となり、貨幣は、資産と交換する権利となる。資産と貨幣が交換される事を前提とした時点で債権・債務関係は成立する。

 経済的な位置には、潜在的な力がある。つまり、潜在的な価値がある。その潜在的価値は、所有権に由来し、債権、債務関係を生じさせる。同時に位置から生じる価値と運動から生じる価値を派生させる。
 位置によって成立する価値がストックを形成し、運動が生み出す価値がフローを生じさせる。ストックの部分が資産を形成し、フローの部分が損益を成立させる。

 バブルが発生し、崩壊する過程で相続税が払えないで自殺する者まで現れた。なぜ、この様なことが起こるのであろうか。それは、資産が生み出す債権、債務関係が原因する。

 期間損益と収支の関係を考える上で忘れてはならないのは、潜在的な価値にも債権、債務関係が生じると言う事である。しかも、それは顕在化していないと言う意味では未実現な価値を拠り所としているのである。
 土地という資産は、それを所有しているだけでは、資産価値は顕在化していない。しかし、この様な資産も、潜在的には、債権と債務関係を持っているのである。その潜在的な債権債務関係は、資産価値、即ち、資産の貨幣価値が顕在化した時に現れる。
 資産価値が顕在化する時とはどんな時かというと、所有権が移転するときである。それから、何等かの債権、債務関係が生じたときである。
 前者の典型的な例は、売買が成立した時であり、後者の例は、相続や清算が生じたときである。

 相続税対策を例にとると、例えば、首都圏のように地価が高額な土地に住む者にとって土地の資産価値が大きな負担となる。現実に住んでいる土地で売る気もないし、売るつもりもない、売れない土地に相続税という債務が発生する。しかも地価が高額で税率が高いと税金が払えなくなる。地価が高騰しているときは、見かけ上は、資産家という事になるが、所得が少ないという例もある。つまりは、資産家の貧乏人である。
 この様な場合、相続税対策として、資産の限度額ギリギリまで借金をし、資産価値を債務で帳消しにする。
 つまり、資金を調達することによって債務と債権が均衡させるのである。家の資産価値は、帳消しになるが、手元には、現金と負債とが残るのである。負債は、返済義務がある。つまり、債務である。そこで、調達資金で、収益を生む物件を購入する。むろん、その場合も債務と債権が均衡するように設定するのである。その収益を返済に充てるのである。
 ところが往々にしてこの収益は、金利に相当する金額であって返済額に相当していない場合があるのである。返済額には、元金の部分が加算されるからである。そうなると返済資金が不足することになる。不足した資金はまた借金をして返す。地価が上昇をし続けている間は、この様なスキームが可能なのである。
 この様な相続税対策が横行し、地価の上昇を招き、結果的にバブルが発生した。バブルが発生すると地価が、ますます上昇し、資産価値が上昇する。そこでまた、借金をして債権を債務で帳消しにする。イタチゴッコである。

 土地を担保にして借金をすると一方に負債という債務が派生する。もう一方において、現金を手に入れる。現金は、債権の一種である。つまり、現金を中心として債務、債権の関係が発生するのである。この債権と債務は、関係が成立した時点では等価なものである。

 債権と債務の均衡の上に成り立っている。利益が生じるのは、時間的な価値が生じるからである。負債には金利が、現金は、収益が時間的価値である。利益は、その時間的価値の差から生じる。
 ここに落とし穴がある。損益上に現れるのは金利である。しかし、負債の返済は、元本も含まれるのである。つまり、損益の均衡と収支の均衡が最初から崩れているのである。 それでも、地価が上昇しているときは、返済が滞っても追加融資で賄える。地価が下落に転じると追加融資も受けられなくなる。そして、債権と債務の均衡が破れ、結果的に、債権が失われると債務だけが残る。これが不良債権である。

 資産は、債権だと思ったら、債務だったなどと言う事がおこるのである。気がついたら全財産を借金のかたに取られてしまうなどと言うことになる。住んでいる人間にとって土地は本来、使用価値しかなく、市場価値など無縁なのである。ところがいつの間にか資産価値が生じ、その為に、全財産を失う羽目になるのである。それが、貨幣経済であり、市場経済である。

 収支は、資金の動きを示すものであり、資金から派生する債権、債務関係の働きは、表していない。経済活動は、この債権と債務の均衡の上に成り立っているために、資金の動きからは説明が出来ないのである。
 それ故に、企業会計は、損益をベースにしている。ところが、家計や財政は、収支をベースにしているために、所得の水準と物価の水準が逆転すると収支の均衡が崩れ、途端に破綻してしまうのである。
 少なくとも財政は、期間損益を基礎にして判断する必要がある。

 潜在的な価値、つまり、資産価値は顕在化すると債務が生じる。債務が債権を生じるさせるのに、時間的な差が生じる。それが流動性の高低である。それがまた利を生むのである。
 また、潜在的な価値を顕在化するというのは、流動性を持たせることでもある。つまり、一度価値を顕在化してしまうと、資産は、流動的なものに変質してしまうという事である。流動性というのは、譲渡可能だという事である。

 債務を増やせば、債権も増える。レパレッジ行為とは、この事を指して言う。一般的には、一方だけを見て、もう一方を見落としている場合が多い。
 実際は、債務と債権の均衡の上になりっているのである。

 貨幣経済は、潜在的な価値を顕在化する過程で、全ての資産価値を市場に引き出してしまう。例えば、家は、持っているだけならば、使用価値しかない。それが一度資産価値として表に現れると、債権、債務関係が生じ、流動的な資産に変質させられてしまうのである。

 期間損益というのは、元々は、収支関係を土台とした計算書であった。現金を中心にして債権債務関係で説明する計算書に変化してきたのである。
 基本的に、負債、資本、収益が収入を意味し、資産と費用が支出を意味する。資産と費用を分けるのは、速度の問題である。
 負債や資本の減少は資金の流出である。負債と資本、収益の増加は、資金の流入を意味し、逆に資産や費用の増加は、資金の流出であり、資産の減少は資金の流入である。これが重要なのである。
 同じ資金の流入でも負債や資本の増加は、債務の増加を意味し、収益は、債権の増加を意味する。逆に、資金の流出でも資産は債権の増加、費用は債務の増加を意味する。
 債権と債務関係によって資金の流れを捉え直すことによって資金の働きが明らかになった。同時に潜在的な価値を顕在化することにもなったのである。
 つまり、表に現れた資金の運動と裏で働く資金の運動を分離して処理することが可能となったのである。それが期間損益の意義である。つまり、経営活動を収益と費用の関係に置き換えて、効果対費用の計算を可能としたのである。ところが、実際の資金は、債務と債権の均衡の上に成り立っているために、期間損益からだけでは、真実の利益を導き出せなくなってしまった。そこで、収支が見直されているのである。

 ただ重要なのは、現在の市場経済は、債権と債務の均衡の上に成り立っていて、債務と債権の双方から考えないと経済現象の構造を理解することが出来ないという事である。

極端な格差は、経済に偏りを生む。


 自由と平等とは、近代社会を支える根源的な思想である。自由という概念は、間違って捉えられることが多い。同様に、平等に対しても間違った認識がある。中には、自由と平等を背反的な概念として捉えている者すらいる。
 自由も平等も、自己という存在を根本として成立している思想である。その点をよく理解すれば、自由と平等は、表裏を為す概念であることが解る。

 同等と平等は違う。人間は、人間として平等である。しかし、人間には個性があり、同じ人間はいない。人間は、生き物として平等である。しかし、人間の肉体は、同じではない。皆、違う。必然的に身体的能力も違う。人間は生きることにおいて平等である。しかし、人間が生きている環境は同じではない。皆、違う。また、人間が必要としているものの量も質も同じではない。人間は、対象を認識することにおいて平等である。しかし、認識の仕方は、同じではない。人間が何を信じ、何を好むかは、同じではない。
 人間は、食べなければ生きていけない。しかし、何を食べるかは、同じではない。好き嫌いがある。食べる量も違う。食べ物に対する良くも、執着心も違う。
 人は、恋をする。しかし、恋をする相手も趣味も違う。人は、何かを信じなければ生きていけない。しかし、信じるものが、金か、神か、国か、権力か、それは同じではない。平等と同等とは違う。
 人間は、存在において平等である。しかし、人間の認識は同じではない。 

 差を付けることが悪いのではない。差というのは、社会における自己の位置付けや働き、関係を認識する上で不可欠な要素である。ただ、その差が不合理な根拠にのっかていて、解消することが不可能な場合が問題なのである。
 不合理な理由というのは、例えば、人種、階級、民族、性別、家柄と言った事柄である。

 また、その差が、自分が生きている内に解消することがほとんど不可能である場合は、社会的にも、経済的にも、いろいろな問題を引き起こす。

 逆に、極端な同等主義は、経済の活力を喪失させる。経済的位置エネルギーが失われるからである。丁度、熱力学におけるエントロピーのようなものである。

 市場に、経営主体が、散在している状態が望ましいのである。つまり、コロイド状態がいいのである。市場の規模や次元に応じて適正な規模の経営主体が、適正な数、市場に存在することが前提なのである。経営主体が凝固している状態は、市場の機能が低下している状態である。公正であるか否かは、力関係の問題である。

 経済的な構造の全体は、経済を構成する個々の要素の経済的な位置、経済的な働き、経済的関係から成り立っている。この様な位置と働きと関係から生み出される格差は、経済を有効に機能させるための前提条件でもある。

 問題は、経済の構造を破壊してしまうような偏りである。そして、この様な偏りを生み出す構造的な格差である。つまり、格差は、構造を有効に機能させる前提であるだけに、健全な構造を歪めるような構造的な格差が危険なのである。

 経済的な場は、人的な場、物的な場、貨幣的な場からなる。そして、これらの場を結び付けているのが、経営材主体である。経営主体は、基本的に、共同体と個人である。共同体には、家族、企業、国家がある。そして、貨幣経済では、貨幣を媒体として財の分配が行われる。その前提は、貨幣の分配であり、それは、共同体内部で労働に対して行われるものと市場において財との取引によって行われるものの二つがある。この二つの場が有機的に組み合わされることによって経済の仕組みは形成される。

 その根底には、所有の概念がある。所有の概念は、所得と消費と貯蓄に結びつく。この所得と消費と貯蓄に偏向が生じると経済の仕組みに歪みが生じる。経済の仕組みの歪みは、極端な格差として現れる。

 経済の仕組みに歪みを与えるような偏りは、主として貨幣制度や貨幣市場の偏りによる。それは、物的市場や人的市場の働きが貨幣市場に、又は、貨幣制度に有効に反映していないことの証拠である。
 資産の社会的遍在や通貨の過剰流動性、負債と資産価値の不均衡から生じる不良債権問題、これらは、貨幣制度の歪みが生み出したものである。そして、その根底にあるのは、会計制度や法制度(商法や会社法、証券取締法等)、金融制度、為替制度、税制と言った制度的歪みである。また、市場の歪みである。

 この様な制度、また、市場の歪みを是正するのが、所得の再分配構造なのである。

 極端な格差は、経済の構造を分裂してしまう。つまり、構造内部に亀裂を作り出し、相互の交流が阻害されるような状況をつくの出す。
 極端な場合、二極に分裂させてしまう。また、幾つかの階層を形成する場合もある。

 サブ・プライム問題においても問題が発生したのは、高所得者層と低所得者層である。重要なのは、健全な部分は、中間にあり、その中間の層が薄くなってきたことなのである。中間層は、比較的健全なのである。つまり、格差の拡大による社会の分裂が市場を引き裂いているのである。

 アメリカの医療制度の仕組みが好例である。助けを求める病人がいて、優れたい施設と医者がいるのに、どちらも窮乏する。それは、両者を結び付ける仕組みが機能していないからである。そして、利用者を結び付ける仕組みには、市場と共同体があると言うことである。市場は、金の仕組みであり、共同体は、人の仕組みである。この両者が上手く機能していない、関連付けられない。それが問題なのである。

 物も在れば、人もいる。最新の設備もある。需要もある。なのに経済が機能しない。一方で、ホームレスが溢れ、家が不足しているはずなのに、他方で、家が余っている。
 アメリカの老舗の大手新聞社、トリビューンが破綻した。優秀な人材も設備も温存されている。つまり、新聞を発行する要素は揃っているのである。なのになぜ、新聞が再生できないのであろうか。
 つまり、金の問題なのである。金が機能していないから問題なのである。問題なのは、金の働きなのである。金額の大きさに幻惑されて貨幣の働きを見落としている。貨幣は、本来、労働と分配とを結び付ける働きが要求されてきたのである。つまり、新聞を発行し、読者に送り届け、その仕事の評価をする。また、その仕事の必要度によって仕事を評価する。その手段、道具として貨幣は用いられた。そして、それは価格によって維持されてきたのである。しかし、今は、株価のと言った財の価格以外の要素や、また、市場の論理の方が優先され、適正な価格が維持できないのである。
 重要なのは、経済にとって金は道具に過ぎないという事である。極端な話し、貨幣がなくても経済は機能する。しかし、経済がなければ貨幣は、機能しないのである。本来、貨幣は、手段、道具である。つまり、経済においては、補助的手段、従なのである。それが経済を牛耳っている。そして、貨幣の振る舞いによって実体経済が機能不全に陥りつつある。貨幣の動きを抑制できないからである。
 つまり、資金が余剰な所から資金を調達し、資金を必要としているところに資金を融通するのが、金融本来の機能だったのが、資金が余剰な所に、資金を供給し続け、反対に資金が不足しているところから資金を引き揚げたのである。それが資金の流れに偏りを生み出したのである。それを抑止できるのは人でしかない。

 ただ生産性の効率ばかりを求めて分配上の効率を忘れれば、分配はアンバランスらになる。効率というのは、その仕組みの目的から判断されるべきものである。

 プロ野球にしても極端にチームの数を減らせばチームの生産性は、上昇するだろう。しかし、それで市場の効率が上がったと言えるだろうか。
 あまりにも選手間の所得の格差が広がれば、プロ野球の健全な発展が阻害されるのは明らかである。

 日本が最も成長した時代は、皆、中産階級だと自覚していた時代です。中小企業に活力があった時代です。

 偏向的な格差は、所得や所有の偏りを意味する。所得の偏りは、経済の不活性化を意味する。一人の人間の消費よりも多くの人間の消費の方が市場を活発にするからである。

 自己を社会の中に位置付けられる幅の格差の範囲で労働と分配の仕組みを構築するのが構造経済である。




                    


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