自由主義

自由主義について


 人の世には、自由人か、奴隷しかいない。しかし、自由人か、奴隷かは、自分次第であることを忘れてはならない。だから、自由か、隷属かしかないのである。
 良い例が、金である。金を使うのか、金に使われるのかによって金に対して自由であるか、金の奴隷になるかが決まるのである。
 いくら金を貯めたところで、守銭奴は、金の奴隷に過ぎない。

 自分達の生活は、何も変わっていないはずなのに、株価の下落が、人々を奈落の底へ引きずりむ。
 真面目に、正直に働いているのに、何も報われない。その一方で、博打のような商売をして富を築く者もいる。何事も、金、金、金、金次第に思えて成らない。一体、何が、そうさせているのであろうか。
 金さえあれば、何でも自由に出来る気がする。しかし、金を手に入れれば、本当に自由になれるのだろうか。金で手に入れられる自由とは何なのだろうか。

 現代人は、真実を見抜く力を失っている。真実を見抜く力がなければ、自由などえる事は出来ない。いくら自由、自由とがなり立てたところで、それは、虚構に過ぎない。

 自由というと、権威や権力に囚われないことだと錯覚している者が多い。だから、自由人は、反権威、反権力でなければならないと決め付けている。しかし、その決めつけが、そもそも不自由なのである。
 反権威、反権力などと気取っていること自体、権威、権力に囚われているのである。

 人間は、社会的生き物である。社会にあっては、従うか、従えるかの選択しかない。ただ、自由は、従うか、従えるかの問題ではない。その点を誤解してはならない。人に従ったから、組織に従ったから不自由なのだというのは錯覚である。大切なのは自分の意志である。意味もなく逆らうのも不自由なことである。逆に、自分の意志に反して盲目的に従うのは、隷従である。
 忠誠、忠義というのは、自らの意志の問題であり、国家への忠誠と国家への隷従は全く違う。前者は、自由であり、後者は、奴隷である。だから、忠誠は誓いである。

 自由というのは、自己の主体性によって自己実現をする事である。つまり、自分の信じるところによって決断し、行動する事を意味する。
 肝心なのは、自分がどう思うかである。自分の判断が、たまたま、その時の権威や権力に反する場合もあるし、また、権威や権力に従う事になる場合もある。それは、権威や権力に逆らいたくて、あるいは、従いたくて従うのではない。自分の意志がそうさせているだけである。それが自由人である。先ず自分である。だから、自分のない人間には、最初から自由などないのである。

 従うのも自由。従わないのも自由。根本は、自らの意志である。

 良い例が金である。多くの人は、金を自由に出来ると思っていながら、金の奴隷になっている。守銭奴に成り下がっている。金さえあれば自由になれると思い込んで、金の魔力に支配されているのである。
 金は、手段である。金を手にして何をするかが、問題なのであり、金銭を馬鹿にするのも、金銭を崇拝するのも、金の奴隷であることに変わりはない。問題は、金を何に使うかである。そして、その為にどれ程、金が必要かである。幸せになるために、一所懸命働いて金を貯めたとしても、金のために不幸を招いたら意味がない。金を必要に応じて手段として適切に使えれば、その時、金に対して自由といえる。そして、金を大切にすることが、出来るのである。金に対して盲目になった時、人間は、金の奴隷になるのである。
 これは金融危機の根っ子にある。つまり、金融危機は、金に対して盲目になったが故に起こったのである。金が悪いわけではない。金の問題ではなく。人間の問題である。

 金は、贅沢な生活を保障してくれるかもしれない。しかし、ただ、金の力に護られて自分の力で生きられないとしたら、それは家畜と同じである。一見、なに不自由なく生活しているように見えて、それは家畜の自由に過ぎない。真の自由ではない。真の自由とは、例え飢えても自分の力で生きている者にしか与えられない時間である。

 自由を知るためには、真実から目を背けてはならない。目の前にある虚飾を剥ぎ取ると真実は見えてくるのである。
 市場の背後、貨幣の背後にあるものは何か。
 そこにあるのは、人々の生活である。ささやかな幸せを追い求める姿である。本当に自分は何を求めているのか。自分が本当に求めているものがわからなければ自由になりようがない。

 自由にとって不可欠なのは、意志である。意志は、自己善を基礎として発揚される感情である。意志の根源は、理想とそれを実現するのに必要な倫理観である。理想も、倫理観もないところに自由はない。あるのは、欲望であり、快楽である。

 自由とは高貴な精神である。自分の不正や悪逆非道を正当化するような横暴ではない。法を無視し、おのれの我を押し通すことではない。暴力で相手をねじ伏せることでもない。自由というのは、誇りである。制約を克服することにある。スポーツ選手が自由にプレーをするのは、ルールを無視することではなく。おのれの技と肉体を磨き、自分の内に取り込んでしまうことによって達成される。自由とは、スポーツマンシップでもある。

 制約があるから、自由は阻害されるのではない。制約を克服するから自由になれるのである。制約を制約として感じなくなるから自由なのである。
 スポーツは、ルールによって自由になれる。ルールがなければ、スポーツは、最初から成り立たない。自由にプレーをするためには、ルールを自分の内に取り込み、無意識に行動できるようにまでなることである。ルールがなければ、スポーツはただの喧嘩である。

 人は、一度ルールを作るとルールに縛られるようになる。それで不自由を感じたら世話はない。不自由だと思ったら、ルールを変えればいいのである。それがルールである。ルールがなくてもスポーツは成り立たない。しかし、ルールに縛られても自由は成り立たない。結局、その根本にあるのは、人間の意志である。ルールに従うのも人間の意志。ルールを変えるのも人間の意志。そう考えると、自由は人間の意志の中に存在する様に思える。

 日本の学校のように、成績が全てであるような社会では、人格も、何も、全て成績に基づいて判断される。こうなると、成績があって、人格があるようになる。しかし、本質は、その人にある。成績にあるわけではない。

 会計制度は、企業実績を写す鏡である。企業そのものではない。しかし、会計制度確立されると会計制度によって企業の生殺与奪が決められる。しかし、会計制度は、企業経営の実体とは無縁である。企業実体を測る尺度に過ぎない。
 優等生が、成績で人を判断するように、会計制度か定まると企業の実態がどこかへ消えてしまう。そして、決算をよく見せるために、企業経営を犠牲にする様なことが起こるのである。
 それでは、人間は規則に縛られて自由には慣れない。何のために、規則や法があるのか。それは人間を自由にするためである。

 自由は、その人の位置と働きと関係しだいである。お互いがお互いを制約と感じるか、仲間だと感じるかによって違う。

 そして、その位置と運動と関係を保証するのが、法と倫理である。

 人間は、一体何に、不自由を感じるのであろうか。物質的な欲求を満たされないことによるのか。自分の欲しい物が手に入らなかったり、やりたいことが出来ないことであろうか。確かに、物質的なことに不自由さを感じるかもしれない。しかし、本当の不自由というのは、自分の正義が阻害され、貫けないことである。根本は、自分の意志である。自分意志がない者、例えば、自分が何を目標としているのかが解らない者は、不自由を感じる余地が最初からないのである。

 政争に明け暮れている、政治家達には、国家観がない。思想がない。ただ権力を握ればいいと思っている。権力を握った後にどうしたらいいかなど考えてもいない。それは、自由ではない。権力欲に取り憑かれているのである。
 他人事である。商売人には、商業道徳も、道義心もない。金が儲かればいいと思い込んでいる。それも自由ではない。欲望の亡者である。欲望に操られているだけである。

 人間には、他人を騙したり、他人の者を奪ったり、他人を抑圧する自由はない。それは自由ではない。暴力である。

 ただ金儲けのために、道義心も法も無視して傍若無人に振る舞う事を自由とは言わない。それは、自由市場を破壊することである。規律のない市場に自由はない。自由市場は、無法地帯ではない。自由な場とは、無法、無頼が横行する場ではない。無原則な競争を奨励するのは、自由の原理を知らない者だ。市場原理主義者の中には、市場の原理に無知な者もいる。
 重要なのは、国や社会の在るべき姿である。国や社会に対する理想があってこそ、自由市場は成り立つ。

 特に、経済的に自由になろうとしたら、強い意志と信念が必要である。なぜならば、経済的に成功しようと思うならば、欲望と誘惑に打ち勝つ必要があるからである。
 考えようによったら、金の魔力にうち勝てなければ、真の経済的に自由にはなりえないのである。皮肉なことに金は最も強力な武器であると同時に、使い手にとって最も、危険な武器でもあるのである。

 市場経済で重要なのは、市場の規律である。しかも、その規律は、権力によって与えられるものでも保証されるものでもない。市場に参加する者全てによって守られるべき規律である。自由は、与えられるものではなくて、勝ち取るものなのである。名誉のために、名誉の名の下に・・・。

 我々、日本人は、自由か。それは、日本人、一人一人の生き様、意志によって明らかにされる。自らの意志というのならば、それは誇りである。誇りの持てる生き方をしているかによって自由であるか、否かは決まるのである。

物価と自由市場


 多くの日本人は、自由と放任とを錯覚している。自由というのは、何の制約も干渉もないという事を意味するわけではない。また、自由を保証するためには、何もしない方が良いという事を意味しているわけでもない。自由市場と言う場は、何の制約も、制限もない場を指して言うわけではない。自由社会と無法社会とは違う。そこを履き違えるとそれこそ、自由社会は無法地帯になってしまう。
 内面の規範と外的規則や法との整合性の問題である。制約や干渉から開放されることではない。内面の規範、即ち、内面の規律を前提とし、社会全体との法や規則を構築した結果、あるいは、過程において成立するのが自由社会である。

 自由市場は、突き詰めた時、経済的無政府主義に変質する危険性がある。それは、市場の持つ構造を理解せずに、競争が市場の原理などと無闇に絶対的な法則を持ち込むからである。市場は、スポーツのフィールド同様、人為的に作られた場である。自然の法則のようなものを持ち込むこと自体、馬鹿げているのである。むろん、スポーツのフィールドにも自然の法則が働いているように、市場にも自然の法則は働いている。しかし、それは、スポーツのルールのような部分ではない。

 現代社会には、何でもかんでも、安ければいいと言う風潮がある。しかし、本当に価格が安ければいいと言うのであろうか。中には、目玉商品として、原価割れして売っている商品もある。また、競争相手を駆逐する目的で、不当に安い値段で売られている場合もある。

 無邪気な子供と自由人とは、物事に囚われないという点においては一致しているが、前者は、外的な法や規則を知らないという点において違う。故に、子供の無邪気さは、子供だから許されるのであり、自由とは言わない。

 自由市場というのは、何の、規制も制約もない市場という意味ではない。むしろ、自由市場というのは、規制や制約があるから成り立っているのである。

 資本主義は、民間企業を土台にして成立している。それでありながら、民間企業を蔑ろにしている。それが、資本主義が、有効に機能できない要因となっているのである。
 企業は、所得、税金、金利、財の源泉である。それは、生産、消費(生活費)、収入、雇用を生み出す基盤であることも意味する。つまり、企業は、資本主義の要、柱なのである。
 特に、中小企業や個人事業者、自営農は、市場経済や市民民主主義の担い手である。それは、個人主義社会の担い手であることも意味する。

 その企業が社会で必要であるかどうかは、企業評価をどうするかの問題である。

 間接金融から直接金融へと変化することによって融資から投資へ、担保価値から株主価値へと企業価値が変質した。
 しかし、担保価値も株主利益も短期的な利益を基にしたものであり、事業目的や長期的均衡を前提としたものではない。本来の企業価値は、その事業目的と社会的貢献であるべきなのである。
 そして、企業目的や社会的貢献度の高い企業は、収益が上がらなければならないのである。

 そう言う意味では、本来、企業を評価するのは、企業の収益力である。しかし、企業の収益力を決定は、何によって、どの様に決めるべきかが問題なのである。
 それを市場に全て委ねるべきかどうかの問題である。市場に委ねるとしたら、それは市場が適正な価格を維持できるという前提があってである。

 マスコミは、株価が下落すると大騒ぎをする癖に、市場価格が下がると大喜びをする。間が抜けているのである。株価もバブルのように異常な高騰は、危険信号なのである。同様に市場価格の異常な下落も危険信号である。

 企業が、適正な利益を上げられないのが問題なのである。企業が、適正な利益を上げるためには、適正な価格が維持されることが前提となる。
 しかし、過当競争による不当に安い市場価格が先行し、安い価格が実現できないのは、経営努力が足りないからだと決め付けられれば、必然的に経営は、経費を削減せざるを得なくなる。その向けられる先は、人件費の削減である。さらには、会計を操作するしかなくなるのである。

 実物市場によって収益があげられないから会計を操作して利益を上げることを算段する。勢い貨幣市場の内部で利益を上げようとする。貨幣市場は、実体を持たないから、それは、過剰利益、余剰利益となる。過剰利益、余剰利益は、過剰流動性となって、更に、金融市場に向かい経済を虚構にしてしまったのである。
 それは、貨幣の流通に偏りを作るからである。貨幣が余っている過剰なところと不足しているところの極端な偏りを生み出す。実物市場から通貨を吸い上げ、貨幣市場に、一方的に、流し込んでしまう。
 それは、実物市場において適正な価格が維持されないからである。

 価格は、適正な価格を前提とするのであって、廉価でも、高価でもない。況や利益を度外視した不当廉売を言うのではない。
 価格競争力を失うのには、それなりの理由がある。確かに、中には、経営者や従業員の問題も含まれている。全てが、経営者や従業員の責任だとは言い切れない。為替の変動や原油価格の高騰、戦争や災害、所得水準の差と言った不可抗力な部分もあるのである。
 また、低価格には、低価格なりの理由がある。経営努力の結果と言う事もあるが、不当廉売や余剰品、横流し品、不当表示であると言った不正な理由も隠されているのである。保安や、検査、保障の費用を削減したり、品質を落としている場合もある。最近でも、食の安全やマンションの耐震強度の偽装が問題となった。
 また、生産地の人件費や労働条件の問題と言った要件も含まれる。場合によっては、貧困や不当労働の輸出と言う事にもなりかねないのである。

 大体、価格というのは、一つの情報である。価格が形成されるには、それなりの理由があるのである。それを価格という情報から読みとることも重要なのである。それをただ安ければいいと言うのは、あまりに短絡的である。市場だけで適正な価格を決定できるわけではない。
 適正な価格を維持するためには、価格の構造を明らかにする必要がある。そして、ルールの確立が必要とされるのである。放任していればいいと言うわけには行かない。放任することは、自由の市場の活動を阻害することになるのである。

 本来、経済体制というのは、労働と分配のための仕組みである。その仕組みの一つに市場があり、その手段、道具の一つに貨幣があるのである。つまり、市場や貨幣で重要なのは、市場や貨幣の働きである。

 本当の価値は、貨幣の側にあるわけではない。実体の側にあるのである。故に、貨幣の振る舞いによって実体的価値を見失ってはならない。

 インフレは、基本的に貨幣価値の下落であり、デフレは、貨幣価値の高騰である。
 そして、インフレもデフレも極めて貨幣的な現象なのである。
 つまり、インフレやデフレを考える場合、何に対して何の貨幣価値が下落し、また、上昇したかである。それを関連付けることが重要なのである。
 何と関連付けられるかによってインフレやデフレという現象も変質する。故に、インフレもデフレも一種類ではない。インフレもデフレも一種類でないが故に、原因も一種類ではない。

 特に、注意しなければならないのは、ストックインフレとフローインフレである。フローインフレは、通貨の流量の管理が重要であるが、ストックインフレは、通貨の流量としては表面に表れてこない。そして、貨幣価値の分離、乖離現象を引き起こす。ストックインフレは、俗にバブルと言われる現象で直後に急激なストックデフレを伴う場合が多い。それは、ストックインフレの際には、債権が信用拡大するが、一転してストックデフレになると債務が信用収縮を招くからである。
 フローとストックは、相互に関連しており、これを関連付けて考える必要がある。

 貨幣価値は、財と、貨幣と、人の位置と運動と関係によって定まる。故に、インフレも、デフレも財と、貨幣と、人との位置と運動と関係の乱れによって生じる。その乱れは、その背後にある仕組みによって引き起こされる。

 貨幣は、流通することで、その効用を発揮する。貨幣は、運動を前提とするが故に、時間の関数である。市場において価格を構成するのに重要なのは、貨幣の流量と速度である。そして、時間が陰に作用した場合、貨幣価値は、資産価値を形成する。

 価格を構成する要素が外的要因の何と関連しているかが重要なのである。つまり、何に関連した変数であるかによってその運動や働きに違いが生じるからである。

 ところが現代人は、この関連づけが下手である。また、組織が巨大になると相互の位置や機能が見えなくなり、要素間の関係が認識しにくくなる。その為に、価格が制御不能になり、物価を制御できない状況に追い込んでしまうのである。
 全体と部分との関連付け、関係付けができなくなると部分の働きを調整して全体を制御する事が困難になるからである。
 自分の仕事と全体の成果や自分達の賃金と収益、物価とを関連付けて考えられなくなる事が問題なのである。
 産業で言えば、労働者、経営者、株主、国家、消費者、金融機関、取引業者がそれぞれに影響を及ぼしながら、互いに協調し合う関係が築けなくなる。
 関係を最初から対立的にとらえるから問題がこじれるのである。競争すべき所は競争すればいい。しかし、共同ですべき所は、共同し、助け合うべき所は、助け合うべきなのである。
 基本的には、一つの目標は同じであり、労働者も、経営者も、株主も、最終的な利害は一致しているのである。企業を潰してしまえば元も子もないのである。組織や社会が幾つかの階層に別れて争うことほど非効率な事はないのである。

 物価は、価格を構成する要素の変動によって決まる。その場合、価格を構成する要素が、価格に占める割合の変化や、要素の持つ性格に注意する必要がある。そして、その変化を引き起こした要因、外的要因と内的要因の因果関係を明らかにする必要がある。

 特に、価格の内的要因に対して、外的要因の何が影響を及ぼすかであり、その場合、重要なのは、水準である。例えば、外的要因には、為替的要因、原材料などの仕入れ価格的要因、人件費のような国内の相場的要因などが重要な作用を及ぼす。その場合、石油価格の水準が何の価格に影響を、どの程度及ぼすかが、重要となるのである。

 物価の構成は、製造、物流、販売のどの段階でかかる費用かによって質的な違いが生じる。例えば、人件費が良い例であるが、製造段階では、人件費は製造原価に含まれる。そして、販売段階では、販売費になる。自動車の価格において、それが製造原価なのか、販売費なのかは、重要な意味があり、自動車産業の構造にまで影響を及ぼすことになる。

 物価を左右するのは、価格を構成する個々の要素の水準である。この水準の変動が、価格の構造的変化や、価格の上昇圧力、下降圧力として働く。

 この世界には、奴隷と自由人しかいない。それ以前は、農奴、小作人、従者が中心の世界であった。農奴から解放されたのは、経済的に自立した市民である。しかし、社会が組織化され、賃金労働者が増えると、結果的には、自由が奪われ、組織に従属せざるを得なくなるのである。

 組織は、巨大化すると部分としての個人の役割、位置付け、全体との関係付けが困難になる。その為に、全体の制御、統制が出来なくなり、組織としての自律性を喪失する。
 特に、組織内部が対立的な勢力によって分裂すると統一性が保てなくなる。 

 組織は、双方向の情報が交換できる範囲によって一つの単位が形成される。その単位を基にして、管理が可能に範囲で階層的に組み立てられるのである。
 情報革命は、この情報の双方向の交換が可能な範囲を飛躍的に拡大した。しかし、基本的に限界があることには変わりがない。また、情報処理の個人の能力は、大差ないのである。故に、組織の拡大は、個人と全体とを乖離させ、全体の制御を困難にさせる。

 民主主義の原点は市民革命であり、市民というのは、個人事業主や自作農家と言った経済的に独立した層なのである。経済的に独立しているからこそ、政治的にも独立していられたのである。

 自由社会というのは、単一化を目指す社会ではなく、多様性を目指す社会である。市場も、寡占、独占による単一化ではなく。多様性が重要なのである。多様的な社会だからこそ選択の自由が保証されているのである。それを前提とした仕様や規格の標準化であり、統合なのである。

 独占、寡占は、経済の官僚主義化をもたらす。平板で、適正な規模の自律した組織、機関が組合わさることによって形成される有機的な体制こそが、構造社会なのである。

 中小企業や自営業が淘汰されれば、寡占・独占は進む。独占、寡占は、共産主義化と実質的には変わりない。また、それは、政治的には、全体主義へと繋がるのである。

 今は、市場原理主義に支配され、放任主義的な政策をとるアメリカでも、かつては、独占は禁じ、金融機関の横暴な行為を厳しく監視した時代もあったのである。むしろ。それこそが、本来の自由主義精神である。

 企業は、壮絶な競争によって体力を消耗している。利益を蓄積できなければ力が出ない。経営者も、従業員も、消費者、銀行、国家も、会社を食い物にしている。資本主義というのは、不思議なことに、資本主義の担い手である企業を蔑視する傾向がある。
 それが、資本主義をおかしくしている最大な原因であることに早く気がつくべきである。企業が良くならなければ、市場経済も貨幣経済も成り立たないのである。
 特に、市場経済を支えている中小企業、個人事業者、自作農家などが健全な経営が出来ることが前提なのである。

 現代人は、家族、企業、国家と言った自分を支えていてくれるものを大切にしない。蔑ろにしている。だから、自分の人生も大事に出来ないのである。

 結局、私利私欲に走っていると言われても仕方がない。

 企業内組合、終身雇用、年功序列というのは、企業が共同体である証左であった。
 共同体であるから、結果に対して構成員は、連帯的責任を持たされたのである。そして、目的を共有することも出来たし、自分達の仕事と収益とを結び付けて考えることが出来た。そして、企業も自律的な働きが出来た。
 労働は、共同の証であり、助け合いである。人間と人間との強固な繋がりである。労働の場は、社会である。
 労働の場は、自己実現の場でもある。かつて、労働と人生、生活は、直結していた。しかし、産業革命以降、労働は、ただ金儲けの手段でしかなくなった。
 労働の成果は、金だけで測れるものではない。
 労働の喜びは、生きる喜びであり、また、人生そのものである。また、自然や神と接する機会でもある。それを蔑ろにすることは即ち信仰の否定でもある。日々、その日の糧に感謝し、収穫の折には、神に感謝し、お祭りをした。
 今の祭りは単なる式典、騒ぎに過ぎない。神や自然への感謝の気持ちは薄れてしまった。工場では、自分達の生産物に感謝することすら忘れてしまった。それこそが人間の奢りであり、神への冒涜なのである。

なぜ、企業は儲からないのか。

 なぜ、企業は、儲からないのか。これは、多分に思想的な問題があると思われる。一つは、市民、小市民という存在が、否定的にとらえられてきたという事がある。市民、小市民は、時代の担い手でありながら、常に否定的存在として扱われてきた。
 そして、地代、利子、利潤に対しても否定的だったという事である。
 また、経済は、常に、成長し、市場は常に拡大するという事を前提としている。その上で、物価、所得を常に上昇するものとして設定している。

 自由は、私的所有権の裏付けによって成り立ってきた。そして、その担い手が、個人事業者や中小企業、自作農達であった。ところが現在、個人事業者や中小企業、自作農達の経営が成り立たなくなりつつある。

 市場とは、適正な利潤、適正な利子、適正な所得、適正な税収を実現できる場でなければならない。
 ところが、利子や利潤に対する、一種の罪悪感が市場の機能を誤らせることになっている。我々は、市場に何を求め、何を期待しているのかを明らかにする必要がある。

 なぜ、企業は、儲からないのか。なぜ、儲かっていないのに、企業は経営を継続できるのか。その謎を解き明かす為には、先ず儲けの源泉である利益とは何かを明らかにする必要がある。
 ただ、儲けと利益とは必ずしも同じではない。なぜならば、儲けは、収支からきた概念だからである。しかし、今日では、儲けというと利益を基本的にして考える。また、利益の意味がわからないと、儲けの意味もわからなくなる。故に、儲けの意味を考える時、何れにしても儲けは、利益を下敷きにしているために、利益という概念を明らかにする必要がある。

 利益は、創られた概念である。利益というのは、所与の概念ではない。儲けを明らかにするために創られた概念である。費用も、創作された概念である。それを先ず念頭に置く必要がある。利益というのは最初から決まっているように多くの人は錯覚をしている。しかし、最初から利益というのは決まっているわけではない。例えば、何等かの数学の試験の答えのように、数字を当て嵌めれば、自動的に答えが導き出されるようなものではない。条件や、設定が違えば、導き出される答えは違ってくる。その証拠に、日本の会計基準に従ったら、黒字なのに、アメリカの会計基準に従ったら赤字になったなどと言う例は、往々にして起こる。つまり、利益は創られるのである。

 では、利益は、何のために、創られた概念なのか。それは、収支では説明が付かない事態が発生したことによる。収支では説明が付かないと、投資家に説明が付かない。だから、利益という概念を作って、儲けを説明したのである。と言うよりも、収支は合っていないが、儲かっていると説明がしたかったのである。だから、儲からなくなると、経営者は、利益の意味を少しずつ変えて説明しようとする傾向がある。つまり、利益という概念は、恣意的な概念なのである。
 恣意的という事は、思想だと言うことである。利益とは思想である。だから、現金主義とか、実現主義とか、発生主義だとか、債務者主義、債権者主義、取得原価主義などというのである。つまり、利益に対する考え方は、主義なのである。儲かっているか、いないかは主義の違いなのである。

 利益とは、会計上定められた原則に基づいて計算された収益から会計上定められた原則に基づいて計算された費用を差し引いた差額である。利益とは、会計の原則によって作られた差額である。故に、何を収益とし、何を費用とするかが重要なのである。この収益と費用の概念が、利益計算の基礎である。そして、収益は、実現主義によって、費用は発生主義によって決まる。

 近代になり、運河や鉄道、鉄鋼、電力と巨額の資金を必要とする事業が勃興してきた。この様な事業は、初年度でにおける支出が巨額すぎて収入には見合わない。短期的な収支が均衡することもない。それでは投資家を納得させることができないので、期間損益計算を成立させ、利益概念を確立する必要があったのである。
 つまり、利益概念、同様、費用の概念も創作されたのである。

 つまり、短期的には、収支は均衡しないからである。そこで、支出を費用に置き換え、時間的に平均化、標準化しても期間損益を確立した結果、利益概念が生じたのである。

 利益とは、ある意味で便宜主義的な考え方である。

 利益が資金調達に関わっているからである。つまり、利益は、資金を調達するために発生した、言い換えると方便なのである。
 この点を忘れてはならない。利益は概念であり、何等かの実体があるものではない。だから、利益は、会計的に作られた概念であり、会計的に作られる概念なのである。

 儲かったと言って土地を設備を購入しても結局次期以降の負担を増やすのがおちである。その期の利益から控除できるのは、その期に発生する償却費と金利だけであり、次期以降に、費用負担や資金負担を増やすだけである。不動産は、もっと深刻で、金利部分しか費用化できない。返済資金や維持費が、経営負担として重くのしかかることになる。売却しない限り利益には関係ないのである。しかも、収益は一定しているわけではない。次期以降、儲からなくなると償却費や金利、元本の返済資金が、逆に、収益や資金繰りを圧迫することになる。しかも、売却すると利益の部分は、収益勘定となり、税金が課せられてしまう。
 かといって儲かったからと言って借金を返済するとその期に費用化できるのは金利部分だけでかえって元本を返済すると費用は削減されてしまう。その上、元本の返済は、損益計算上に現れないために、利益は減らない。利益が減らなければ、利益には税金が課せられる。つまり、元本の返済に充てた資金と納税資金が余計な資金負担となり資金繰りが苦しくなる。つまり、借金を返済したが故に、資金繰りが悪くなり、下手をすると資金繰り倒産を招く。

 好、不況は、波のように押し寄せる。景気は良い時ばかりではない。好況時に信用枠一杯に借金をすると不景気に転じたとき、忽ち、逆資産効果が働いて、企業の首を絞める。ところが時価会計は、強制的に信用枠を限度額一杯に使い切ることを強要する。そうなると一旦、景気が後退局面に入ったとたん、負債圧力が産業を押し潰し、反発力を奪ってしまう。

 だから、昔は、景気が良い時は、商売に専念し、不景気な時こそ、設備投資を更新しろと言われたものである。
 つまり、力を蓄える時は、力を蓄えさせるべきなのであり、内部留保に課税したり、また、配当や多額な役員報酬によって社外流失を促すことは、産業の潜在的能力を奪うことなのである。

 儲かっても利益に課税される上、未上場会社は、内部留保にも課税される。それは、未上場会社、同族会社は、悪だという発想に基づいている証左である。

 自前の資金で事業を興した場合と借金、負債によって事業を興した場合、費用的には、金利分しか違いが生じない。償却資産は、自前であろうと、借金であろうと資産計上された上で、その期に発生する償却部分だけが強制的に費用化されるからである。また、非償却部分は、売却されない限り、貸借上で処理され、元々、費用化されずに、損益上には、現れないからである。長期借入金の元本部分は、費用化されないため損益上には現れてこない。費用として損益に関わるのは金利部分だけなのである。

 なぜ、負債の元本の返済を費用化しなかったのかというと、それは、負債の性格による。第一に、負債を貸借上に載せた段階で負債は、金利と切り離さざるを得なくなったのである。第二に、負債は、資産の対極に位置する性格を持っているからである。第三に、資本と同質の性格を持つからである。負債部分の返済は、資本への転化を意味すると認識される。また、負債と金利を明確に切り離し、区分することで費用の性格を確定する意味もある。つまり、資産と負債は、時間の関数であり、現金化するのに時間を要するからである。資産の売却益は利益として処理されるのと同じ意味である。

 自己資本でも、他人資本でも、損益上に大差がなければ、初期に資金を多く集めて、大規模な設備投資をし、ランニングコストを抑えて、単価を切り下げた者の方が事業を有利に展開できる。その前提は、大量生産、大量販売である。

 ただ、大量生産、大量販売型産業は、償却を遅らせる事によって固定費を下げて単価に掛かる原価を切り下げることが出来る。また、量を売り上げることによって固定費の負担も切り下げられる。そうなると利益を度外視した乱売合戦を引き起こす危険性を孕んでいる。

 また、初期に多額の資金を集めると言っても資本にはそれなりのコストが掛かる上、集めた資金の金利に相当するだけの経営実績を上げることが要求される。

 投資家は、キャピタルゲインを目的とするようになると事業の内容でなく、短期的な株の値動きを注目するようになり、長期的な展望を欠くようになる。資産や資本(純資産)と利益とを比較するようになると、必然的に株主の取り分を重視し、内部留保の還元や資産の圧縮を求めるようになる。それは長期的視野を企業経営から奪い、企業の基礎体力を無意味に消耗する。

 本来金融機関の役割は、長期的な展望に立って、事業資金が不足している企業に資金を補充し、経営資金の長期的平準化をすべきなのだが、自己資本規制のようなもので、短期的、単年度の実績だけで企業評価をするようになり。結果的に業績の良い、即ち、資金の余っているところに資金を貸し、業績の悪い、即ち、資金が不足しているところから資金を引き揚げるようになる。また、必要としない時に貸出、本当に必要な時に資金を引き揚げることになる。晴れた時に傘を貸して、雨が降り出すと傘を取り上げる。これは、合成の誤謬であって、景気が悪いときに景気を更に悪くする働きをする。

 長期的展望が立たなければ投資は期待できない。

 借入もレバレッジを効かせれば増殖することが可能だが、それは、単に信用枠を大きくしているだけで、信用の裏付けとなる資産価値が低下すると、レバレッジを効かせれば、それだけリスクも高くなる。これは、資本にも言える。過大な資本は、それだけ、企業負担を増加させる。

 こうなると、企業にとっては、資産価値の上昇によって資産に含みが生じる、即ち、余剰価値が生じることが救いである。逆に言えば、資産価値が、大幅に下落すると、資産は、忽ち不良債権に変質し、資金繰りを圧迫する。バブル崩壊後の日本企業が陥ったのも、アメリカのサブ、プライム問題の根底にあるのも資産価値の下落である。
 バブル崩壊以前の日本では、資産価値の右肩上がりの上昇が大前提だったのである。

 この様に、未実現利益、即ち、資産の含み益を利用して資金調達をせざるを得ない企業に対し、未実現利益、含み益を利益として課税するのは、狂気の沙汰である。体力の弱った企業にとどめを刺す結果になる。その意味で、時価会計は、資産価値が上昇している局面では、利益に貢献する反面、一旦下落すると損失を拡大し、通常の経営実績を帳消しにしてしまう。
 未実現利益というのは本質的に架空利益であり、資金的裏付けのない利益なのである。

 会計には、静態論、動態論の議論がある。本来の静態論、動態論は、利益計算の基盤を貸借に置くべきか損益におくべきかの議論であった。
 実際、実務的には、静態論、動態論どちらに立つかではなく。どちらの方が説明しやすいかである。つまりは、どちらが有利かにすぎない。それは、利益というのは、本質的に資金を調達するために、投資家や金融機関に対する説明をする目的で考えられた概念だからである。
 利益は作られるものなのである。ところが、現在の市場経済では、この利益が上がらなくなる。そこで、今日の動態面、静態論は、時価会計を絡めて金融資産をどの様に評価するかに変質している。
 根本にあるのは、現在の仕組みでは、企業が適正な利益を上げることが出来なくなってしまうということである。だから、金融資産を操作して利益を上げざるを得ないようなところまで企業が追い込まれているのである。

 この様に考えると、現在の企業は、資産として何かを残そうとしても何も残せない仕組みになっているのである。

 そうなるとひたすら企業は経営を継続して所得を生み出し続ける必要がある。しかし、ただ、目先の利益を追いかけていけば、償却もままならなくなる。継続し続けるためには、償却が終わっても、設備の更新をしなければならない。

企業収益が上がらない要因


 企業が儲からない原因を市場面から捉えると次ぎのようになる。
 市場や経済は、一方向に成長、発展し続けるものではなく。市場や産業に応じたライフサイクルを持っている。
 商品や産業の特性によって一律に扱えないが、大凡は、大多数の産業は、草創期、成長期、成熟期、衰退期を経て、最後には、消滅する。そして、各段階に置いて市場の様相は変化し、それに合わせて政策や市場構造も変化させる必要がある。
 しかし、現在の経済は、成長を前提としており、成熟期や、衰退期の市場や産業を前提としていない。その為に、成熟期に達した産業は、収益をあげることが困難な状況に追い込まれるのである。
 成熟期に至った産業は、量から質への転換をはからなければならない。

 成長期というのは、非常に活力に満ちた時代である。ただ、それだけ消耗も激しい。過当競争のまま放置すれば、多くの企業は淘汰され、また、合併吸収によって市場は、寡占、独占状態に陥る。

 成熟市場は、量から質への転換が必要となる。量から質というのは、大量生産、大量消費型経済から、多品種少量、計画的で効率的な消費への転換である。先ず、高品質で、耐久性に優れ、かつての要に何代にわたっても使えるような商品を開発していく。それによって、省力化、省エネルギー型の生活をしていくことである。また、それに付随して中古市場や古物市場、メンテナンスやリサイクル、リホームと言った市場を開発していくことである。つまり、時間のサイクルを伸ばし、ゆとりのある生活空間を築くことである。
 ただ、この様な市場や経済体制は、硬直的で、排他的、権威主義的、既得権益、利権、身分的、階級的体制に陥りやすい。そこで状況に応じて、競争の原理を導入するのである。あくまでも競争は、経済の活性化の手段に過ぎない。目的ではない。

 市場は、拡大と収縮を繰り返す。市場の範囲には限界があるのに対し、供給は、設備の生産力によって決まるからである。それが経済の周期を生み出す。

 成長を持続するための条件は、第一に、相対的に低い水準の人件費、第二に、国内に未発達な市場があること、第三に、内外の市場が開放されている事である。何れにしてもこの三つを満たすことは、先進国には出来ない。

 また、企業の儲からない原因を損益面からみると次のようになる。
 市場の拡大には限界がある。故に、市場の拡大を前提とした経済成長にも限界がある。市場の拡大が限界に達すると、市場は過飽和な状態になり、企業収益は、良くて横這い、通常は、下降へと転じる。
 それに対して、費用は、人件費や物価の上昇を受けて上昇を続ける。
 つまり、天井が下がって床が上昇する段階にはいる。この様な段階にはいると企業は、損益上の不足は、費用の削減によって補おうとするが、費用は下方硬直的であり、自ずと限界がある。
 その為に、この段階に陥った企業や産業は、会計的な操作によって存続することを画策するのである。
 損益面から利益が計れなくなると資産価値の上昇分を活用し、借金による収入によって収支を均衡させることを画策する。その為に、会計制度が利用されるのである。しかし、それは、資産の上昇を招く。それが円高ショック後に日本に発生したバブルである。
 会計的な操作にも限界があるため、最終的には資本を活用するようになる。

 工業製品は、一貫して猛烈なデフレだったのである。それは、大量生産体制の宿命みたいなものである。問題は、工業製品が急速に収益を失ってしまったという事である。そして、アメリカのGEは、製造会社から金融会社に変質してしまった。と言うよりも変質せざるを得なくなったのである。それが何よりも象徴している。

 日本では、オイルショックが企業の損益上の分岐点であったと思われる。オイルショック以後地方経済は壊滅的打撃を受け、円高とそれに続くバブル、バブル崩壊がとどめを刺した。

 市場が成熟し、市場を量から質へと変換できないと、天井が下がって、床が上がってくる。そして、産業を押し潰してしまう。それは、経営主体の崩壊を意味する。経営主体というのは、共同体である。共同体の崩壊は、属人的な部分の否定に繋がる。
 つまり、常雇いによる組織の論理が通用しなくなるのである。そうなると、臨時雇いが主流になり、人件費から属人的な要素が削ぎ落とされて、同一労働、同一賃金の原則だけになる。つまり、労働は単価×時間でしか計れなくなる。しかも、労働市場は平準化され最低線にまで圧縮されてしまう。労働の質が否定されるのである。
 労働の質の否定は、生産方式にも及ぶ。作業の標準化は、未熟練労働を生み出す。それは、取り替え自由な労働を意味する。人間の部品化が進むのである。

 市場には、人的市場、物的市場、貨幣的市場があり、経営主体は、それぞれの局面で競争をしている。
 ただ不毛な、価格合戦、安売り合戦の過熱は、適正価格を割り込み、企業収益を悪化させ、景気に大打撃を与える。また、乱売合戦の背後には、大量生産体制が隠されている。価格というのは、量的な情報である。質的な部分が見落とされている。しかも、情報は売り手、買い手の間で非対称である。適性という基準が適用されているわけではない。ただ、需給均衡である。質的な部分が無視され、価格下落の歯止めが効かなくなる危険性がある。
 本来、市場は、サービス合戦、品質合戦を競うべきなのである。サービスと言った人的な競争や品質と言った物的競争は、食文化の向上やコレクター、マニアと言った人種を育て希少品の発掘、保存にも役に立つ。また、リサイクル市場を生み出す契機にもなり資源保護にもなる。消費者にとって高い物を買わされているという発想があるが、必要以上に物を消費するのは無駄遣いである。生産の質的向上は、消費の質的向上も促すのである。

 石油産業が好例だが、石油産業は、典型的大規模装置産業である。販売量と固定費は、基本的には連動していない。固定費まで販売すれば後は、利益になる。しかも商品格差が小さい。勢い、乱売合戦に陥りやすい。事実、石油産業の末端では乱売合戦が起こり、ガソリンスタンドが激減している。
 特石法によって市場が規制されていた時代、沖縄では、石油スタンドの過剰サービスが問題になっていた。過剰サービスは、雇用を作ったが、乱売合戦は、市場の寡占化を進めるだけである。また、資源の大量消費と言った無駄にもなる。

 企業が収益をあげられなくなると公共事業によって景気を刺激する方策が採られる。しかし、景気刺激策も市場の仕組みに影響力を与えられなければ、効果を期待することはできない。あくまでも補助的手段に過ぎない。重要なのは、市場の自律的作用であり、それを制御する市場の仕組みである。

 人件費からみると次のようになる。
 初期の段階では、共同体的な思想が働いている。労使というより、一体的、家族的経営が志向されるのである。
 成長期でも初期の段階でも市場が拡大している段階では、人件費の上昇を吸収できるが、人件費の伸び率が経済成長率を上回るようになり、また、競争力が問題になると共同体的思想から実績主義的、実力主義的人事体制に移行する。
 市場が成熟期に至り飽和状態になると人件費の負担が重くなり、組織の合理化、人員削減などが行われるようになる。また、報酬制度も年俸制のような制度が導入される。この段階に入りと企業と従業員との人間関係が希薄になる。
 そして、最終的段階にはいると、企業と従業員の関係は、金銭的に割り切った関係になり、共同体的関係は消滅する。労働者の流動性も高まる。企業も社員も終身的関係は求めず、派遣社員やパート、アルバイトのような正社員以外の労働者が増大する。
 元々、企業の役割というのは、労働と分配にある。故に、企業が適正な利益を上げ、共同体的機能を果たせるようにする必要がある。企業というのは、経済単位と言うだけでなく。社会的存在であることも忘れてはならない。

 また、貸借面からみた場合、税と利子と返済資金、そして、償却費が長期的に均衡しない。長期資金の元本の返済が、会計上、どこにも現れてこないのである。
 償却資産の返済原資は、減価償却費で確保されるが、非減価償却費、特に、不動産の返済原資は、確保されない。その為に、十分な利益が上げられなければ、新たな借入によって返済資金を調達しなければならなくなる。その為に、担保するのは、不動産価値の上昇分である。
 結局、資金計画を立てる際は、長期借入金の返済資金は、長期借入金を減価償却費と税引き後利益で割ることによって推測するが、それとても現実の実体を正しく反映しているとは限らない。
 しかも、現在の税制は、利益や資金繰りとの関係を全く計算していない。企業に掛かる税には、所得税(法人・個人)資産税(相続税・固定資産税)外形標準税などがある。課税所得は、収支に基づくのではなく、損益や地価である。資金の動きと関係ないものである。しかも、長期債務の返済は、税引き後の利益処分の内から賄う必要がある。地価の水準が低下すれば、忽ち、担保不足をきたし、資金調達に支障がでる。故に、黒字倒産や資金繰り倒産が起こるのである。

 住宅で例えると、借金をして買った家は、売っても借金が残る。相続する時には、税金がかかる。現代の経済体制が確立される以前の財産と資産とは違うのである。
 さらに、会計制度上では、建物の部分は、償却できても土地の部分は償却できずに資産として帳簿に残ってしまう。つまり、費用とはみなされないのである。
 また、借金は返済しなければならない。ただし、借金の返済の金利部分は費用としてみなされる元本の返済部分は、損益上には現れない。負債勘定を減額史、資本を積み増しすることで処理される。費用でないから損益上は、利益から返済をしなければならない。しかし、その利益には、税金が課せられる。また、資本として積み増しされる内部留保にも税が課せられる。相続の際には、相続税が課せられる。

 結局、債務が足枷になるのである。
 では、借金をしなければいいのかというと、それもまた、微妙である。固定資産の原資を借入で賄う場合と、資本金で賄う場合どっちが得かという問題であるが、それも、状況や前提条件によって違うのである。

 債務を土台とした経済では、資産や債権の価格水準が下落すると逆資産効果が発生する。

 資金的にゆとりがあるからと言って長期借入金の元本を安直に返済すると、資金繰りがつかなくなることになる事がある。故に、一度借入をしたら、債務は、資産や債権を売却しない限りの残ることになる。それ故に、土地転がしの様な現象も起こる。その上、資産を換金するといろいろな経費や税金が別途かかることもある。そうなると、流動性が低い、不動産は、不利になる。
 不動産の流動性を高めるために、不動産の証券化の技術が生み出されたのである。それがサブプライム問題を生みだした要因の一つである。

 資本と負債、どちらが得かというのも微妙である。以前は、自己資本の大きい方が良いという事になっていたが、結局、配当と利子との違いに過ぎないことが明らかになり、利子は、費用になるが、配当は、利益処分からという事で、どちらが良いか、微妙になった。企業価値、M&A、資産運用という観点からすると無借金経営は、必ずしも有利だとは限らない。

 税の働きが、借金、即ち、負債に有利に働く場合もある。

 何れにしても、資産と債務は、清算時点で相殺されてしまう。つまり、基本的に、資産というのは、清算されるべきものなのである。しかも、企業の成長に従って債務も増大し、経営に与える債務の圧力も増すのである。これは、所有権の否定である。
 近代は、私的所有権に支えられて成立しながら、私的所有権に否定的だったと言える。現代の資本主義は、時限爆弾付き、自爆装置付きの仕組みみたいなものなのである。

 総資産も対極に総資本、即ち、債務があり、結局、債務を圧縮すべきだとなると資産も極力持たないことだと言う事になる。つまり、経営主体というのはなにも残せないのである。

 日本の法人の70%近くが赤字で法人税を払っていないと言うのも宜(うべ)なることである。払わないのではなく。払えないのである。

 真面目に、一生懸命働いても、借金ばかりが残るとしたら、不埒なことを考えてもおかしくない。あくどいことをやっても金儲けをした人間が羽振りも良く、社会的地位が高くなれば、地道に汗水垂らして働くのは馬鹿馬鹿しくなる。

 自分が正しいと信じて行っていることが報われずに、間違っていると教えられたことがまかり通るような環境に置かれると、人は、モラルハザードを起こしやすい。特に、経済的な行為は、絶対的な規範による行為ではないので、モラルハザードを起こしやすい。

 現代経済の価値観の根本にあるのは、地代や利子、利潤は、悪いものだという認識である。ストックとフローという観点からすれば、ストックは、最終的には解消すべきだという思想である。その背景には、世襲的な者は悪いという思想である。
 確かに、何の苦労もしないで親の遺産でなに不自由なく暮らすというのは感心しないかもしれない。しかし、それが企業収益を圧迫したり、継続を阻害するとなれば、話は別である。先ず企業は儲けられるようにすべきである。その為には、利子や地代、利潤の働きを客観的に判断する必要がある。

 会計制度が確立される以前は、潜在的資金効果を計算してこなかった。その上に、近代税制には、潜在的な貨幣価値を顕在化する働きがある。この様な潜在的な価値が顕在化する過程で債務と債権が形成されるのである。しかし、これらは、本来、潜在的な価値であり、市場で顕在的な働きはしていないのである。その潜在的な価値が市場に影響力を持つこととなる。また、未実現な価値によって企業経営に影響を与えることになるのである。

 資本主義体制を放置すれば、国際資本を形成し、独占的体制に陥る。独占的体制とは、市場の原理が消滅した状態である。

 国際資本は、国際的に孤立する危険性が高まる。国際資本は、規模が拡大するにつれて国家の利害とも対立してくる。何れにしても、国際資本といえども何等かの母国、国を拠点とする必要があるから。国家間の抗争にも深く関わらざるをえなくなる。
 現に、国際石油資本は、産油国と厳しい対立関係におかれ、また、戦争や国際紛争が起こるたびに標的とされてきた。
 その意味でも、国際資本は、巨大化することは得策ではない。

 市場とは何か。それは、複数の経済主体が競合的な関係で存在する状態である。独占的体制とは、単一の経済主体によって競合的な関係が解消された状態を指す。この様な体制は、一体的な組織、単一的な組織によって経済の仕組みが統一されることを意味する。それは、同時に、資本家と、賃金労働者しか存在しえない体制である。
 つまり、資本主義も、共産主義も、最終的には、一体的な組織に統合すると言う点において、同じ方向に向かっているのである。
 しかし、結局、この様な体制は、垂直的な対立を生み出す。また、組織は、巨大化し、競合するものがなければ、管理部門が肥大化し、官僚化し、自壊する。

 共産主義も資本主義も行き着くところは、一体的組織、巨大組織への統合である。しかし、組織の巨大化は、組織管理の増大を意味する。また、組織の自律性の限界を超える危険性がある。また、垂直的な対立を生じやすい。それは、市場を独占した資本とっても負担となり、脅威ともなる。

 自由主義は、私的所有権の保証によって成り立っている部分がある。つまり、経済的な自立を裏付けにして成り立っている。経済的自由を謳歌してきたのは、特に、自作農や個人事業主、中小事業者達である。その自作農や個人事業主、中小事業者が経営が成り立たなくなりつつある。それは、自由主義の脅威でもある。

 保護主義的政策とは、報復的な関税、異常に高い関税によって他国の商品を閉め出し、市場を閉ざすような政策ばかりを指すわけではない。

 また、競争力の低下は、不当な廉売を原因としているとは限っていない。為替の変動や原材料の高騰などの防ぎようのない原因によって起こることもあるのである。つまり、何等かのハンディーに原因することがあるのである。

 外的な条件の急激な変化に対する対策として保護主義的対策を採用することは、間違いではない。絶対という政策はないのである。絶対にいけないという政策もない。政策というのは、相対的なものである。

 市場は保護されるべき空間なのである。ルールがあって自由な競技が保証されるように、規制があってはじめて自由な競争が保証されるのである。自由な競争が阻害されるとしたら、規制が悪いのではなく。規制の在り方に問題があるのである。






                    


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