情報化

情報化


 情報化は、近代化の進展において重要な役割を果たした。情報化は、主として、数値や記号、言語によって行われるが、中でも数値化は、重要な要素の一つである。そして、情報化は、市場の形成、拡大に決定的な役割を果たすのである。

 科学も、民主主義も、会計も、スポーツも、情報化、とくに、数値情報かという事不可分な関係にある。と言うよりも情報化されることによって成立したと言っても過言ではない。

 情報というのは、伝達のための手段である。情報化とは、事象や現象を抽象化し、伝達のための媒体とすることである。とくに、近代の特徴は、事象や現象を数値化する事である。つまり、情報というのは、何等かの対象間を媒介することである。媒介とは、伝達のための手段である。情報とは、その為の媒体も意味する。媒体というのは、媒介のための存在である。

 どの様に事象や現象が抽象化されるかというと何等かの座標軸や空間に写像する事によってその特性を引き出すのである。とくに、貨幣経済では、貨幣価値という座標軸に投影することによって対象の価値が数値化される。

 伝達すると言う事は、発信元と、発信先があるという事である。伝えたい事象と伝える相手、伝えようとする主体の三者によって情報は成り立っている。
 数値化する事によって事象や現象を数値化できる。数値によって表現することが可能となる。
 また、数値化とは、数値化する過程で、対象となる事象の属性で数値化できる属性以外を全て削ぎ落としてしまうことも意味する。

 また、数値化する事で記号化、信号化する事が可能となり、大量の情報を正確に、速く伝達することが可能となったのである。反面、数値化できない情報が伝達の過程で失われてしまうことも意味している。

 スポーツというのは、観客があって成り立つ。民主主義は主権者があって成り立っている。会計制度というのは、報告先があって成り立っているのである。その点を忘れてはならない。情報は、情報それだけで成り立っているのではなく。発信元と、発信先があってはじめて成り立っている。そして、それが伝達される範囲が重要となるのである。

 共同体の限界は、情報の伝達される範囲と速度によって決まる。貨幣化され、数値化されるとその範囲と速度が格段広く速くなる。

 情報で重要なのは、情報の質と量、そして、伝達速度である。情報の数値化は、この情報の質と量、速度を飛躍的に向上させた。反面、いろいろな障害も引き起こしているのである。
 情報には、情報の発信者と受信者の間で非対称性が生じる。情報の非対称性は、情報は、発信者と伝達者(媒体)と受信者からなり、発信者は、発信者が持つ基準に基づいて情報化し、伝達者は、伝達者の基準によって情報を伝達し、受信者は受信者の基準で情報を情報化される以前の状態に再現する。それぞれの持つ前提条件の違いによって情報の非対称性は起こる。
 その要因は、一つは、時間による変化である。もう一つは、伝達経路や媒体の問題である。また、発信者の問題、受信者の問題もある。 

 問題なのは、数値化された情報というのは、数値化されていない部分の情報を削ぎ落としてしまっているという事である。情報を正しく理解するためには、数値化される以前の状態に再現する必要がある。その好例が会計情報である。

 特に、経済は、間違った情報、間違った情報の解釈によって錯誤した政策を採用していやすい環境にある。それは、発信者、媒体、受信者、それぞれが、別々の基準によって情報を交換している場合が多いからである。それが現実の経済を大混乱してさせているのである。
 また、貨幣に対する認識の間違いは、経済の根幹をも見失わせている。貨幣は、媒体に過ぎず。貨幣価値は、絶対的な基準ではないのである。ところが、貨幣が全てであり、経済は、貨幣によって支配されているような錯覚が横行している。そのことによって価値の転倒が起こっているのである。

 猫に小判と馬鹿にするが、猫は、小判のために争ったりはしない。人間は、小判のために平然と人を殺す。ならば猫と人間どちらが本当の価値を理解していると言えるであろうか。重大なのは、貨幣価値は、情報の一種に過ぎないという点である。

 確かに、現在の大企業は、見かけ上の利益をあげているように見える。しかし、それは、会計上の利益に過ぎない。
 儲けとは、その儲けによって潤っているいる人がいてはじめて意味がある。潤う人が少なくては、儲けの意味はない。それは、儲けとは違う。単なる会計上、数字上の利益に過ぎない。儲けは、儲けた人に還元されなければならないのに、肝心の儲けがどこかに消えてしまっているのである。

 儲けとは何か。儲けには、実情が伴わなければならない。利益は、経費を節約したり、人減らしをすれば、計算上あげる事が出来る。しかし、利益が雇用の増加や、所得の増加、需要の増加、投資の増加に結びつかなければ、景気には役立たない。それは見かけ上の利益を増やしたのに過ぎないのである。

 石油業界元売り業界は、増収増益が見込まれている。石油価格が高騰し、青色吐息の消費者から見ると鼻白むことであり、元売り各社への風当たりは強くなりそうな形成である。しかし、元売り各社の財布の状態は決して良くない。つまり、キャッシュフローは最悪の状態であり、値上げに躍起になっているのが実情である。なぜ、この様な状況になったかと言えば、在庫の評価の仕方に問題があるからである。

 根本には、赤字決算をしたら融資や投資が細ると言う動機がある。そこで、原油価格が下降している時に在庫の評価法として後入れ先出し法を採用したのである。ところが、原油価格高騰すると逆回転が起こり、利益を押し上げてしまうのである。こんな時に、キャッシュフローの悪化を理由にして金融が融資を渋ったら、あっという間に石油元売り会社は倒産してしまう。
 企業側からしてみると赤字だからと言って融資を止められ、キャッシュフローが悪化したからと言って融資を止められたら堪らない。

 石油の元売りが潰れないのは、社会的に潰せないからであって会社の経営の問題ではない。それは金融機関も同様である。しかし、損が累積すれば、そうとばかり言っておれなくなり、どこかで何等かの形で清算せざるをえなくなる。
 しかし、ここで忘れてはならないのは、その元にあるのは、会計制度であり、認識の問題だという事である。

 キャッシュフローも収益も鏡に写った写像であって企業の実態とは違う。ところがその実際には、写像の方が実像よりも実効力を持ってしまっているのである。そして、それが現実の経済を悪化させてしまっている。

 つまり、情報は、写像であって、実体ではないという事である。写像である情報は、実体の持つ社会的役割と必要性と言った実情を必ずしも反映していないのである。ならば、写像である情報に合わせて実像を変えるべきなのか。実情に合わせて情報を変えるべきなのか。結局、その本質が議論されないままに、中途半端に情報が修正されたり、実体が変えられたりしいてるのが現実なのである。

 景気に対する認識が、企業の生産性や効率が悪い、又は、産業構造の生産性や効率が悪いからだとして、景気を解釈し、競争を激化して、企業が収益を出しにくい環境にしてしまうと言うのが好例である。根本にあるのは、収益に対する認識の違いである。

 また、貨幣価値に全てを還元すると安ければいいという事になりやすい。それは、デフレを意味しているという事を忘れてはならない。重要なのは適正な価格であって、安価というのは絶対的な基準ではない。大切なのは、前提条件である。

 カルテルを目の仇にするが、カルテルが、常に有効に機能しているとは言い切れない。典型的な例がOPECである。OPECが石油価格を操作できたと言われるのは、ほんの一時に過ぎない。カルテルの是非に対する議論は、多分に道義的な問題であり、経済的な議論ではないように思われる。カルテルというのは、要するに、同業者の話し合いである。話し合いが悪い。話し合いをしてはならないということになるとどうやって収拾をつけろと言うのであろうか。カルテルという中に、秘密協定、即ち、秘密という意味が込められるから目の仇にされるのである。

 情報が、正しく伝わっていない、と言うよりも、情報伝達にあたる媒体、即ち、報道機関が、中立という虚偽の情報を流す、一方で、独自の加工をして情報を不特定多数の受け手に伝達しているからである。

 V字回復が話題になったことがある。急速に悪化した企業業績が、同じ速度で改善したかのように会計上見える現象である。
 会計上は、劇的に企業業績が改善されたように錯覚するが、実際は、悪い要素を前期に出し切り、その分当期の実績がよく見えるように操作した事による場合が多い。企業実体が必ずしも改善しているとは限らないのである。

 この様にも情報は、前提条件や伝達の仕方によってまったく違った伝わり方をすることを忘れてはならない。真ん中も左から見れば、右である。しかも、それが、あたかも事実であるように伝わると言う事である。

 貨幣というのは、元々、価値を表象した物であるが、貨幣の情報化が進むと言う事は、貨幣の無形か、抽象化が進むことを意味し、貨幣の実体が失われ、確かに、そこにあるらしいという事を前提として経済が働くようになることを意味する。つまり、経済の実体、貨幣の実体は、ますます曖昧な物になってしまうのである。

 多くの場合、情報という虚像に目を奪われ、その背後にある実像を見落としているのである。


参考

石油元売り3社が上方修正、今期、在庫評価益が膨らむ。[日本経済新聞 朝刊](2008/8/1)
 石油元売り三社は三十一日、今期の連結業績見通しをそろって上方修正した。原油高に伴い期初の割安な在庫による利益かさ上げ(在庫評価益)が膨らむため。新日本石油と昭和シェル石油は純利益見通しを引き上げ、出光興産は経常利益を上方修正した。
 新日石と昭和シェルは原油の在庫評価で、期初の在庫額と当期の仕入れ額を合計して平均する「総平均法」を採用。原油価格の上昇局面では在庫評価益が発生する。
 新日石は二〇〇九年三月期の純利益予想を従来の五百七十億円から九百五十億円(前期比三六%減)へ変更。ドバイ原油の想定価格を平均一バレル約一一二ドルと期初から一六ドル引き上げ、在庫評価益が九百億円発生する。昭和シェル(〇八年十二月期)は在庫評価益が五百億円。今期の純利益見通しは二八%増の五百六十億円

情報と意味づけ

 現代は、情報化時代だと言われる。
 情報化時代というのは、情報が特別の働き、機能を持つ社会である。そして、情報化時代は、情報に支配された時代でもある。
 情報に支配されているという事に抵抗や違和感を感じる者がいるかも知れない。しかし、貨幣は、情報に過ぎない。その貨幣、即ち、金銭に我々の生活は支配され、振り回されている。情報化時代というのは、情報そのものが価値を生み、実体を持つことを意味する。それを忘れてはならない。

 情報伝達は、基本的に言語化して伝達される。今日では、映像による情報の伝達も通常化しているが、情報伝達の手段の成り立ちは、主として言語による。
 つまり、情報は、言語を基礎としている。そして、言語の成り立ちは、音声に依拠している。言葉は、音声の集合体である。一言一言、一語、一語を点だとすると言語は、音の集まり、集合体である。つまり、言語は一次元的な体系である。この事は、言語体系は、直列的で同時に二つ以上の情報の伝達は出来ないことを意味している。
 即ち、言語において重要なのは、語順、順番、言葉の構造であり、語の組み合わせである。言語体系は、語の位置と働き、関係によって成立している。これらの要素は、語順、組み合わせ、文型、構文、言葉の変化に還元される。また、句、節、文の構成である。それらを法則化したのが文法である。

 言語は、言葉によるものだけではない。数学や、会計も、コンピューターも、広義の意味での言語体系によって情報を伝達していると言える。
 そして、数学や会計、コンピューター言語も語順、順番、言語の構造、組み合わせの働きによって成り立っている。

 言葉や記号は、象徴(シンボル)である。象徴と言う事は、抽象化を前提とする。つまり、言葉や記号は抽象的な物なのである。

 言語は、認識上の問題であるから、相対的な対象である。相対的であるという事は、その言葉を成り立たせている前提や状況が重要になる。

 言語が成り立つためには、言語を成り立たせている環境、状況と前提が必要とされる。環境、状況の中でも言語的基盤が重要な役割を果たしている。

 言語を成立させている前提は、言語を構成する言葉の辞典と法則の社会的素地、インフラストラクチャーが確立され、社会に浸透していることである。
 一つの社会、一つの国家を形成していても言語的に統一されているとは限らない。それは、言語体系のインフラストラクチャー、基盤を共有していないからである。その様な社会では、情報の交換、コミュニケーションをとるのが困難である。その為に、特定の言語を公用語として、共有している場合が多い。

 意味とは、対象を認識する過程で生じる、対象を識別するための観念である。言葉は象徴にすぎない。三つの要素の関わり合い依って言葉の意味は、形成される。故に、意味というのは、主体と対象の働きによって成り立っている。言葉や記号が意味を持つわけではない。言葉や記号は、対象を識別するための形象である。
 意味とは、言葉や記号が指し示す対象そのものや対象の働き、性質、概念である。

 意味を構成するのは、言葉や記号と言葉が指し示す対象と言葉や記号、及び、対象を認識する主体とから成る。

 情報というのは、本来、それ自体が実体を持っているのではない。情報は、情報を伝達する側の主体と情報を伝達する側の主体との関係によって成り立っているものである。しかし、情報化時代では、情報そのものが価値を持つようになる。その典型が貨幣価値である。本来、貨幣は、交換価値を伝達するための道具、手段に過ぎない。ところが、貨幣経済下では、貨幣そのものが価値を持つようになり、実物経済を支配するようになる。終いには、金さえあればどんな物でも手にはいるというような社会になる。逆に、金がなければ生きていくこともできない社会になる。金に支配されてしまうのである。手段によって実体が支配されるのである。
 情報化時代に生きる我々は、情報の持つ弊害をよく理解したおく必要がある。その意味でも、情報とは何かを明らかにする必要がある。

 情報は、主として言語によって伝えられる。しかし、言語だけが情報の手段ではない。情報を伝達するものは、象徴(シンボル)である。つまり、形象、形式である。
 情報は、形式化されて伝達される。形式の中には、礼儀作法のような挙止動作も含まれる。

 近年、情報を伝達する手段は、多様化している。それを情報の進歩という見方もあるが、逆に、退歩しているという事もある。たとえば、映像化による影響である。なるほど、情報の映像化は、大量の情報を加工せずに伝達することを可能とした。反面、加工と翻訳に関する思考力を弱くもした。言語や記号で情報を伝達するためには、対象を抽象化し、言語化、記号化し、更にそれを再構築する必要があるからである。その過程で必要な情報を分類、分析する能力を必要とした。それが情報の知識化を促したのである。今は、情報をそのまま受け容れるために、対象を抽象的概念化する事が出来なくなりつつある。

 情報は、形式によって伝達される。故に、形式を無闇に軽視するのは、情報の軽視でもある。例えば、何等かの意思を伝達しようとした場合、言葉だけでは不十分である場合が多い。言葉で不十分なところを補うのが儀式典礼である。それを象徴しているのが冠婚葬祭である。人間の感情や気持ちは、言葉だけでは伝達できないのである。だからこそ、儀式典礼という形式が重要になるのである。また、地震祭や開店式や閉店式といった節目、節目の式典も特別な意味を持つ。言語というのは、この様な環境や状況も含めた相対によって成り立っている。
 また、儀式典礼には、博く知らしめるという機能もある。
 構造主義者は、形式主義者でもある。

 情報化時代においては、情報の開示も重要な事柄の一つである。しかし、何でもかんでも情報を開示しろと言うわけではない。情報の開示は、プライバシー、個人情報と表裏をなしている。情報における公と私の区別の問題に還元される。そして、この問題は、思わぬ所で齟齬をきたすことになる。
 情報を開示するというのは、情報化社会においては重要な要素である。反面、個人情報の保護というように、情報の開示を拒む要素も重要となる。情報の持つ力が強くなればなるほど、一方において情報の開示が求められ、もう一方で、情報の保護が叫ばれる。極めて矛盾した状況が現出するのである。情報の持つ意味が重要になるのである。

 例えば、犯罪者の氏名の公表である。どこまで、名前を公表して良いのかが、常に、微妙な問題となる。日本人は、これを言葉の解釈の上で捉えようとする。しかし、言葉の解釈で解決が図れる問題ではない。もともと、社会的合意、国民的合意を前提とするからである。欧米においては、性犯罪者の氏名を公開している国すらあるのである。それは、法とは何かの根本思想の問題なのである。杓子定規に規定すべき事ではない。

 情報を開示化する意味は、情報を開示する目的に規制される。情報の開示は、なぜ、情報を開示する必要があるのかによる。故に、情報の開示は、情報を開示する目的に規制されるのである。

 例えば、企業には公開会社と非公開会社とがある。企業が基本的に情報を開示する義務を負うのは、投資家と債権者に対してである。それは、情報を開示する目的に規制されるからである。
 例えば、税金に関しては、徴税当局に対してのみ情報の開示の義務を負い、徴税当局は、守秘義務を負わされる。この様に、特定された対象にのみ情報を公開する例もある。この事が示すのは、情報を開示する対象や範囲は、目的に規制されているという事である。

 つまり、情報の意味は、情報を伝達する目的によって規制されるという事である。これは、会計制度を考える上で重要な要素である。

 市場は、放置していると均衡状態に至る。完全に均衡した状態というのは、市場が不活性化して状態である。熱力学で言うところのエントロピーが増大した状態である。故に、常に、市場は、不均衡な状態に置いておく必要がある。
 市場は、一方で均衡を前提とし、もう一方で均衡を嫌う。この矛盾した条件を維持するために、市場には仕組みが必要であり、また、制御する必要があるのである。
 市場の制御は、一方通行的な作用、即ち、競争なら競争だけを良しとするような操作によっては維持されない。常に、市場を監視し、市場が一方向に暴走しないように管理する必要がある。また、何等かの安全装置や制御装置が要求されるのである。

 市場の不均衡な状態というのは、一つは、情報の非対称性によって維持される。故に、何でもかんでも情報を開示しろと言うのでは、経営は成り立たないのである。そこに情報の開示の難しさがある。また、情報の非対称性にも、、問題がある。

 安売り業者は、安く売ることに生き甲斐を感じ、安ければいいと言う価値観の持ち主がいる。そして、利益を度外視したり、また、客寄せのために、原価や仕入れ値を無視した価格で売り出す業者もいる。また、保安や保証を削って価格を安くしていることもありうる。

 逆に、独占業者は、不当に高い価格で販売することが可能である。
 しかし、消費者にとってそれが適正な価格であるかどうかを判断する情報が少ない。その為に、良心的な業者、良質な業者が市場から排除されてしまうことがある。消費者にとって最終的に受け取れる情報は価格だからである。つまり、価格から得る情報が全てである可能性が高いのである。それが、情報の非対称性の問題である。

 価格というのは、基本的に数値情報であり、定量的な情報に還元されている。その為に、定性的な情報が稀薄になる傾向がある。不当な廉売であろうと、独占的価格であろうと、生産者、販売者側の意図を正確に見抜くことはかなり至難な業である。

 情報というのは、虚構である。しかし、情報化時代においては、虚構である情報が一人歩きをすることがままある。
 金融は、情報に依って成り立っている。金融市場は、貨幣市場である。貨幣は、市場における情報伝達の媒体に過ぎない。しかし、それが実物を動かすことが可能だと言う事になると話が変わってくる。

 貨幣は、情報を伝達する媒体、手段である。それ自体が実体を持つわけではない。貨幣は象徴(シンボル)にすぎない。市場も仮想空間にすぎない。しかし、貨幣は市場において絶大な力を発揮する。

 貨幣があるから差別が生じるわけではない。貨幣がなくても差別は生じる。
 ただ、貨幣は、貧富の格差を増幅し、定着化させる作用がある。そして、貧富の格差は、差別へと変質する場合が多いのである。

 貨幣とは、表示された数値と同量の交換価値を有する財と市場で交換する権利を持った物である。現金とは、本来、貨幣価値を実現した物であるが、貨幣と同一視される場合が多い。

 自然な状態に貨幣があるわけではない。貨幣は、極めて社会的な物なのである。これは大前提である。貨幣が象徴するように経済的な物は、人工的な物である。経済は仕組みである。人為的な仕組みである。無為に臨んで、自然に治まる仕組みではない。人間の意志によって動く仕組みなのである。
 経済は、まるでジェットコースターのように激しく乱高下することがある。しかし、放置すれば、均衡にいたり、停止してしまうのである。一度停止すれば、再起動するのが困難なのが経済である。それが市場の均衡状態である。

 情報は、認識に基づくものである。故に、対象を正しく表現する必要がある。
 近年、不良債権が深刻な問題となっている。バブル崩壊後の長い日本経済の停滞もサブプライム問題も不良債権問題が根底にあるとされる。しかし、本当に不良債権の問題なのであろうか。実際は、不良債権というのは、一面的な見方に過ぎない。
 つまり、実際は、不良債権の問題であると、同時に、不良債務の問題でもあるのである。そして、深刻なのは、不良債権ではなく不良債務の問題なのである。だから、不良債権と言われる問題の本質は、不良債務をどうするかの問題であり、リスケジュールの問題なのである。それを債権処理の問題として捉えている限り問題の解決にはならない。
 例えば、不良債権とされる不動産でも、不動産そのものが価値を失ったのではない。不動産を取得した時の価値から不動産の価値が下がったのに過ぎない。問題なのは、不動産を取得した際の債務との乖離が生じたことなのである。その為に、債務に対する返済圧力が加わったのと、含み損が派生している状態なのである。故に、片付けなければならないのは、不動産担保の裏付けを失った債務の処理なのである。不良債権を処理しろと言う圧力を加えたところで、債務処理が片付かなければ問題の解決はつかないのである。これなどは、間違った情報が処理を困難にしている好例である。

 言葉は、言葉を前提としている状況や条件によって意味が違ってくる。意味とは働きである。良い例が、カルテルや、統制、不当廉売である。使い方を間違うとその正しい意味が伝わらなくなる。一番、困るのは、前提を確認せずに決め付けてしまうことである。

 カルテル、統制、不当廉売は、悪いと決め付けている人が多いが、カルテルの何が悪くて、統制のどこが悪いのか、また、不当廉売は、なぜ、悪いのかを明らかにしない。その為には、カルテルや、統制、不当廉売には、どの様な働き、作用があり、それがどの様な効能、あるいは、弊害があるのかを明らかにしておく必要がある。ただ闇雲に、カルテルは、悪い。統制は悪だ。不当廉売は駄目と言って筋が通らない。あるいは、規制は悪い。競争が絶対だと言ってもはじまらない。問題の解決には繋がらないのである。
 カルテルも、統制も、不当廉売も状況の為せる業であり、設定条件が違えば、カルテルは提携、協定となり、統制は、産業保護となり、不当廉売は、自由競争になる。
 肝心なのは、どの様な状況において、どの様な政策をとるかなのである。薬も使いようによっては毒になる。毒も使いようによっては薬になる。薬には、副作用がつきものである。大体、薬は、常用する物ではない。
 必要な政策を、必要な時に、有効な状態にして使用することが肝心なのである。

 経済政策を決定するにあたって、何をもって是とし、何をもって非とするのかを言うのならば、どの様な状態を是とし、どの様な状態を非とするかを問うべきなのである。そして、どの様な状態を是とし、どの様な状態を非とするかは、前提に基づくのである。
 そして、その前提は、目的と必要性に帰すのである。水を沸騰させるのは、それ自体が目的なのではなく。卵を茹でるといった目的に応じるのである。水を沸騰させる事が是か非かは、その意図するところによって決まる。
 競争が是か非かは、競争をさせる目的によって判断すべきであり、競争は絶対だとするのは、一種の信仰である。

 過当競争と言い、また、寡占、独占というのは、市場の状態を言うのである。その是非は、一概には決め付けられない。何をもって是とし、何をもって非とするのかは、その前提条件に依るからである。
 そして、その前提条件と状態に応じてどの様な政策が妥当なのかを決定すべきなのである。

 競争状態の長所、欠点、あるいは、状態の特性を正しく理解した上で、どの様な状況下において、どの様な競争が、是か、非かを、論じるべきなのである。一律に競争は、正しいとか、反対に、競争は悪いと断定してしまうことは無謀、無定見である。

 規制を緩めて競争を煽るのは、市場を活性化するためである。規制を強め、企業同士の提携を促すのは、競争を抑制すべき状態だからである。その前提とするところ、状態が明らかにされなければ、その判断が妥当、適切であったのかの見極める事は出来ない。

 ただ、言えることは、市場が完全に均衡した状態は、市場の活力が失われた時だと言う事である。そして、競争も、提携も放置しておけば、市場は完全に均衡し、行き着くところは、市場の停止、終焉だと言う事である。

 何でも、かんでも、規制は間違いだから、緩和しろ、極端に言えばなくしてしまえと言うのは乱暴である。逆に言えば何でも、かんでも、規制してしまえと言うのは、暴論である。
 重要なのは、どの様な状態に置いて、どの様に市場を規制すべきかである。時代にそぐわなくなった規制はなくすべきだが、新しく生じた不具合は規制すべきである。
 肝心なのは、市場の状況を正しく反映した情報なのである。そこに、情報の開示の必要性がある。

 機械装置の制御や操作を神の手に委ねるのが、いかに愚かな行為であり、また、危険な行為かは自明である。しかるに、人間は、市場という持っても危険な仕組みを神の手に委ねようとしている。それは、かえって神を冒涜し、責任を神に転化しているのに過ぎない。人間は、自らの行いに対して責任を持つべきなのである。


利益とは何か


 利益とは、情報である。利益を上げることに多くの企業は汲々としている。しかし、ほとんどの人は、利益の意味を知らない。意味もわからないままに、利益を追求し、利益に振り回されている。それが問題なのである。

 利益を考える上で重要なのは、何をもって異常とし、何をもって正常とするかである。利益を善悪の基準で捉えようとしても無意味である。なぜならば、善悪の基準は、不変的な基準であるのに対し、異常、正常は、相対的基準だからである。つまり、異常、正常は、どの様な条件を前提とし、どのような状況、環境において、何に対して正常か、異常かの問題なのである。
 例えば、どの様な経済体制、政治体制を前提としているのか。つまり、金融資本主義体制、自由主義体制、小さな政府を前提としいるのか、それとも、産業資本主義体制、平等主義、大きな政府を前提としているのか。
 どの様な経済的、政治的状況を前提としているのか。
 即ち、戦争状態なのか、平和状態なのか。政権は安定しているか。政策は一定か。インフラの整備は完了しているのか。民度は充実しているか。人口は、増加しているか、減少しているか。食糧の自給率はどうか。
 そして、国家財政は、破綻していることを前提とするのか、健全であることを前提とするのか。インフレ状態なのか、恐慌一歩手前の状態なのか。市場は、成長、拡大しているのか。それとも成熟しているのか。縮小しているのか。技術革新は起こっているのか。生産力は一定か。石油価格は安定しているか。
 また、どの様な政治的、経済的状況を基準としているのか。
 つまり、世界単位を基準とするのか、国家単位を基準とするのか。物価が安定し、完全雇用が実現していることを正常とするのか、市場の競争状態が維持されていることを正常とするのか、市場が成長、拡大している状態を正常とするのか。成熟し、飽和した市場の状態を基準とするのか。
 更に、それに対して、今の何が、異常で、何が、正常かというようにである。基準と現状を照らし合わせて、どこが悪いのか。
 そして、何をもって正常とするか、異常とするかによって、つまり、最終的にどの様な経済状態を目指しているのかによっても、利益に対する定義も違ってくる。
 何をもって異常とするか、正常とするかは、認識の問題であり、任意な問題なのである。つまり、利益とは、認識の問題であり、任意な問題なのである。

 市場取引は、基本的にゼロサムで均衡している。利益を生むのは、空間的差、時間的差である。例えば、買った場所や時間と売った場所と時間の差である。

 現状を鑑みると過度な競争が、景気を圧迫していると、私は、考える。企業は、利益市場主義に陥っているのに、市場は、低価格主義、不当廉売に走っている。暴走している。その為に、企業は、合理化、合理化に邁進し、市場は、量販を追求する。その結果、企業は経費削減が限界点まで達し、基礎体力まで削ぎ落としてしまい、収益があげられない体質にまでなっている。市場は、価格が限界まで押し下げられ、標準化、平準化されてしまう。その結果、産業、市場双方の多様性が失われる。そして、基幹産業ほど構造不況業種へと脱落していくのである。どんどんと利益が押し潰されているのである。
 それによって企業は赤字になり、また、労働状況が悪化することによって家計も赤字になり、企業や家計が赤字になることによって税収が減少する。
 また、過度の競争は、市場を荒廃させ、保守、保安、サービス、品質の低下を招いている。また、過度の競争は、財の単一化を結果的に招き、市場の多様性が奪われ、消費者の選択肢を狭めている。
 それは、競争を唯一の原理とし、市場を野放図にしていればいいという発想による。結果的に、消費者も、経営者も、労働者も不幸にしているのである。今の市場は、競争の場ではなく。闘争の場と化している。

 少なくとも、まともに仕事をし、真面目に事業をし、正直に経営をしている者が、利益を上げられずに、誤魔化しや、不誠実、不法によって利益が上げられるとしたら、それは、異常である。利益の設定に間違いがあるのである。利益の設定の仕方がおかしいのである。
 しかし、それは会計の問題ではなく。根本思想の問題である。

 何をもって正常とし、何をもって異常とするかによって、利益の意味も評価も違ってくる。当然市場の在り方や市場に対する政策も違ってくる。
 何を正常とし、何を異常とするかは、利益を設定する上での前提条件なのである。そして、市場経済に関する概念は、その前提条件の上に成り立っている仮説である。利益も然りである。
 ところが、何を正常とし、何を異常とするか、つまり、何を前提としているかをあたかも、自明、所与の命題として多くの経済学は成り立っている。それが経済学と科学との間に一線を画しているのである。

 今日、M&A、合併、買収ばやりである。かつては、独禁法の規制があったが、今は、独禁法も有名無実となっている。独禁法の精神はどこへ行ったのであろう。
 銀行もメガバンクに集約されてしまった。その間、多くの銀行が淘汰されてしまった。しかし、銀行の数が多いことは、何が問題なのであろうか。どこが悪いのであろうか。その議論も、効率という曖昧な概念で、ひたすら片付けられてきたように思います。
 集約される以前の銀行は、業態や目的に合わせて多様な銀行が、競争をしてきました。それによって日本の高度成長は支えられてきたのである。多くの国では、銀行が巨大化することは、金融資本の成立を促すとして警戒してきた。しかし、今日、それらの議論は、自由化、規制緩和、競争原理、効率化という合唱の前にかき消されてしまった。
 現在アメリカの自動車産業は、危機に瀕しています。自動車産業の再編、集約も急速に進んでいます。しかし、自動車産業を危機に陥らせた真の原因は何だったのか。その対策として、自動車産業を集約化する選択肢しかないのであろうか。
 かつて、数多くの自動車会社があり、多様な車種を生産してきました。小規模の自動車メーカーの存在を頭から否定し、効率を追い求めた結果が、今日の自動車産業の惨状を作り出したのではないのか。
 競争の原理、市場主義といいながら、寡占、独占状態に追いやり、結果的に競争の原理を働かなくして、市場の終焉を早めている。あげくに、金融危機後の銀行のように国営化されてしまった羅意味がない。皮肉なことだが、自由主義者、市場原理主義者が市場経済を終わらせようとしているのである。
 合理化、合理化の果てに利益が上げられなくなった産業が、斜陽産業、構造不況業種なのである。
 銀行の淘汰、自動車メーカーの大型化、集約化をする必要があるのであろうか。先ず、その前提を議論すべきなのである。その上での利益である。

 利益は、創られた概念なのである。。あるいは、創られる概念なのである利益をどの様に設定するかによって、経済体制も会計制度も成り立っている。利益の設定によって市場の在り方も変わるのである。
 そして、資本を構成する重要な要素の一つが、利益である。故に、利益は、資本主義における中核的な概念の一つでもある。利益に対する考え方が資本主義の本質を決めると言っても過言ではない。

 利益は、設定される概念である。利益をどの様に設定するかによって市場は制約される。利益を正しく設定するためには、利益は、何を前提とし、どの様な基準、目的によるべきのか。また、現状は、基準や目的に照らしてどの様になっているのか、さらに、問題があれば、問題を構成する要因を明らかにした上で、どの様な状況を、利益は、是とするかを明らかにする必要がある。

 自由主義経済を志向するのか、統制経済を志向するのかで利益の考え方は違ってくる。それは前提である。
 物価の動きをどの様に水準に保ちたいのか。その為に、市場をどの様な状態にしたいのか。それは、基準である。
 それに対し、現状の景気や市場は、どの様な状況になっているのか。成長段階にあるのか、成熟段階にあるのか。それは現状認識の問題である。
 基準、目標とすべき状態に対し、現状に問題があるとしたら、何がその要因なのか。それは。現状分析である。そして最後に、何をすべきなのかという対策が立てられるのである。
 その対策の鍵を握るのが、利益をどの様に定義し、設定するかにある。これが根本思想である。

 故に、利益は、情報である。利益のあるなしが、直接的に企業経営を決定付けるのではない。赤字になったら、即、経営が成り立たなくなるわけではない。直接的な影響を与えるのは、資金である。資金の供給が断たれることによって企業経営は破綻するのである。
 黒字、あるいは、赤字だという情報を元にして、投資家や金融が、資金を供給し続けるかどうかを判断するのである。現実の経営は、資金の供給の是非のよって決まる。つまり、利益は情報である。

 利益に対する考え方には、極端に反した二つの考え方がある。一つは、利益を絶対視し、利益のみを追求する考え方である。その対極にあるのが、利益を蔑視する考え方である。つまり、利益を追求するのは悪徳だという考えである。
 前者は、わけも解らずにひたすらに利益を求めるいきかたである。それに対し、後者は、利益を度外視するいきかたである。一見矛盾するこの価値観が、同居していることに現代社会の問題点が潜んでいる。どちらか、一方に偏った考え方によると、施策がオール・オア・ナッシング、極端から極端に流れやすいのである。

 市場経済、貨幣経済は、利益を基にして成り立っている。それなのに、公共事業に従事する者は、利益についてあまり考えようとしない。考えようとしないどころか利益を上げることを頭から否定してしまう傾向すらある。
 公義は、倫理的に利益を上げる事自体を否定している場合が多いからである。つまり、儲けはいらないという考え方である。当然、利益は上がってこない。
 倫理的な意味で、利益を否定的にとらえる場合は、我利我利を指していることが多い。つまり、私利私欲に基づく利益である。しかし、利益本来の意味は、私利私欲に基づくものではない。利益は、利益であって善悪の範疇に属する基準ではない。
 利益は、人々の生活に必要な物を生産、分配して人々の生活を豊かにする事や、国家を繁栄させ、子供や孫が、幸せになるために投資する事、平和を守り、災害や外敵に備える事を目的としている。
 つまり、利益は、人々の幸せと平和を維持するためにあるのである。もし、利益の追求が間違っているとしたら、それは公の利益を見失った時である。その利益を特定の人間や階層が独占しようとするから弊害が生じるのである。
 利益が悪いわけではない。利益に対する考え方が悪いのである。人間の所業が悪いのである。重要なのは、公が、公の利益を明確にすることなのである。公の利益は、社会構想や、国家理念に基づかなければならないのである。
 経済を安定させ、国家の繁栄や平和を維持し、民生を安定させるためには、その根本にある利益に対する適正な考え方を確立する必要がある。それが道徳の根源なのである。

 利益の基準は、適正な利潤にある。適正な利潤イコール廉価ではない。安ければいいという事を意味しているわけではない。利益の役割、機能、そして、利益を生み出す仕組みが適正妥当かの問題である。また、適正な利益というのは、売り手と買い手、双方から見て適正でなければならない。

 ここで、注意しなければならないのは、利益の本義、本質は、会計上の論理によって導き出されるのではないという点である。
 利益本来の目的は、利益が果たす社会的な働きにある。利益から社会的な働きが失われると利益本来の目的や意義が損なわれてしまう。利益が本来果たさなければならない働きや意義は、会計的な問題ではない。道義的な問題である。
 道義的な原則から導き出された利益の定義に基づいて会計的利益を設定されなければならないのである。そして、利益の働きは、人々の生活や経済活動に根ざしているという事である。利益が特定のに人間や階層にのみ恩恵をもたらすものならば、利益は、搾取の手段に過ぎなくなる。利益は、あまねく人々の幸せに寄与するものでなければならない。
 会計上の利益は、貨幣価値に帰す。しかし、利益の本義は、貨幣価値だけにあるのではない。それ故に、利益における貨幣価値以外の部分は、会計制度以外の制度、即ち、法や社会制度によって補われなければならない。
 例えば、盗みや詐欺に基づく会計上の利益は、法や規制によって正されなければならないのである。また、会計上の利益によって生じた、富の偏在や不平等は、再分配によって是正されなければならない。
 利益というのは包含的に概念でもあるのである。利益は、万人の利益でなければならないのである。故に、利益は、分配の問題でもあるのである。

 多くの道徳は、第一に、盗みや強盗、詐欺、ペテンを禁じている。また、第二に、貪欲を戒め、奢侈や賭博を禁じている。第三に、人の物を壊したり、奪うことを禁じている。第四に、違約を禁じている。契約や約束の誠実な履行を求めているのである。第五に、法や掟に従うことを求めている。第六に、利益を独占することを禁じ、公平に分かち合うことを求めている。第七に、労働を尊び、不労所得、楽をして利益を得ることを良しとはしない。
 これらは、経済を基とした倫理観である。この様に道徳の要は、経済に根ざしているのである。そして、それは人々の利益をいかに守るかが根本なのである。それ故に、利益とは何かを知る事が大切なのである。つまり、利益の正しい意味を知りそれに基づいて経済の在り方を決める必要があるのである。
 つまり、利益は、道徳に通じているのである。利益の有り様一つで、道徳も歪められてしまう。道徳を正しくするためには、利益に対する考え方も正しくしなければならない。

 一般に、利益というと損益上の利益と収支上の利益がある。また、公の利益と私の利益の別がある。会計上で言う利益とは、損益上の利益である儲けというとかつては、収支、現金の出納を前提としてものを利益としていた。現在でも、家計と財政は、現金収支を基としている。この場合の利益は、収入から支出を引いたものを意味する。この場合の利益は、複式簿記を土台とした利益とは異質なものである。

 利益の持つ本義は、会計上の利益にあるわけではない。しかし、利益の実体は市場経済では会計上の利益として顕れる。形而上のもの、これを道と謂い。形而下のもの、これを器と謂う。市場に現れる利益は、器である。故に、市場では器を問題としなければならない。

 現在の市場経済における利益は、会計上の概念である。利益は、あくまでも、会計制度の上で成り立っている概念である。それを忘れてはならない。つまり、利益は、会計上の理念、論理の上に成り立っている概念なのである。

 その意味では、会計上の取り決めが解らないと、利益の真の意味は理解できない。
 即ち、利益という概念が成立するためには、会計という言語の制度的な基盤が成り立っている必要がある。会計制度は、実務的基盤と伴に法的基盤の裏付けも必要とされる。

 会計情報というように会計は情報である。故に、利益も情報である。会計は、アカウンティングと言うように説明を目的とした情報である。

 利益は、会計的に創作された概念なのである。利益は、説明を目的として創作された情報なのである。

 また、利益の概念は、会計上の最終目標といえる概念である。故に、利益の正しい働きが確立されなければ、期間損益は完成しない。そして、会計上の最終目的というのは、企業の継続を前提としているという事である。
 つまり、利益は、会計上、前提とされる概念である。そして、会計利益は、企業の継続を前提としているのである。

 ところが、多くの人は、利益の意味を理解していない。その為に、会計制度は、その最終目的すら明らかに定めることが出来ない。

 利益は、説明を目的とした、あるいは、前提とした情報である。必然的に説明をする相手、報告をする対象を前提とする。報告をする対象によって目的が違ってくる。税のように、中には、根本的な計算方法まで相違する場合もある。故に、利益の定義は、個々の目的に応じて設定する必要がある。
 利益を算出する目的は、会計の目的に準ずる。会計の目的は、企業経営に関わる者に情報を開示することである。
 企業経営に関わる者とは、第一に、経営者である。第二に、従業員である。第三に、株主である。第四に、債権者である。第五に徴税当局である。第六に、取引業者、第七に、消費者、第八に、地域社会である。経営に関わる者は、それぞれの立場によって目的が違ってくる。

 企業に関わる対象こそが利益の機能を有意義なものにする対象である。第一に経営者は、文字通り経営に携わる者である。故に、経営者は、経営を継続し、関係者に適正な配分を行うために利益を必要としている。第二の、従業員は、自らの労働の価値を請求するために、また、生活の糧を得るために利益を必要としている。第三の株主、投資家は、投資した分に対する配当を得るために利益を必要としている。第四の債権者は、融資した資金の回収と金利を確保するために、利益が必要である。第五の、徴税者は、徴税当局の取り分を確保せんが為に、利益が必要である。第六の取引業者は、納入した財の代金を得るために利益が必要となる。第七の消費者は、継続的に商品を購入すると伴に、商品のアフターサービスを得るために利益を必要としている。第八の地域社会は、地域の雇用と経済の安定を維持するために利益を必要としている。

 何れも、それぞれの立場で利益を必要としている。各々が、各々にとって適正な利益を必要としているのである。この利益こそが市場経済の根底になければならない。
 しかし、現在の市場経済は、利益は結果でしかない。利益を目的としえないのである。それでありながら一方で利益を要求し、他方で、利益を上げる事を悪し様に言われる。利益を度外視されるのである。

 なぜ、安売り業者が成立するのか。その一つに、人件費を低く抑えると言う事がある。経営は、究極には、人件費に至る。国際競争力も相対的に、人件費が決定的な要素となる。国内で人件費を抑えるのは、若年労働者や非正規社員を雇用の中心すればいいのである。また、国内の人件費が上がってきたら、国外の物価の低いところを求めればいいのである。あくまでも国内外の相対的な比較である。結局の所、生活必需品、消耗品と耐久消費財といった価格の相対比較に過ぎない。つまり、食料のような必需品が高いか、自動車のような耐久消費財が高いかの違いである。

 低収益な経済体制とは、結局、全てのコストを抑制せざるをえなくなる。

 利益というのは、適正な価格が維持されてこそ成立する。現在の世論は、適正な価格と安売りとを履き違えている。価格破壊を市場の破壊としてみなさないで、革新的なこととして称賛している。しかし、適正な価格が維持されなければ、経済は成り立たないことを忘れてはならない。
 日本のガソリン価格は、石油税によって他国から見ると割高になっている。しかし、日本人が認識するのは、ガソリン代としての市場価格でしかない。それが、生活費の一部として組み込まれれば、妥当性があるかぎり、成立する。
 価格は、市場価格としての妥当性である。生活費としての妥当性にある。ただ安ければいいと言うわけではない。

 利益とは何かも解らないのに、ひたすらに利益を追求し。市場をどの様な状態にしたいのかを明らかにしないままに、ただ、競争を煽る。それが問題なのである。
 利益の根源は、国民の生活にあるのである。

 利益や価格は、一つの基準である。基準を満たさなければ淘汰すればいい。しかし、利益が全てではない。利益の背後にあって利益を成立させている考え方が重要なのである。

 現代社会では、利益は、結果だと錯覚している。利益は、上がるのであり、利益が上がるのは神の意志であるといった捉え方である。故に、利益が上げられないのは、経営者の不徳であり、罰せられるのが当然だという思想である。利益が上げられないのは罪なのである。損は悪い事だと胃考え方である。そこから、損得の問題が善悪の問題にすり替わる。だから、経営に失敗することは不道徳なこと、恥ずかしいことだと考えられる。しかし、いくら経営者が努力しても利益が上げられなくなることがある。為替の変動や原材料の高騰は、経営者の責任なのであろうか。また、物価の高騰も経営者が原因なのであろうか。それは、悪徳の経営者もいる。だからといって、経営者は悪人だと決め付けるのは乱暴である。むしろ、経営者の多くは、使命感をもって仕事をしている人が多いものである。
 利益は、結果ではない。利益は、目的であり、指針であり、基準である。
 故に、利益は、上がるのではなく。利益は上げるのである。そして、利益を上げられる経済体制、市場構造を自由経済や市場経済は、前提としているのである。また、前提とした仕組みを築き上げるべきなのである。
 現代の会計制度は、経営を監視するという消極的な側面が強い。経営を指導したり、経済政策を立てる上で参考にするという積極的な面は稀薄である。その証拠に、会計士や税理士が経済政策に積極的に関与したという話はあまり聞かない。会計士や税理士は、事後処理に追われているのが実体である。
 金融危機や経済危機は、なぜ、起こるのか。それは、企業も財政も家計も利益が上げられなくなるからである。そして、利益が上げられなくしているのは、自分達、人間である。神でも自然でもない。利益が上げられない市場の仕組み、経済の体制にしているから、利益は上げられないのである。

何を利益とするのか


 何を利益とするかは、現代経済を考える上で根幹となることである。問題は、利益が示す事象は何かなのである。その利益が示す事象こそが市場経済の在り方を規定する概念なのである。
 問題なのは、利益の概念が論理的に定義されていないことである。

 利益を成り立たせている認識上の前提は、実現主義と発生主義、取得原価主義である。つまり、利益が指し示している事象は、物ではなく、働きだと言う事である。この事は重要なことである。

 つまり、利益が極めて抽象的な概念であることと、創られた概念であることを意味しているのである。また、利益が何等かの実体を持っているわけではない事も意味している。
 利益とは仮想された概念、仮定された概念なのである。なぜ、市場経済は、この様に仮想された概念を土台にする必要があったのか。それが近代市場経済を読み解く鍵でもある。

 利益以外に経営主体の活動を評価する指針に収支がある。利益が、損益を土台にしているのに対し、収支は、資金の動きを基礎としている。利益は、取引の発生や実現を認識の基準としているのに対し、収支は、実際的な資金の出入りを基準としている。つまり、財の動きを土台とした概念が損益、即ち、利益であるのに対し、資金の動きを基礎としたのが、収支である。

 また、利益は、収益−費用、あるいは、前期資産残高−当期資産残高という減算式で表される。この事は、利益は、何等かの差を基とした概念であることを意味している。

 収支も収入−支出が基本式で、減算、即ち、差を基とした概念である。ただ、収支は、利益と違って貨幣的な実体、取引を裏付けとしている。

 この様に、利益や収支という概念は、何等かの差によって成り立っている概念である。差というものは、位置を示している。この差から生じる働きが利益や収支の機能の根幹をなす。

 ただし、差が利益の本質を意味するわけではない。利益の本質は、利益の持つ意味にある。つまり、利益を算出するための根拠である。
 利益は、収益−費用で表される。しかし、利益の概念は、収益−費用が根本的な理念ではない。収益−費用は、利益を算出するための方程式の一つである。また、収益−費用だけが利益を算出する方程式ではない。同様に、前期資産残高−当期期末資産残高でもない。利益計算の目的は、本来的には、費用対効果の測定にある。
 費用対効果は、経済活動における費用の働きと費用を構成する要素間の関わりを意味する。それが利益を生み出す仕組みなのである。そして、利益の必要性でもある。それは、企業活動が経済に及ぼす影響、働きの測定、評価でもあるからである。市場に有効な働きを持てなくなればその経営主体は、市場から淘汰をされる。その目安、バロメータへが利益なのである。
 費用を構成する要素の相互の働きと関わり合いにこそ市場経済を成り立たせている秘密が隠されているのである。
 費用の働きには、例えば、人件費の働き、即ち、所得の分配や雇用の創出などがある。

 差というのは、その基準である。ただ、差が意味するところが重要なのである。つまり、市場における位置付けとそこから派生する働きこそ利益の本質なのである。

 この点が理解できないと利益と市場との関係が理解できない。言い換えると利益と経済の関わりが結び付けられないのである。

 利益を導き出す要素は、資産、負債、資本、収益、費用であるが、勘定科目をどこに属するかは、合目的的であり、思想の問題である。その典型は、税効果会計において、税務と会計処理上の違いによって生じる差額を資産に属させるか、負債に属させるか、資本勘定で処理するかの議論がある。何に属させるかによって利益の意味が決定的に違ってくるのである。この例を見ても明らかなように、利益というのは情報であり、認識上、任意な概念なのである。問題は根本の思想である。何を目的とするかである。その根底は利益、及び、利益を構成する要素の機能である。

 経済というのは、競争さえしていれば良いというわけにはいかないのである。競争の是非は、状況、即ち、場合、場合に依るのである。市場は、放置していると均衡状態に至る。完全に均衡した状態というのは、市場が不活性化して状態である。熱力学で言うところのエントロピーが増大した状態である。故に、常に、市場は、不均衡な状態に置いておく必要がある。市場は矛盾した働きを要求する。つまり、相対的な空間なのである。定常的な空間ではない。市場は、一方で均衡を前提とし、もう一方で均衡を嫌う。この矛盾した条件を維持するために、市場には仕組みが必要であり、また、制御する必要があるのである。
 市場の制御は、一方通行的な作用、即ち、競争なら競争だけを良しとする程、単純ではない。市場を良好な状態に維持するためには、常に、市場を監視し、市場が一方向に暴走しないように管理する必要がある。また、それだけでなく何等かの安全装置や制御装置が要求されるのである。

 差のない市場や組織は、不活性化して、活力を失う。しかし、格差が極端に広がると市場は硬直的になり、活力を失う。極端に均一なのも、また、格差があるのも市場の偏りなのである。故に、市場は、ある程度の不均衡な状態を維持する必要がある。市場の不均衡な状態というのは、一つは、情報の非対称性によって維持される。
 利益は、この情報の非対称性によって得られるのである。つまり、利益の程度によって市場の不均衡性は維持される。しかし、暴利は、市場を活力を奪う。つまり、利益がないのも、ありすぎるのもよくないのである。
 適正な利益こそ経済の源なのである。だからこそ、利益とは何かが重要なのであり、その際、鍵を握っているのが利益の働きである。そして、利益の働きは、利益の必要性と目的に準拠するのである。

 利益とは、何か。それを明らかにするためには、利益の働きや目的を明らかにする必要がある。
 第一に、利益は資本に転化する。第二に、利益は、時間の関数である。第三に、利益は分配の原資である。第四に、利益は、分配のための原資。第五に、利益は、納税のための原資である。更に、第六に、利益から経営者報酬は支払われる。そして、第七に配当、債務保証である。第八に、企業の継続である。

 特に、八番目の企業の継続は、大前提である。企業を継続するためには、資金を供給し続ける必要がある。資金調達が利益を計算し、公開するための究極的な目的とも言える。

 資金の調達の手段は、売上と借入と投資である。これが、簿記上の右辺を形成し、その対称である資産と費用が、右辺を形成する。

 利益の働きは、利益の必要性から生じる。

 利益が必要とされるのは、利益配分のための原資、再投資の為の原資、設備更新のための原資、景気の変動による損失補填のための原資、株主や債権者の取り分の保証、非常時、緊急時のための蓄えなどがある。
 この様な原資が資本として企業に蓄えられておく必要がある。そして、資本は、企業が資金を必要とした時に、資金かできる状態に資本を置いておく必要がある。ところが、市場原理主義者は、資本の基本的機能を認識していない。彼等は、内部留保を容認しない。その為に、企業が資金を必要とした時に、資本を資金化することを妨げる。
 その為に、企業の体力が意味もなく消耗されてしまうのである。

 利益は、その機能と目的から計られるべき基準なのである。

 利益というのは、情報である。なぜ、企業は赤字になってもすぐに倒産するわけではないのか。それは、損益は情報に過ぎないからである。収支さえ合えば、即ち、資金さえあれば企業は赤字でも存続できるのである。
 赤字だから企業は倒産するというわけではない。黒字だから、企業業績が良好とは限らない。その証拠に、利益が上がっているのに、資金が不足するという事態に陥り、最悪、黒字倒産してしまうのである。利益というのは、情報に過ぎない。利益というのは作られた情報なのである。また、業績に変化がなくても為替の変動によって利益がでたりもする。
 作られる情報であるから、見かけ上の利益を過大に計上することも出来る。また、見かけ上の利益を課題にして資金を調達することも可能である。その気になれば実体の伴わない利益を作り出すことも可能なのである。例えば在庫の評価や資産の評価の仕方を変えただけで利益がでたり、赤字になったりする。しかし、そこで計上された利益というのは、架空の利益である。
 利益というのは情報である。ある意味で、赤字というのは、資金を必要としている情報、信号である。ところが、赤字と言うだけで資金を供給、即ち、融資を止める金融機関がある。これは、最も悪質、悪辣な金融機関である。なぜならば、金融機関はの役割は、資金がゆとりがあるところから、資金が不足しているところへ資金を廻すのが仕事だからである。資金が不足していることを理由にして、資金を取り上げ、資金にゆとりがあるところへ資金にゆとりがあることを理由に資金を廻せば、必然的に資金がつまってしまうからである。
 つまり、悪辣な金融機関は、企業が資金を必要としている時に、資金の供給を止めるのである。不景気を悪化させる原因は、金融機関だというのに、あながち根拠がないわけではない。
 黒字だから良い。赤字だから悪いと決め付けるわけにはいかない。赤字よりも、過大な黒字の方が質が悪い場合もある。例えば架空利益である。架空利益は、粉飾によってのみ創られるわけではない。架空利益というのは、実際の取引を前提としない利益、仮想的の利益である。意図した架空ではなくても、利益に計上される要素の中には、経営上派生した利益ではなく、在庫の評価や為替の変動、株の変動、資産の変動による利益がある。これらの利益は未実現利益であるから、利益を過大に見せ掛けたり、又は、装飾してしまう作用がある。
 以上のことを鑑みると、経営実体を利益のみに帰すことは難しい。利益だけで、経営を判断をすると重大な間違いを起こす。赤字にせよ、黒字にせよ、その原因と影響を構造的に解明する必要がある。
 経営というのは過程である。また、企業業績は、状況の結果である。つまり、どの様な段階において、どの様な状況におかれた結果かが、利益に反映するのである。
 利益は、例えば、陰陽のようなものである。利益は、太極にある。太極は陰陽の極みである。経営は、黒字の時もあれば赤字の時もある。問題は、黒字か、赤字かではなく、何が、そうさせているのかにある。
 世間では、収益が上がらない原因の全てを経営責任に帰す傾向が強い。しかし、現実には、経営者が出来る範囲というのは限られている。例えば為替の変動や原油価格の高騰、戦争や災害というのは経営者にとっては不可抗力な出来事である。収益が上がらない原因を経営のみに押し付けても本質的な解決には至らないのである。
 むろん、経営責任を蔑ろにすることは許されない。しかし、利益が上げられないことは犯罪であろうか。利益が上げられないだけで、なぜ、経営者は、犯罪者同様に扱われるのであろうか。経営者は、それでなくともリスクを採っているのである。多くの人間のどこかに、経営者は、全て悪人であるかの様な思い込みがある。経営者の全てが善良であるわけではないが、全てが悪人だというのも極端である。ただ、経営というのは、常に、社会的責任がつきまとい。それなりの道徳が求められるという事実は忘れてはならない。
 私利私欲のために、利益を操作するのは許されない。また、人を騙して金を巻き上げるようなことも歴然とした犯罪である。
 しかし、多くの経営者が犯す過ちは、経営を継続しようと言う動機に基づいている。つまり、経営者が犯罪を犯すのは、破綻した時の恐怖による。最初から詐欺、ペテンとしているわけではない場合が多い。なぜならば、経営は、継続を前提としているからである。継続を前提とする者は、目先の利益よりも長中期的利益を重視する。それが、経営者の不正を招く原因にもなる。第一、経営者は、何の保証も与えられていないのである。経営が破綻したとき、経営者の多くは何もかも、場合によっては命すら失うのである。
 故に、経営者は、多くは、企業を継続するために利益によって全てが判断されてしまうならば、無理をしてでも利益を上げようとする。また、利益に課税されて資金に不足が生じるのならば、利益を減らそうとする。その結果不正が生じるのである。それが不正に繋がるのである。
 モラルハザードが起こる原因は、モラルを護れなくなる状況があることを前提とすべきなのである。不正をしなければ、正常な状態を維持できなくなれば、不正を防ぐことは出来ない。利益を否定する考え方は、経営者のモラルハザードを招くのである。
 資金が不足しているという理由だけで事業を継続できなくなれば、赤字を隠すために粉飾をせざるを得なくなるのである。
 
 経済は、種々の前提の上に成り立っている。利益も種々の前提の上に成り立っている。この前提を確認いないと利益の意味は明らかに出来ない。

 経済は、利益を基にして成立している。これも前提である。そして、利益の中心は企業利益になる。即ち、企業利益は、経済の基盤なのである。

 資本は、利益の蓄積と負債が変質したものと言える。また、資産と費用が変換された結果とも言える。それが利益の性格の本となっている。つまり、利益は、資本を増やし、負債を減じる作用がある。また、資産や費用を資本に変換する作用もある。それが利益の機能である。また、負債と資本と利益は、相対的比率が重要になる。

 現行の会計制度最大の問題点は、説明責任を大前提としていることにある。会計制度においては、会計機能が経済に果たす機能が重要なのである。それは、説明責任だけに収斂できるものではない。説明責任は、どちらかというと二義的、副次的な機能である。むしろ、会計制度が経済に及ぼす影響の方が一義的なのである。
 それは、情報の果たす働きに関わってくる。情報は、対象を認識し、相互に伝達する手段として生じる。また、情報の働きで重要なのは伝達された情報によって情報を受け取った者が、その情報に基づいてどの様な判断、意思決定をし、どの様な反応、行動を起こすかにある。
 故に、会計制度によってもたらされる情報は、その情報を受け取った人間が、どの様な判断をし、どの様な行動をするかにある。つまり、会計制度によってもたらされた情報によって、情報を受け取った者が、どの様な行動を引き起こすかが重要になるのである。報告や、説明責任以上に、経営活動や経済活動、さらには、経済政策に与える影響こそ充分に考慮されるべきなのである。説明責任を大前提とした場合、この観点が忘れられてしまう危険性がある。
 会計は、市場経済や貨幣経済、資本主義経済の概念的構造基盤(インフラストラクチャー)である。経営者の行動規範の骨格をも形成する。会計の在り方一つで、景気は大きく左右される。
 経済学において、この点が全く考慮されていないことが一番問題なのである。また、会計制度の設計思想に、この観点が欠落していることが、問題なのである。会計制度は、説明責任を大前提して設計されるべきものではない。なぜならば、経営活動は、市場経済における根本だからである。

 そして、会計制度を設計する核こそ利益なのである。利益とは、何か。なぜ、利益が必要なのか。利益の働きとは何かを明らかにして、はじめて、会計制度を設計することが出来るのである。そしてその時、真の市場経済を確立することが可能となるのである。

 利益の果たす役割について考える時、忘れてはならないのは、利益は、情報だと言う事である。故に、利益は、情報として活用すべきのなのである。
 例えば、為替の変動によって大幅に収益が低下した場合などは、その為替の変動による影響をいかにしてやわらげるかの対策を立てるために、情報としての利益は役立つのである。それをただ、利益が上がらなくなったから、融資を引き上げよう、投資を止めようと言うのでは、経営者は、正直な情報を流さなくなる。見せ掛け上の利益を創作し、見かけ上の利益ばかりを追求するようになる。
 情報は、目的と合致してはじめて定義があるのである。

 経済や経営の実体、市場経済の実態は、資金の流れとして顕在化する。資金は、負債と資本(純資産)が生み出す。負債や純資産が生み出した資金を元として、資金を運用し、資産に転化し、資産が費用化する過程で収益を生み出すのである。収益は、新たな資金を生み出す。つまり、資金を生み出すのは、負債と資本と収益なのである。その資金の流れを生み出すのが、資産と費用の運動である。そして、資産と費用の運動は、基本的に回転運動である。
 つまり、基礎資金の量を決めるのは、負債と資本である。負債と資本の量を規制するのは資産の量である。それに対して、流通する資金の量は、費用と収益によって決まる。負債と資産の外見的量は固定的であるのに対し、流量は、資産・費用の回転によって収益という形で顕れる。その回転が生み出す価値の増量が利益なのである。ただし、流量として顕在化する資金は、実質的資産価値による。
 この利益が経済活動の基数となる。
 また、金融機関では、負債は、預金を意味し、資産は、貸付金を意味する。金融機関は、貨幣経済の中枢であるから、貨幣経済は、預金によって資金を生み出し、貸出金に転化することによって資金の回転を生み出していると言える。即ち、金融機関は、実物市場に貨幣を流通させることによって、財の循環と分配を司る働きをしているのである。故に金融が機能しなくなると資金の循環が悪くなる。つまり、市場の血の巡りが悪くなるのである。
 信用収縮は、資産の実質的価値の収縮によって起こる。つまり、費用の比率が資産の比率を圧迫し、負債の額面が固定的であるから、収益を圧迫し、資金の流量を減少させる。結果的に利益を圧迫するのである。利益が圧迫されることで、分配が不均衡になり、景気を悪くするのである。
 景気を制御するためには、資産と負債の相対的比率を均衡させることが肝要なのである。そして、利益はこの均衡状態を伝達する情報であり、利益が偏ったり、また、過剰であったり、不足すると市場経済は機能しなくなるのである。
 利益がもたらす情報に基づいて均衡のとれた市場環境を作り出すのが政府、及び、金融機関の重要な役割なのである。

 かつては、不況になると企業は蓄えを吐き出し、金融機関や国家は、資金を供給した。そして、その為に、利益を蓄積したのである。今は、利益が上がるなくなるとすぐに人員やコストを削減する。人員やコストの削減を予測して、家計は、消費を抑制する。その為に、景気は、ますます悪化する。それを合成の誤謬という人がいる。それは、誤謬ではなく。根本的な過ち、企業や投資家、金融機関、政府の認識の過ちなのである。各々が自分達の役割を理解せず、利益に役割を曲解しているからである。もっと言えば、自分達に都合の良いようにしか理解していないからである。
 利益には、金銭的な目的以外に、人的、物的な目的がある。人的な目的というのは、運命共同体としての目的である。経済から、人間性が奪われた時、経済は、その本来の機能を発揮することが出来なくなるのである。経済から人間性を奪うのは、人間の欲望、私利私欲である。そのことを肝に銘じておかなければならない。利益は、先ず、自らに求めるべきなのである。その利益は、私利私欲に基づく利益ではなく。公義に基づく利益であるべきなのである。

 利益は、思想である。
 利益は、不確実なものにしかないという考え方をする学者がいる。また、利益は、リスクにあるという考え方をする人もいる。しかし、これは真理ではない。思想である。
 しかし、仮に、利益が不確実なものにしかないという仮定で経済制度を考察したら、確実な利益を得られる職場はなくなる。現実に、確実な利益を上げられる職場は失われつつある。それは不確実な仕事に利益を設定したからに過ぎない。確実な利益を上げられないからではない。確実な利益を思想によって上げられなくしたのである。
 それに、リスクが利益を生むとしたら、利益を得ようとするものは、リスクを作り出すことになるであろう。それは、意図的に作られた危機である。
 不確実性やリスクによって利益を上げるのではなく、不確実性やリスクでしか利益が上げられないと言うのが問題なのである。
 それは、利益に対する考え方の問題である。確実に利益が上がる市場の仕組みがあって長期的、中期的経済状態の予測が立ち、計画的な経営が可能なのである。不確実性やリスクが利益を生み出すのではなく。不確実性やリスクに依拠した利益概念に基づいた考え方をしているから確実な利益が上げられないのである。不確実性やリスクに依拠した利益概念が指し示すのは、賭博的、投機的利益である。つまり、根本にあるのは利益に対する思想なのである。
 現在、市場で起きていることは、無作為に起きている現象に見えて、実は、作為によって起こされた現象なのである。

 利益は、結果ではない。利益は、創り出すものである。利益は、貨幣的概念である。かつてコインのことを古代ギリシアでは、「ノミスマ」といった。宮崎正勝は、著書の中で「ノミスマ」とは、人的につくり出された物という意味であると記している。(「知っておきたい「お金」の世界史」宮崎正勝著 角川ソフィア文庫)
 貨幣的概念である利益も人為的につくり出された概念である。自然の摂理のような法則とは違う。つまり、利益は、結果ではなく。つくり出される数字なのである。この様な数字であれば利益を上げられないのは、経営者の不徳だといえる。
 しかし、いくら真面目に働いても、また、努力しても一企業の力、経営者の力ではどうにも避けられない事がある。むしろ、真面目に、或いは、正直に仕事に励んでいると馬鹿を見るような場合が多くある。その典型が金融危機である。取引先の経営状態を考えて融資をしていたら銀行が建ち行かなくなる環境だからこそ、なりふりかまわず、貸し渋りやかし剥がしを金融機関はするのである。そして、投機的な行為にはしるようになるのである。モラルの崩壊は、モラルが自壊することが原因なのか、モラルを維持できない環境に原因するのか、その点を見極めないと一概に断定できないのである。ただ言えることは、一個人のモラルが崩壊するのと、業界全体のモラルが崩壊するのとでは、次元も原因も違うと言う事である。
 真面目にやっても利益が上げられない原因を明らかにし、仕組みを改善することが先決にすべき事である。それは保護主義というのではなく。

 古代では、地震や台風のような災害も政治的指導者の責任にされた。現代では、自然の災害と人為的災害を区別することが当然だと考えられている。しかし、経済では、経営者にとって不可抗力な現象でも経営者の罪にされる。それがモラルハザードの一因でもある。現代経済は、古代の呪術的世界をまだ脱していないと言える。

 最大の問題は、利益を不確実な結果、不作為な結果として成り行きに任せていることである。特に、伝統的基幹産業が無秩序な競争によって利益を上げられない産業、構造的不況業種に陥っていることなのである。
 利益は確実にあげられるものでなくてはならない。なぜならば、利益は、利益が上げられることを前提とした情報なのであるからである。
 利益を前提として所得や生活設計、生産計画、投資計画、資金計画(借金計画)、財政計画などが立てられている。安定的、確実な利益が見込まれなければ、これらの計画が立たなくなるからである。そして、信用制度が土台から崩壊し、消費が極端に抑制されて、市場が成立しなくなるからである。
 つまり、利益が上げられなくなることによって負の連鎖が起こるのである。この負の連鎖を立つ切れるのは、企業が適正な利益を上げられることである。適正な利益とは、確実な利益である。
 競争を煽って利益を上げられなくするのは、最も下策である。
 利益が上げられなくなったら、速やかに、その原因を明らかにして対策を立てる必要がある。その際、全てを経営者の責任帰すことは容易い。しかし、利益が上げられない理由の多くは、経営者にとってどうにもならない要因である。それは、市場や、産業、経済構造に根ざしている場合が多いからである。そこに政治や国家の役割がある。それは、公共投資や金融政策に限定される問題ではない。また、公共投資や金融政策は、財政や金融市場の規制の上にある。自ずと限界があるのである。
 利益は、構造的に上げられるべき情報なのである。肝心なのは、適正な利益である。

 かつて基幹産業を担う者には、国家観があった。しかし、今日の経営者には、儲けることしか頭にない。しかも、その儲けは、会計の教科書に書かれた儲けである。儲けを上げたところで、それが、国家、国民、世の為、人の為になるのか。その根本に対する認識が欠如しているのである。その結果、経済は、無政府状態、無秩序なものとなり、市場が荒廃した。それを市場の責任に帰すのは愚かである。規律をなくしたのは人間なのであるから。







                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2009.9.4 Keiichirou Koyano